第十一話 聖域
第二層第九環の黒緑の霞は、胎庭の揺籃樹が崩れた後もしばらく揺れていた。
逆さまに浮かんでいた庭は灰になり、白い繭の残骸は黒い泥へ変わっている。未完成の樹人たちも、もう動かない。根の膜が剥がれた地面だけが、まだ生き物の皮膚みたいにゆっくり波打っていた。
澪は落ちていた黒緑の魔石と、割れた樹核の欠片を拾った。大きいものはメイの鎖が寄せ、小さいものはマシロが白い布の端で包む。澪はそれらをまとめて《黒胎袋》へ突っ込み、袋ごとインベントリへしまった。
細かい仕分けはしない。
アークラインに渡せば、誰かが分ける。
「次」
澪は短く言い、黒樹の奥へ歩き出した。
『素材の扱いが雑』
『今の魔石、国家予算級では?』
『アイテム袋に突っ込んだ』
『アークラインの研究班があとで泣きながら仕分けするやつ』
『澪ちゃん、回収が買い物帰り』
『胎庭の素材、絶対やばい』
『あれ持ち帰れる時点でおかしい』
『メイの鎖が素材寄せてるのかわいい』
『かわいいか?』
『かわいいだろ』
『【公式】アークライン配信管理部:回収素材は配信終了後、管理区画にて分類・鑑定・封印処理を行います。一般流通の予定はありません』
『一般流通したら困る』
『封印処理って言った?』
『素材なのに封印が必要なの怖い』
澪はコメントを見ていない。
一度通った根の裂け目を抜け、黒い樹液が滝のように垂れる場所へ出る。木々はまっすぐ生えていない。枝は下へ伸び、根は上へ伸び、黒緑の葉が肺の内側みたいにしぼんだり膨らんだりしている。ところどころに白い骨のような枝が混ざり、その先に小さな目玉のような実がついていた。
澪は少し立ち止まり、足元の水たまりを見た。
黒い。
深い。
けれど空は映っていない。
視界の端に、探索者用の簡易鑑定表示が薄く浮かぶ。
《黒緑葬鏡》
「黒緑葬鏡」
黒い水たまりが、音もなく震えた。
次の瞬間、森の中に鏡が立った。
一枚ではない。二枚、五枚、十枚。黒緑の樹液でできた縦長の鏡が、木々の間にずらりと並ぶ。鏡面は腐ったガラスのように曇っていて、澪の姿は映らない。代わりに、別のものが映っていた。
倒れた探索者。
根に巻かれた腕。
胞子で白く濁った目。
助けを呼ぶ口だけが、黒い樹液の中で動いている。
コメント欄が一瞬遅れてざわついた。
『鏡?』
『なに映ってる?』
『人?』
『映像ぼかし入った?』
『これ見せちゃだめなやつでは』
『第二層第九環、悪趣味すぎる』
『黒緑葬鏡、名前からして嫌』
『澪ちゃん映ってない?』
『鏡なのに本人映らないの怖い』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】It is not reflecting her. It is reflecting deaths that the forest has stored.(彼女を映しているのではありません。森が蓄えた死を映しているのです)』
『海外解説ニキやめて』
『森が死を蓄えるな』
『第九環、本当に人間が来る場所じゃない』
鏡の中の死体が、動いた。
根に巻かれていた腕が鏡面から突き出す。白く濁った目が開き、黒緑の枝が喉から伸びる。割れた鏡片の一つ一つに別の死に方が映り、そこから枝や腕や折れた武器が伸びてくる。
澪は鎌を持ち上げた。
「映らないの、いる」
足元の黒い水が、ほんの少しだけ揺れた。
そこに本体がいる。
鏡ではない。鏡に映るものでもない。映らない底に、黒緑葬鏡の核が沈んでいる。
澪が一歩踏み出すと、鏡が一斉に割れた。
