第十話 弱い
探索者高校を出たあと、朱音は少しだけ静かだった。
護衛車の窓の外を、校舎の塀と協会支部の看板が流れていく。午後の光はまだ高く、街路樹の葉が白く光っていた。澪は隣の席で膝の上に手を置き、朱音の横顔を見ていた。久遠に木槍で喉元を止められた時の朱音。参りました、と素直に頭を下げた朱音。悔しさを隠しきれなかった朱音。
車内にはアークラインの護衛と朱音と澪だけがいた。配信は切れている。遅延配信の終了処理も終わり、今この車内に世界の目はない。
「朱音先輩」
「ん?」
「弱い」
朱音の指が、膝の上で止まった。
護衛席の職員も、前を向いたままほんの少し息を止める。澪の声は冷たくなかった。責める調子でも、怒っている調子でもない。ただ、窓の外に雨が降っていると言うのと同じくらいの平坦さで、事実を置いた。
「……澪」
「久遠先生に負けた」
「うん」
「白鯨で死んだ」
「……うん」
「救助対象者、守って死んだ」
「うん」
「私がいないと、戻らなかった」
「うん」
「だから、弱い」
朱音は反論しなかった。
できなかった。
久遠との手合わせは、言い訳できるものではなかった。レベルがどうとか、体調がどうとか、そういう話ではない。構える前から負けていた。踏み込む前に間合いを潰され、守る前に崩されていた。白鯨の時も同じだ。救助対象者を守りたかった。防壁を張った。けれど足りなかった。足りなかったから、死んだ。
朱音は自分の胸元に手を置いた。
あの時、穴が空いていた場所。今は傷一つない。痛みもない。けれど、死んだという事実だけは消えなかった。
「……そうだね」
朱音は小さく言った。
「私、弱いね」
澪はその声を聞いて、少しだけ首を傾げた。
「強くする」
「澪が?」
「うん」
「どうやって?」
「死ぬ」
「……え?」
「勝つまで」
「待って」
朱音が顔を上げる。さすがに声が揺れた。
「澪、今なんて言った?」
「死ぬ。戻す。戦う」
「それは訓練って言わない」
「言う」
「普通は言わないよ」
「普通じゃない」
「それは、そうだけど」
朱音は額に手を当てた。
護衛席から、職員が端末を確認する音がした。たぶん、今の会話は管理部へ送られている。送らない方がおかしい。七瀬朱音に死亡前提の訓練をさせる。そんな話を、車内で終わらせられるわけがない。
「澪。まずアークラインに戻ろう」
「戻ってる」
「そうじゃなくて、戻ってからちゃんと話す。佐伯さんたちにも聞く。私だけで決められる話じゃない」
「朱音先輩が決める」
「私も決める。でも、澪も痛いでしょ」
澪の視線が、ほんの少しだけ朱音から外れた。
「痛い」
「だったら」
「でも、朱音先輩が死ぬ方が嫌」
「……」
朱音は言葉を失った。
澪はいつも通りだった。いつも通り、短く、淡く、ひどく真っ直ぐだった。死ぬことを訓練に含める異常さも、自分が何度も痛みに沈むことも、全部理解している。その上で、朱音がまた死ぬよりはいいと思っている。
優しいとは違う。
甘いとも違う。
けれど、澪にとってそれは、大切なものを失わないための一番近い道だった。
アークライン本部に着くと、佐伯はすでに待っていた。
地下訓練区画ではなく、医療班の会議室だった。白い壁、消毒液の匂い、厚い防音扉。机の上には端末が並び、神楽坂とミナト、医療班の主任、配信管理部の榊原主任までいる。車内会話の共有があったのだろう。全員の顔が、だいたい同じ方向に重かった。
「澪さん」
佐伯が言う。
「車内での発言について確認します。七瀬さんに、死亡を前提とした戦闘訓練を行わせるつもりですか」
「うん」
「場所は」
「第一層第九環」
「白鯨や番犬ではありませんね」
「鐘の鳥」
「……鐘骸鳥ですか」
医療班主任が眉を寄せた。
