第十四話 名前と涙
記念すべき100話となります。
ここまでご視聴していただいている方、ありがとうございます。
引き続きよろしくお願いいたします。
朱音の膝が、床に落ちた。
音は小さかった。リビングの壊れたガラスや、焦げたカーテンや、倒れた家具の中では、ほとんど聞こえないくらいの音だった。それでも澪には、はっきり聞こえた。
朱音は奥の部屋を見ていた。
母がいる場所。
父がいる場所。
結衣がいたはずの場所。
声が出ない。息だけが喉で引っかかっている。立たなければいけない。確認しなければいけない。けれど、足が動かない。槍を持つ手も、指先も、何も言うことを聞かなかった。
「……お母さん」
朱音の声は、かすれていた。
澪は答えなかった。
床に一歩入る。メイの鎖が静かに広がった。壊れた家具の隙間を抜け、廊下の奥へ、玄関へ、窓際へ、倒れた護衛の周囲へ伸びていく。襲撃者の気配はない。残っているのは、金属の匂いと、焦げた魔導具の残り香と、切断された通信符の破片だけだった。
マシロの白い布が澪の背中で広がる。いつもなら汚れを嫌うように血や埃を払う。けれど、今は払わなかった。ただ澪の肩から腕へ沿い、震えないように支えている。
玄関近くの護衛班長は、まだ息があった。
泡のような呼吸。裂けた防具。潰れかけた通信端末。メイの鎖が倒れた護衛の腕から端末を拾い、澪の方へ滑らせた。画面には割れたログが残っていた。
二十二時三十分、異常なし。
二十二時四十七分、配送車確認。
二十二時五十二分、心拍異常。
だが、その奥に、欠けた記録があった。
時刻が飛んでいる。
室内反応は残っているように偽装されていた。玄関側の魔導監視符は、同じ数値を繰り返し返している。家の中が生きているように見せるためだけの、薄い偽物。
澪はそれを見ても、表情を変えなかった。
「朱音先輩」
澪は言った。
「動かないで」
朱音が顔を上げる。
目が濡れていた。何かを言おうとして、唇だけが震える。止める言葉ではなかった。頼む言葉でもなかった。ただ、崩れたままの朱音が、澪を見ていた。
澪は奥の部屋へ入った。
そこには、七瀬家の時間が壊れたまま残っていた。
母は結衣を庇うように倒れていた。父は廊下側にいた。最後まで前へ出ようとしたのだと分かった。結衣は、母の腕の中にいた。朝に卵焼きを作ると言っていた手は、もう動かない。リビングで笑っていた声も、通話越しに「明日、帰ってきてね」と言った声も、そこにはなかった。
澪は息を吸った。
胸の奥が、冷たくなる。
視界に文字が浮かぶ。
《対象者は死亡しています》
《蘇生しますか?》
澪は母の手に触れた。
「戻す」
《代償を確認》
「戻す」
心臓が潰れた。
白い痛みが胸の内側で弾ける。喉が詰まり、視界が欠ける。身体の奥で何かが握り潰され、それを《再生》が無理やり繋ぎ直す。澪は声を出さなかった。歯を食いしばることもしなかった。ただ、手を離さなかった。
母の胸が、小さく上下した。
朱音が息を飲む音がした。
澪は次に父へ触れた。
《対象者は死亡しています》
「戻す」
二度目の痛みは、一度目より深かった。
肺が内側から裂けたように熱い。胃がひっくり返り、血が口元から零れる。マシロの白い裾が動きかけて、止まった。拭うより先に、澪が手を離さなかったからだ。
父が息をした。
かすかに、うめき声が漏れる。
澪は結衣の前に膝をついた。
小さな顔。閉じたまつ毛。まだ温かいように見える手。
澪の手が、少しだけ震えた。
《対象者は死亡していまーーー》
文字は静かだった。
澪は結衣の頬に触れた。
「結衣ちゃん」
声が小さくなった。
「戻す」
三度目で、澪の身体が大きく傾いた。