破片は刃ではなかった。景色だった。澪の前後左右に、別々の森が開く。どの道も同じように見える。どの鏡にも、違う死が映っている。普通の探索者なら、自分が今どちらを向いているのか分からなくなる。足元の水たまりを踏んだことにも気づけない。
澪は迷わなかった。
鎌を横へ振る。
鏡が三枚まとめて裂ける。
裂けた鏡面から伸びた腕を、メイの鎖が絡め取った。鎌の刃が触れた瞬間、腕の形をした黒緑の枝が薄く削れていく。噛み砕くのではない。刃が、枝の中に残っていた死の癖だけを切り取っているようだった。
マシロの裾が白く翻り、黒緑の水滴を弾く。
澪は破片の迷路を通り抜け、足元の水たまりだけを追った。
簡単そうに見える。
ただ歩いているように見える。
だが、鏡片一枚が触れれば、そこに映った死に方が身体へ引き寄せられる。根に巻かれた死を映した鏡なら、首に根が絡む。肺を胞子で潰された死なら、呼吸が止まる。腕を折られた死なら、骨が内側から軋む。
澪はそれらを、触れる前に斬った。
黒緑葬鏡が震える。
足元の水たまりが逃げる。
「そこ」
澪が短く言った。
メイの鎖が水たまりを囲む。マシロが白い布を広げ、水面に映る死の景色を遮る。逃げ場を失った黒い水が、初めて形を取った。鏡面の奥から、顔のない人影が浮かぶ。全身が黒緑の樹液でできていて、胸だけが空洞だった。
澪は踏み込む。
人影は鏡を重ねる。澪の前に、澪の死体が映った。
首を折られた澪。
根に縫われた澪。
黒い水に沈む澪。
鏡面に映った死が、一斉に現実へ伸びる。
澪は少しだけ目を細めた。
「それ、違う」
鎌が落ちた。
青白い斬撃が、鏡も、人影も、水たまりも、まとめて断った。黒緑の樹液が跳ね、映っていた死体たちが煙のようにほどけていく。森の中に立っていた鏡が一枚ずつ倒れ、倒れる前にただの黒い水へ戻った。
黒緑葬鏡の核が、澪の足元に転がる。
小さな黒い板のようなものだった。鏡というより、腐った樹皮を磨いた札に近い。その横に、鏡面の欠片を縫い固めたような短い槍が落ちていた。柄は黒樹の根で、穂先は黒緑の鏡片。動かないのに、見る角度によって長さが違って見える。
メイの鎖が、短槍へ伸びた。
「いる?」
鎖が、ちり、と鳴る。
澪は短槍を拾い上げた。鑑定表示が一瞬だけ浮かぶ。深層由来の武具。名前は長かったが、澪は読まなかった。
「食べる?」
メイの鎖が短槍を絡め取った。
次の瞬間、メイの刃が穂先に触れる。細い金属音が鳴り、黒緑の鏡片が少しずつ削れていく。砕くというより、武器としての芯を剥がしているようだった。柄の根が抵抗するように震えたが、鎖が締まり、刃がもう一度走る。
短槍は砂のように崩れた。
残った黒緑の魔力だけが、メイの鎖へ吸い込まれていく。
「食べた」
メイの鎖の先が、満足したように小さく揺れた。
《探索者レベルが上昇しました》
《126→129》
《スキルオーブを獲得しました》
《スキル:木工 NEW Lv1》
澪は表示を見た。
「木工」
しばらく黙る。
「木、削る?」
メイの鎖が、ちり、と鳴った。
「いらない?」
鎖が少し沈む。
「じゃあ、しまう」
澪はスキルオーブと黒い板状の核、周囲に残った鏡片を《黒胎袋》へ入れた。鏡片は袋の中でかすかに光ったが、澪は気にしない。袋ごとインベントリへしまう。
『終わった』
『木工って言った?』
『今、木工って言った?』
『第二層第九環ボスの報酬で木工?』
『ハズレにもほどがある』
『いや木工も極めたらすごいかもしれないだろ』
『第九環で木工するな』
『澪ちゃんが木、削る?って言ったのかわいい』
『メイにすらいらない判定されてて草』
『というか今の短槍食べた?』
『食べたな』
『何億?』
『億で済むか?』
