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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第四章

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第十五話 アークライン


 七瀬家の家族は、夜のうちにアークライン本部へ運び込まれた。救急車の音は使われなかった。近隣に余計な視線を集めないため、外からは普通の搬送車にしか見えない車両が三台来た。けれど中身は違う。防護符、蘇生後の魔力安定装置、精神負荷を抑える薬剤、状態異常の残滓を読む端末。通常の病院では扱えないものが、床から壁まで隙間なく積まれていた。


 母は眠っている。父も眠っている。結衣だけが、途中で何度か目を覚ました。朱音はそのたびに手を握った。結衣は朱音の顔を見ると安心したように笑う。母のことも、父のことも覚えている。朱音のことも覚えている。七瀬家のことも、学校のことも、今朝作ろうとしていた卵焼きのことも覚えている。けれど、澪のことだけが抜けていた。


「澪ちゃん」


 結衣はベッドの上で、その名前をゆっくり言った。眠気を含んだ声だった。明るい。いつもの結衣に近い。だからこそ、朱音の胸が締めつけられる。


「うん。澪ちゃん」

「お姉ちゃんの友だち?」

「友だち……うん。大切な子」

「そっか」


 結衣は隣の椅子に座る澪を見た。澪は小さく座っていた。マシロの白い布が肩から膝へかかり、メイの鎖は足元で丸まっている。さっきからほとんど動いていない。泣いた後の目だけが赤い。


「澪ちゃん」

「なに」

「泣かないでね」

「うん」

「私、思い出すかもしれないし」

「うん」

「それまで、また教えてくれる?」

「……うん」

「じゃあ、初めましてからでいい?」

「うん」


 澪は頷いた。声は出た。でも、目からまた涙が落ちた。結衣は慌てたように手を伸ばそうとして、点滴の管に止められた。


「ごめんね。泣かせるつもりじゃなかったの」

「違う」

「違う?」

「結衣ちゃん、悪くない」

「そっか」


 結衣は少し困ったように笑った。明るい笑顔だった。澪が好きだった笑顔だった。その笑顔の中に、自分だけがいなかった。


 朱音は結衣の手を握ったまま、何も言えなかった。怒りたい。泣きたい。叫びたい。けれど、結衣の前ではできない。結衣は戻った。母も父も戻った。護衛たちも、重体ではあるが生きている。戻った。でも、全部ではない。


 医療室の外では、足音が絶えなかった。佐伯は廊下の奥にいた。神楽坂、ミナト、榊原、警備主任、法務責任者、海外連絡部、素材管理部、武器班、そして普段は表に出ない幹部たちが、短い言葉だけで報告を重ねていく。


「護衛情報の漏洩経路、一次特定」

「外部警備会社の下請けに偽装契約。担当者三名を確保」

「配送車は盗難車両。車体に残留魔力あり。第一照合で国外製妨害器と一致」

「通信妨害機材の販売経路、白紡工業から提出済み」

「実行犯のうち二名死亡、四名拘束、三名逃走」

「逃走三名の移動先、港湾地区」

「黒鉄旅団、封鎖完了」

「探索者協会、関係登録者の資格凍結準備」

「海外口座、暗号資産経路、追跡中」

「国外スポンサー候補、四系統」

「うち一系統、国家探索者庁に接続」

「別系統に世界十位圏の大手クランの影があります」


 佐伯は淡々と聞いていた。顔色は変わらない。だが、誰もそれを冷静だとは思っていなかった。


「分類を分けないでください。実行、資金、情報、機材、逃亡支援、隠蔽。すべて同一案件です」

「国家探索者庁の系統もですか」

「同一案件です」

「世界大手クランも」

「同一案件です」

「高レベル探索者が関わっている可能性があります」

「だから何ですか」


 廊下の空気が止まった。佐伯は報告者を見ていない。端末に表示された系統図だけを見ている。赤い線が増えていた。青い線が重なっていた。黒い線は、いくつもの国境を跨いでいる。


「七瀬家を狙った時点で、通常の犯罪ではありません。澪さんへの圧力として、民間家族を殺害した。アークライン所属者の家族を殺害した。白鯨素材、不老薬、若返り薬、蘇帰札、深層攻略計画、そのすべての交渉基盤を壊しに来た。これは、世界中の利害を人質に取ったのと同じです」