心臓が潰れる。戻る。潰れる。戻る。喉から血が溢れ、指先の感覚が消えた。膝が床に落ちかける。メイの鎖が澪の腰を支えた。マシロが背中から白く広がり、崩れないように包む。
痛みは長かった。
結衣の胸が、動いた。
空気を吸う音がした。
朱音が、その場で崩れた。泣き声にならない声が喉から漏れる。母がぼんやりと目を開け、父がかすれた声で何かを呼ぶ。結衣の指が、ぴくりと動いた。
澪は結衣を見ていた。
結衣が目を開ける。
焦点が合わない目で天井を見て、それから朱音を見た。
「……お姉ちゃん?」
朱音が結衣に這うように近づく。
「結衣、結衣……っ」
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
「結衣……」
結衣は不思議そうに瞬きをした。
そして、澪を見た。
血で口元を汚し、マシロに支えられ、メイの鎖に腰を支えられている澪を。
結衣は、ぱっと目を開いた。
「この子、誰?」
朱音の動きが止まった。
澪の息も止まった。
結衣は本当に不思議そうだった。怖がっていない。怯えていない。いつもの結衣の声だった。通話越しに笑っていた時と同じ、明るい声だった。
「すごく綺麗な子だね!」
その言葉は、優しかった。
だから、深く刺さった。
澪は何も言えなかった。
結衣は首を傾げる。
「お姉ちゃんの友だち? えっと……ごめんね。初めまして、かな?」
澪の目から、涙が落ちた。
一滴ではなかった。
ぼろぼろと落ちた。血の混じった口元は動かない。声も出ない。澪は、ただ結衣を見ていた。結衣が生きている。息をしている。元気な声を出している。それなのに、結衣の中から澪だけが抜け落ちていた。
「……澪」
ようやく出た声は、小さかった。
「澪だよ」
「みおちゃん?」
結衣は名前を繰り返す。
けれど、そこに記憶はなかった。
「ごめんね。すごく綺麗だけど、私、覚えてないかも」
澪は唇を噛まなかった。
怒らなかった。
結衣に近づこうとして、途中で止まった。今の結衣には、澪が知らない綺麗な子に見えている。突然泣いている、知らない子に見えている。
それが、ひどく悲しかった。
マシロの裾が、澪の涙を拭おうとして伸びる。
けれど、途中で止まった。
拭っていい涙なのか、分からないみたいだった。
メイの鎖が床を削った。
細い線が、壊れたフローリングに刻まれる。
朱音は結衣を抱きしめたまま、澪を見た。
「澪……」
「戻った」
澪は言った。
「でも」
「澪」
「結衣ちゃん、忘れた」
声は震えていなかった。
だから余計に、壊れて聞こえた。
結衣は困ったように、でも一生懸命笑おうとした。
「ごめんね、澪ちゃん。泣かないで。私、思い出すかもしれないし」
「うん」
「ね? だから……泣かないで?」
「うん」
澪は頷いた。
涙は止まらなかった。
母が朱音の名前を呼び、父が結衣の無事を確かめる。二人とも意識はある。けれど、目の奥に混乱がある。いくつかの時間が抜けている。襲撃の直前のことも、通話の後の細かい会話も、ところどころ繋がっていない。
それでも、生きている。
澪が戻した。けど、全部ではない。
戻せなかったものが、ここにある。
玄関側から複数の足音がした。
アークライン即応班が突入してくる。先頭の隊員が倒れた護衛を確認し、すぐに救命処置へ移った。別の隊員が家族の周囲へ防護符を展開する。医療班が遅れて駆け込み、母と父と結衣の状態を確認し始めた。
佐伯も来た。
スーツではなかった。防護外套を羽織り、片耳に通信端末をつけている。顔に感情はない。だが、目だけが違った。いつもの管理者の目ではなかった。
佐伯は室内を見た。
壊れたリビング。
倒れた護衛。
蘇生された七瀬家族。
泣いている澪。
