第九話 母校
翌朝、九環フライパンは七瀬家の台所に置かれていた。
黒い取っ手。底面の小さな九環ロゴ。猫の足跡のような刻印。世界中のサーバーを何度も落とした試作品を前に、結衣は袖をまくり、澪は椅子に座ってじっと見ていた。
「本当に私が最初でいいの?」
「結衣ちゃん、作る」
「昨日そう言ったけど、これ世界中の人が待ってるやつなんだよね」
「卵焼き」
「澪ちゃんの中では卵焼きなんだ」
「うん」
結衣が卵液を流す。じゅ、と小さな音がして、黄色が薄く広がった。朱音は横から火加減だけ見ている。手は出さない。
「焦げそう?」
「大丈夫。火、強くない」
「お姉ちゃん、手出さないでね!?」
「出してないよ」
「目が出してる!」
「…目は許して」
結衣は少しだけ緊張しながら卵を巻いた。形は完璧ではない。端が少し曲がり、真ん中がふくらんだ。それでも皿に乗ると、ちゃんと卵焼きだった。
澪はそれを見た。
「できた」
「できた。味は保証しないけど」
「食べる」
「あれ、最初は見るんじゃなかったの?」
「二回目」
「今ので二回目扱い?」
「うん」
「判定ゆるいね」
澪は卵焼きを一切れ食べた。
「おいしい」
「ほんと?」
「うん」
「よかった……世界最速九環フライパン卵焼き、失敗しなかった」
「結衣ちゃん、すごい」
「よし、許す」
朝食はそれくらいで終わった。
結衣は普通科高校の制服に着替え、リビングで鞄の中身を確認していた。教科書、ノート、弁当、水筒。ダンジョン用の帰還符も、魔石ケースも、簡易治療パックもない。代わりに英単語帳と小さなペンケースが入っている。
澪はそれを見ていた。
「学校?」
「うん。学校だよ〜」
「ダンジョン、ない?」
「普通科だからね。体育はあるけど、魔物は出ないよ」
「先生、いる?」
「いるよ。怖い先生も、優しい先生も、宿題多い先生も」
「久遠先生」
「澪ちゃんの先生?」
「顔、怖い」
「それ、覚え方として大丈夫なの?!」
朱音が味噌汁の椀を置き、少しだけ苦笑した。
「久遠先生、怒ってなくても怖い顔だからね」
「怒る」
「怒る時はもっと怖いかな」
「うん、」
「そこで興味出るんだ」
「学校、見たい」
朱音は澪の顔を見て、それから端末を取った。今の澪は探索者高校の生徒ではない。長期未帰還、除籍、帰還後のアークライン所属。普通に登校する立場ではない。けれど、訪問なら話は別だ。
「アークラインに確認するね。学校側にも話を通してもらうから、行けても少しだけ」
「うん」
「あと、高いものを勝手に渡すのは禁止」
「高いもの」
「澪の持ち物、だいたい高いから」
「そう」
「分かってる?」
「たぶん」
「じゃあ、私が止めたら一回待って」
「待つ」
結衣は鞄を肩にかけながら笑った。
「澪ちゃんが母校に戻るの、ニュースになりそう」
「母校」
「一応、そうでしょ?」
「うん」
「久遠先生、びっくりするね」
「顔、怖い?」
「たぶんもっと怖くなる」
「行く」
朱音は佐伯へ短く連絡を入れた。返答は早かった。
『探索者高校訪問は可能です。ただし護衛同行、配信は遅延付き、生徒の顔は映さない設定。寄付や物品譲渡は事前確認をお願いします』
朱音は画面を確認してから、澪へ向き直る。
「行けるって。短時間だけ」
「行く」
「配信は管理付き。あと、何か出す時は私か佐伯さんに確認」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは本当にって言ってほしかったな」
七瀬家を出る時、メイはまたインベントリにしまわれた。昨日ほど派手には抵抗しない。だが、何も鳴らない。何も揺れない。気配だけが重い。
「メイ、静か」
「それ、許してる静かさ?」
「違う」
「やっぱり」
「かなり拗ねてる」
「学校では出せないよ。藤堂先生が喜ぶ前に素材処理室が壊れるから」
「藤堂先生、喜ぶ?」
「たぶんね。壊れても喜びそうなのが怖いところ」