『深層武具だぞ。餌代いくらだよ』
『メイのご飯、国家予算溶ける』
『アークライン本部、今ごろ頭抱えてそう』
『【公式】アークライン配信管理部:ドロップ品の処理については、澪さん本人の判断に基づき実施されています。なお、管理部では現在確認中です』
『確認中=頭抱えてる』
『公式が困ってる時の文面』
『メイ、かわいいけど高い女』
『女なのか?』
『武器だぞ』
『かわいいだろ』
澪は黒樹の奥を見る。
残る大きな反応は、一つ。
前に倒した黒樹龍の場所だ。
けれど、胸の奥の繋がりがまた揺れた。
まだ切れてはいない。
朱音は生きている。
澪はその場で少しだけ立ち止まった。
第一層第九環。
朱音は鐘骸鳥の前で、三度目の槍を構えていた。
一度目は喉を貫かれた。
二度目は少しだけ長くもった。鐘の音に合わせて防壁を厚くしたが、肺を潰される前に足が止まり、翼の骨で胴を裂かれた。澪が来た。戻した。血を吐きながら「まだ早い」と言った。
三度目は、もっと長く立っている。
鐘が鳴る。
朱音は息を止めない。止めると肺を持っていかれる。鐘の音を聞きにいくのではなく、足裏で受ける。久遠の言葉を思い出す。突く前の足。重心。引く場所。相手の首を見ない。翼の付け根を見る。
鐘骸鳥が跳ぶ。
斜め上。
見えた。
朱音は槍を上げず、半歩横へずれた。骨の嘴が肩をかすめる。痛い。けれど喉は空いていない。防壁を薄く、前ではなく足元に置く。翼の骨が床を叩き、跳ね返る角度がわずかにずれた。
「今」
朱音は槍を突いた。
穂先が、鐘骸鳥の胸の釣鐘をかすめた。
傷ではない。
触れただけ。
けれど、音が乱れた。
鐘骸鳥が初めて首を傾ける。
朱音の胸に、ほんの小さな熱が灯った。
やれる。
そう思った瞬間、鐘骸鳥の胸の奥から二つ目の音が鳴った。
内側。
今度は外からではない。防壁の外でも、耳でもない。朱音の魔力の中で鐘が鳴った。血管が震え、指先が開く。槍を握る力が抜ける。
白い骨の翼が、朱音の胸を斜めに裂いた。
朱音は倒れた。
空が見える。
薄い白の空。
また、死ぬ。
そう思った時、澪の口元の血が頭に浮かんだ。
早く死ぬと、痛い。
澪の声。
朱音は、まだ動く左手で槍の柄を握った。
死ぬ直前、槍先がもう一度だけ鐘へ触れた。
そこで意識が切れた。
第二層第九環。
澪の胸の奥で、繋がりが切れた。
「朱音先輩」
澪は黒緑葬鏡の残骸の上から消えた。
画面には黒い鏡片が跳ね、メイの鎖が横切った。配信管理部の処理が走り、視界は黒緑の霞へ埋もれる。
『また視界悪い』
『鏡片の反射?』
『危険映像フィルター多くない?』
『第二層九環だからなあ』
『今の間、澪ちゃんどこ行った?』
『画面見えないだけで動いてるんだろ』
『この配信、見えてても分からん』
『公式、今回やけに無言だな』
『公式が無言の時はだいたいやばい』
第一層第九環。
澪は朱音の横へ落ちるように現れた。
今度は鐘骸鳥が近かった。胸の鐘が鳴る。澪の耳にも、心臓にも、骨にも触れる音だった。メイの鎖が即座に広がり、鐘骸鳥を押し返す。けれど、やはり殺さない。遠ざけるだけ。
澪は朱音の胸元に手を置いた。
死んでいる。
だが、槍先は鐘骸鳥の胸を向いていた。
「触った」
澪は小さく言う。
それから、朱音を戻した。
痛みは慣れない。
何度やっても、慣れない。
心臓が潰れる。喉が裂ける。胃の奥から血がこみ上げる。視界が白く欠ける。朱音の傷が塞がり、胸が上下し始めるまで、澪は息を止めて耐えた。
朱音が息を吸う。
「っ……澪」
「少し、長い」
「……うん」
「鐘、触った」
「見えた?」
「見えた」
「次、もっと触る」
「うん」
朱音は起き上がった。