 アークラインは、もはや一企業ではない。資本だけで一国の国家予算を超える。深層素材の供給網を持ち、世界最高峰の探索者と研究者と医療技術者を抱え、物流、装備、保険、薬剤、情報、警備、外交のすべてに手を伸ばしている。澪がもたらした素材と資産は、その規模をさらに押し上げた。一国を潰すのは、難しいことではない。一国を残す方が、難しいことすらある。


 榊原の端末が震えた。


「黒鉄旅団より。港湾地区の逃走犯三名、確保。抵抗あり。二名重体、一名意識あり」

「意識のある一名を最優先で隔離」

「了解」

「逃走支援に使われた倉庫は」

「所有企業が五重に偽装されています」

「剥がしてください」

「すでに金融監査が入っています」

「遅い」

「白紡工業と提携各社が取引履歴を即時開示。隠れ蓑企業の親会社まで到達します」

「親会社で止めないでください」

「その上も?」

「上も、横も、過去も、国境の向こうもです」


 神楽坂が静かに頷いた。


「末端を差し出して終わらせる気でしょうね」

「終わりません。末端だけを切って生き残る構造を、今回で消します」


 それは比喩ではなかった。


 最初に消えたのは、口座だった。凍結ではない。動かせなくなっただけでもない。名義と実体の結びつきが剥がされ、資金経路が逆向きに暴かれ、そこに触れていた会社も、個人も、財団も、資金洗浄用の慈善団体も、同じ色で塗られていった。次に消えたのは、会社だった。朝になれば記者会見をするはずだった企業の看板が、夜のうちに下ろされた。公式サイトは閉じられ、取引先一覧は白紡工業と提携企業群によって切断された。素材市場へのアクセス権が消え、探索者装備保険から外され、薬剤流通の認可が剥がれた。社員たちは、自分たちの会社が何をしたのか知らなかった者も多い。それでも会社は残らなかった。隠れ蓑として使われた時点で、そこはもう逃げ道だったからだ。


 次に消えたのは、クランだった。関与した探索者クランの登録は、夜明け前に無効化された。所属探索者たちは全員、協会端末を使えなくなった。ダンジョン入場許可、素材売買、回復施設、訓練場、保険、依頼掲示、輸送契約。探索者として生きるための線が、一本ずつ切られていく。世界でも名の知れた大手クランだった。所属する高レベル探索者の何人かは、国の軍より強いと言われていた。都市一つの防衛を任され、スタンピード鎮圧の実績もあり、政治家も企業も彼らの顔色を見ていた。関係なかった。七瀬家襲撃に資金経路が接続した時点で、クランの看板は意味を失った。


 登録が消える。拠点が封鎖される。装備倉庫が押さえられる。契約が切られる。国際依頼が取り消される。所属探索者たちは、端末の画面が黒くなるのを見た。知らなかった者は審査へ。知っていた者は隔離へ。隠した者は、同じ側へ。そして、抵抗した者は、その場で無力化された。誰も抗議しなかった。抗議した瞬間、自分もその線に触れる。


 さらに遠くで、別の国の空港が閉鎖された。国外スポンサーの一人が、専用機で逃げようとしていた。機体は滑走路へ出る前に止められた。燃料会社が給油を拒否し、管制が飛行許可を取り消し、空港警備ではなく、その国の上位探索者部隊が機体を囲んだ。スポンサーは外交特権を主張した。通らなかった。七瀬家襲撃に使用された資金の一部が、彼の管理する財団を経由していたからだ。その時点で、彼は庇護される側ではなく、処理される側だった。


 別の国では、通信妨害機材を流した業者の倉庫が同時に封鎖された。倉庫だけではない。輸送会社、通関代理、偽装輸入を許した港湾職員、目を逸らした地方役人、その上席まで、端末の権限が夜のうちに止まった。誰か一人を捕まえるためではない。逃げ道を作る手の形を、全部消すためだった。


 医療室の中で、澪はそれを知らない。佐伯は知らせなかった。今の澪に、場所を与えれば行ってしまう。名前を与えれば、その名前のある場所へ向かう。だから佐伯は、澪の前では何も言わなかった。澪は結衣のベッドの横にいた。結衣は眠った。眠る直前まで、何度も澪の名前を呼んでいた。


「澪ちゃん」

「うん」

「澪ちゃん」

「うん」

「覚えるね」

「うん」

「綺麗な子。お姉ちゃんの大切な子」

「……うん」

「間違ってたら、ごめん」

「違わない」


 結衣は安心したように目を閉じた。その後、澪はずっと結衣を見ていた。母と父も別室で眠っている。二人にも欠落はあった。襲撃直前の時間が曖昧で、澪のことは覚えていたが、白鯨素材の配信後に交わした会話の一部が抜けている。結衣ほどではない。それでも、完全ではない。


