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風立つ季節に君咲え  作者: 森陰 五十鈴
二の季 倒葵
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七、憎悪手招

 自分でも気が付かないうちに、怒りはずっと(くすぶ)り続けていたのだ、と己の心を直視して気が付く。

 憎悪は、まるで煤のように心の空洞にべっとりと貼りついていた。

 自分自身も目を背けてきた、己の心の濁り。誰の所為かを今こそ思い知らせるべきだ、と毒花が囁いた。



  * * *



 あの茶会以降、どうしても美弥(みや)のことが気懸かりだった。颯季(さつき)燈架(とうか)に頼み込み、兼盛(かなもり)家を訪ねることにした。

 今日もまた、雨が降っている。土を踏み固めた道は、水を吸って泥だらけ。颯季の革靴は汚れてしまっている。今回は私的な訪問とのことで朱袴を脱ぎ、淡墨の着流しを着た燈架も、足元は長靴で固めていた。泥跳ねで服が汚れるのに憂鬱そうにしていたが、それでも文句を言わず付き合ってくれている。


「あの二人が当てにならんとは、珍しいな」


 傘の油紙に透ける水滴を指差し数えながら、燈架は溢す。姦しい、などと言いながらも、彼も二人の女性にはある程度の信頼を置いていたようだ。


「お二人がいけないというわけではないんです。美弥さんが必要以上に妖に心惹かれているのは、確かだと思います。でも……」


 今、彼女はある一点の否定を全否定と捉える心境にあるのではないか。

 だから『そうではない』と話しに行く必要があるのではないか、と颯季は感じた。彼女をまた独りにしてはいけない。そうすれば、ますます妖にのめりこむばかりだ。颯季のように。


「難儀だなぁ、まったく」


 痛めているかのように首の後ろを撫でていた燈架が、突然足を止めた。目の前にはいよいよ兼盛の門があるというのに。

 雨にしっとりと濡れて灰がかっているように見える白漆喰の塀。連続するそれを断ち切るようなは棟門は、引戸が開け放たれていて、中身を晒している。開けっ放しを妙に思い首を傾げる颯季の横で、燈架が刀に手を掛けた。


「颯季、小刀は持っているな?」


 紮烯(さつき)は小間使いではなく、妖祓いとして朱門に所属している。一応戦いの手ほどきを受けていた。そして、武器も与えられている。


「はい」

「用意しておけ。だが、お前はまだ前に出るなよ」


 一方で燈架は刀を抜く。慎重に門に近づき、壁に身を寄せた。視線だけ、開け放した門の中に向ける。石畳の道、敷き詰められた砂利と、植物の植わった前庭には誰もいない。だが、十歩ほどの奥にある玄関が開いていた。

 獣の口腔を見せつけられているような、不穏な雰囲気が漂っている。

 燈架は素早く前庭を横切り、玄関の中に飛び込んだ。颯季も後を追う。片付けられた三和土で泥だらけの長靴を脱ぐことなく、燈架は家に上がった。躊躇いなく、薄暗い廊下を行く。

 燈架に倣って革靴で上がり込んだ颯季は、予想以上に滑りやすい廊下に苦戦した。半ば靴底を滑らせるように進む。コツを掴んでくると、廊下の違和に気付いた。磨かれて光沢のある廊下には、燈架の靴跡以外にも点々と泥が付いている。颯季の掌に乗りそうな、小さな大きさの……足跡、か。

 右に角を折れ、中庭に面した辺りで廊下の向こうに何か見つけたのか、ふと燈架が頭を上げた。力強く廊下を蹴る。縁側に、黒い袴姿が転がっていた。


「おい」


 急ぐ様子に反して、声は落とされていた。燈架は横たわる玄門の妖祓いの傍にしゃがみ込む。


「何があった」

「妖が……」


 上半身を起こした若い妖祓いは、奥を指さした。そこには、また右に折れた角。外光が届かなくなった先で、濃い影が滞っている。


「美弥様が、妖を呼んだのです」


 颯季の頭から血の気が引いた。雨に打たれているわけでもないのに、水を浴びたような冷たさが全身を襲う。声が遠くなる。


「……家の者を、見境なく襲って……」

「この奥か?」


 妖祓いが頷くのを見て、颯季は堪らず駆けた。美弥のいるという、廊下の奥へ。燈架が颯季を呼ぶが、振り切って角を曲がろうとして。

 その曲がった先の暗がりから、影が踊りかかった。

 顔に爪が立てられようとしたところを、右腕で庇う。ぶつかった勢いで尻もちを付いた。痛みに耐えながら、左手で詰襟の上着の下から小刀を引っ張り出し、抜く。立ち上がれないまま無様に刃を突きつけた先に、仔馬ほどの大きさの黒い影がある。