医療班から停止指示は来ていない。朱音も終了を望まない。なら、再開する。
澪は口元の血をマシロに拭われながら、朱音を見た。
「朱音先輩」
「なに?」
「今の、よかった」
「……ほんと?」
「うん」
朱音は泣きそうになった。
けれど泣く時間はない。
鐘骸鳥が、遠くで翼を広げている。
澪はもう一度だけ朱音を見て、第二層へ戻った。
朱音は槍を構えた。
今度は胸の鐘だけを見るのではない。音がどこで鳴るのかを見る。外側の鐘。内側の鐘。防壁の位置。槍の角度。久遠の足。澪の血。
全部を一つずつ、身体の中に置く。
鐘骸鳥が鳴いた。
朱音は進んだ。
第二層第九環。
澪は黒樹龍がいた場所へ戻っていた。
前に倒したはずの場所には、黒い森が盛り上がっていた。龍の骨はない。代わりに、黒樹そのものが龍の形を作っている。幹が胴になり、根が爪になり、枝が角になっていた。以前の黒樹龍より、輪郭が曖昧だった。生き物というより、森が一時的に龍の形を思い出しているように見える。
視界に表示が浮かぶ。
《黒樹龍・再胎個体》
「黒樹龍・再胎個体」
澪は少しだけ目を細めた。
「また」
黒樹龍が咆哮した。
前回より速いわけではない。前回より大きいわけでもない。ただ、傷が閉じる。澪の斬撃が胴を裂いた瞬間、裂け目から黒緑の樹液が溢れ、内側から根が縫い直した。首を落としても、切断面から新しい芽が出る。爪を砕いても、地面の根が持ち上がって新しい爪になる。
倒しにくい。
ただ、それだけでひどく厄介だった。
『黒樹龍?』
『再戦?』
『前のやつと違う?』
『輪郭が森じゃん』
『黒樹龍・再胎個体って聞こえた』
『再胎ってなに』
『また生まれたってこと?』
『やめて』
『さっきまでの二体より明らかに空気重い』
『第二層第九環最強格の再発生か』
『澪ちゃん、またって言った?』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】This individual appears less like a dragon and more like a forest temporarily taking a dragon’s shape. Killing the shape may not be enough.(この個体は龍というより、森が一時的に龍の形を取っているように見えます。形を殺すだけでは足りないかもしれません)』
『海外解説ニキの言い方が毎回怖い』
『形を殺すだけでは足りない、最悪』
『澪ちゃんでも面倒そう』
澪は鎌を振る。
黒樹龍の首が落ちる。
落ちた首から根が伸び、地面に潜ろうとする。メイの鎖がそれを絡め取り、刃が根の芯を削る。胴の裂け目はもう塞がりかけている。マシロが飛んできた樹液を受け、白い布の内側で腐敗を押し返す。
澪は一歩下がった。
「再生、多い」
黒樹龍が再び形を整える。
その時、第一層第九環でまた繋がりが切れた。
澪は息を吐いた。
「忙しい」
次の瞬間、澪は消えた。
空葬原では、朱音がまた倒れていた。
今度は喉ではない。胸でもない。鐘骸鳥の翼を避け、鐘へ槍を入れ、二度目の音まで耐えた。その後、背後へ回った骨の尾に脊椎を砕かれていた。
死んでいる。
けれど、鐘骸鳥の胸の鐘にははっきり傷が入っていた。
澪はそれを見た。
「傷、増えた」
そして朱音を戻す。
痛みが走る。
血が落ちる。
朱音の身体が息を取り戻す。
「……まだ、やる」
朱音が目を開けてすぐ言った。
「うん」
「次、尾も見る」
「うん」
「澪、痛い?」
「痛い」
「ごめんね」
「勝つから、いい」
「……うん。勝つ」
朱音は立った。
