第二話 世界が見たもの
医療区画の扉が閉じると、帰還室の騒ぎが一枚隔てられた。
それでも静かにはならなかった。壁際の計測器は澪と朱音の状態を追い続け、廊下側では職員の足音が絶えない。白い照明。消毒液と魔力洗浄剤の匂い。空葬原から持ち帰った血の匂いだけが、まだ澪の鼻の奥に残っていた。マシロはもう白に戻っている。表面を滑り落ちた赤は床の洗浄術式に吸われ、破れていた袖口も、細い糸が自分で結び直すように整っていた。
朱音は左側のベッドに横たわり、澪は右側のベッドに座らされている。横になれと言われたのに、朱音の手を握ったまま動かないせいで、医療班は諦めて二つのベッドを近づけていた。
「澪、横になって」
「起きてる」
「駄目」
「朱音先輩も起きてる」
「私は薬の反応確認中。澪は胸の処置中」
「同じ」
「違う」
「どこが?」
「全部」
朱音の声は掠れていたが、言い方は戻ってきていた。澪は少しだけ眉を寄せる。
「雑」
「雑じゃない。今の澪に細かく説明すると、途中で袋の中身を見に行こうとする」
「……見たい」
「ほら」
「中、増えてない?」
「勝手に増えたら怖いでしょ」
「でも、ダンジョン素材」
「それで何でも通すのやめようか」
澪は納得したような、していないような顔で、朱音の手を握り直した。朱音の手は先ほどより温かい。金色の薬液を飲んだ後、胸元に灯った白い光はもう見えない。けれど計測器の数字は安定していた。医療班の緊張も少しだけ解けている。
「七瀬さん、反応は安定しています。痛みは?」
「胸と脇腹が重いです。吐き気はありません」
「眠気は」
「少し」
「では眠ってください」
「澪が寝たら」
医療班の女性は一瞬だけ目を閉じた。
「天瀬さんも同じことを言いました」
「言ってない」
「目で言っていました」
「目?」
「はい。かなりはっきり」
朱音が小さく息を漏らした。笑いかけて、胸に響いたのか顔をしかめる。澪の耳が少し立った。
「痛い?」
「今のは笑っただけ」
「笑うと痛い?」
「少し」
「少しは?」
「……今のは本当に少し」
「ほんと?」
「澪に疑われる日が来るとは思わなかった」
「朱音先輩も、少しって言う」
「そうだね。じゃあお互い禁止」
「……不便」
医療班の手が澪の胸元へ伸びる。触れる前に、横に置かれたメイの鎖がわずかに鳴った。医療班は止まる。朱音が澪を見る。澪はメイを見る。メイは何も言わないが、床についた鎖の先だけが、じっと医療班の手袋を見ているようだった。
「メイ」
澪が呼ぶ。
鎖がわずかに揺れる。
「触るだけ」
低い音。
「切らない」
もう一度、低い音。
「朱音先輩が見てる」
鎖はそこで静かになった。
医療班の女性は、ゆっくり息を吐いてから処置を再開した。
「ありがとうございます」
「メイ、偉い?」
「偉いです。とても」
褒められたのが分かったのか、メイの刃がわずかに光った。朱音が天井を見る。
「装備に気を遣う医療区画、すごいね」
「メイ、装備?」
「装備……でいいのかな」
「メイはメイ」
「そうだった」
澪は少し満足したように目を伏せた。眠いわけではない。精神的な疲労で身体が沈みそうになっているだけだ。目を閉じると、空葬原の白い空と、朱音が息をしていなかった光景が戻ってくる。それが嫌で、澪は朱音の呼吸を見ていた。
扉の外では、別の重さが積み上がっていた。
神楽坂美冬の端末には通知が溜まり続けている。佐伯円は臨時卓の前に立ち、藍沢ミナトが配信停止直前の映像ログを管理していた。黒鉄旅団の数名が壁際に立ち、協会の観測班は必要以上に口を挟まない距離で待機している。三枝凛はその中間にいた。黒鉄の腕章をつけ、解析端末を抱えたまま、医療区画の扉を時折見ている。
ミナトが言った。
「システム表示、スキル名、澪さん本人にしか見えない類のログは配信に乗っていません」
「当然ですが、そこは救いですね」
佐伯が返す。
「ただ、映像上では七瀬さんの呼吸停止、外傷、長時間の無反応が確認されています。アークライン側の生命反応監視も、一度途切れています。その直後に澪さんが激しい代償反応を起こし、七瀬さんの生命反応が戻った。世間が何を言うかは、もう止められません」
