第三話 黒胎袋
澪が目を開けた時、最初に見たのは白い天井ではなく、朱音の指だった。
握っている。温かい。脈がある。呼吸もある。医療区画の白い明かりも、壁際で控える医療班の足音も、遠くの端末が震える音も、澪にとってはその確認の後に来るものだった。
眠っていた時間は、記録上では二十分ほどらしい。澪の感覚では、目を閉じて、朱音の手を確かめて、少しだけ呼吸を数えたら終わっていた。
胸の痛みは、もう遠い。
死者を戻した時の代償は確かにあった。心臓を握り潰されるような感覚も、血が喉を逆流する熱も、朱音の泣きそうな声も、澪の中に残っている。けれど、身体そのものは長く引きずらない。壊れても戻る。痛みも、普通の人間よりずっと早く薄くなる。
だから澪は、自分の胸ではなく、朱音の手を見ていた。
「起きた?」
「うん」
「気分は?」
「平気」
「ほんとに?」
「うん」
「そっか。じゃあ、もう少しこのままにしよ」
朱音は隣のベッドで横になっていた。顔色はまだ薄い。けれど声は戻っている。不老薬の投与後、医療班は何度も計測し、神楽坂と佐伯は説明を受け、廊下では何人もが慌ただしく動いていた。
澪は朱音の手を離さなかった。
「澪、眠れそう?」
「朱音先輩がいるなら」
「いるよ」
「じゃあ、少し」
そう言った直後、部屋の外で佐伯の声がした。抑えた声だったが、澪の耳には届く。
「黒胎袋の一次確認は、本人立ち会いなしでは行いません。所有権は天瀬さんにあります。医療班の許可が出るまで待機してください」
澪の耳が少し動いた。
朱音はそれを見て、困ったように笑った。
「聞こえちゃった?」
「袋」
「うん。袋の話だね」
「見たい?」
「私より、アークラインが見たいと思う」
朱音は声を低くして、澪の手を撫でた。
「袋は澪のインベントリに入ってるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、勝手に誰かが触ることはないね」
「ない」
「なら急がなくていいよ。澪のものだから」
「私の」
「そう。澪のもの。だから、ちゃんと澪が見て、澪が決めればいい」
澪は少しだけ考えた。
「朱音先輩も見る?」
「見るよ。澪だけで行かせたら、全部メイのご飯にしちゃいそうだしね」
「だめ?」
「だめじゃないけど、佐伯さんが泣くかも」
「泣く?」
「たぶん心の中でね」
「じゃあ、行く」
「うん。一緒に行こ」
医療班の許可が出るまで、さらに少し時間がかかった。
澪は車椅子に乗せられた。歩けると言いかけたが、朱音が「今日は私のために座って」と言ったので座った。朱音はベッドごと移動する。自分で歩きたい顔をしていたが、澪がじっと見たので諦めた。
「朱音先輩、えらい」
「澪に言われるの、ちょっと新鮮」
「歩かない」
「うん。今日は歩かない」
「えらい」
「ありがと。澪もえらいね」
澪は少しだけ満足そうにした。
廊下へ出ると、アークライン本部の空気はまだ落ち着いていなかった。医療班、素材班、法務、配信管理、警備。人は多い。けれど、黒鉄の隊員はいない。黒鉄は別室で帰還記録と報告書を出している。三枝凛もそちらにいるはずだった。
澪の所有物を確認する場に、他クランが同席する理由はない。
「凛ちゃんは?」
「別室だって。黒鉄側の報告をまとめてる」
「ここにはいない?」
「うん。今はアークラインだけ」
「そう」
「会いたくなったら呼んでもらおうね。凛ちゃんの声、ちゃんと届くし」
「うん」
素材解析室は、工房区画に近い地下にあった。
白い壁。床を走る薄緑の術式線。中央に並ぶ隔離台。透明ケースと保存容器。壁際には観測端末が並び、部屋全体に第二層由来素材用の封鎖術式が張られている。
榊原主任が端末を片手に待っていた。白い作業ジャケットの袖を少し上げ、机の上には工具ではなく記録板と封鎖用タグが並んでいる。隣には御影ユイカがいて、眼鏡の奥の目が明らかに落ち着いていない。
「天瀬さん、七瀬さん。体調に問題は?」
「平気」
「澪は平気って言うので、医療班の数字も見てあげてください」
「もちろんです。こちらでは長時間拘束しません。今日は中身の一部確認と、危険度分類だけにします」
榊原主任の声は落ち着いていた。興奮していないわけではない。けれど、それを現場に出さない人だった。
御影ユイカは逆に、抑えようとして抑え切れていない。
