第十三話 定時連絡
アークライン本部の医療区画は、夜になっても明るかった。
窓のない白い部屋に、計測器の細い音だけが続いている。ベッドは二つ並べられ、片方に朱音、もう片方に澪が寝かされていた。朱音の腕には魔力循環を測る細い符が貼られ、胸元には心拍と呼吸を拾う薄い板が固定されている。澪の方にも同じような検査器具がついていたが、本人はほとんど気にしていなかった。
眠い。
それだけが顔に出ている。
マシロの裾が、澪の布団を何度も整えていた。胸元まで引き上げて、端をそろえ、澪が少し動くとまた直す。医療班が掛けた普通の布団が気に入らないのか、白い裾は布団の上からさらに薄く広がり、澪を包むように丸まっている。
「マシロ、病院の布団に勝とうとしてる」
朱音が笑う。
「勝つ?」
澪が眠そうに聞く。
「たぶん勝ってる」
「すごい」
白い裾が、満足したようにふわりと揺れた。
メイの鎖は、澪のベッドの脚に巻きついていた。医療班に邪魔だと言われたので、最初はしまわれかけた。すると鎖の先が床にぺたりと落ち、動かなくなった。澪が「少しだけ」と言うと、メイは今の位置で大人しくしている。大人しくはしているが、時々ちり、と鳴って存在を主張する。
「メイ」
澪が声をかける。
鎖が鳴る。
「いる」
また鳴る。
「知ってる」
朱音はそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
鐘骸鳥の訓練から数時間しか経っていない。身体の傷は戻った。レベルは上がった。《槍術》も上がった。《聖域》も発現した。だが、体の奥に残った疲れは深い。死んだ回数を数える気にはなれない。数えたら、きっと手が震える。
だから本来なら七瀬家に帰る予定だったが、佐伯と医療班に止められた。
朱音は《聖域》発現後の経過観察。
澪は複数回蘇生の負荷と、第二層第九環連戦後の検査。
メイは白鯨素材と深層武具を取り込んだ反応の確認。
マシロは、勝手に澪の検査付き添い。
結局、その夜は本部に泊まることになった。
朱音は枕元の端末を手に取った。
「結衣に連絡していいですか」
医療班員が頷く。
「短時間なら」
「ありがとうございます」
通話をかけると、数回の呼び出し音の後、すぐに結衣の声が出た。
『お姉ちゃん!?』
「うん。私」
『大丈夫!? 今どこ!? 帰ってこないの!?』
「本部の医療室。検査入院みたいなものだから大丈夫」
『大丈夫って言う時だいたい大丈夫じゃないじゃん!』
「今日は本当に大丈夫。疲れてるだけ」
『それも信用ならない』
「結衣、落ち着いて」
『落ち着けないよ!』
朱音は困ったように笑った。
その声に、澪が少しだけ目を開けた。
「結衣ちゃん?」
「うん。話す?」
「話す」
朱音が端末を澪の方へ向ける。
「結衣ちゃん」
『澪ちゃん!? 澪ちゃんもいるの!?』
「いる」
『顔見せて!』
「眠い」
『眠くても見せて!』
朱音がビデオ通話へ切り替えた。画面の向こうで、結衣が泣きそうな顔をしていた。後ろには七瀬家のリビングが映っている。暖色の照明、木目のテーブル、母がキッチンから顔を出し、父が心配そうにこちらを覗いていた。
『澪ちゃん、顔白いよ』
「眠い」
『眠いだけ?』
「うん」
『本当に?』
「たぶん」
『たぶんはだめ』
「大丈夫」
『それならいいけど……』
結衣は画面越しにじっと澪を見た。
『帰ってきたら卵焼き作るね』
「食べる」
『今度はもっと上手く作る』
「結衣ちゃん、すごい」
『まだ作ってないよ』
「でも、すごい」
『もう、澪ちゃんはすぐそういうこと言う』
結衣は笑った。
