第六話 公式フライパン
昼前、医療区画に小さな通信端末が運び込まれた。
アークラインの閉鎖回線用端末だった。外部とは直接繋がらず、中継をいくつも挟み、場所も端末情報も残さない。
「七瀬さん、ご家族からの連絡です。位置情報は出ません。録画も残しません」
「ありがとうございます。お願いします」
澪は朱音の隣に座り、端末をじっと見ていた。
「結衣ちゃん?」
「うん。いると思うよ」
「制服?」
「たぶんね。普通科高校、始まったって言ってたから」
画面が明るくなる。
最初に映ったのは朱音の母で、その奥に父がいた。少し遅れて、真新しい制服を着た七瀬結衣が画面の前に入ってくる。まだ襟元が硬そうで、着慣れていない感じが少し残っている。けれど顔は、澪が七瀬家で一緒に暮らしていた頃と同じように明るかった。
『お姉ちゃん、澪ちゃん!』
「結衣」
「結衣ちゃん」
『澪ちゃん、ちゃんとご飯食べてる?』
「食べた」
『何食べた?』
「粥。卵焼き」
『卵焼きならよし』
「結衣ちゃんは?」
『今日はお弁当。普通科高校、朝けっこう早い』
「普通科」
『うん。ダンジョンじゃない方。宿題が出る方』
「宿題」
『そんな珍しいものを見る顔しないでよ〜』
朱音が小さく笑う。
「結衣、制服似合ってるよ」
『ほんと? まだ変じゃない?』
「大丈夫。ちゃんと高校生に見える」
『それ、褒めてる?』
「褒めてる」
「似合ってる」
『澪ちゃんに言われると信じる』
「朱音先輩は?」
『お姉ちゃんはたまに甘いから』
「結衣」
『はいはい、分かってる。心配してくれてありがと』
澪は画面を見つめていた。
七瀬家の食卓。卵焼き。結衣の声。玄関の匂い。朱音の家で過ごした時間が、フラッシュバックする。
「また、行く」
『来て。お母さんも待ってるし、私も澪ちゃんとまたご飯食べたい』
「うん」
『今度は私も卵焼き作れるから』
「見る」
『食べてよ』
「最初は見る」
『じゃあ二回目は食べて』
「うん」
通信は長く続かなかった。
画面が暗くなると、澪は少しだけ残念そうに端末を見ていた。朱音はその横顔を見て、そっと手を重ねる。
「また会えるよ」
「うん」
「結衣も待ってる」
「制服、似合ってた」
「次に会った時、本人にも言ってあげて」
「言う」
同じ頃、配信管理部では別の画面が真っ赤に染まっていた。
ミナトは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げる。
「仮告知ページ、落ちました」
佐伯は一瞬だけ目を閉じた。
「まだ予約開始前です」
「はい。予約開始前です。商品画像も仮です。価格も未定です。販売時期も未定です」
「では、なぜ落ちたんですか」
「世界登録者数十七億人のチャンネルで、公式グッズの候補にフライパンがあると漏れたからです」
配信管理室のモニターには、世界地図が表示されていた。日本、北米、欧州、中東、東南アジア、南米。アクセスが地域ごとに赤く染まり、秒単位で増えていく。国内サーバーはすでに応答を諦め、海外向けキャッシュも悲鳴を上げていた。
『九環公式グッズ仮告知ページ接続不能』
『まだ予約開始してないのに落ちた』
『十七億人を舐めるな』
『澪ちゃんのフライパンを出すなら世界規模で備えろ』
『九環フライパン待機列、概念だけで百万超えてそう』
『白猫の通り道アクスタ欲しい』
『九環ロゴのマグカップは買う』
『マシロ風ブランケットは慎重に頼む』
『本人の顔面プリントじゃないの分かってる』
『フライパンが一番澪ちゃん本人に近いの笑う』
『不老薬素材を持って帰った子が一番欲しいの調理器具なの好き』
『まずサーバーを蘇生しろ』
『澪ちゃんに頼むな』
ミナトは机に額を落とした。
「サーバーを蘇生しろ、が世界トレンド入りしました」
「冗談でもやめてください」
「技術部からは、先着販売は不可能、抽選方式必須とのことです」
「当然です。限定商法も禁止します。転売を招きます」