「第一層第九環のボス級個体ですね。番犬や白鯨より下とはいえ、一般的な上級探索者から見れば十分に異常個体です」
「弱い方」
「澪さんの基準で言えば、です」
佐伯の声は静かだったが、目は笑っていない。
「これは訓練ではありません。死亡を工程に含めた極限試験です」
「訓練」
「表に出せば、そう呼ぶことは絶対に許されません」
「出さない」
「配信は当然禁止。記録も最上位秘匿。参加者は最低限。七瀬さん本人の同意、澪さんの状態監視、医療班常駐、緊急停止権限。そこまで揃えても、許可できると言い切れません」
神楽坂が腕を組んだ。
「澪ちゃんが横で見てるのは?」
「だめ」
澪が即答した。
「いると、訓練にならない」
「分かってるじゃない」
「朱音先輩、甘える」
「澪が言うと刺さるね」
「たぶん」
朱音は否定しなかった。澪が隣にいれば、死ぬ前に澪が助ける。澪が何もしなくても、朱音のどこかにその安心が残る。それでは、意味がない。
「死んだら?」
神楽坂が聞く。
「戻る」
「どこから」
「第二層第九環」
「そこで何してる?」
「ボス、狩る」
「配信しながら?」
「うん」
室内が静かになった。
澪の中では、もう手順ができているのだろう。朱音が第一層第九環で鐘骸鳥と一人で戦う。澪はその間、第二層第九環で残りのボス級個体を討伐し、素材を回収し、配信も続ける。朱音が死んだ時だけ、澪が戻る。戻して、また第二層へ行く。
狂っている。
けれど、澪が横に張りつかないという点だけは、訓練として正しい。
「澪さん」
佐伯が言った。
「七瀬さんが死亡したことを、あなたは確実に把握できるのですね」
「分かる」
「理由は」
「言わない」
「記録にも残さない方がいい内容ですか」
「うん」
佐伯は一度だけ目を閉じた。
「分かりました。そこは追及しません」
榊原主任が低く言う。
「表配信と並行するなら、映像管理はこちらで行います。ただし、不自然な途切れは必ず出ます。澪さんが一瞬消えるだけでも、視聴者は気づきます」
「気づく?」
「気づきます。あなたの視聴者は、だいたいおかしいので」
「うむ」
「褒めていません」
ミナトが苦い顔で笑った。
「榊原さん、隠しきれないなら第二層第九環側の視界不良で誤魔化すしかないですね。黒樹の霧、根の陰、マシロの防御反応、メイの捕食。理由はいくらでも作れます」
「作れますが、何度もやればログで見えます」
「何度もやる前提だよね?」
神楽坂が朱音を見た。
「七瀬さん。あなたはどうするの」
朱音はずっと黙っていた。
澪に弱いと言われた。死ぬと言われた。勝つまで、と言われた。普通なら止める。朱音が止めるべきだ。澪が苦しむ。あの蘇生の痛みを、朱音は見ている。吐血して、呼吸が止まりかけて、胸の奥で何かが潰れるように苦しむ澪を見ている。
だからこそ、朱音は言葉を選ばなければならなかった。
「私は」
朱音は膝の上で手を握った。
「強くなりたいです」
佐伯は朱音を見た。
「七瀬さん。これは通常の強化訓練ではありません」
「分かっています」
「あなたは何度も死ぬ可能性があります」
「分かっています」
「それを戻すたびに、澪さんに激しい負荷がかかります」
「……分かっています」
朱音の声がそこで少しだけ揺れた。
「だから、早く死なないようになります」
「七瀬さん」
「一回でも少なくする。澪に痛い思いをさせないために、死なない時間を伸ばします。最初は、たぶん無理です。でも、やります」
澪は朱音を見ていた。
「朱音先輩」
「何?」
「死ぬの、減らす」
「うん。減らす」
「勝つ」
「勝つ」
「じゃあ、行く」
佐伯が深く息を吐いた。
「許可、ではありません。管理下での試験実施です」
「同じ?」
「違います」
「そう」