探索者高校は、以前と同じ場所にあった。
協会支部に隣接する校舎。正面玄関の掲示板。実技予定、素材処理講習、帰還符登録更新の注意。校舎奥には訓練場、簡易治療棟、模擬戦フィールド、素材処理室が見える。久しぶりのはずなのに、澪の足は迷わなかった。
校門前には、久遠玲司が立っていた。
背が高く、肩幅があり、顔が怖い。怒っていなくても怖い顔をしている。今はたぶん怒っていない。けれど、久しぶりに見ると、やはり怖かった。
「天瀬」
「久遠先生」
「七瀬」
「ご無沙汰しています」
「生きて戻ったなら、まず顔を見せに来い」
「うん」
「返事だけは相変わらず素直だな」
久遠は澪を上から下まで見た。マシロの白い装束、足運び、目の動き、背筋の揺れ。見るところは昔と変わらない。顔は怖いが、視線は雑ではなかった。
「配信は」
「遅延付きです。アークライン管理で、生徒の顔は映さない設定になっています」
「ならいい。余計な場所は映すな。職員室、保健室、素材処理室、訓練場以外は通すな」
「はい」
配信は短く始まった。
《九環》の表示が出る。遅延付き、顔ぼかし、校内制限。視聴者数はすぐ跳ねた。けれど、昨日のマシロ早着替えほどの爆発ではない。コメント欄は、懐かしさと緊張が混ざっていた。
『探索者高校だ』
『澪ちゃん、母校訪問?』
『久遠先生いる?』
『久遠先生チッスチッス』
『顔怖い先生きた』
『チッスとか言ったやつ校庭十周な』
『初期から見てた勢には刺さる』
『学校側もよく受け入れたな』
『アークライン管理ならまあ』
『生徒映さない設定助かる』
『九環が普通に校舎歩いてるの不思議』
『ここから帰ってこなかったんだよな』
『やめろ、重くなる』
『戻ってきたんだからいいだろ』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】A return to an educational institution after a deep-layer incident is not a small event. The teachers are likely carrying more than they show.(深層事故のあとに教育機関へ戻ることは、小さな出来事ではありません。教師たちは見た目以上のものを背負っているはずです)』
『海外解説ニキ久々』
『訳込み助かる』
『先生たち、胃が痛そう』
『久遠先生の胃は鋼鉄だろ』
『顔が鋼鉄なだけかもしれない』
校舎へ入ると、空気が少し変わった。
最初は静かだった。授業中の廊下。掲示物。磨かれた床。遠くから聞こえる教師の声。けれど、澪が来ているという情報は、校内で抑えきれるものではなかった。
休み時間の鐘が鳴る前に、廊下の端に数人の生徒が顔を出した。
「九環……?」
「本物?」
「澪先輩?」
「声かけていいのかな」
「だめだろ。先生いるし」
「でも本物だぞ」
次の角からも生徒が増える。顔は配信に映らないよう処理されているが、ざわめきは消せない。世界登録者数十七億人の探索者が、母校の廊下を歩いている。しかも、画面越しではなく同じ校舎にいる。
集まりかけた生徒を、久遠が一声で止めた。
「授業に戻れ」
廊下が固まった。
「見学会ではない。天瀬は展示物でもない。戻れ」
「はいっ」
「すみません!」
「久遠先生こわ……」
「聞こえてるぞ」
「すみません!」
生徒たちは名残惜しそうにしながらも散っていく。何人かは最後に小さく手を振った。澪はそれを見て、少しだけ手を上げた。
それだけで、廊下の端がまたざわつきかけ、久遠の視線で静かになった。
「学校、人多い」
「生徒の数は昔からこんなものだ」
「見てた」
「お前が目立つからだ」
「そう」
「そうだ」
コメント欄はすぐに反応した。
『ファン生徒きた』
『そりゃ押し寄せるよ』
『世界一位が母校歩いてたら見るだろ』
『久遠先生の「戻れ」強すぎ』
