六、茶事沈濁
汀花の妹沙耶は、兄に良く似た女性だった。細身で均整の取れた身体。後頭部で一つに括った黒髪は艷やか。嫋やかな顔に嵌った眼は夜の湖面を思わせる。露草の絵のある白い着物に、黒の袴。所作は流麗で、どこぞのお嬢様といった風情だ。
ただ、兄のほうは川のような印象を受ける一方、彼女は滝を思わせる力強さを感じた。此処はよくある茶屋の座敷の席だというのに、しゃんと伸ばした背の後ろに怒涛の景色が見えるようだった。それは、彼女の来た郷に寄るものであろう、と沙耶本人は語る。
「沙耶さんは、北からいらしたんですよね?」
小さく薄い茶碗を包むように抱えた熾保が隣に尋ね、颯季もまた斜向かいの沙耶に注目した。熾保に誘われてついてきた、美弥との茶会。女性三人に囲まれ身の置所をなくしていた颯季も、沙耶の故郷の話には興味があった。
「ええ。頭首たる兄はずっと都に暮らしているけれど、玄門が根城としているのは北の郷のほうだから」
その郷で沙耶は生まれ育ち、日夜野山を駆け回る生活をしていたのだという。
「あら、案外お転婆なのね」
「よく言われる。でも、北は北でいろいろあるから、頭首でなくともあちこちに行く必要があってね」
頭首の妹であるからして、沙耶もまた妖祓いだった。それも、〝妖に狙われている〟彼女の護衛としてあてがわれるだけあって、相当な実力者であるという。
「いろいろ……それは妖?」
「に限られない。あらゆる禍から、よ」
妖に関わる世界が新鮮に映るのか、それとも他の理由か。美弥は沙耶の話に興味津々といった様子だ。身を乗り出し、目を輝かせる様子は生き生きとしていて、兼盛の部屋で見たときとはまるで違う。髪もしっかりと整えて結わえ、鉄線の柄の着物も着こなし。商人の娘らしい頭の良さや身のこなしを窺わせていた。
それは、沙耶の目に好ましく映るらしく、彼女は美弥に求められるままに話す。歳は沙耶のほうが上。妹を持った気分なのだろうか。
「私たち五門は、今でこそ妖祓いを主としているけれど、もともとは苔生の地鎮を担っている日規の補佐をする立場。各方面に散って、土地を鎮めてきたの。
それがいつしか、妖を祓うことにすり替わってしまったけれど」
「それは……妖が国を脅かすから?」
沙耶は答えなかった。透かしのある薄い湯呑を取り、口に付ける。そこに拒絶を見て取ったのか、目を輝かせていた美弥は、顔を少し曇らせた。
「妖って、そんなに悪いものかしら」
口を尖らせる美弥に顔を上げたのは、熾保だった。
「美弥さん、駄目よ。妖に心奪われては」
「別に……そんなんじゃ」
目を逸らして湯呑みを持ち上げる美弥が誤魔化そうとしているのは、颯季の目にも明白だった。
「惹かれているのは、確かでしょう? 少なくとも、人よりもその牛鬼のほうが当てになると思っているんじゃないかしら」
実際、彼女の話をきちんと聴いてくれたのは、揺だけだったのだ。その心情は容易に理解できる。
だからこそ、沙耶や熾保は美弥を止めようと努めている。
「良いものも悪いものも、どちらも居るところは、人も妖も変わらない。けれど、そもそも在り方が異なるの。人は妖を完全には理解できない。妖も、また」
そんなことはない、という言葉は、沙耶の一睨みで封殺された。颯季はすぐに受諾した。惟織を擁護したい気持ちはあるが、美弥が妖に近づこうとするのは止めたほうが良い、と颯季もまた思っているのだ。
「そうですよ。妖に頼るものではありません。……私の故郷は、妖によって滅びましたから」
颯季は驚いて顔を上げた。正面の女性はいつも朗らかで、そんな暗い事情を抱えているようには見えなかった。妖を憎んだりする素振りも見たことがない。
そして実際、今の熾保には哀愁は漂えど、憎悪や憤怒の暗い炎に燃える様は見られなかった。
「別に妖だけが悪いわけではないです。村の人たちが不必要に頼ってしまったのが悪く、あの妖も期待に応えようとして加減ができなかっただけだと、今なら分かります。でも……」
――そういうことが起こり得るんです。人と妖の間には。
過去に何があったのか、寂しげな微笑を浮かべる熾保は語らない。だが、言葉には重みがあった。朱門では雑事ばかりの熾保が妖祓いであることも、きっとそこに理由があるのだろうと感じられる。
「……忠告、痛み入るわ」
しかし、美弥は何処か不満そうだった。いや、反発というべきか。不貞腐れた顔で卓の上に肘を付いて、颯季や熾保たちと目線を合わせないよう顔を背けている。
困った颯季たちが顔を見合わせていると、隣で美弥が立ち上がった。
「お茶のおかわりをお願いしてくるわ」
「あ、僕も行きます」
美弥を一人にしないため、颯季も腰を浮かせた。向かいの娘二人に注文を聞いて、座敷の席から下りる。
