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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第四章

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第二話 世界が見たもの

 医療区画の扉が閉じると、帰還室の騒ぎが一枚隔てられた。


 それでも静かにはならなかった。壁際の計測器は澪と朱音の状態を追い続け、廊下側では職員の足音が絶えない。白い照明。消毒液と魔力洗浄剤の匂い。空葬原から持ち帰った血の匂いだけが、まだ澪の鼻の奥に残っていた。マシロはもう白に戻っている。表面を滑り落ちた赤は床の洗浄術式に吸われ、破れていた袖口も、細い糸が自分で結び直すように整っていた。


 朱音は左側のベッドに横たわり、澪は右側のベッドに座らされている。横になれと言われたのに、朱音の手を握ったまま動かないせいで、医療班は諦めて二つのベッドを近づけていた。


「澪、横になって」

「起きてる」

「駄目」

「朱音先輩も起きてる」

「私は薬の反応確認中。澪は胸の処置中」

「同じ」

「違う」

「どこが?」

「全部」

 朱音の声は掠れていたが、言い方は戻ってきていた。澪は少しだけ眉を寄せる。

「雑」

「雑じゃない。今の澪に細かく説明すると、途中で袋の中身を見に行こうとする」

「……見たい」

「ほら」

「中、増えてない?」

「勝手に増えたら怖いでしょ」

「でも、ダンジョン素材」

「それで何でも通すのやめようか」


 澪は納得したような、していないような顔で、朱音の手を握り直した。朱音の手は先ほどより温かい。金色の薬液を飲んだ後、胸元に灯った白い光はもう見えない。けれど計測器の数字は安定していた。医療班の緊張も少しだけ解けている。


「七瀬さん、反応は安定しています。痛みは?」

「胸と脇腹が重いです。吐き気はありません」

「眠気は」

「少し」

「では眠ってください」

「澪が寝たら」

 医療班の女性は一瞬だけ目を閉じた。

「天瀬さんも同じことを言いました」

「言ってない」

「目で言っていました」

「目?」

「はい。かなりはっきり」


 朱音が小さく息を漏らした。笑いかけて、胸に響いたのか顔をしかめる。澪の耳が少し立った。


「痛い?」

「今のは笑っただけ」

「笑うと痛い?」

「少し」

「少しは?」

「……今のは本当に少し」

「ほんと?」

「澪に疑われる日が来るとは思わなかった」

「朱音先輩も、少しって言う」

「そうだね。じゃあお互い禁止」

「……不便」


 医療班の手が澪の胸元へ伸びる。触れる前に、横に置かれたメイの鎖がわずかに鳴った。医療班は止まる。朱音が澪を見る。澪はメイを見る。メイは何も言わないが、床についた鎖の先だけが、じっと医療班の手袋を見ているようだった。


「メイ」

 澪が呼ぶ。

 鎖がわずかに揺れる。

「触るだけ」

 低い音。

「切らない」

 もう一度、低い音。

「朱音先輩が見てる」

 鎖はそこで静かになった。


 医療班の女性は、ゆっくり息を吐いてから処置を再開した。


「ありがとうございます」

「メイ、偉い?」

「偉いです。とても」

 褒められたのが分かったのか、メイの刃がわずかに光った。朱音が天井を見る。

「装備に気を遣う医療区画、すごいね」

「メイ、装備?」

「装備……でいいのかな」

「メイはメイ」

「そうだった」


 澪は少し満足したように目を伏せた。眠いわけではない。精神的な疲労で身体が沈みそうになっているだけだ。目を閉じると、空葬原の白い空と、朱音が息をしていなかった光景が戻ってくる。それが嫌で、澪は朱音の呼吸を見ていた。


 扉の外では、別の重さが積み上がっていた。


 神楽坂美冬の端末には通知が溜まり続けている。佐伯円は臨時卓の前に立ち、藍沢ミナトが配信停止直前の映像ログを管理していた。黒鉄旅団の数名が壁際に立ち、協会の観測班は必要以上に口を挟まない距離で待機している。三枝凛はその中間にいた。黒鉄の腕章をつけ、解析端末を抱えたまま、医療区画の扉を時折見ている。