『展示物でもない、が良い』
『久遠先生チッスチッス勢、全員廊下から戻される』
『澪ちゃんが手振った』
『廊下の端、今ので一生の思い出だろ』
『生徒の顔ぼかし助かる』
『学校側の管理ちゃんとしてる』
『【公式】アークライン配信管理部:校内の生徒および教職員の個人情報保護のため、映像処理と遅延管理を実施しています。詮索・切り抜きによる特定行為はお控えください』
『管理部はやい』
『詮索するなよ』
『久遠先生が言ったら即解散なの強い』
職員室では、数人の教師が立ち上がった。
澪を見て固まる者もいれば、目元を押さえる者もいる。澪はその反応を深く拾わず、久遠の後ろを歩いた。懐かしい匂いがした。紙、消毒液、古い床、実技後の汗を薄く消した空調。七瀬家とも、アークライン本部とも違う匂いだった。
素材処理室の扉が開く。
藤堂がいた。
分厚い作業エプロン。机の上には魔石片、素材サンプル、加工工具。藤堂は澪を見て、最初に顔をしかめた。
「天瀬か」
「藤堂先生」
「生きて戻った顔をしているな。戻り方は普通ではないが」
「戻った」
「そこだけ切るな」
藤堂はマシロを一度見て、視線を細めた。
「それが噂の白い装備か」
「マシロ」
「名前は聞いている。触らん。触ったら何が起きるか分からん」
「汚れ、吐き出す」
「それも聞いた。服飾と装備加工の両方に喧嘩を売る性能だな」
「早着替え」
「早着替えで済ますな」
久遠が低く言う。
「藤堂、落ち着け」
「落ち着いている。落ち着いているから触っていない」
「その時点で相当怪しい」
澪がインベントリへ手を入れた。
朱音がすぐ横で言う。
「澪、出す前に確認」
「槍」
「誰に渡すの?」
「久遠先生」
「待って。佐伯さんに聞く」
朱音は端末で短く確認を取った。返信はすぐだった。
『第二層第九環由来の武具一つを探索者高校教師へ贈与または貸与する件。澪本人所有物であり、相手が元上級探索者かつ学校側管理下なら可能。ただし学校保管登録、使用制限、アークライン鑑定済みタグ必須。まずは貸与扱いを推奨します』
朱音はそれを読み上げる。
「まずは貸与扱いなら大丈夫だって」
「貸す」
「うん。それでいこう」
澪は黒い布に包まれた短槍を取り出した。
素材処理室の空気が変わった。
それは長槍というより、扱いやすい長さの短槍だった。柄は黒い根を編んだようにしなり、刃は黒緑の樹液結晶を薄く伸ばした形をしている。腐敗の匂いはない。けれど、見ていると森の奥で濡れた根が脈打っているような気配がある。
藤堂が息を止めた。
「待て」
「槍」
「分かる。槍なのは分かる。問題はそこじゃない」
「久遠先生、使う?」
澪は久遠を見る。
「俺にか」
「うん」
「なぜ」
「先生、怖い。強い。使える」
「理由が雑だな」
「あと、学校」
「学校?」
「前、止めた。治療した。怒った」
「怒るのは仕事だ」
「だから」
久遠はしばらく黙った。
朱音も短槍を見た。ほんの一瞬だけ、視線が刃の根元に留まる。槍使いとして、深層由来の武具に目がいくのは当然だった。けれど、すぐに澪の横へ意識を戻した。
「天瀬」
久遠が言った。
「これは、教師個人が軽く受け取るものではない」
「軽くない?」
「軽くない。値段ではなく、責任の話だ」
「責任」
「まずは学校管理下で預かる。正式な処理はアークラインと校長を通す。俺が扱えるかどうかも確認してからだ」
「うん」
「勝手に振るな。藤堂にも勝手に触らせるな」
「うん」
「藤堂」
「分かっている。触らない。見るだけだ。刃の断面と柄の根組みと魔力反応を見るだけだ」
「それを触ると言う」
「では見せろ。今すぐ見せろ。これは鋳造ではない。成長しているのか? 魔力を流したら戻るか? 使用者判定はあるのか? いや、反応を見る限り完全拒絶型ではないな。久遠、少し持て。いや、持つな。持ってから動くな」
「藤堂」
「落ち着いている」