終わらない。
終わらせない。
鐘骸鳥が鳴く。朱音は槍を構える。澪は黒樹龍の元へ戻る。
表では、黒樹龍・再胎個体との戦闘が続いていた。視聴者には、澪が何度も黒樹龍を裂いているように見える。間に挟まる視界不良は、黒樹龍の再生樹液と根の濁流に見えた。榊原主任の処理は、限界に近い。
澪は戻るたびに黒樹龍を斬った。
首を落とす。
根を断つ。
樹液の流れを止める。
再生の芯を探す。
黒樹龍は何度も形を戻した。だが、澪は戻るたびに少しずつ芯へ近づく。再生は無限ではない。森全体が龍の形を保つために、どこかに魔力の結び目がある。
途中、黒樹龍の腹から細長い剣が落ちた。
黒い根に包まれた、樹液の刃。
メイの鎖が、また伸びる。
「また、いる?」
鎖が鳴った。
澪は剣を拾い、少しだけ見た。深層武具。普通なら鑑定班が騒ぐもの。けれど、メイは欲しがっている。
「いいよ」
澪が剣を放る。
メイの鎖が柄を絡め取り、刃が刃に触れた。黒い剣は抵抗するように震え、樹液の筋を伸ばした。だが、メイの刃が一度走ると、剣の輪郭が欠ける。二度目で刃文が消え、三度目で樹液の魔力が鎖へ流れ込んだ。
剣は崩れた。
メイの鎖が、少しだけ重く揺れる。
「食べた」
『また食べた!?』
『待て待て待て』
『今の剣もドロップ装備だよな?』
『いくら?』
『いくら分の餌代だよ』
『メイのご飯代、国が傾く』
『アークライン本部、絶対頭抱えてる』
『澪ちゃん、いいよじゃないんだよ』
『深層武具をおやつにするな』
『メイが欲しがったなら仕方ない』
『仕方なくない』
『【公式】アークライン配信管理部:ドロップ装備の扱いについて、現在確認と記録を進めています』
『確認と記録=止められなかった』
『本部の悲鳴が聞こえる』
『メイ、かわいいけど高すぎる』
澪はコメントを見ていない。
再生の結び目を見つけたのは、黒樹龍が七度目に首を戻した時だった。
澪は龍の胸ではなく、背中の根束を見た。
「そこ」
メイの鎖が根束を押さえる。マシロが樹液を受け止める。澪は鎌を逆手に持ち、黒樹龍の背に飛んだ。龍が咆哮し、森が閉じる。枝が澪の身体を刺そうとする。
澪は間に合う。
鎌の刃が、根束の中心を貫いた。
黒樹龍・再胎個体の再生が止まった。
次の斬撃で、胴が裂ける。
その次で、首が落ちる。
最後に、森が龍の形を忘れた。
黒樹龍は崩れた。
《探索者レベルが上昇しました》
《129→131》
《スキルオーブは既に獲得済みです》
《同一個体系列のため、再取得はありません》
澪は表示を見た。
「上がった」
「でも、少し」
黒樹龍の残骸から、黒い樹液と大きな魔石、再胎個体特有の根束が残る。澪はそれらを《黒胎袋》へ突っ込み、インベントリへしまった。メイの鎖が少し不満そうに鳴る。
「メイ、あとで」
鎖が揺れた。
「白鯨、食べる?」
鎖が明らかに元気になった。
「じゃあ、帰り」
コメント欄は黒樹龍の崩壊に沸いていた。
『倒した』
『再生止めた?』
『黒樹龍、再戦でもこれか』
『いや時間かかってたぞ』
『かかってたけど、澪ちゃんが淡々としすぎて分からん』
『レベル上がった?』
『上がったって言った』
『でも少し、って言った?』
『第二層第九環でも上がりにくくなってるのか』
『もうどこで上げるんだよ』
『第三層?』
『やめろ』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】If her growth has slowed here, then the second layer’s ninth ring may no longer be sufficient for her advancement.(ここで成長が鈍っているなら、第二層第九環はもはや彼女の成長に十分ではないのかもしれません)』