「フライパンで国際問題を起こしたくないです」
「もう半分起きています」
神楽坂が横から画面を見る。
「オークション側は?」
「そっちはそっちで地獄です。不老薬権利の追加分、若返り薬の初期ロット候補、第二層第九環ドロップ武具。問い合わせ元の格が違います。国家、王族、財閥、医療連合、老探索者の後援組織、表に出せない団体。全部来ています」
「金額だけでは済みませんね」
「済みません。兆単位で殴ってくるだけならまだ分かりやすいですが、優先投与権、研究参加権、独占権、政治保証、軍事転用禁止条項の抜け道探しまで混ざっています」
「抜け道は塞ぎます」
「お願いします。こっちはフライパンで手一杯です」
赤い警告が出た。
ミナトは表情を変えずに開く。
『澪ちゃんのフライパンの底に刻まれた九環ロゴになって、火に炙られながら朝の卵だけを見上げていたい』
削除。
『このコメントは削除されました。』
『悲報、変態詩人、サーバー落ちても湧く』
『火に炙られるな』
『九環ロゴになるな』
『朝の卵だけを見上げるな』
『でも情景だけは浮かぶのやめろ』
『好きになるな』
『詩人の予約枠だけ弾いて』
『公式フライパンを詩にするな』
『もう遅い』
ミナトは無言で削除ログを保存した。
「詩人だけはサーバー落ちても生きています」
「生存確認しないでください」
「はい」
午後、澪の医療区画にも仮告知ページの話が届いた。
佐伯はかなり言葉を選んだ。ミナトは隣で端末を抱えている。朱音はベッドの上で、澪の肩に毛布を掛け直していた。
「天瀬さん。公式グッズの件で報告です」
「うん」
「まだ予約開始前ですが、仮告知ページへのアクセスが集中し、システムが一時停止しました」
「停止」
「見たい人が多すぎた、という意味です」
「フライパン?」
「主にフライパンです」
澪の耳が少し動いた。
「人気?」
「非常に」
「ちゃんと焼ける?」
「そこは最優先条件に入れます」
「じゃあ、いい」
澪の中では、重要な判断が終わったらしい。
佐伯は真面目に頷いた。
「抽選方式にします。限定品ではなく、必要数を段階的に生産します。転売対策も入れます」
「転売?」
「買えない人に高く売る悪い人です」
「だめ」
「はい。だめです」
朱音が佐伯へ軽く頭を下げる。
「対応していただいて、ありがとうございます。こちらでも澪に確認できることはします」
「助かります。七瀬さんにも負担が出ない範囲でお願いします」
「はい」
澪は端末を見ていた。
「十七億人」
「はい」
「多い?」
「とても多いです。あれからさらに増えました。世界で一番多いです」
「一番」
「澪さんの《九環》は、世界登録者数でぶっちぎりの一位です」
「そう」
「反応、薄いですね」
「卵焼ける方が大事」
朱音が口元を押さえて笑う。
「澪らしい」
「だめ?」
「ううん。そういうところ、私は好き」
「うん」
そこへ、通信端末が小さく震えた。
七瀬家からではない。結衣から、アークライン経由で許可された短いメッセージだった。文章だけ。位置情報も端末情報も消されている。
『澪ちゃん、九環フライパン出たら私も欲しい。普通科高校の友達にも聞かれた。すごいことになってるよ』
澪は画面を見た。
「結衣ちゃんも、いる」
「欲しいって言ってるね」
「結衣ちゃんに、あげる?」
「公式で買ってもらうより、澪が一本選んで渡したら喜ぶと思うよ」
「選ぶ」
「ちゃんと焼けるやつね」
「うん」
佐伯が端末に記録した。
「七瀬結衣さん向け贈答用一本。本人確認後、別枠。転売不可」
「結衣さん、世界で最初の九環フライパン保有者になる可能性がありますね」
ミナトが小声で言う。
「外へ漏らさないでください」
「もちろんです」
朱音は少し困ったように笑った。
「結衣、たぶんすごく喜ぶけど、学校で言いふらさないように言わないと」
「普通科高校」
「うん。普通科高校」
「友達、いる?」
「いると思うよ。結衣はそういうの、ちゃんとできる子だから」