「落ち着いている人間は、自分で矛盾した指示を出さない」
「第二層第九環由来の槍を前にして矛盾しない素材担当がいるなら、そいつは素材担当ではない」
コメント欄が流れる。
『藤堂先生、急に早口』
『素材担当の血が騒いでる』
『久遠先生に深層槍貸与?』
『澪ちゃんの理由が雑で好き』
『怖い。強い。使える。だから。』
『藤堂先生チッスどころじゃなくなった』
『元上級探索者教師に第二層九環槍は熱い』
『藤堂先生、落ち着いてない』
『久遠先生の手元で槍が光った?』
『確認反応っぽい』
『澪ちゃん、深層装備をお土産感覚で出すな』
『先生にお土産、第二層九環槍』
『重すぎるお土産』
『【公式】黒鉄旅団:第二層第九環由来武具の教育機関管理下での貸与を確認。安全確認を前提に、未成年探索者教育への活用可能性を注視します』
『黒鉄公式きた』
『凛ちゃんも見てそう』
『【企業公式】白紡工業:マシロ様および第二層第九環由来装備に関する模倣品・無断商品化の予定はございません。技術的にも不可能です』
『マシロ様で草』
『技術的にも不可能です、正直で好き』
『偽物もう出てるんだろうな』
『出てるから公式が釘刺してるんだろ』
澪はコメントを見ていない。
久遠が短槍を受け取ると、槍は一瞬だけ黒緑の光を走らせた。拒絶ではない。確認のような反応だった。久遠の手首がわずかに沈む。重さではなく、魔力の圧だ。
「……なるほど」
「使える?」
「今すぐ振るものではない」
「あとで?」
「あとでだ」
「うん」
藤堂はもう我慢できない顔をしていた。
「校長へ回す前に、封鎖ケースに入れる。久遠、持ったまま動くな。七瀬、記録補助に入れるか」
「私ですか?」
「槍の扱いを見て分かる人間が欲しい」
「……少しだけなら」
「よし」
「藤堂先生、今は少しだけです」
「分かっている。少しだけという言葉の幅は、素材次第だ」
「だめそうですね」
「だめではない」
校長室へ移る前に、朱音が小さく澪へ説明した。
「澪、校長先生とは個別に話したことはなかったよね」
「ない」
「顔は知ってる?」
「集会の人」
「そう。全校集会とか入学式で話してた人」
「話、長い」
「そこも覚えてるんだ」
「うん」
朱音は少し笑ってから、声を整えた。
「澪の記録は全部見てる人。未帰還になった時の手続きも、帰ってきた後の連絡も、学校側では校長先生が確認してる」
「知ってる人?」
「校長先生は澪を知ってる。澪も顔は知ってる。でも、向かい合って話すのは初めて」
「分かった」
校長室は、澪が通っていた頃にも何度か前を通ったことがあるだけの場所だった。厚い扉。古い木の匂い。壁に並ぶ歴代校長の写真と、額に入った探索者育成方針。応接用の革張りの椅子は、訓練場の硬いベンチとは違って、妙に重たそうに見えた。
校長は年配の男性だった。壇上で見た時より少し小さく見える。けれど、落ち着いた目と、資料をきっちり揃える手つきは全校集会の時と同じだった。
「天瀬澪さんですね。こうして個別にお話しするのは初めてです」
「うん」
「全校集会では何度か顔を合わせていますが、あなたと直接話す機会はありませんでした」
「話、長かった」
「……それは失礼しました」
「校長先生」
「はい。校長です」
朱音が横でわずかに口元を押さえた。
校長は小さく咳払いをしてから、表情を改める。
「あなたの記録は、何度も読みました。入学時の成績、実技記録、未帰還時の報告書、そして帰還後にアークラインから届いた連絡も」
「読んだ?」
「ええ。ですから、個別に話すのは初めてですが、知らない生徒という気はしていません」
校長は立ち上がり、深く頭を下げた。
「2度の九環探索…よく戻りました。学校として、あなたが生きて帰ってきたことを嬉しく思います」
澪は少しだけ目を瞬かせた。
「戻った」
「はい。戻りましたね」
壁際では久遠が黙って立っている。藤堂は短槍の封鎖ケースを抱えたまま、早く素材処理室へ戻りたそうな顔をしていた。だが、校長の前ではさすがに黙っていた。