「違うという点は、必ず理解してください」
佐伯は端末へ指示を飛ばした。医療班、転移座標管理、第一層第九環への非公開突入申請、配信管理部、探索者協会への秘匿連絡。人が動き始める音が、会議室の外から広がっていく。
「条件を確認します。七瀬さんは第一層第九環に単独突入。対象は鐘骸鳥。メイ、マシロ、澪さんの直接戦闘介入は禁止。澪さんは同行しません。観測班は本部から記録しますが、戦闘支援は行いません。七瀬さんが死亡した場合のみ、澪さんが回収および蘇生を行う。蘇生後、七瀬さん本人が終了を希望した場合のみ停止。医療班による強制停止判断も認めます」
「うん」
「澪さんはその間、第二層第九環で配信を継続。討伐対象はアークライン側で指定します」
「指定?」
「標準簡易鑑定で確認してください。未確認個体名を口頭で読み上げれば、こちらで記録します」
「うん」
「危険度が想定を超えた場合は即時中止」
「倒す」
「聞いてください」
「聞いてる」
佐伯は眉間を押さえた。
「死亡回数は」
「勝つまで」
「上限を設けます」
「勝つまで」
「澪さん」
「勝つまで」
佐伯は澪の目を見た。
澪は譲らなかった。
神楽坂が肩をすくめる。
「上限を決めても、現場でこの子が破るだけですよ。だったら、医療班の停止判断を強くした方がいい」
「澪さんの状態が危険域に入った時点で中止」
「私、大丈夫」
「大丈夫ではないから決めています」
朱音が澪の袖を掴んだ。
「澪。そこは守って」
「……」
「私が強くなるために、澪が壊れたら意味がない」
「壊れない」
「それでも。お願い」
澪は少しだけ朱音を見上げて、短く頷いた。
「うん」
出発準備は早かった。
アークラインの地下転送区画は、普段より人が少ない。余計な職員を排除し、通路の一部は封鎖されていた。朱音は学校から戻ったままの服ではなく、アークライン支給の戦闘装備に着替えていた。槍は訓練用ではない。本人が使い慣れた本物。ただし、予備の防具と緊急治療符は最低限だけ。余計な支援品は持たされなかった。
澪は白い装束のままだった。
メイは出ていない。マシロも静かに澪の輪郭を保っている。朱音の目には、それが少しだけ心細く見えた。澪が隣に立っていない戦場へ行く。澪が見ていない場所で死ぬ。死んだら、澪が来る。
嫌な訓練だと思った。
けれど、それくらいでなければ、たぶん変わらない。
「朱音先輩」
「うん」
「早く死ぬと、痛い」
「……澪が?」
「うん」
「じゃあ、早く死なない」
「うん」
「でも、最初はたぶん無理」
「うん」
「小言、言う?」
「言う」
「分かった。なるべく言われないようにする」
朱音は槍を握り直した。
佐伯が最後の確認をする。
「七瀬さん、終了判断は」
「私が終了を希望した場合。もしくは医療班が停止判断を出した場合」
「蘇生後に戦闘不能であれば」
「停止」
「蘇生後に意識があり、継続可能であれば」
「即再開」
「よろしい」
佐伯は澪へ視線を移す。
「澪さん、第二層側の配信開始は五分後です。あなたは一度到達済みの安全座標を使って移動してください。映像遅延と環境ノイズはこちらで最大化します」
「うん」
「あなたが移動した瞬間の空白は、こちらで可能な限り処理します。ただし、完全には隠せません」
「隠す?」
「少なくとも、理由を悟らせないようにします」
「うん」
第一層第九環。
空葬原。
死んだ場所に戻る。
朱音は一瞬だけ息を詰めた。白鯨の影。胸を貫かれた感覚。澪の吐血。配信コメントの光。抱きしめた小さな身体。それらが、喉の奥に引っかかる。
「朱音先輩」
澪が言った。
「いってらっしゃい」
「……行ってきます」
数分後、配信が始まった。
