第十二話 メイのご飯
空葬原の風は、朱音の血の匂いをすぐに薄めていった。
骨の草原を渡る白い風。遠くで鳴る、もう壊れた鐘の残響。鐘骸鳥の残骸は骨粉と割れた鐘片になって散らばり、その中心で朱音は槍を支えに立っていた。足元に広がっていた淡い光は、もう消えかけている。だが、一度開いたものは朱音の内側に残っていた。
澪はそれを見ていた。
「朱音先輩」
「うん」
「勝った」
「……うん。勝った」
朱音の声は掠れていた。何度も死んだ。何度も戻された。身体は戻っても、記憶は残る。喉を貫かれた感覚も、胸を裂かれた感覚も、鐘の音に肺を潰された感覚も、全部が薄くこびりついている。
けれど、最後は立っていた。
朱音は自分の手を見る。傷口は塞がっている。折れかけていた腕も動く。だが、体力も魔力も底に近い。少しでも気を抜けば、その場に座り込んでしまいそうだった。
通信越しに佐伯の声が入る。医療班も観測班も、全員アークライン本部で待機している。第九環の現地に出れば、それだけで死ぬ危険がある。だから朱音の状態は、装備に仕込まれた計測符と秘匿通信で拾うしかなかった。
『七瀬さん。戦闘終了を確認しました。状態を申告してください』
「立てています」
『継続戦闘は』
「無理です」
『当然です。すぐ帰還してください』
「はい」
澪は朱音の横に落ちていた鐘片を拾った。白い骨と淡い金属が混ざったような欠片。メイの鎖が近づき、ちり、と小さく鳴る。
「いる?」
鎖が遠慮がちに揺れた。
「あとで」
鎖が沈む。
「白鯨、先」
鎖がすぐに持ち上がった。
朱音は疲れた顔のまま笑った。
「メイ、分かりやすいね」
「ご飯」
「白鯨がご飯扱いなの、まだ慣れない」
「おいしい?」
「私に聞かれても困るかな」
「そう」
マシロの裾が、澪の袖を軽く引いた。澪の口元に残っていた血を見つけたらしい。白い布がふわりと伸び、そっと拭う。血は布の上で赤く滲み、すぐに内側へ吸い込まれて消えた。
「マシロ、ありがと」
白い裾が、少しだけ誇らしげに揺れた。
「朱音先輩も?」
「私は大丈夫」
マシロの裾が朱音の裂けた防具へ伸びる。
「……あ、服は大丈夫じゃないね」
「マシロ、直す?」
「それはたぶん無理かな。これはアークラインの装備だし」
裾が不満そうに丸まった。
「あとで着替えるから。ありがとう」
澪はメイとマシロを見て、少しだけ頷いた。
「帰り道」
『澪さん』
佐伯の声が少し強くなる。
『七瀬さんは限界です。白鯨は後日にしてください』
「すぐ」
『すぐ、の基準を確認したいのですが』
「すぐ」
「佐伯さん」
朱音が通信に向けて言う。
「私は戦いません。澪が本当にすぐ終わらせるなら、ここで待つより早いです」
『……澪さん。一体だけです。素材回収も必要分のみ』
「うん」
『素材の仕分けは帰還後、澪さん同伴で行います。今は無理に広げないでください』
「うん」
『メイの食事分と研究素材分も、できる範囲で分けてください』
「たぶん」
『本当にお願いします』
「本当」
朱音は小さく息を吐いた。
配信は最低限だけ再開された。朱音の姿も、訓練の痕跡も映らない。視点は澪に固定され、空葬原の白い風と骨の丘だけが流れる。
『第一層第九環?』
『さっき第二層だったよな?』
『移動が意味不明』
『なんで第一層?』
『アークライン、今日ずっと情報絞ってない?』
『メイのご飯って聞こえたんだが』
『聞こえなかったことにしたい』
『白鯨がご飯扱いされてる』
『【公式】アークライン配信管理部:本配信外の人員配置・作戦行動・安全管理情報については回答できません。現在の配信対象は澪さんによる素材回収です』
『回答できませんきた』
『つまり何かある』
『詮索するなってことだな』
『朱音さん関係は触れない方がよさそう』
『とりあえず白鯨がかわいそう』
『かわいそうではない。普通ならこっちが死ぬ』
澪は骨の丘を越えた。
遠くに、白鯨が浮いていた。
空を泳ぐ巨大な白い影。骨と肉と雲が混ざったような身体。ひれの下から白い粒子がこぼれ、落ちた場所の骨草がふわりと舞う。澪の視界に、いつもの簡易表示が薄く浮かぶ。
《墓喰白鯨》
「白鯨」
メイの鎖が嬉しそうに揺れる。
「食べる」
鎖が、ちり、と鳴った。
白鯨がこちらに気づいた。
空が震える。
白い光が幾重にも重なり、空葬原へ落ちる。澪はそれを待たなかった。メイの鎖が先に空へ伸び、白鯨の魔法の筋を裂く。落ちてくるはずだった光がずれ、骨の丘に刺さった。
澪の鎌が振られる。
斬撃だけが飛んだ。