その笑顔を見て、朱音の胸が少しだけ痛くなった。今日は帰れない。明日の朝には帰れるかもしれない。それだけのことなのに、ひどく遠く感じた。
「お母さんたちは?」
『いるよ。みんな心配してる』
結衣が端末を母へ向ける。
『朱音、無理してない?』
「してない」
『嘘つくと声で分かるわよ』
「……少しだけ」
『少しじゃないでしょう』
「明日には帰る」
『帰ってきたら寝なさい。澪ちゃんも』
「うん」
澪は短く頷いた。
父も画面の奥から言った。
『護衛の人たちもいる。こっちは大丈夫だ。朱音は本部でちゃんと休め』
「分かった」
『澪ちゃんも、朱音を頼むな』
「うん」
『いや、澪ちゃんも休むんだぞ』
「休む」
結衣がまた端末を持った。
『じゃあ、おやすみ。明日、帰ってきてね』
「うん」
「結衣ちゃん、おやすみ」
『澪ちゃんも、おやすみ。メイちゃんとマシロちゃんも』
メイの鎖が、ちり、と鳴った。
マシロの裾が画面端で小さく揺れる。
『あ、反応した! かわいい!』
「メイ、かわいい」
『マシロちゃんもかわいい』
白い裾が少しだけ膨らんだ。
「マシロ、照れてる」
『照れるんだ』
「たぶん」
結衣は元気に笑って、通話を切った。
画面が暗くなる。
医療室に、計測器の音が戻った。
朱音は端末を胸元に置いたまま、しばらく黙っていた。
「帰りたい?」
澪が聞く。
「うん。でも、今日は寝る」
「明日、帰る」
「うん。明日、帰ろう」
澪は小さく頷き、目を閉じた。マシロの裾がまた布団を整える。メイの鎖はベッドの脚に巻きついたまま、静かに揺れた。
同じ頃、七瀬家の外では護衛班が巡回を続けていた。
表通りに一人。裏手に二人。近くの駐車場に待機車両が一台。外から見れば警備会社の夜間巡回にしか見えない。だが、全員がアークラインと契約した対人警護の専門員だった。探索者としてのレベルは深層組ほど高くない。それでも、一般的な武装集団なら近づかせないだけの訓練を受けている。
二十二時三十分。
護衛班長が本部へ定時連絡を入れた。
『七瀬家周辺、異常なし。対象三名、室内反応あり。外周巡回を継続』
本部警備室の端末に記録が残る。
七瀬家のリビングでは、結衣がソファに座っていた。母は明日の朝食の下ごしらえをしている。父は玄関の鍵を確認し、カーテンを閉め直した。テレビでは、昼間の配信ニュースが繰り返されていた。第二層第九環のボス討伐。第一層第九環での白鯨素材回収。アークライン配信管理部のコメント。専門家の解説。
結衣はリモコンで音量を下げた。
「明日、卵焼き作ろうかな」
「朱音に?」
「澪ちゃんにも」
母が微笑む。
「じゃあ、卵を多めに出しておかないとね」
「うん」
父は窓の外を一度だけ見た。
街灯は点いている。
護衛の影も見えた。
「大丈夫だ」
父は自分に言い聞かせるように言った。
二十二時四十七分。
裏手担当の護衛が、路地の奥に停まった配送車を確認した。住宅街では珍しくない。だが、運転席の人物は降りず、ライトも点けない。護衛は端末に軽い警戒印を入れ、相方に視線を送った。
二十二時五十分。
配送車の後部扉が、内側からわずかに開いた。
二十二時五十一分。
七瀬家周辺の一部通信に、薄いノイズが走った。
本部警備室の端末がそれを拾う。担当員が眉を寄せ、ログを拡大した。まだ警報を鳴らすほどではない。だが、警戒段階が一つ上がる。
二十二時五十二分。
裏手担当の護衛の心拍が跳ね上がった。
本部端末が黄色い警告を出す。
二十二時五十二分三秒。
同じ護衛の位置情報が乱れた。
二十二時五十二分六秒。
通信が途切れた。
二十二時五十二分十秒。
相方の心拍も急上昇する。