床を削り続けるメイの鎖。
白いまま、汚れを払わず澪に寄り添うマシロ。
そして、結衣を抱えたまま崩れている朱音。
佐伯は一度だけ、目を閉じた。
「七瀬さん。澪さん。ご家族の移送を開始します」
「佐伯さん」
朱音の声はかすれていた。
「誰が」
「答えは出します」
「誰が、やったんですか」
「必ず出します」
澪が顔を上げた。
涙で濡れた目だった。
けれど、その奥にあるものは、さっきより冷たかった。
「どこ」
佐伯は答えなかった。
答えれば、澪はそこへ行く。
そして、誰も止められない。
「澪さん」
佐伯は静かに言った。
「今は、ご家族の移送を優先してください」
「どこ」
「答えません」
「佐伯さん」
「答えません」
澪の足元で、メイの鎖が音を立てた。
隊員たちが一瞬だけ身構える。佐伯は動かなかった。
「あなたが今行けば、手の届く場所だけが消えます」
佐伯は言った。
「ですが、これは手の届く場所だけで終わらせる案件ではありません」
澪は黙って佐伯を見る。
「実行犯。資金源。情報を売った者。護衛情報を抜いた者。通信妨害機材を流した業者。逃亡先を用意した者。背後の企業、クラン、国外の後援者。隠した者。見逃した者。関わったすべてを、同じ線で繋ぎます」
佐伯の声は、医療室で聞く声よりずっと低かった。
「これは捜査ではありません」
「……」
「処罰でもありません」
「……」
「澪さんの周囲に手を出すという選択肢を、世界から消す処理です」
朱音が顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、佐伯を見ている。
「七瀬家を狙った時点で、彼らはアークラインだけを敵にしたのではありません」
佐伯は続けた。
「不老薬。若返り薬。深層攻略。蘇帰札。世界中の国家、企業、探索者クランが、あなたたちの安全を前提に利害を組み始めている。その周囲を殺して圧力をかけるという行為は、世界中の利害そのものを敵に回すことと同義です」
通信端末の向こうで、別の声が走っている。
『黒鉄旅団、国内拠点照合開始』
『白紡工業、流通履歴の即時開示を承認』
『探索者協会、関係登録者の凍結準備』
『海外支部、同時照会を開始』
『金融監査ライン、資産経路を逆追跡中』
『通信妨害機材、製造番号一致。販売ルートを開きます』
『護衛情報へのアクセスログ、内部協力者候補三名』
『国外スポンサーらしき暗号口座を検出』
佐伯は澪から目を逸らさなかった。
「逃がしません」
「……」
「残しません」
「……」
「二度と、同じことを考える者が出ないところまで行います」
澪は結衣を見た。
結衣は医療班に支えられながら、まだ澪を心配そうに見ている。知らない綺麗な子を心配する顔で。
それがまた、澪の胸を刺した。
「結衣ちゃん」
「なに、澪ちゃん?」
「思い出す?」
「うん。たぶん。頑張る」
結衣は元気に笑った。
澪は泣いたまま頷いた。
「うん」
そして、佐伯を見た。
「消して」
声は小さかった。
けれど、その場にいた全員が聞いた。
佐伯は深く頷いた。
「承知しました」
外では、まだ夜が続いていた。
だが、その夜のうちに、世界中のいくつもの端末が同時に鳴り始めていた。眠っていた口座が凍る前に消え、隠れ蓑の会社が朝を待たずに封鎖対象となり、国外の連絡役は空港へ向かう前に足止めされた。通信を中継したサーバは切断され、護衛情報に触れた端末は一つずつ名前を剥がされていく。
誰も、助ける側に回らなかった。
助けた瞬間、同じ側に分類されるからだ。
七瀬家を狙った者たちは、澪だけを敵にしたつもりだった。
その夜、彼らは世界中を敵に回した。
結衣ちゃん………………