澪は校長を見る。
「寄付する」
「……寄付、ですか」
「うん」
「澪、金額を言う前に確認」
朱音が端末を持ち直す。
「佐伯さん、探索者高校への寄付の件です。澪が今ここで話したいようです」
佐伯の声はすぐに返ってきた。
『財団準備金からの拠出であれば可能です。ただし学校法人側の受け入れ手続き、使途制限、監査、未成年探索者支援目的の明文化が必要です。初回は三兆円規模まで。段階支給を推奨します』
「三兆」
澪が繰り返す。
『はい。装備補助、訓練設備、治療棟更新、帰還符支援、未成年探索者安全教育、救助研究へ限定する形が妥当です』
「じゃあ、それ」
「澪、校長先生にも確認」
「うん」
校長は固まっていた。
久遠も、さすがに眉を動かした。藤堂は封鎖ケースを抱えたまま、口を半分開いている。
「三兆、ですか」
校長がようやく言う。
「うん」
「天瀬さん、それは高校への寄付という言葉で軽く扱える額ではありません」
「足りない?」
「逆です」
「逆」
「多すぎます。ですが、必要なものは確かにあります」
校長は机の上の資料へ視線を落とした。
探索者高校。未成年がダンジョンへ触れる場所。安全教育、装備、治療、帰還符、実技訓練、保護者連携。金で全ては解決しない。けれど、金がなければ届かない命もある。
「受け入れる場合、学校はあなたの宣伝場所にはなりません」
「うん」
「特定の生徒を優遇する資金にもできません」
「うん」
「未成年探索者が死なないための設備と教育に使います」
「それでいい」
「あなたは、何を望みますか」
「死ぬの、減る」
「……分かりました」
校長はゆっくり頭を下げた。
「正式な受け入れ手続きに入ります。天瀬さん。初めて直接話す場でこのような話になるとは思いませんでしたが、学校を代表して感謝します」
澪は少しだけ困った顔をした。
「うん」
コメント欄は遅延越しに荒れた。
『三兆寄付?』
『探索者高校に三兆?』
『母校のパトロンじゃん』
『久遠先生チッスチッスから三兆まで早すぎる』
『校長、個別初対面で三兆は重い』
『全校集会の話長かったの覚えてる澪ちゃんかわいい』
『未成年探索者支援なら意味ありすぎる』
『帰還符補助はでかい』
『装備が買えなくて浅い環で無理する子、普通にいるからな』
『治療棟更新してくれ』
『藤堂先生、槍と三兆で脳が止まってる』
『朱音さんがちゃんとアークライン確認取ったの助かる』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】This is not simply a donation. It is infrastructure patronage for future explorers. The amount is absurd, but the target is rational.(これは単なる寄付ではありません。未来の探索者のための基盤支援です。金額は途方もありませんが、対象は合理的です)』
『海外解説ニキ、パトロンって言った』
『基盤支援って言い方いいな』
『白猫パトロン爆誕』
『やめろ、正式名が台無しになる』
『【公式】探索者協会:未成年探索者支援に関する寄付受け入れについては、学校法人および関係機関と連携し、適切な監査体制のもと確認します』
『協会公式まで出た』
『監査入るの安心』
『澪ちゃん本人はたぶん分かってない』
『でも「死ぬの減る」だけで動いてるの、九環らしい』
校長室を出た後、澪たちは訓練場へ案内された。
寄付金の使途候補として、古い防壁訓練設備、治療棟の魔力安定装置、模擬戦フィールドの安全結界が挙げられた。設備を見て回るだけの予定だったが、藤堂が短槍を素材処理室へ運ぶ前に、久遠が朱音を呼び止めた。
「七瀬。少し構えろ」
「今ですか」
「今だ。槍を見る目が昔と違う。どれだけ変わったか確認する」
