雨の匂い
前書き
人は、
思い出したくないことほど、
心の奥へ沈めようとする。
でも記憶って、
完全には消えてくれない。
匂い。
音。
景色。
ふとした瞬間に、
勝手に浮かび上がってくる。
今回は、
そんな夜です。
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Appearing
― 突然、君からのメッセージ ―
第12話
雨の匂い
午後六時過ぎ。
東神奈川の空は、
昼間からずっと重たかった。
湿った風。
灰色の雲。
遠くで鳴る雷。
夏の終わりが近づいているみたいな空気だった。
黒瀬 悠は、
コンビニの軒下でタバコを吸うサラリーマンをぼんやり眺めていた。
今日は珍しく、
工場へ行った。
仮病続きだったせいで、
さすがにこれ以上休むと面倒になると思ったからだ。
だが。
やっぱり行かなきゃよかったと、
今は心底思っていた。
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「黒瀬ぇ!!」
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主任の怒鳴り声。
止まるライン。
人手不足。
陰口。
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『またアイツ?』
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『最近サボりすぎじゃね』
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『派遣っていいよな〜責任なくて』
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聞こえるように言う声。
悠は全部、
聞こえないフリをしていた。
そうしないと、
やっていけなかった。
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「……疲れた」
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小さく呟く。
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「お疲れさまやよ」
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隣でメアリーが笑う。
工場帰りの悠を、
ずっと待っていたらしい。
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「悠ちゃん今日ずっと死にそうな顔しとった」
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「元からだろ」
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「いや今日ほんとヤバかった」
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メアリーは少し困った顔をした。
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「なんか見てて苦しかった」
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悠は返事をしなかった。
言われなくても分かっている。
最近、
少し戻り始めていた感情が。
また仕事へ行った瞬間、
全部押し潰されそうになった。
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「……帰るか」
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「うん」
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歩き始めた瞬間。
ぽつり。
雨が落ちてきた。
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「うわ」
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「降ってきた」
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数秒後には、
本降りだった。
アスファルトを叩く雨音。
車の水しぶき。
湿った空気。
二人は近くの高架下へ駆け込む。
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「はぁ……」
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悠は壁にもたれた。
メアリーは雨を見つめている。
その横顔が、
どこか不安そうだった。
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「……メアリー?」
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「……うん」
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返事が小さい。
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「どうした」
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「なんか」
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メアリーは胸元を押さえる。
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「雨の匂い、嫌」
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悠の胸がざわつく。
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「……またか」
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「ごめん」
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「最近ちょっと変なん」
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雨音が強くなる。
高架下へ吹き込む湿った風。
街灯の光が、
濡れた道路へ反射していた。
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「……あれ」
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メアリーが小さく呟く。
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「ん?」
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「ここ」
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高架下の奥。
薄暗い通路。
落書き。
古い自販機。
その景色を見た瞬間。
メアリーの顔色が変わった。
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「……っ」
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「メアリー?」
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「いや」
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「待って」
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呼吸が乱れ始める。
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「暗くて」
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「寒くて」
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「誰かおって――」
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言葉が止まる。
メアリーは頭を押さえた。
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「わからん……」
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「でも怖い」
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悠は何も言えなかった。
ただ隣へ座る。
昔みたいに。
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「……大丈夫」
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「うん……」
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メアリーは少しだけ肩を震わせていた。
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「悠ちゃん」
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「ん」
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「手」
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「は?」
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「なんか怖い」
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悠は少し迷ってから、
そっと手を伸ばした。
触れられるか分からなかった。
でも。
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「……あ」
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触れた。
少し冷たい。
でも確かにそこにいた。
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「……触れた」
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メアリーが驚いた顔をする。
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「今まで触れんかったのに」
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悠も言葉を失う。
雨音だけが響く。
メアリーは、
少し安心したみたいに笑った。
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「……なんか」
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「夢じゃないみたい」
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その言葉が、
妙に胸へ残った。
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その時だった。
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「うわマジ降ってんじゃん」
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高架下へレイが飛び込んでくる。
スカジャン。
びしょ濡れ。
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「お前ら何してんの」
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「雨宿り」
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「見りゃ分かる」
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レイは髪をかき上げながら、
悠の隣へ座った。
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「つーか今日仕事行ったんだ」
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「……まぁ」
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「で?」
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「死んだ?」
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「半分くらい」
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「だろーね」
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レイは苦笑する。
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「ほんとあの工場クソだな」
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「辞めりゃいいのに」
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「金ねぇし」
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「それなー」
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レイは空を見上げた。
雨。
ネオン。
高架下。
夏の終わりみたいな夜だった。
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「……でもさ」
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レイがぽつりと言う。
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「最近のお前」
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「ちょっとだけ人間っぽいぞ」
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「なんだそれ」
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「前マジで幽霊みたいだったし」
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悠は少しだけ笑った。
その横で。
メアリーも笑っていた。
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でもその笑顔の奥に、
小さな怯えが残っていることを。
悠だけは気づいていた。
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後書き
第12話でした。
今回は、
“雨”
をテーマにしています。
メアリーの記憶の奥には、
確実に“雨の夜”が存在しています。
ただ、
まだ本人は繋がっていない。
そして今回は初めて、
悠とメアリーが“触れ合う”描写を入れています。
この変化が、
今後かなり重要になっていきます。
ではまた次回。