「本音を言うと全部見たいです。でも榊原主任に止められています。あと佐伯さんにも止められています。あと医療班にも止められています」
「止められすぎ」
「はい。妥当です」
澪は御影を少し見てから、朱音の手に視線を戻した。
部屋にいるのはアークラインの人間だけだった。神楽坂美冬、佐伯円、榊原主任、御影ユイカ、藍沢ミナト、水瀬蓮、浅見遥、素材班、医療班。水瀬は端末を開き、解析画面をすでに三枚展開している。遥は扉近くに立ち、外部との距離を見ていた。
「澪ちゃん、顔色は悪くないみたいだね〜」
「遥先輩」
「うん。ちゃんと座っててえらいね〜」
「朱音先輩のため」
「それは強いね〜」
遥の語尾は相変わらずゆるい。けれど、立ち位置はゆるくない。人の流れ、視線、扉の向こうの気配を、柔らかい笑顔のまま切っている。
水瀬は画面から目を離さずに言った。
「黒胎袋の出現位置は中央隔離台でお願いします。濁度変化を取ります。天瀬、手を入れる前に一拍置いてください」
「水瀬先輩」
「何ですか」
「分かりやすい」
「ならよかった」
朱音が少し笑った。
「蓮くん、澪に説明するの上手くなったね」
「七瀬が説明を放棄しているだけです」
「してないよ。私は澪の手を握る係」
「重要業務ですね」
「でしょ」
同級生同士の距離だった。澪はそれを聞きながら、朱音の手を握り直した。
佐伯が一歩前に出る。
「天瀬さん。確認前に、権利関係を整理します。黒胎袋、および内部の回収品は天瀬さんの所有物です。アークラインが勝手に開封、売却、研究利用、移送を行うことはありません」
「うん」
「危険物の可能性があるため、この部屋で確認します。必要があれば一時保管をお願いする場合がありますが、その場合も所有権は移りません」
「メイの分は?」
「最初に除外します」
「うん」
澪はそこで満足した。
佐伯は一瞬だけ続きを待ったが、澪がもう朱音の方を見ているので、表情を変えずに端末へ記録を入れた。
「本人意思確認。メイ優先分の除外を前提に、アークライン解析室で一次分類を行います」
「佐伯さん」
「はい」
「澪、たぶん素材そのものはあまり見てないです」
「承知しています、七瀬さん。重要な判断の時だけ、こちらから短く確認します」
澪は黒胎袋を出した。
床ではなく、空気の中から沈むように現れる。黒い根で編まれた袋。黒樹胎種から落ちた、容量も性質もまだ分からない袋。普段は澪のインベントリの中にあるため、外から触れることはできない。
口は閉じている。けれど、部屋の空気が少し湿った。
濡れた根。樹液。甘く腐った花。黒緑の霞。第二層第九環の匂いが、白い解析室に薄く広がった。
「魔力濁度、上昇。封鎖術式、正常範囲」
「水瀬、外部流出は?」
「ありません。袋自体に敵性反応もなし。ただし内部空間は深い。底は見えません」
「榊原主任、隔離台は?」
「一番を白鯨素材、二番から四番を黒樹系、五番を武具仮置きで。御影さん、触るのは私が許可してから」
「はい。触りません。見ます」
「距離も取って」
「はい」
澪は袋の口を開いた。
最初に取り出したのは、白鯨素材だった。今回の追加分。薄い膜片、青白い骨片、淡い金を含む器官。メイが低く鳴ったが、澪は手で鎖を押さえた。
「メイの?」
「一部は」
「食べる?」
「あとで」
「うん」
澪の確認はそれで終わった。
素材班が記録を始める。前回の白鯨由来素材から不老薬が完成したことで、これらの価値はさらに跳ね上がっている。だが、澪の目は素材より朱音の方へ戻っていた。
神楽坂が静かに言う。
「不老薬関連素材の追加分として記録。流通量、投与対象、治験、権利管理は別会議に回します」
「誰にどう使うかの段階ですね」
「はい」
佐伯の返事は短かったが、重かった。
澪はよく分かっていない顔で朱音を見る。
「使えば?」
「そう簡単じゃないみたい」
「死なない方がいい」
「うん。そうだね。でも順番とか、安全とか、約束とか、いっぱいあるんだって」
「めんどう」
「すごくめんどう。でも、澪のものを勝手に使われないためにも必要だよ」
「じゃあ、佐伯さんがやる」
「はい。私がやります」
佐伯は即答した。ミナトが隣で小さく「強い」と呟いた。
次に出てきたのは、黒い根塊だった。
人の胴ほどの太さ。濡れた樹皮のような表面。断面には淡い緑と赤黒い筋が残っている。腐敗しているようで腐敗していない。死んだ素材のはずなのに、どこか呼吸の名残がある。