 朱音は壁際の椅子に座っていた。泣き疲れた顔で、膝の上の手を見ている。


「澪」

「なに」

「ごめん」

「違う」

「でも」

「朱音先輩、違う」

「……うん」


 朱音は唇を噛みしめた。澪は結衣から目を離さない。


「戻った」

「うん」

「でも、戻らないの、あった」

「うん」

「結衣ちゃん、私、忘れた」

「うん」

「でも、元気」

「うん」

「よかった」

「……うん」

「でも、悲しい」

「うん」


 朱音はもう一度泣いた。澪は泣かなかった。涙は枯れたように見えた。けれど、表情はひどく残念そうだった。世界一有名な探索者でも、第二層第九環のボスを斬れても、白鯨を帰り道に狩れても、結衣の中の澪は戻らなかった。


 マシロの裾が、結衣のベッドの端をそっと整える。メイの鎖は床で丸まっていた。いつもより音が少ない。澪に触れたいのか、結衣を驚かせたくないのか、鎖の先が迷うように少しだけ揺れる。


「メイ」

 鎖が鳴る。

「静か」

 鎖がもう一度、小さく鳴った。

「えらい」


 メイの鎖が、澪の足元にそっと寄った。


 その頃、外では制裁が次の段階へ移っていた。実行組織の名前は、すでに意味を失っていた。拠点は同時に潰された。国内の倉庫、国外の事務所、表向きは警備会社だった訓練施設、暗号通信に使われていた地下サーバ、逃亡用の山荘、身分偽装を請け負っていた行政書士事務所。どこにも、同じ朝は来なかった。抵抗した場所は沈黙した。投降した者は隔離された。情報を出そうとした者には、すでに選択肢がなかった。話せば少し楽になる、などという交渉ではない。話さなければ、同じ線にいる全員が沈む。話しても、自分が助かるとは限らない。ただ、黙る意味だけが消えていた。


 黒鉄旅団は、国内武装拠点を一晩で剥がした。探索者協会は、関係者の資格だけでなく、過去十年の依頼履歴をすべて再照合した。白紡工業は、機材・繊維・魔導部品・輸送封印材の流通記録を開示し、関係企業へ「どちら側か」を迫った。海外の大手クランは、自国政府より早く動いた。理由は澪への善意だけではない。澪の周囲が狙われる世界になれば、誰も深層素材を得られない。若返り薬も、不老薬も、蘇帰札も、白鯨素材も、すべて遠のく。澪が怒り、動かなくなり、世界との接点を閉じれば、損をするのは全員だった。


 だから、誰も中立を選べなかった。


 中立は、逃げ道になる。逃げ道は、潰される側になる。ある小国の治安機関は、七瀬家襲撃に使われた通信妨害機材の輸出許可を見逃していた。書類上は不備なし。担当者は賄賂を受け取っていたが、国としての関与は否定した。その否定は、三十分で意味を失った。国際探索者協議会の緊急席が開かれ、当該国の深層素材輸入枠が停止された。医療薬剤の優先供給から外され、探索者保険の国際保証が凍り、国内最大クランの国外依頼が取り消された。政府は慌てて担当部署を差し出した。


 足りなかった。


 見逃した者。命じた者。金を受け取った者。報告を潰した者。それを許した制度。それで利益を得た派閥。全部が必要だった。朝を待たずに、庁舎の一角が封鎖された。それでも足りなかった。その国の大統領補佐官が、初めて言った。


「七瀬家の件から、わが国は距離を置く」


 その言葉は、誰にも届かなかった。距離を置く時間は、もう終わっていた。


 アークライン本部の地下会議室では、巨大な系統図が壁一面に広がっていた。赤い線、青い線、黒い線。実行犯から資金源へ。資金源から企業へ。企業から国外スポンサーへ。スポンサーから国家探索者庁へ。国家探索者庁から閣僚へ。閣僚から、大統領府へ。大統領府から、さらに古いダンジョン利権団体へ。線が増えるたびに、誰かの生存圏が消えていく。


 榊原が画面を見上げた。


「公開しますか」

「一部だけ。全部は公開しない。世界が処理を終えるまで、逃げ道を与えない」

「表向きの声明は」

「短く」

「文案は」

「七瀬家襲撃は、アークライン所属者家族へのテロ行為であり、深層素材供給と国際探索者安全保障への攻撃とみなす。関係者には、国内外の全提携機関と連携し、完全な措置を取る」