「すごい」
「今度会ったら、そう言ってあげて」
「言う」
医療区画の空気は穏やかだった。
外ではサーバーが落ち、世界中で九環フライパンが話題になり、不老薬の権利をめぐって兆を超える金と条件が飛び交っている。若返り薬の初期ロット候補には、形もないのに国家級の問い合わせが来ている。第二層第九環の武具については、鑑定前から名を出せない買い手が増えていた。
けれど澪は、結衣にフライパンを一本選ぶことを考えていた。
メイが床を小さく鳴らす。
「メイのは、フライパンじゃないよ」
「白鯨?」
メイが低く鳴った。
「白鯨は、不老薬」
澪は少しだけ考える。
「でも、メイのご飯もいる」
「メイ優先分は確保しています」
佐伯が答える。
「残りを不老薬の追加生産と権利管理へ回します」
「うん」
「若返り薬候補は第二層九環素材側です」
「黒い根」
「はい」
「それは、メイじゃない?」
メイが興味なさそうに鳴った。
「じゃあ、研究」
佐伯は頷いた。
「そのように進めます」
澪は朱音の手を握る。
「朱音先輩」
「なに?」
「結衣ちゃん、また会う」
「うん。落ち着いたら会おうね」
「フライパン持って」
「それ、結衣びっくりするよ」
「だめ?」
「だめじゃない。たぶん、すごく喜ぶ」
「じゃあ、持つ」
朱音は柔らかく笑った。
その会話を聞きながら、ミナトは端末を見た。仮告知ページはまだ復旧していない。技術部のチャットには、世界各地からのアクセスをどう捌くか、転売対策をどう組むか、多言語ページをどう分けるか、悲鳴のような文章が並んでいる。
さらに別窓では、オークション準備室から佐伯へ新しい照会が届いていた。
不老薬権利。若返り薬初期ロット候補。第二層第九環武具。
金額欄は、もう普通の単位で見るものではない。桁の横に、条件、連合名、代理人名、国家保証、匿名財団、旧王族、医療同盟、探索者組合、裏で繋がっているらしい資金の流れが並ぶ。
数千億円など、入口の敷居にもならない。
金で殴る世界が、もう扉の向こうにいた。
その中心にいる少女は、粥の残りを食べ、結衣に渡すフライパンのことを考え、メイのご飯とマシロの白さを気にしている。
ミナトは小さく呟いた。
「この温度差、配信に乗せたらまた落ちますね」
「乗せないでください」
朱音が穏やかに言った。
「澪、まだ休ませたいので」
「もちろんです」
ミナトはすぐに頷いた。
朱音は礼を言うように少しだけ頭を下げる。
「ありがとうございます」
澪はそのやり取りを見て、首を傾げた。
「休む?」
「うん。少し休も。結衣に会う時、眠そうな顔だと笑われるよ」
「笑う?」
「たぶんね」
「じゃあ、寝る」
澪は素直に目を閉じた。
メイがベッドの下で丸くなり、マシロが毛布の端を静かに整える。朱音はその手を握ったまま、端末の暗くなった画面を見た。
結衣の制服姿が、まだ目に残っている。
普通科高校。宿題。電車。友達。卵焼き。九環フライパン。
世界はおかしいほど大きくなっているのに、澪が戻りたい場所は、まだそういう小さなものの近くにあった。
扉の外で、技術部の悲鳴がまた一つ増えた。
『仮告知ページ、再起動直後に再落ちしました』
佐伯は端末を見て、静かに言った。
「抽選受付ページは、別サーバー群で組み直してください」
「了解です。十七億人向けに、フライパン売ります」
「言い方を整えてください」
「九環公式監修実用品第一弾、調理器具です」
「それでお願いします」
医療区画の中で、澪はもう眠っていた。
世界一位のチャンネル登録者数を持つ少女の、最初の公式実用品。
その予約ページは、公開前に二度落ちた。
凛ちゃんが黒鉄旅団へ入社したのと同時に、実はゆいちゃん高校生になってました。
なんか感慨深いですね。
メイの食費だけで国が買えますね。
ただ修復しない時はメイのご飯は趣味みたいなものです。
まぁ、食べる度にメイが強くなっていることはここだけの話。