『海外解説ニキ、第三層を見てる?』
『見ないで』
『澪ちゃんが帰りって言った』
『メイのご飯タイム?』
『白鯨の気配を感じる』
『白鯨がご飯扱いされる時代』
澪は黒樹龍の崩れた跡に立ち、しばらく周囲を見た。
第二層第九環は、まだ危険な場所だった。
普通の探索者なら、一歩踏み込むだけで死ぬ。黒樹の胞子、胎種の根、樹液の腐敗、再生する森。どれも、人間の場所ではない。
けれど、澪のレベルは上がりにくくなっていた。
「上がらない」
澪は言った。
「帰る」
その瞬間、胸の奥の繋がりが強く震えた。
まだ切れていない。
切れてはいないが、朱音が限界に近い。
澪は空葬原へ向かった。
第一層第九環。
朱音は立っていた。
血だらけだった。
防具は裂け、腕は折れかけ、髪には白い骨粉がついている。何度も死に、何度も戻され、何度も立った。そのたびに鐘骸鳥の胸の鐘には傷が増えた。今、鐘骸鳥は片翼を失い、胸の鐘を半分砕かれている。
朱音も限界だった。
けれど、目は折れていない。
鐘骸鳥が鳴く。
朱音は動いた。
防壁を前に置かない。自分の周囲に薄く広げる。鐘の音を止めるのではなく、鈍らせる。槍を突く前に足を直す。久遠の声。澪の血。自分が倒れた回数。救助対象者を守って死んだ時の、足りなかった感覚。
もう、足りないままでは終われない。
朱音の足元に、淡い光が広がった。
防壁ではない。
壁ではない。
円だった。
朱音を中心に、白く薄い光が地面を走る。半径はまだ広くない。十メートルにも満たない。けれど、その内側に入った瞬間、空気が変わった。朱音の傷口から流れていた血が止まる。折れかけていた腕に、熱が戻る。鐘骸鳥の胸の鐘が鳴ろうとして、音が濁った。
鳥の骨に、白い焦げ跡が走った。
朱音はそれを見た。
自分の中に、何かが開いた感覚があった。
《ユニークスキル》
《聖域 NEW》
朱音にだけ、文字が見えた。
朱音は息を吸った。
鐘骸鳥が飛ぶ。
遅い。
初めて、そう思った。
朱音は槍を突き出した。
穂先が、砕けかけた鐘の中心を貫いた。
音が割れる。
鐘骸鳥の胸が砕け、白骨の翼が空中でほどけた。骨の鳥は悲鳴も上げず、鐘の破片と骨粉になって崩れ落ちる。
朱音は槍を支えにして、立っていた。
息が荒い。
足が震えている。
それでも、立っていた。
白い光の円は、まだ足元に残っている。
澪は少し離れた場所に立って、それを見ていた。
「出た」
「……澪」
「朱音先輩の」
「これ、なに」
「きれい」
朱音は笑おうとして、うまく笑えなかった。
医療班と観測班が、本部で騒ぎ始めている。アークラインの秘匿端末が警告音を鳴らし、佐伯の声が通信越しに何かを指示していた。
朱音は足元の光を見る。
防壁ではない。
守る場所。
誰かを立たせる場所。
敵を弱らせ、味方を戻す場所。
朱音は槍を握り直した。
「勝った」
「うん」
「澪」
「なに」
「もう、今日は死なない」
「うん」
澪は口元の乾いた血を拭った。
「帰る」
「うん」
「メイのご飯、取る」
「……今から?」
「帰り道」
「白鯨?」
「うん」
メイの鎖が、澪の足元で嬉しそうに鳴った。
朱音は疲れきった顔で、それでも少しだけ笑った。
「白鯨が、帰り道のご飯になってる」
「メイ、食べる」
「そうだね」
「朱音先輩も、帰る」
「うん。帰ろう」
空葬原の白い風が吹いた。
《Tips》
黒緑葬鏡の倒し方。鏡を見たら基本死にます。なので視界に入らないように煙幕をたきましょう!