 ミナトが言った。


「システム表示、スキル名、澪さん本人にしか見えない類のログは配信に乗っていません」

「当然ですが、そこは救いですね」

 佐伯が返す。

「ただ、映像上では七瀬さんの呼吸停止、外傷、長時間の無反応が確認されています。アークライン側の生命反応監視も、一度途切れています。その直後に澪さんが激しい代償反応を起こし、七瀬さんの生命反応が戻った。世間が何を言うかは、もう止められません」

「能力名は出ていない」

「はい」

「なら、こちらも名前をつけない。死亡状態からの回復、未知の干渉、再現性不明。それ以上は出しません」

「海外機関はもう照会を投げています」

「全部受領だけ返してください。回答は保留」

「了解」


 壁面モニターに、公開反応の一部が並ぶ。アークラインの配信管理部が削除をかけても、感情までは止まらない。


『朱音さん、息してなかったよな』

『生命反応が戻ったってどういうこと』

『澪ちゃんの血の量が異常だった』

『あれは治療じゃない』

『治療じゃないなら何』

『言葉にしたくない』

『【探索者協会】本件について、アークラインおよび関係機関と共同確認中。未確認情報の拡散を控えてください』

『【国際探索者医療機構】公開映像の独自診断、断定的呼称の使用に注意喚起』

『【Noah Vale】Do not name it before you understand the price.(代価を理解する前に、名前をつけるべきではありません)』

『名前をつけるなってことは、名前をつけたくなる現象ってことだろ』

『澪ちゃんが朱音さんの呼吸を数えるなら、その数に入らない余白になって壁際で黙っていたい』

この投稿は削除されました。

『詩人、余白まで来たか』

『黙れてないから消されたんだよ』

『世界中が見た』

『これ、もう戻らないぞ』


 ミナトは削除済みログを横へ流した。


「変態詩人、削除基準ぎりぎりを狙ってきます」

「今その報告、要ります?」

 佐伯の声が少し冷たくなる。

「必要です。消しすぎると逆に注目されます」

「では、必要分だけ処理してください」

「しています」

「していてこれですか」

「しています」


 神楽坂は二人のやり取りを聞きながら、凛へ視線を向けた。


「三枝さん。黒鉄側の帰還記録は?」

「提出できます。朱音さんが帰還符を起動した時点で、救助対象と黒鉄隊員、協会職員は押し出されています。戻ろうとした隊員もいます。でも、空葬原側の距離が閉じて、座標が掴めませんでした」

「あなたの所見として出せますか?」

「はい。責任の有無とは別に、事実として」

「お願いします」

「分かりました」


 凛の声は静かだった。大声ではないのに、部屋の端まで届く。黒鉄の隊員たちも、その声を邪魔しなかった。肩までだった栗色の髪は、今は腰の辺りまで伸び、ところどころに青が混じっている。魚の特徴は外に出ていない。それでも声だけは違った。濁った空気の中でも、必要な場所までまっすぐ届く。


「凛ちゃん」

 医療区画の内側から、朱音の声がした。


 凛は少し驚いたように顔を上げる。扉は閉じている。けれど朱音の声はインターフォン越しに外へ届いていた。


『凛ちゃん、いる?』

「はい。います、朱音さん」

『さっき、ありがとう。澪を止めてくれて』

「止められたかは分かりません。声が届いただけです」

『それが一番助かった』

「……はい」


 凛は端末を握る手に少し力を込めた。澪を「澪さん」と呼んだ自分を、まだ少し変だと思っている。元同級生。なのに、今の澪を昔と同じ呼び方では呼べなかった。外見は止まっている。むしろ凛の方が年上に見える。けれど、空葬原から帰ってきた澪の圧は、同級生という言葉では収まらないものになっていた。