第二層第九環。黒い樹々が濡れた皮膚のように絡み合い、根の隙間から黒緑の霞が流れている。空は低く、光は届かない。澪はその中を、白い装束で歩いていた。隣にはメイの鎖が低く這い、マシロの裾が根の汚れを拒んで白く揺れる。
視聴者には、いつも通りの九環配信に見えた。
『第二層第九環きた』
『学校回のあとに深層配信?』
『移動が早い』
『善は急げにもほどがある』
『澪ちゃん、休むという概念ある?』
『ない』
『メイ静かだな』
『マシロ白すぎて黒樹の中で目立つ』
『今日の討伐対象なに?』
『残りボス狩りって告知出てる』
『残りボスを散歩感覚で言うな』
『【公式】アークライン配信管理部:本配信は第二層第九環における未回収ボス級個体の討伐および素材回収を目的としています。危険区域につき、一般探索者の模倣侵入は絶対にお控えください』
『公式の絶対にが強い』
『控える以前に入れません』
『入れたら死にます』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】Her movement through the ninth ring is unusually direct. She is no longer searching for routes; she is selecting them.(彼女の第九環での移動は異常なほど直線的です。もはや経路を探しているのではなく、選んでいます)』
『海外解説ニキ、言い方が怖い』
『道を探すんじゃなくて選ぶ、か』
『九環の散歩、概念が違う』
澪はコメントを見なかった。
一度踏んだ根の裂け目、一度抜けた黒樹の空洞、一度血を流した黒緑の谷。そこへ向かうのに、今の澪は迷わない。景色が畳まれ、根の影が変わり、次の瞬間には別の黒樹の前にいる。視聴者には、幹の陰を抜けたようにしか見えない。だが距離だけが合わなかった。
『今飛んだ?』
『視界切り替わった?』
『根の陰に入っただけ?』
『いや距離おかしい』
『第二層九環で距離おかしいは今更』
『編集じゃないんだよな』
『配信遅延あるから分からん』
『分からんけどおかしい』
『おかしいことだけ分かる』
澪は黒い森の奥で足を止めた。
そこには、庭が浮いていた。
地面から生えているのではない。空中に逆さまの庭が吊られている。黒い根が天井のように絡み、そこから白い繭が無数に垂れ下がっていた。繭の中では、人でも獣でもない小さな影が丸くなっている。根の隙間から黒緑の樹液が落ち、地面に触れると柔らかい膜になった。足場が皮膚のように息をしている。
簡易鑑定が、薄く反応した。
澪は表示を読んだ。
「胎庭の揺籃樹」
名前を口にした瞬間、逆さまの庭が震えた。
枝の先の繭が一つ割れた。落ちてきたのは、未完成の樹人だった。顔の位置に白い膜があり、腕の代わりに根がある。胸元には胎嚢のような膨らみが脈打っていた。続いて二つ、三つ、十数個。繭が割れ、未完成の守り手が地面へ落ちる。
普通の探索者なら、そこで陣形を組む。
前衛が受け、後衛が焼き、状態異常担当が胞子を払う。そうしなければ、足場に取り込まれる。胞子を吸った傷口から根が生える。逃げようとした足を、柔らかい地面が呑む。
澪は鎌を引いた。
「倒す」
胎庭の揺籃樹が、森ごと閉じた。
同じ頃、第一層第九環の空葬原では、朱音が白い骨の丘を踏んでいた。
空は薄く、風は乾いている。空葬草原。遠くで鳴る鐘のような音。朱音の正面に、鐘骸鳥がいた。
骨だけの大きな鳥だった。
翼は薄い白骨が何枚も重なり、胸の奥に釣鐘のような器官が吊られている。首は長く、顔は鳥というより仮面に近い。羽ばたくたびに、胸の鐘が鳴る。その音は耳ではなく、肺と心臓に響いた。
観測班は遠い。医療班も、アークラインの管理端末も、安全圏の外にいる。戦うのは朱音一人。