御影ユイカが息を呑んだ。
「黒樹胎種系の根組織……保存状態が異常です。袋の中で劣化が止まっていた可能性があります。断面反応、残っています。榊原主任、安定化前に切片採取は危険です」
「切らない。まず封鎖下で反応だけ見る」
「はい」
「水瀬さん、老化関連干渉の初期値を」
「出しています。既存の不老薬素材とは向きが違う。停止ではなく、復元方向の反応に見えます」
「復元」
「断定はしません。けれど、若返り薬候補として扱う理由はあります」
部屋の中が静かになった。
不老薬だけでも世界は動く。けれど、若返りは違う。老化を止めるのではなく、戻す。老いた探索者、権力者、財閥、国家、裏社会。欲しがる相手はいくらでもいる。
澪は根塊を見ていたが、その目に執着はない。
「これ、使える?」
「研究次第です」
「じゃあ、研究」
「……軽いですね」
水瀬がそう言うと、遥が笑った。
「澪ちゃんは昔から、そういうとこあるよね〜」
「昔?」
「学校でちょっとだけ見てたからね〜。朱音と同級生だったし」
「遥先輩、水瀬先輩、朱音先輩と同じ」
「そうそう。思い出したよ〜?」
「うん」
朱音が澪の髪を軽く撫でる。
「だから澪、困ったらこの二人にも聞いていいよ」
「聞く」
「うん。たぶん蓮くんは分かりやすく説明してくれるし、遥は危ない人を遠ざけてくれる」
「七瀬、雑に役割を投げないでください」
「合ってるでしょ?」
「否定はしません」
「ほら」
澪は小さく頷いた。
黒胎袋からは、さらにいくつかの素材と武具が出された。黒い殻片。樹液結晶。濡れた膜。根で編まれた短槍。黒樹の杖。盾片。腐った花弁を重ねたような外套。黒樹龍の外殻。喉奥にあった器官の一部。
メイが喉奥の器官に反応した。
鎖が伸びる。
「メイ」
「欲しい?」
低い音。
「これは、メイの」
澪はそう言って、迷わず自分側へ寄せた。
榊原主任はすぐに記録を切り替える。
「黒樹龍喉部器官、メイ優先。研究用の小片提供は後日相談。今は採取しません」
「小さいのなら、いい」
「ありがとうございます。ユイカさん、見ただけで我慢してください」
「見ます。全力で見ます」
「全力で近づかないように」
「はい」
武具類は隔離台の上に並べられた。
これまで、ダンジョンで武具がドロップした公開事例はほとんどない。まして第二層第九環のものだ。素材班よりも、榊原主任の顔の方が硬かった。
「これは一部、アークラインへの寄付でいいんですよね?」
佐伯が確認する。
「うん」
「すべてではありません」
「うん」
「残りは天瀬さんの所持品です」
「使う?」
「使うかもしれないし、使わないかもしれません。売ることもできます」
「メイとマシロに使える?」
「それは最優先で検討します」
澪はまた頷いた。
「じゃあ、いい」
それ以上は興味が薄れたように、澪は朱音の手へ視線を戻した。
ミナトがその温度差に小さく息を吐いた。
「世界中が欲しがるものを、メイとマシロに使えるかで判断するんですね」
「澪だからね」
朱音が言う。
「他に欲しいものがないわけじゃないよ。美味しいものとか、景色とか、そういうのは好き。でも、こういう素材そのものにずっと張りつく子じゃないから」
「なるほど」
「だからミナトさん、切り抜きで『素材に執着』みたいな見せ方はしないでください」
「しません。澪さんは、朱音さんとメイとマシロを見てる子、ですね」
「うん。だいたい合ってる」
澪は分かっているのかいないのか、メイの鎖を指で撫でていた。
その時、佐伯が書類をめくりながら言った。
「不老薬の権利オークション時と同じ形式を使うなら、今回も金額だけを切り離して扱えます。ただし若返り薬は成立前ですし、二層九環武具は安全確認が先です」
澪の耳が動いた。
「オークション?」
佐伯が止まる。
「……失礼しました」
「オークション、した?」
「はい。天瀬さんがダンジョンにいる間に、不老薬の権利について行われています」
「私、見てない」
「そうですね」
「ずるい」
「ずるくはありません。代理運用です」
「見たかった」
朱音が苦笑した。
「澪、オークション見たいの?」
「楽しい?」
「……人によるかな?」
「見たい」
「お金が欲しいわけじゃなくて?」
「困ってない」
「だよね」
「でも、見たい」
