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Appearing ― 突然、君からのメッセージ ―  作者: 和泉發仙


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時計台の秘密

Appearing


― 突然、君からのメッセージ ―


第59話


時計台の秘密


⸻


前書き


人は、


忘れたいから忘れるのではない。


忘れなければ、


生きていけないから忘れる。


だから、


思い出すということは、


時に救いではなく、


もう一度傷付くことなのかもしれない。


⸻


夜九時を回った海鳴町は、昼間とはまるで違う町だった。


商店街の店々はすべてシャッターを下ろし、街路樹の葉を揺らす風だけが、石畳を静かに撫でていく。遠くで波が砕ける音が、一定の間隔で耳に届く。その音だけが、この町が海辺にあることを思い出させていた。


昼間には子どもたちの笑い声が響き、買い物袋を提げた人々が行き交うこの道も、今は別世界だった。


悠はゆっくりと時計台を見上げる。


レンガ造りの塔は月明かりを浴び、昼間よりもずっと大きく見えた。時計の文字盤は九時を指している。しかし、その白い盤面には、長い年月の中で刻まれた細かな傷が無数に走っていた。


「昼間はこんな傷、気付かなかったな……。」


思わず漏れた独り言に、隣へ立つレイが肩をすくめる。


「昼間は町しか見てなかったからだろ。」


その言葉に悠は苦笑した。


確かにそうだ。


海鳴町へ来てからというもの、彼の視線はいつも人へ向いていた。


メアリー。


秋山透。


榊原。


町の人々。


時計台そのものを、ちゃんと見たことはなかった。


⸻


「行こう。」


榊原の一言で空気が締まる。


久我達郎から預かった真鍮の鍵は、ずっしりとした重みを持っていた。


百年近く前に作られた鍵。


何人もの管理人の手を渡り、今は悠の掌にある。


その重さは金属の重さだけではないように思えた。


⸻


塔の裏側へ回る。


昼間には目立たなかった木製の小さな扉が、蔦に半分隠れるように建っている。


久我は無言で頷いた。


「そこや。」


悠は鍵穴へ鍵を差し込む。


一瞬、錆びついた感触が指先へ伝わる。


ゆっくり回す。


ゴリ……


ガチャン。


鈍い音とともに扉がわずかに開いた。


その瞬間、冷えた空気が流れ出てくる。


夏とは思えないほど冷たい。


レイが思わず腕をさする。


「なんだ……この冷気。」


玲子も驚いたように眉をひそめる。


「地下室じゃないのに。」


宮本が懐中電灯を点ける。


白い光が暗闇を切り裂いた。


⸻


中は狭い螺旋階段だった。


石造り。


湿気を吸った壁には薄く苔が張り付き、階段の縁は長年踏みしめられたせいか、わずかに丸く削れている。


「気を付けて。」


榊原が先頭に立つ。


一段。


また一段。


靴底が石を踏む乾いた音だけが塔の中へ反響する。


コン……


コン……


コン……


誰も話さない。


話すことが、この静寂を壊してしまう気がした。


⸻


悠は途中で立ち止まる。


壁へ手を触れた。


ひんやりとしている。


その瞬間だった。


頭の奥で何かが弾けた。


⸻


――赤い提灯。


――祭囃子。


――誰かの笑い声。


「悠! 早く!」


少女の声。


振り返る。


白いワンピース。


夜風に揺れる栗色の髪。


メアリーが笑っている。


その向こうで、制服姿の少年がカメラを構えた。


「動くなよ!」


シャッター音。


カシャッ。


⸻


「悠!」


現実へ引き戻された。


肩を揺すられていた。


榊原だった。


「大丈夫か?」


悠は息を荒げる。


「今……。」


額から汗が流れる。


「思い出した。」


「少しだけ。」


メアリーが静かに近付く。


「……見えた?」


悠は頷く。


「祭り。」


「時計台。」


「透。」


秋山透の名を口にした瞬間、メアリーの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。


「そう。」


「透くんもいた。」


その言葉は、まるで長い時間を越えて確認し合うようだった。


⸻


さらに階段を上る。


時計の駆動室へ到着した。


そこには巨大な歯車が幾重にも組み合わされ、天井近くまで複雑な機構が伸びている。


宮本が思わず息を呑む。


「……すごい。」


玲子も見上げる。


「百年前の技術とは思えない。」


歯車は静かに回り続けていた。


規則正しく。


正確に。


止まる気配はない。


「六時十分だけ止まる。」


久我が後ろから呟く。


「ここは止まっとらん。」


「止まるのは。」


老人はゆっくりと天井を指さした。


「もっと上や。」


悠たちは顔を見合わせた。


まだ上がある。


時計台には、誰も知らない空間が残されているのだ。


塔の最上階へ続く、さらに細い鉄製の梯子。


その先は闇に溶け込み、懐中電灯でも天井までは届かない。


悠は無意識に息を飲み込んだ。


その暗闇の向こうで、


何かが、


静かに待っているような気がした。


⸻


⸻


鉄製の梯子は、想像以上に古かった。


百年以上の歳月を受け止めてきた鉄は、黒く鈍い光を放ち、ところどころ赤錆が浮いている。


榊原は手袋をはめ直すと、懐中電灯を口にくわえ、一段目へ足を掛けた。


「俺が先や。」


誰も反対しない。


ギィ……


鉄が小さく軋む。


その音は塔の中へ吸い込まれるように消えていった。


一段。


また一段。


悠も続く。