「……行く」
朱音は槍を構えた。
久遠の木槍を思い出す。踏み込む前の足。突く前の重心。間合いに入る前に、相手の逃げ道を消す。頭では分かっている。分かっているのに、鐘が鳴った瞬間、身体がわずかに硬くなった。
鐘骸鳥が消えた。
違う。跳んだ。
白い翼が斜め上から降る。朱音は防壁を張り、槍を上げた。間に合った、と思った。次の瞬間、鐘の音が防壁の内側で鳴った。
肺が潰れた。
足が止まる。
その一拍で、骨の嘴が朱音の喉を貫いた。
朱音は声も出せずに倒れた。
第二層第九環。
澪の鎌が未完成の樹人をまとめて裂いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。
音ではない。
痛みでもない。
ただ、繋がっていたものがぷつりと千切れる感覚。
澪の目が細くなる。
「朱音先輩」
次の瞬間、澪の姿が黒樹の庭から消えた。
配信画面は、黒い根とメイの鎖で一瞬だけ埋まった。榊原主任が用意していた遅延処理が走り、視界はマシロの白い裾に切り替わる。視聴者には、根の濁流を避けたように見えた。少なくとも、そう見せるための処理だった。
『今のなに?』
『根に飲まれた?』
『メイが画面塞いだ』
『マシロ防御?』
『ボスの攻撃かな』
『一瞬見えなかった』
『第二層第九環こわ』
『画面処理入った?』
『危険映像フィルターじゃない?』
『公式、今のなに?』
公式は答えなかった。
第一層第九環。
朱音の身体は骨の草に倒れていた。喉が破れ、胸の奥まで血が落ちている。鐘骸鳥は少し離れた場所で、首を傾けていた。獲物がもう動かないことを確かめるように。
白い光が、朱音の傍に落ちた。
澪が現れる。
鐘骸鳥が反応するより早く、メイの鎖が周囲の骨を噛み砕き、鳥を遠くへ弾いた。けれど追撃はしない。倒すためではない。ここで澪が倒したら、訓練にならない。
澪は朱音の隣に膝をついた。
死んでいる。
喉の穴。止まった呼吸。薄く開いた目。澪はそれを見て、迷わなかった。
「戻す」
胸の奥が潰れた。
心臓を握り潰されるような力が、澪の身体を内側から折った。喉の奥に血が上がる。肋骨の内側で何かが裂け、再生し、また裂ける。澪は朱音の身体に手を置いたまま、声を殺した。
白い指が震える。
口元から血が落ちる。
それでも朱音の喉が塞がり、胸が上下し、止まっていた心臓が動き出す。
「っ、は……!」
朱音が息を吸った。
最初に見たのは、澪の口元の血だった。
「澪……」
「死ぬの、早い」
澪は少しだけ眉を寄せて、そう言った。
小言だった。
怒っているわけではない。呆れているわけでもない。ただ、早かったから早いと言った。それだけの言葉が、朱音にはひどく刺さった。
「……ごめん」
「立てる?」
「立てる」
朱音は震える手で槍を拾った。
終了を希望すれば、終わる。そう決められている。医療班が止めれば、終わる。けれど、朱音はその言葉を口にしなかった。
まだ喉の奥に、死んだ感覚が残っている。鐘の音が肺に残っている。澪の血の匂いが鼻に残っている。それでも立たなければならなかった。早く死ねば、澪が痛い。長く生きれば、澪が痛む回数は減る。勝てば、もっと減る。
澪は血を拭い、立ち上がった。
「行く」
「第二層?」
「うん」
「澪」
「なに」
「次は、もう少し粘る」
「うん」
澪の姿が消えた。
朱音は一人、空葬原に残された。
遠くで鐘骸鳥が翼を広げる。胸の鐘が揺れる。
朱音は槍を構え直した。
さっきより、半歩だけ足を引く。
久遠の声が、耳の奥で蘇る。
突く前の足を直せ。
朱音は息を吸った。
「もう一回」
第二層第九環の配信では、澪が胎庭の揺籃樹の前へ戻っていた。
視聴者には、ほんの数秒の視界不良にしか見えていない。澪の口元に血は残っていなかった。マシロが拭い、白い装束の内側へ汚れを呑み込んでいた。