「完全な措置」

「はい」


 神楽坂が少しだけ目を伏せた。


「澪さんには」

「結果だけ伝えます」

「途中は」

「見せません」


 佐伯は壁の系統図を見る。


「これは、澪さんの怒りを満たすためだけの報復ではありません。次に同じことを考える者が、考える前に止まるようにするための処理です」

「見せしめ、ですか」

 ミナトが低く言った。

「いいえ」

 佐伯は首を振る。

「見せしめという言葉では、軽すぎます」


 その時、海外連絡部の端末が一斉に鳴った。


「当該国政府より、交渉窓口設置の打診」

「拒否」

「国際探索者協議会、当該国の議席停止を提案」

「賛成票を集めてください」

「近隣三国が国境警戒を引き上げました」

「難民線ではなく、利権線を押さえてください」

「地図が変わります」

「変えてください」


 誰も言葉を挟まなかった。佐伯は続ける。


「当該国のダンジョン管理権限は、一時的に国際管理へ移行させます。国内大手クランは解体。関与のない探索者は再登録審査。関与のある者は隔離。政府中枢に接続する系統は、政権ごと剥がします」

「国家主権の侵害です」

「国家が七瀬家襲撃の逃げ道になった時点で、その主張は弱い」

「戦争になります」

「なりません。戦争にする相手が残らないようにします」


 会議室の空気が、さらに重くなった。アークラインは戦争をする気ではなかった。戦争は、相手を国として扱う言葉だ。これは違う。七瀬家を狙った構造を、国境ごと剥がす処理だった。


 その夜、世界の裏側で何人もの人間が逃げ道を失った。弁護士に連絡しようとして、通信が繋がらなかった。銀行に走って、口座が存在しないと告げられた。空港へ向かって、搭乗者名簿から名前を消された。保護を求めた相手に、端末を切られた。クランへ駆け込んで、門を閉じられた。国境を越えようとして、そこに待っていた探索者部隊に囲まれた。大統領府へ入ろうとして、警護部隊に拒まれた。議会へ逃げ込もうとして、その議会自体が緊急査察対象になった。


 誰も助けなかった。


 助けないことが、世界の意思だった。


 医療室で、結衣が眠りながら小さく寝返りを打った。澪は手を伸ばそうとして、途中で止めた。結衣が澪を覚えていないことを、まだ体が理解できていない。撫でていいのか、近づいていいのか、分からない。すると、結衣の方から手が伸びた。


 眠ったまま、澪の袖を掴んだ。


 澪は動かなくなった。結衣は目を覚まさない。ただ、袖を掴んでいる。覚えていないのに。名前も、時間も、一緒に卵焼きを食べる約束も抜け落ちているのに。手だけが、澪を掴んでいた。


 澪の顔がまた歪んだ。


「朱音先輩」

「なに」

「結衣ちゃん、掴んだ」

「うん」

「覚えてないのに」

「うん」

「掴んだ」

「うん」


 朱音は泣きながら笑った。


「また、覚えてもらおう」

「うん」

「何回でも」

「うん」

「結衣は、きっとまた澪のこと好きになるよ」

「……うん」


 澪は結衣の手を、そっと握り返した。メイの鎖が静かに丸まる。マシロの裾が、二人の手にかからないように布団を整えた。


 外では、完全制裁が進んでいる。それは怒りの炎ではなく、冷たい圧力だった。逃げる道を消す。庇う手を消す。名前を消す。金を消す。組織を消す。クランを消す。権力を消す。国境を消す。


 地図から、次に同じことを考える余地を消す。


 七瀬家を襲った者たちは、まだ自分たちが何をしたのか理解していなかった。澪を殺せないから、澪の周りを狙った。それは、一人の少女を敵に回すことではなかった。


 ある意味で世界中を敵に回すことだった。

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― 新着の感想 ―
澪の素材から作られる諸々や素材そのものですら、侵害されるなら、他の深層探索者の採取物はどうなるんだ?って話になるからね。下手したら深層探索者そのものが廃れることになりかねないのだから、澪だけの問題では…
身内を殴れば未帰還領域から帰ってこれる人間に言うことを聞かせられるなんて前列残したら駄目ですからね 事ここに至っては中立は「味方にならない」「敵に利する可能性がある」「次は自分が同じ事をする可能性を残…
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