「じゃあ、次は澪も見られる形にしてもらおうか。ずっと見るかは分からないけど」
「うん」
澪は少し満足した。
佐伯は目元を押さえた。
「次、という言葉がとても重いですね」
「候補は?」
神楽坂が問う。
「完成または追加生産可能な不老薬。若返り薬の初期ロットが成立した場合、その権利。第二層第九環ドロップ武具・アイテムの一部。ただし、いずれも天瀬さん本人の同意と安全確認が前提です」
「金額だけのオークションにして、天瀬さん本人を前面には出さない」
「はい。本人を消費させる形にはしません」
「ミナトさん、配信・広報側も同じ方針で」
「了解です。澪さんを可愛い見世物にしない。可愛いのは事実ですが、そこだけで売らない」
「言い方」
朱音が少し笑う。
「でも大事です。頑張って帰ってきた、すごい女の子ですから。雑に商品化したら燃やします」
「燃やすのはやめてください」
「比喩です」
澪はミナトを見た。
「燃やす?」
「燃やしません。守ります」
「うん」
御影ユイカが小声で言った。
「不老薬、若返り薬、二層九環武具……世界規模ですね」
「御影さん」
榊原主任が止める。
「はい。今は記録します」
「お願いします」
澪は黒胎袋の口を閉じた。
中身はまだ残っている。けれど、今日は一部だけで十分だった。白鯨追加素材、黒樹胎種系の根塊、若返り薬候補、黒樹龍素材、メイの取り分、武具類の一部。アークラインが頭を抱えるには、それだけで足りる。
「澪、今日はここまでにしよ」
「うん」
「いいの?」
「メイの分、決めた」
「そっか」
「朱音先輩、寝る?」
「寝たい」
「じゃあ、寝る」
「ありがと」
朱音が微笑むと、澪は黒胎袋をインベントリへ戻した。黒い根で編まれた輪郭が、空気の奥へ沈むように消える。部屋に満ちていた湿った匂いも、少しずつ薄くなった。
帰り際、遥が扉を開けた。
「澪ちゃん、ゆっくりね〜」
「遥先輩」
「ん〜?」
「扉、ありがと」
「どういたしまして〜」
水瀬は端末を閉じずに、澪の横へ一歩だけ寄った。
「天瀬。今日出した分だけでも、解析には時間がかかります。続きを急ぐ必要はありません」
「うん」
「あと、七瀬を寝かせてください」
「寝かせる」
「頼みます」
「水瀬先輩も寝る?」
「できれば」
「寝た方がいい」
「善処します」
朱音が笑った。
「蓮くん、澪に心配されてる」
「七瀬のせいです」
「私?」
「あなたの後輩ですから」
「それは、そうかも?」
医療区画へ戻る廊下で、神楽坂の端末は震え続けていた。世界はもう、澪が持ち帰ったものの価値に気づき始めている。不老薬。若返り薬候補。第二層第九環の武具。白鯨追加素材。死者を戻したかもしれない映像。
けれど澪は、世界の中心に立っているつもりなどない。
朱音の手が温かい。メイのご飯がある。マシロが肩にいる。明日も朱音がいる。今の澪に近いものは、それくらいだった。
アークラインがやるべきことは、その距離を守ることだった。澪を隠すのではなく、勝手に物語にされないようにする。神様にも、財布にも、万能薬にも、ただの可愛い商品にもさせない。
頑張って帰ってきた、可愛くて、すごい女の子。
そのままの形で、澪を世界に置く。
医療区画に戻ると、澪はベッドに座り、すぐ朱音の手を取った。
「いる?」
「いるよ」
「明日も?」
「いる」
「メイも?」
メイが鳴る。
「マシロも?」
白い裾が澪の肩に触れた。
「袋は?」
「澪の中」
「うん」
「安心した?」
「少し」
「じゃあ、目を閉じよ。私も閉じるから」
「朱音先輩も?」
「うん。一緒に休も」
澪は目を閉じた。
今度は早かった。朱音の手を握ったまま、呼吸が少しずつ深くなる。メイはベッドの横で静かに丸まり、マシロは白い布を澪の肩へそっと掛けた。
朱音はその手を握り返し、小さく息を吐いた。
「帰ったら怒るって言ったけど……怒る前に、少し寝かせてね。澪も、私も」
澪は眠っている。聞いていない。たぶん、聞いていない。
メイの鎖が、床を一度だけ小さく鳴らした。
「メイに言ってないよ」
朱音がそう返すと、鎖は静かになった。
朱音は目を閉じる。
今度は、自分も少しだけ眠れそうだった。
朱音は1層9環から戻ってから、澪に怒るのではなくなるべく優しくしようと心に決めてます。
そのため口調などが柔らかくなってます。なってるはずです。なってるよね?