「能力名は出ていない」
「はい」
「なら、こちらも名前をつけない。死亡状態からの回復、未知の干渉、再現性不明。それ以上は出しません」
「海外機関はもう照会を投げています」
「全部受領だけ返してください。回答は保留」
「了解」
壁面モニターに、公開反応の一部が並ぶ。アークラインの配信管理部が削除をかけても、感情までは止まらない。
『朱音さん、息してなかったよな』
『生命反応が戻ったってどういうこと』
『澪ちゃんの血の量が異常だった』
『あれは治療じゃない』
『治療じゃないなら何』
『言葉にしたくない』
『【探索者協会】本件について、アークラインおよび関係機関と共同確認中。未確認情報の拡散を控えてください』
『【国際探索者医療機構】公開映像の独自診断、断定的呼称の使用に注意喚起』
『【Noah Vale】Do not name it before you understand the price.(代価を理解する前に、名前をつけるべきではありません)』
『名前をつけるなってことは、名前をつけたくなる現象ってことだろ』
『澪ちゃんが朱音さんの呼吸を数えるなら、その数に入らない余白になって壁際で黙っていたい』
この投稿は削除されました。
『詩人、余白まで来たか』
『黙れてないから消されたんだよ』
『世界中が見た』
『これ、もう戻らないぞ』
ミナトは削除済みログを横へ流した。
「変態詩人、削除基準ぎりぎりを狙ってきます」
「今その報告、要ります?」
佐伯の声が少し冷たくなる。
「必要です。消しすぎると逆に注目されます」
「では、必要分だけ処理してください」
「しています」
「していてこれですか」
「しています」
神楽坂は二人のやり取りを聞きながら、凛へ視線を向けた。
「三枝さん。黒鉄側の帰還記録は?」
「提出できます。朱音さんが帰還符を起動した時点で、救助対象と黒鉄隊員、協会職員は押し出されています。戻ろうとした隊員もいます。でも、空葬原側の距離が閉じて、座標が掴めませんでした」
「あなたの所見として出せますか?」
「はい。責任の有無とは別に、事実として」
「お願いします」
「分かりました」
凛の声は静かだった。大声ではないのに、部屋の端まで届く。黒鉄の隊員たちも、その声を邪魔しなかった。肩までだった栗色の髪は、今は腰の辺りまで伸び、ところどころに青が混じっている。魚の特徴は外に出ていない。それでも声だけは違った。濁った空気の中でも、必要な場所までまっすぐ届く。
「凛ちゃん」
医療区画の内側から、朱音の声がした。
凛は少し驚いたように顔を上げる。扉は閉じている。けれど朱音の声はインターフォン越しに外へ届いていた。
『凛ちゃん、いる?』
「はい。います、朱音さん」
『さっき、ありがとう。澪を止めてくれて』
「止められたかは分かりません。声が届いただけです」
『それが一番助かった』
「……はい」
凛は端末を握る手に少し力を込めた。澪を「澪さん」と呼んだ自分を、まだ少し変だと思っている。元同級生。なのに、今の澪を昔と同じ呼び方では呼べなかった。外見は止まっている。むしろ凛の方が年上に見える。けれど、空葬原から帰ってきた澪の圧は、同級生という言葉では収まらないものになっていた。
それでも朱音は、昔と同じように凛ちゃんと呼ぶ。
そのあべこべさが、凛の胸に少しだけ残った。
佐伯が資料を切り替える。
「素材と物品の扱いに入ります。まず、白鯨素材は追加分です。既存保管分と合わせて、不老薬関連の供給計画に影響します。ただし、今回の本命は第二層第九環の回収品です」
「黒樹胎種、黒樹龍、その他装備類ですね」
神楽坂が言う。
「はい。若返り薬の可能性がある素材、未知の武具、アイテム類、そして《黒胎袋》。名称は天瀬さんの呼称に合わせて仮登録します」
「本人の所有物として」
「当然です。医療処置後、天瀬さん立ち会いで開封と精査。アークラインが必要とするものは寄贈または買い取り。協会は記録のみ」
「黒鉄は?」
黒鉄の隊員が口を開きかけ、凛が先に言った。