黒く光る真四角の板が敷き詰められた床を歩く。革靴の颯季と違い、美弥は草履。だから底を床に擦り付けるような音が微かに聴こえる。それが美弥の、気の進まない様子を示しているようにも思えた。
「紮烯くん。私はそんなに、おかしいのかしら」
店の中ほどまで進み、卓の席の喧騒に囲まれた頃、美弥はぽつりと溢した。
「……おかしくはないと思います」
颯季も他人の事は言えない。故郷の人々は誰一人颯季に声さえ掛けてはくれず、手を差し伸べてくれたのは妖である惟織のみ。颯季は惟織に縋っていた。本音では今も、朱門の人たちの助けを借りていても、心許なさをまだ抱いているほどだ。
はじめて自分を助けてくれたのが妖なら、妖に希望を抱くのは仕方のないことだとは思う。
「でも、揺さんは、美弥さんが人の中で生きて行くことを望んでいました」
おそらく揺は、おひと好しの面があるとはいえ、人と妖の間にある溝はしっかりと認識しているのだろう。だから、颯季を傍に置いた惟織に呆れていた様子を見せたし、颯季に美弥のことを任せた。
だが、颯季がそんな揺の言葉を伝えても、美弥の機嫌は悪くなる一方だった。
「あの、心ない婚約者の戯言と、彼に惑わされる両親の浅薄な言葉と、恋に目が眩んだ妹の恨み節を聞きながら生きていくのが、私にとって良いことって……?」
「そういうことじゃ……っ」
揺の想いを曲解されているようで、颯季は慌てた。
だから、周囲への注意が疎かになった。決して広いとは言えない店内で、何かに躓き体勢を崩す。捕まるものを求めて手が宙を泳ぐが、何もなく床の上にうつ伏せるように倒れた。
辺りが騒然とする。
「大丈夫?」
近くの卓から、椅子が動く音がした。着物姿の誰かが、颯季を心配して屈み込む。唐草金襴の良い生地が視界に入り込み、有難さより先に恐縮してしまう。
「はい、大丈夫です!」
手を煩わせてはいけない、と直ちに返事して、身を起こす。着物の相手は、美弥たちの輪に入れそうな年頃の、『お嬢さん』と呼ばれそうな若い女性だった。肩口で切りそろえた髪を揺らして小首を傾げ、颯季の様子を窺っている。
「ごめんなさい、ご迷惑をかけてしまって」
「いいえ、気にしないで。足元に気をつけてくださいね」
紅い唇が弧を描くのに、目が行く。転んだ羞恥と恩人の艶かしさに赤面した颯季は、慌てて女性に頭を下げ、美弥に向き直った。あれだけのことがあったのにも関わらず、彼女は颯季のことなど気にもせず、正面を向いたまま視線を宙に彷徨わせ、棒立ちになっている。
「美弥さん……?」
二度、三度声をかけて、ようやく彼女は我に返った。しかしどうも顔に色を失くし、ぼんやりとしている様子だ。
「……ごめんなさい。私、やっぱり今日はもう帰ろうかな」
声に張りがなく、霞のように言葉が消えていく。具合が悪いのかと思ったが、本人は否定した。颯季は訝しむが、どんな理由であれ、こんな様子であれば家に帰すべきであるような気がした。
「じゃあ、熾保さんと沙耶さんを呼んでこないと」
おそらく美弥は気まずいだろうが、彼女には護衛が必要だ。少なくともそういう名目での茶会なのだから、妖祓いの付き添いなく帰して良いはずがない。待っててください、と声を掛けて、颯季は席に戻った。不思議そうにこちらを見る二人に、美弥が帰る旨を伝える。
沙耶は苦々しそうな顔で溜め息を吐いた。
「さすがにいじめすぎたかしら」
「でも……妖に傾倒するのも、よくありません」
熾保も俯く。二人とも、美弥の気持ちは承知の上で、苦言を漏らさずにはいられなかったのだ。それだけ美弥の心が妖に傾いているように見えたからだろう。
颯季も二人の気持ちが判る。だが、美弥の気持ちも良く解る。人間の世界で味方が誰も居らず。助けてくれたのが妖だけであったのなら。人間よりも妖のほうが信頼できるとさえ思ってしまうのだ。
「……他所の家に介入するのもどうかと思っていたけれど、さすがに婚姻には口出ししてしまおうかしら」
颯季の意見を聞いた沙耶は、兼盛への苛立ちをあらわにした。熾保は困った様子で沙耶を見ていたが、止めようとはしないあたり、同意見なのだろう。そういった人間の大人の事情をよく知らない颯季も、そうしたほうが良いような気がしている。
が、ひとまずその判断は保留として、颯季たちは美弥の下へと行った。彼女は早くも店の引戸の前に立っている。戸の格子から入り込む細い外光に背を向けて、美弥はじっと足下の影を見ていた。
「……美弥さん、どうかしました?」
声を掛けると、彼女はすっと顔を上げる。
「……いいえ。なんでもないわ」
顔色が良くないのは、変わらず。それに加えて、先ほどとは違い、美弥の顔は仮面を着けているかのようにのっぺりとしていて表情がなかった。