「私はまだ本調子では」
「本調子でなくていい。三十秒だ」
「……お願いします」
実技場の端で、短い手合わせが行われた。
レベルだけで見れば、朱音と久遠に大きな差はない。朱音も存在進化を経て、以前とは比べものにならない身体になっている。反応も速い。踏み込みも軽い。防御も厚い。けれど、槍を構えた瞬間、差は別の場所に出た。
久遠の槍は、速いというより、そこに置かれていた。
朱音が踏み込む前に間合いが消え、引く前に逃げ道が塞がる。穂先は肩を止め、柄は手首を押さえ、石突きは膝の向きを崩した。朱音は力で押し返そうとしたが、押す先に久遠はいない。視線を追った時には、もう喉元に木槍の先が止まっていた。
三十秒もかからなかった。
「そこまで」
久遠が言う。
「……参りました」
朱音は息を整えながら、素直に頭を下げた。
完敗だった。
レベル差ではない。槍捌き。間合いの作り方。相手の重心を崩す順番。攻める前に負けている感覚。朱音はそれを、身体で思い知らされた。
澪は実技場の端で見ていた。
「朱音先輩、負けた」
「負けたね」
朱音が苦笑する。
「かなり」
「うん。かなり。ちょっと悔しい」
「久遠先生、強い」
「強いよ。あれは、ずっと槍を振ってきた人の強さ」
久遠は木槍を下ろした。
「七瀬、身体は悪くない。むしろ上がっている」
「ありがとうございます」
「だが、槍が雑だ。力で守れるようになった分、間合いの読みが甘い」
「はい」
「次に見る時までに、突く前の足を直せ」
「次もあるんですか」
「ここに金を入れるんだろう。設備を見るついでに来い」
「……分かりました」
コメント欄は、今度は静かにざわついた。
『久遠先生つっよ』
『レベル差じゃない負け方だった』
『槍捌きだけで完封した?』
『朱音さんも普通に速かったのに』
『久遠先生チッスチッスとか言ってすみませんでした』
『校庭十周してこい』
『あれが教師かよ』
『元上級探索者教師、説得力がすごい』
『朱音さん、ちゃんと悔しそう』
『久遠先生の教え方、怖いけど的確』
『澪ちゃんの「かなり」が刺さる』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】This was not a contest of raw level. It was a demonstration of accumulated weapon discipline.(これは単純なレベル勝負ではありません。積み上げられた武器技術の実演です)』
『海外解説ニキ、武器技術って言った』
『レベルが近くても技術でこうなるの怖い』
『探索者高校、先生の層厚いな』
藤堂はその間も、封鎖ケースから目を離していなかった。
「久遠。終わったなら素材処理室へ行くぞ」
「待て」
「待たん。槍が冷める」
「冷めるものではない」
「気分の問題だ」
「藤堂先生、今日寝ないんですか」
朱音が聞く。
「寝る。記録が終わったらな」
「それ、明日では」
「明日という言葉の定義による」
朱音は小さく笑い、澪の方へ戻った。
探索者高校への訪問は、ただの寄り道では終わらなかった。
久遠は深層槍を預かり、藤堂は素材処理室へ走り、校長は三兆円規模の寄付受け入れ手続きに入る。廊下には澪を一目見ようとした生徒たちのざわめきが残り、訓練場には朱音が久遠に完敗した余韻が残っている。
《後日談》
探索者高校の倍率が300倍になりました。新入生の全校集会での校長の挨拶はとても短かったそうです。
あと、配信には載せれませんが、澪と久遠先生がやりバトルしましたが、澪が勝ってしまいました。これはまぁ、レベル差やスキル差で仕方ないよね〜。
OG訪問回です。
退学…除名扱いだから違うのかな??
久々の久遠先生です。結構イケメンなんですよ。実は。
水瀬の次に推しです。男の中ではね?
実は佐伯も結構いいですぞ。