「黒鉄は、今は要求しません」
黒鉄隊員が凛を見る。凛は視線を逸らさない。
「帰還室での澪さんの反応を考えれば、今こちらから素材の話を出すべきではありません。必要な情報提供だけに留めるべきです」
神楽坂が頷いた。
「賢明です」
黒鉄隊員は少しだけ口を閉じ、やがて頷いた。
ミナトが新しい映像を出した。第二層第九環から帰還前に配信されていた断片。黒樹胎種の巨大な残骸。黒樹龍の樹液。地面に散らばっていた槍、短剣、杖、盾片、用途不明の装飾具。澪がそれらを次々と収納していた映像だ。
「視聴者は白鯨素材に反応していますが、専門筋は第二層側に集中しています」
「若返り薬の発言がありましたからね」
「はい。切り抜きは削除していますが、もう遅いです。海外医療企業、王族系財団、老探索者支援団体、全部来ています」
「老英雄も動きますね」
「動いています。エルンスト・ヴァルト側からは、正式な打診ではなく、体調報告という形で連絡が来ています」
「上手いですね」
「上手すぎて胃が痛いです」
医療区画の中で、澪はその話を聞いていなかった。聞こえていても、今はどうでもよかった。朱音の手が温かくなっている。薬は効いている。胸の傷も落ち着いてきた。重要なのはそれだった。
「朱音先輩」
「なに?」
「凛ちゃん、朱音さんって呼んでた」
「今は黒鉄だからね」
「前は?」
「朱音先輩、だったかな」
「変わった」
「凛ちゃんも大人になったんだよ」
「髪、長い」
「似合ってたね」
「うん」
「澪は、なんで少しむっとしてるの」
「むっと?」
「してる」
「澪さん、変」
「呼ばれ慣れない?」
「うん」
「凛ちゃんから見た今の澪は、澪さんなんじゃない」
「……むずかしい」
「そういうのは、むずかしくていい」
朱音は眠そうに目を細めた。薬の反応と疲労が一気に来ている。澪はそれに気づいて、手に力を込める。
「寝る?」
「少し」
「起きる?」
「ちゃんと起きる」
「ほんと?」
「起きる。だから、澪も寝る」
「またそれ」
「またそれ。ずっとそれ」
「強い」
「先輩だから」
澪は納得していない顔で、けれど反論をやめた。医療班が胸元の計測器を調整し、痛み止めの量を確認する。過剰には入れられない。澪の身体がどう反応するか分からないからだ。朱音の方も、不老薬投与直後で通常の薬剤反応が読み切れない。医療班の記録欄には、注意事項ばかりが増えていく。
「天瀬さん、眠れそうですか?」
「分からない」
「目を閉じるだけでも構いません」
「閉じたら、朱音先輩が見えない」
「手は繋いだままです」
「でも」
「澪」
朱音が短く呼ぶ。
「うん」
「息を数えるなら、目を閉じてもできる」
「……できる?」
「できる。私も澪の呼吸を数える」
「朱音先輩も?」
「うん。お互い数える。変な遊びだけど」
「遊び?」
「遊びじゃないと、怖いでしょ」
「……うん」
澪はそこでようやく目を閉じた。
すぐ眠るわけではない。指は朱音の手を探るように動き、呼吸のたびに耳がわずかに反応する。それでも目を閉じた。朱音は自分の眠気を押し返しながら、澪の呼吸を数える。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
扉の外では、世界中からの通知が止まらない。死者蘇生という言葉は、アークラインが使わなくても、すでに広がっている。白鯨の追加素材。第二層第九環の素材群。若返り薬の可能性。未知の武具。黒胎袋。澪が朱音を連れて転移した事実。どれも明日まで待ってはくれない。
けれど、白い医療区画の中では、ただ呼吸だけが続いていた。
「朱音先輩」
澪が目を閉じたまま呼んだ。
「いるよ」
「まだ?」
「まだいるよ」
「起きたら?」
「起きてもいるよ」
「……うん」
今度こそ、澪の呼吸が少し深くなった。
朱音はその手を握ったまま、天井を見た。死んでいたことを、自分でもまだ受け止めきれていない。戻されたことも、澪が払った痛みも、世界が見たものも。全部が遠く、近い。
朱音は小さく息を吐き、澪の呼吸をもう一度数えた。
ひとつ。ふたつ。みっつ……