表通りの護衛班長が即座に動いた。
『裏手、応答しろ。状況を報告しろ』
返答はない。
班長は銃ではなく、腰の短い警棒型魔導具を抜いた。住宅街で大きな音は出せない。対象宅へ走りながら、本部へ緊急通信を入れる。
『七瀬家外周、通信障害。裏手二名応答なし。襲撃の可能性あり。即時支援を――』
そこで、班長の声が途切れた。
本部警備室の画面で、班長の心拍が異常値へ跳ね上がる。
次の瞬間、七瀬家前のカメラが黒く塗り潰された。
アークライン本部で警報が鳴った。
佐伯はまだ本部にいた。
配信後の問い合わせ、素材管理、朱音の《聖域》の共有範囲、澪の検査、メイの変化。終わらない報告を処理していた手が、警報音で止まる。
「七瀬家外周で異常。護衛班三名、通信途絶。心拍データ異常。監視カメラ遮断」
警備担当が早口で報告する。
「対象家族は」
「室内反応あり。ただし、家屋周辺に通信妨害」
「即応班」
「出動済み。到着まで最短十一分」
「遅い」
佐伯の声が低くなった。
「澪さんと七瀬さんへ接続」
「医療区画です」
「起こしてください。今すぐ」
医療室の照明が一段強くなった。
朱音が先に目を開ける。
「なに……?」
澪はもう起きていた。
眠そうな顔ではない。
メイの鎖がベッドの脚から外れ、床の上へ静かに広がっている。マシロの白い裾が、澪の肩から背中へ流れ、戦闘服の形を取り始めていた。
端末に佐伯の顔が映る。
『七瀬さん、澪さん。七瀬家外周で襲撃反応。護衛班と通信途絶。通信妨害あり。即応班が向かっています』
「家族は」
朱音の声が乾く。
『室内反応は残っています。詳細不明』
「結衣は」
『詳細不明です』
「お母さんと、お父さんは」
『詳細不明です』
朱音はベッドから起き上がろうとして、体が傾いた。まだ力が戻っていない。医療班が支えようとするが、朱音はそれを振り切りかける。
「行きます」
「七瀬さん、待ってください」
「待てません!」
澪が立った。
医療班の手が止まる。
澪は何も言わず、朱音の手首を掴んだ。メイの鎖が澪の足元へ集まり、マシロが白く広がる。
『澪さん』
佐伯の声がした。
『現場状況が不明です。転移後、即座に家族の保護を優先してください。敵の追跡は――』
「家」
『澪さん』
「行く」
澪の声は静かだった。
静かすぎた。
朱音は澪の横顔を見る。表情が消えている。怒っているのか、焦っているのか、まだ分からない。ただ、目だけが冷たくなっていた。
「澪」
「朱音先輩」
「なに」
「つかまって」
「うん」
朱音は澪の手を握り返した。
次の瞬間、医療室の白い光が消えた。
七瀬家のリビングには、さっきまで温かい匂いがあった。
卵を溶いたボウル。流し台の横に置かれた菜箸。テーブルの上に置きっぱなしのリモコン。結衣が座っていたソファ。母が出していた明日の皿。父が閉めたはずのカーテン。
それらが、音もなく壊れていた。
窓ガラスは内側へ散り、カーテンは半分焼け落ちている。テーブルは横倒しになり、床には黒い靴跡がいくつも残っていた。壁に貼られていた家族写真が傾いている。空気には、焦げた樹脂と血の匂いが混ざっていた。
護衛班長は玄関近くに倒れていた。
まだ生きている。
だが、胸の装備は裂け、呼吸が泡立っていた。裏手の二人は廊下側に倒れている。片方は意識がない。もう片方は腕を失いながら、それでも家の奥へ向かって手を伸ばしていた。
朱音は、家族の名前を呼ぼうとした。
声が出なかった。
澪は一歩、リビングへ入った。
メイの鎖が床を擦る。
マシロの白が、澪の背中で広がる。
奥の部屋から、血の匂いが濃くなった。
なんかすごく悲しいです。