逆さまの庭は繭を割り続けている。足場は柔らかく沈み、黒緑の胞子が空気を汚す。未完成の樹人が増え、根が澪の足元を包もうとした。
澪は鎌を持ち直した。
「続き」
鎌が振られる。
一撃目で、未完成の樹人がまとめて消えた。
二撃目で、足場の膜が剥がれた。
三撃目で、逆さまの庭を支えていた根が見えた。
胎庭の揺籃樹が、そこで初めて悲鳴のような音を出した。黒樹の森が閉じ、白い繭が一斉に割れる。数えきれない根が澪の身体へ伸び、傷口から侵入しようとした。
澪は避けなかった。
マシロが白く膨らみ、根を拒んだ。メイが低く唸り、伸びた根を噛み千切る。澪はその中央を歩く。簡単そうに見える。けれど、根の一本でも通せば身体の内側から樹にされる。胞子を一息でも深く吸えば、肺が黒い苗床になる。普通の探索者なら、一歩ごとに死んでいる。
澪は、中心だけを見ていた。
逆さまの幹の奥。空洞の中に、胎児のような樹核がある。眠っているように丸まり、黒緑の樹液を脈打たせている。あれを残せば、庭はまた閉じる。
「そこ」
澪の足元が消えた。
次の瞬間、澪は逆さまの庭の内側にいた。既に一度、似た根の空洞を抜けたことがある。なら、届く。足場が上なのか下なのか分からない空間で、澪は壁を蹴り、鎌を振り抜いた。
樹核が裂けた。
黒緑の樹液が雨のように落ちる。
繭が全て萎み、未完成の樹人たちが泥のように崩れた。逆さまの庭は音もなく落下し、地面に触れる前に灰になった。
《探索者レベルが上昇しました》
《120→126》
《スキルオーブを獲得しました》
《剣術を獲得しました。剣術が統合されました》
《武芸の心得 Lv7》
澪の視界にだけ、文字が浮かぶ。
澪はそれを少し眺めた。
「上がった」
「武芸」
コメント欄は、文字の内容までは分からない。ただ、澪がボスを倒し、何かを得たことだけは分かった。
『終わった?』
『終わるの早くない?』
『早く見えるだけで今の普通に無理だろ』
『根に触れたらアウトっぽかった』
『繭から出てきたやつ何?』
『分からん。分からんけどキモい』
『胎庭の揺籃樹、名前が怖すぎる』
『第二層第九環の名前、全部嫌』
『澪ちゃん、上がったって言った?』
『レベル?』
『武芸って聞こえた?』
『剣術じゃなくて武芸?』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】It looked simple because she moved directly to the core. For most explorers, the battlefield itself would have been the enemy.(彼女が中核へ直行したため簡単に見えました。ほとんどの探索者にとっては、戦場そのものが敵になっていたはずです)』
『海外解説ニキの補足で逆に怖くなる』
『戦場そのものが敵、わかる』
『第二層九環、やっぱり人間の行く場所じゃない』
澪は崩れた庭の跡から、黒緑の魔石とスキルオーブを拾った。マシロが周囲の樹液を白い布で包み、メイが残った根を不満そうに噛む。
「メイ、あと」
鎖がかすかに揺れた。
「次、行く」
澪は黒樹の奥を見た。
第二層第九環には、まだ残りがいる。
そして第一層第九環では、朱音が鐘骸鳥の前に立っている。
澪は一度だけ、胸の奥の繋がりを確かめた。
まだ、切れていない。
「じゃあ、次」
白い影が、黒緑の霞の中へ消えた。
《Tips》
胎庭の揺籃樹の倒し方。
超高火力による短期決戦です。油断していれば澪でも苗床になります。死なないため最高の栄養源ですね。
朱音のブートキャンプ編です。