青白い線が空を走り、白鯨のひれを落とす。白い粒子が雨になった。メイの鎖がその中を踊るように伸び、鎌刃が腹側の白い魔力層を削る。マシロは澪の足元で裾をふくらませ、落ちてくる血と骨片を汚れとして弾いた。
「終わり」
次の斬撃で、白鯨の身体が縦に裂けた。
裂けた内側から、白い魔石と臓器のような素材がこぼれる。澪は大きな素材だけを袋へ放り込んだ。魔石、骨質板、喉奥の器官、白い皮膜、魔力を帯びた脂。細かいものはマシロが裾で器用に包み、袋の口へ押し込む。
メイの鎖は残った白い骨質板へ絡みついた。刃が刃に触れ、細い音が鳴る。白鯨の魔力が鎖へ流れ込む。噛むわけでも、飲むわけでもない。白い性質だけを削ぎ落として、メイの奥へ引き込んでいく。
鎖の先が満足そうに揺れた。
「足りる?」
鎖が小さく鳴る。
「しばらく」
鎖がもう一度揺れる。
「よかった」
『白鯨が終わった』
『帰り道のご飯、終わった』
『感覚が壊れる』
『白鯨素材を袋に投げ込むな』
『今の喉奥の器官、前にメイが欲しがってたやつ?』
『不老薬素材でもあるんだよな?』
『メイのご飯と不老薬素材が同じ扱いなの怖い』
『白鯨一体でいくら分?』
『餌代いくらだよ』
『アークライン本部、今日ずっと頭抱えてそう』
『素材班と経理班が同時に泣いてる』
『【公式】アークライン配信管理部:白鯨素材は安全管理のうえ、研究・保管・必要用途に分類されます。無断取引および模倣品にご注意ください』
『模倣できるのか?』
『できないけど偽物は出る』
『白鯨ジャーキーとか出そう』
『やめろ』
澪は配信を切った。
空葬原に、世界の目がなくなる。
澪は素材の入った袋をインベントリへしまい、朱音の方へ戻った。朱音は槍を杖代わりにして立っていた。強がっているのは見れば分かる。けれど、座り込んではいない。
「帰る」
「うん」
「つかまって」
朱音が澪の肩に手を置く。マシロの裾がすぐに伸びて、朱音の手首を支えた。メイの鎖も澪の足元から朱音の足元へゆるく輪を作る。置いていかない、とでも言いたげだった。
「メイ、置いてかない」
鎖が得意げに鳴った。
「マシロも」
白い裾が小さく跳ねた。
「うん。帰る」
次の瞬間、空葬原の白い風が消えた。
骨の匂いも、鐘の残響も、白い粒子もなくなる。
目を開けた時、そこはアークライン本部の帰還管理室だった。澪が一度来たことのある安全区画。床は白く、壁には結界計測器と医療端末が並んでいる。待機していた職員たちが一斉に動き出した。
「七瀬さん、医療室へ」
「澪さんもです」
「白鯨素材の仕分け依頼、素材管理班へ」
「メイの反応が変です、武器班を呼んでください」
「配信管理部、ログの切れ目確認を」
「佐伯さんへ報告、七瀬さんの状態確認を優先してください」
声が重なった。
朱音は医療班に支えられ、澪もそのまま医療室へ連れていかれる。白鯨素材も第二層第九環の素材も、今は澪のインベントリの中だ。職員たちはそれを分かっているので、袋を渡せとは言わない。必要になれば、澪同伴で取り出してもらうしかない。
メイの鎖が澪の足元で静かに揺れた。
武器班の職員がそれを見て、顔を引きつらせる。
「メイさん、何か……取り込みました?」
「槍と剣」
「槍と剣」
「うん」
「深層由来ですか」
「たぶん」
「たぶん」
職員が天井を見た。
「……佐伯さんに報告します」
「うん」
「経理にも」
「経理?」
「いえ、こちらの話です」
マシロの裾が、澪の袖をちょんと引いた。医療班に囲まれる前に、まだ口元に残っていた赤を拭う。ついでに白い装束の裾がふわりと広がり、床に落ちかけた骨粉をまとめて職員の差し出した容器へ落とした。
「マシロ、えらい」
白い裾が、明らかに嬉しそうに揺れた。
「えらい」
メイの鎖も、なぜか小さく鳴った。
「メイも?」
鎖が鳴る。
「うん。メイも」
武器班の職員が、その様子を見て少しだけ顔を緩めた。
朱音は医療ベッドへ運ばれた。澪も隣のベッドへ座らされ、医療班に囲まれる。朱音の検査結果は異常だらけだった。死亡と蘇生を繰り返した負荷。魔力枯渇寸前。精神的損耗。だが、その上に、白いフィールド反応が残っている。
佐伯が到着した時、朱音は上半身を起こしていた。
「七瀬さん、無理に話す必要はありません。今は治療を優先してください」
「いえ」
朱音は首を振った。
「話しておきます。私だけの問題じゃないと思うので」
佐伯は一度、端末を下げた。
「分かりました。あなたの意思として受け取ります。共有範囲はこちらで慎重に管理します」
「お願いします」
朱音は一度だけ澪を見た。