 刃を突きつけたまま、どうにか立とうと左手を床について、慎重に腰を浮かす。その颯季に向かい、影が踊りかかった。


「退けっ!」


 颯季を追ってきた燈架が横から割り込んで、影を蹴飛ばした。影は大きな音を立てて家の壁にぶつかって、床の上に落ちていく。

 止めていた息を吐いた颯季を、肩で息をしている燈架が怒りの形相で見下ろした。


「前に出るなと言ったろう!」

「ごめんなさい……」


 言いつけを守らなかった颯季としては、縮こまるほかない。

 燈架はそれ以上颯季を咎めることも、無事を確かめる声掛けをすることもなく、蹴り飛ばした影に目を向けた。颯季もまた、自らを襲った敵の正体を確かめた。


「……これは」


 颯季は息を呑んだ。狗のような躯に、猿のような平たい顔の妖は、見知ったもの――蔭把の狗だ。


「何故、あいつの(しもべ)が――」


 推理の(いとま)を与えまい、とばかりに奥のほうから悲鳴が届いた。男のもの、女のもの、どちらも複数。その後も何やら言い争うような、(たかぶ)った声が聞こえてくる。

 燈架は蔭把の狗に留めを差し、刀を抜いたまま暗がりに飛び込んでいった。颯季も後を追う。壁に挟まれた廊下を抜けて角を右に曲がり、また別の庭に面した縁側に出る。庭に滑り落ちるように転がっている障子戸が、上半身を雨に濡らしていた。もともとはそこを塞いでいただろう部屋からは、断続的に怒鳴り声と悲鳴が上がっている。颯季は燈架とともに、その部屋に飛び込んだ。


 客間だろうか。光沢を持った木の卓に、出された湯飲みが転がっている。紫の座布団が茶を被って濡れていたり、部屋の隅へと飛び散っていたり。奥のほうで年嵩の男女と若い男女の四人が閉ざされた襖にもたれかかかり、解いた髪を乱した美弥が部屋の入口側で立ち竦み。卓と床の間にそれぞれ一頭ずつ狗が居て、美弥の家族を庇うように牛頭の人影が立ちはだかって。

 颯季は、(ゆら)とその奥の兼盛の家族を交互に見るが、何の言葉も出なかった。それから恐る恐る、美弥に視線を移す。背しか見えないが、幽鬼のごとく立つ美弥は、全身から炎を噴き出しているように見えた。


「……ひとまず揺を外に連れ出すぞ」


 颯季の肩に手を置いた燈架が、耳打ちする。颯季は美弥から視線を逸らさず頷いた。誰を助けるべきか、颯季も燈架もきちんと判っている。

 燈架が刀を振りかぶり、揺に踊りかかった。その間に颯季は美弥の手を引っ張り、美弥の家族と狗たちから引き離し、縁側まで連れて行く。右手は小刀を構え、狗たちを牽制した。


「……美弥さん」


 囁き声で呼びかけるが、美弥は颯季のほうを振り返らなかった。苔()した庭に出て、戦い合う揺と燈架を見ていた。燈架は、揺に当てないように慎重に刀を振るっている。揺も燈架の意図は分かっているのだろうか、際どさを見せつけながら燈架の刀を躱している。


「……どうしてよ」


 形相が変わるほど食いしばった美弥の歯の隙間から、唸り声に似た言葉が漏れる。

 二人の前で、揺が跳び上がった。庭を囲う塀の上に乗り、その向こうに消えていく。燈架は塀の向こうを見透かすように顔を上げながら立ち尽くす。無事、揺を逃がせたらしいが。


「どうしてよっ!!」


 美弥は、絶望と失望と怒りをないまぜにした顔で叫んだ。


「どうしてみんな私の話を聞いてくれないの! 私のこと都合良く使うくせに! 全部全部私に被せるくせに!」


 美弥は部屋の中を振り向いた。そこには、妖の出現に恐れ慄き腰を抜かした美弥の家族三人と――おそらく美弥の婚約者である男が、はらはらした様子でこちらを窺っていた。

 父親の背に庇われている、美弥の妹と思しき娘は、縋るように隣の若い男の袖を掴んでいた。

 美弥が全身を震わせる。


「みんな大っ嫌い!」


 美弥の叫びに応えるように、狗たちが家族に襲いかかった。颯季は美弥のもとを離れ、兼盛一家の前に割り込んだ。小刀を振るう。刃は空を切るが、狗たちは警戒して颯季から距離を取ったところで威嚇する。

 美弥は、颯季を睨みつけていたが、やがて身体ごと背け、雨降る庭へと飛び出した。その後を狗たちが追う。


「美弥さん!」


 颯季が呼び止めるも、彼女は振り返ることなく。狗の一頭の背に乗って、塀を飛び越えて行ってしまった。

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