梯子を上るたび、塔の内部を吹き抜ける風が少しずつ強くなる。


湿った石の匂い。


古い木材の匂い。


そして微かに混じる機械油の香り。


久我達郎は本当にこの時計を一人で守り続けてきたのだと、悠は改めて思った。


⸻


梯子を登り切ると、小さな踊り場が現れた。


天井は低く、大人が立てば頭が触れそうなほどだ。


正面には木製の扉。


飾り気はない。


真鍮の丸い取っ手だけが取り付けられている。


しかし、その扉には奇妙なものがあった。


何重にも巻かれた、古い注連縄。


色は茶色く変色しているが、丁寧に結び直された跡がある。


久我が静かに言った。


「毎年替えとる。」


玲子が驚く。


「誰がです?」


「ワシや。」


「どうして?」


老人は少し笑った。


「町の決まりや。」


「決まり?」


「理由は知らん。」


「先代から『替えろ』と言われただけや。」


榊原は眉をひそめる。


「百年も続いとるんか。」


「もっと前からかもしれん。」


⸻


悠は注連縄へ手を伸ばしかける。


その時だった。


「待って。」


メアリーだった。


彼女は今までにないほど真剣な表情をしていた。


「……まだ。」


「まだ開けちゃだめ。」


悠は手を止めた。


「どうして?」


メアリーは苦しそうに胸を押さえる。


「ここ。」


「思い出したくない。」


その言葉に全員が沈黙する。


メアリーは事件の被害者だ。


ここが彼女の記憶と繋がっているなら、無理をさせるべきではない。


榊原は注連縄を見つめたまま、小さく頷いた。


「今日はここまでにしよう。」


「え?」


レイが思わず声を上げる。


「ここまで来て?」


榊原は振り返らない。


「刑事はな。」


「証拠だけやなく、人も守る仕事や。」


その一言に、レイは何も言えなくなった。


⸻


塔を降りる頃には、時計台の外はすっかり夜に包まれていた。


海から吹く風が少し冷たい。


時計台の広場には街灯が二本だけ灯っている。


その淡い光の下に、一台の軽トラックが止まっていた。


「おや?」


運転席から降りてきたのは、小柄な老人だった。


麦わら帽子。


首には手拭い。


荷台には花の苗がぎっしり積まれている。


「久我さん。」


「まだおったんか。」


久我が笑う。


「おぉ、庄吉。」


⸻


新キャラクター


山根庄吉(76)


町外れで小さな園芸農家を営む老人。


時計台の花壇を四十年以上、一人で世話し続けている。


⸻


庄吉は悠たちを見ると、人懐っこく笑った。


「若い人が時計台へ来るなんて珍しい。」


「事件の調査です。」


榊原が答える。


庄吉は笑顔のまま、少しだけ目を細めた。


「事件か。」


「この町はな。」


「事件より先に。」


「悲しいことがあった。」


悠は思わず聞き返した。


「悲しいこと?」


庄吉は花壇へ水をやり始める。


「時計は壊れても直せる。」


「花は枯れても植え替えられる。」


「でも。」


水やりの手が止まる。


「人の心だけは。」


「止まったままになることがある。」


夜風が花壇のコスモスを揺らした。


⸻


その時だった。


時計台の裏手から、小さな足音が聞こえた。


コツ……


コツ……


コツ……


全員が振り向く。


街灯の外。


暗闇の中に、一人の少女が立っていた。


小学四年生くらい。


ランドセル。


白い運動靴。


じっとこちらを見ている。


「こんばんは。」


玲子が優しく声を掛ける。


しかし少女は返事をしない。


庄吉が小さく笑った。


「美咲ちゃんか。」


少女はゆっくり頷いた。


⸻


新キャラクター


朝倉美咲(10)


時計台近くに住む少女。


毎日、犬の散歩でこの広場へ来る。


物静かで、本ばかり読んでいるため学校では少し浮いている。


⸻


美咲は悠を見つめたまま、小さく口を開いた。


「お兄ちゃん。」


「……?」


「その鍵。」


悠はポケットの真鍮の鍵を握る。


「開けない方がいいよ。」


「どうして?」


少女は首を横に振る。


「開ける日が違う。」


全員が顔を見合わせた。


榊原がしゃがみ込む。


「誰に聞いたん?」


少女は時計台を見上げる。


「おじいちゃん。」


「でも。」


「もう死んじゃった。」


静かな沈黙が流れる。


その時、遠くから女性の声がした。


「美咲ー!」


若い母親が坂道を駆け上がってくる。


「またこんな時間まで!」


何度も頭を下げる。


「すみません、この子、人と話すのが苦手で……。」


美咲は母親に手を引かれながら帰っていく。


去り際、一度だけ振り返った。


そして唇だけを動かした。


「六時十分。」


⸻


悠は、その言葉が胸に引っ掛かった。


六時十分。


時計が止まる時刻。


メアリーが震えた時刻。


町の人が家へ帰る時刻。


そして。


まだ誰も知らない、


何かが始まる時刻。


悠は時計台を見上げる。


月明かりを浴びた文字盤は、何事もなかったように静かに時を刻んでいた。


しかしその奥で、


まだ誰にも開かれていない扉が、


百年分の沈黙を抱えたまま、


悠たちを待っていた。


⸻


――第60話「六時十分の約束」へ続く。


⸻


ここから先は時計台編の核心に入ります。


次回は、現在と十二年前の回想を交互に描きながら、「なぜ時計が六時十分で止まるのか」という謎へ一歩踏み込んでいきます。そこではメアリー、春人、秋山透がまだ高校生だった頃の日常も少しずつ描き始め、読者が彼らをより深く好きになれる章にしていきましょう。

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