澪はベッドの上で、マシロに口元を拭われている。眠そうではあるが、目は開いていた。メイの鎖はベッドの脚にゆるく絡まり、医療班の邪魔にならないぎりぎりの位置で揺れている。
「ユニークスキル」
朱音は言った。
「《聖域》です」
会議室ではない。
医療室だった。
それでも、その場にいた全員が黙った。
「効果は、まだ完全には分かりません。私を中心に範囲が広がります。防壁ではなく、フィールドです。中にいる味方の傷が塞がって、状態異常が軽くなりました。鐘骸鳥の音も鈍りました。敵には、たぶん継続的な負荷が入ります」
「回復阻害はありましたか」
佐伯の声は慎重だった。
「鐘骸鳥の胸の鐘が、戻りにくくなっていました」
「範囲は」
「発現直後は十メートルもなかったです。でも、感覚としては、もっと広がると思います。たぶん、半径五十メートルくらいまで」
佐伯の表情が変わった。
神楽坂も、ミナトも、医療班主任も、同時に端末を見る。半径五十メートルの味方回復、状態異常回復、敵デバフ、回復阻害、継続ダメージ。防壁ではない。戦場そのものを変える力。
深層攻略に必要だったもの。
長期戦で探索者を削り殺す環境への、答えになり得るもの。
「……ありがとうございます」
佐伯は低く言った。
「これは、アークラインの深層攻略計画そのものに関わります」
「私が、ですか」
「はい。ただし、今話した内容をどこまで共有するかは、あなたの意思と安全を確認した上で決めます」
朱音は小さく息を呑み、それから頷いた。
「共有してください」
「本当にいいのですか」
「はい。深層へ行く人たちを守れるなら、隠すものじゃないと思います」
澪はベッドの上で首を傾げる。
「朱音先輩、すごい?」
「すごいです」
佐伯が即答した。
「現時点で、アークラインの深層攻略計画そのものが変わる程度には」
澪は朱音を見る。
「すごい」
「……うん」
「勝った」
「うん。勝ったね」
朱音は疲れた顔で笑った。
嬉しいより先に、怖かった。
自分が得た力の大きさが、まだ分からない。けれど、佐伯たちの顔を見れば分かる。これは個人の強化で終わるものではない。アークライン全体の編成が変わる。深層へ進む理由が増える。自分が立つ場所が、変わる。
「それと」
朱音は思い出したように、端末を見た。
「鐘骸鳥の素材袋、出てました。あと、スキルオーブも」
「袋?」
澪が顔を上げる。
「うん。小さいけど、空葬原系の素材が入るみたい」
「便利」
「澪も同じの持ってるよね!?」
「??そうだっけ?」
「そうだよ〜!?」
朱音は表示された記録を見下ろす。
「探索者レベル、七十八になってた。あと、《槍術》がひとつ上がった」
「上がった」
「うん」
「朱音先輩、強くなった?」
「少しだけね」
佐伯が端末に記録を入れる。
「七瀬さんの獲得品は、素材袋一点、スキルオーブ一点。探索者レベル七十八。スキルオーブ使用により通常スキル《槍術》が一段階上昇。加えて、ユニークスキル《聖域》を新規発現。第一層第九環ボス級個体のソロ討伐。……本日だけで報告書が何本必要になるか分かりませんね」
「すみません」
「謝ることではありません」
佐伯は端末を閉じる。
「七瀬さんのレベリングは、今後の最優先課題の一つになります」
「私の、ですか」
「はい。《聖域》の安定運用には、あなた自身の基礎レベルが必要です。深層攻略計画に組み込むなら、なおさらです」
「……はい」
「ただし、今回のような死亡前提訓練は二度と標準手段にはしません。最低限の突破口は開きました。次からは、部隊編成と管理下での段階的強化です」
朱音はゆっくり頷いた。
「分かりました」
「ですので、今は寝てください」
「はい」
澪は朱音を見る。
「寝る?」
「寝たい」
「寝て」
「澪もね」
「うん」
佐伯は医療班へ指示を出した。
「七瀬さんと澪さんは本日これ以上の行動を禁止。メイの変化確認は武器班で最低限のみ。素材仕分けは後日、澪さん同伴で実施。配信管理部は本日のログをすべて再確認してください」
「メイ、ご飯」
「もう食べました」
「あとで」
「あとでです」
澪は少し不満そうにしたが、ベッドに沈んだ。
朱音も横になる。
アークライン本部の外では、第二層第九環のボス討伐と恒例化した白鯨素材回収のニュースが流れ続けていた。
その裏で、七瀬朱音の《聖域》は、静かにアークラインの深層攻略計画を書き換え始めていた。
やっぱメイとマシロは可愛いですね。
意志のある装備って素敵。
擬人化させたら尽くしてくれるお姉さんと食いしん坊な少女が出来上がりそうですね。