 それでも朱音は、昔と同じように凛ちゃんと呼ぶ。


 そのあべこべさが、凛の胸に少しだけ残った。


 佐伯が資料を切り替える。


「素材と物品の扱いに入ります。まず、白鯨素材は追加分です。既存保管分と合わせて、不老薬関連の供給計画に影響します。ただし、今回の本命は第二層第九環の回収品です」

「黒樹胎種、黒樹龍、その他装備類ですね」

 神楽坂が言う。

「はい。若返り薬の可能性がある素材、未知の武具、アイテム類、そして《黒胎袋》。名称は天瀬さんの呼称に合わせて仮登録します」

「本人の所有物として」

「当然です。医療処置後、天瀬さん立ち会いで開封と精査。アークラインが必要とするものは寄贈または買い取り。協会は記録のみ」

「黒鉄は?」

 黒鉄の隊員が口を開きかけ、凛が先に言った。

「黒鉄は、今は要求しません」

 黒鉄隊員が凛を見る。凛は視線を逸らさない。

「帰還室での澪さんの反応を考えれば、今こちらから素材の話を出すべきではありません。必要な情報提供だけに留めるべきです」

 神楽坂が頷いた。

「賢明です」

 黒鉄隊員は少しだけ口を閉じ、やがて頷いた。


 ミナトが新しい映像を出した。第二層第九環から帰還前に配信されていた断片。黒樹胎種の巨大な残骸。黒樹龍の樹液。地面に散らばっていた槍、短剣、杖、盾片、用途不明の装飾具。澪がそれらを次々と収納していた映像だ。


「視聴者は白鯨素材に反応していますが、専門筋は第二層側に集中しています」

「若返り薬の発言がありましたからね」

「はい。切り抜きは削除していますが、もう遅いです。海外医療企業、王族系財団、老探索者支援団体、全部来ています」

「老英雄も動きますね」

「動いています。エルンスト・ヴァルト側からは、正式な打診ではなく、体調報告という形で連絡が来ています」

「上手いですね」

「上手すぎて胃が痛いです」


 医療区画の中で、澪はその話を聞いていなかった。聞こえていても、今はどうでもよかった。朱音の手が温かくなっている。薬は効いている。胸の傷も落ち着いてきた。重要なのはそれだった。


「朱音先輩」

「なに?」

「凛ちゃん、朱音さんって呼んでた」

「今は黒鉄だからね」

「前は?」

「朱音先輩、だったかな」

「変わった」

「凛ちゃんも大人になったんだよ」

「髪、長い」

「似合ってたね」

「うん」

「澪は、なんで少しむっとしてるの」

「むっと?」

「してる」

「澪さん、変」

「呼ばれ慣れない?」

「うん」

「凛ちゃんから見た今の澪は、澪さんなんじゃない」

「……むずかしい」

「そういうのは、むずかしくていい」


 朱音は眠そうに目を細めた。薬の反応と疲労が一気に来ている。澪はそれに気づいて、手に力を込める。


「寝る?」

「少し」

「起きる?」

「ちゃんと起きる」

「ほんと?」

「起きる。だから、澪も寝る」

「またそれ」

「またそれ。ずっとそれ」

「強い」

「先輩だから」


 澪は納得していない顔で、けれど反論をやめた。医療班が胸元の計測器を調整し、痛み止めの量を確認する。過剰には入れられない。澪の身体がどう反応するか分からないからだ。朱音の方も、不老薬投与直後で通常の薬剤反応が読み切れない。医療班の記録欄には、注意事項ばかりが増えていく。


「天瀬さん、眠れそうですか?」

「分からない」

「目を閉じるだけでも構いません」

「閉じたら、朱音先輩が見えない」

「手は繋いだままです」

「でも」

「澪」

 朱音が短く呼ぶ。

「うん」

「息を数えるなら、目を閉じてもできる」

「……できる?」

「できる。私も澪の呼吸を数える」

「朱音先輩も?」

「うん。お互い数える。変な遊びだけど」

「遊び?」

「遊びじゃないと、怖いでしょ」

「……うん」


 澪はそこでようやく目を閉じた。


 すぐ眠るわけではない。指は朱音の手を探るように動き、呼吸のたびに耳がわずかに反応する。それでも目を閉じた。朱音は自分の眠気を押し返しながら、澪の呼吸を数える。


 ひとつ。ふたつ。みっつ。


 扉の外では、世界中からの通知が止まらない。死者蘇生という言葉は、アークラインが使わなくても、すでに広がっている。白鯨の追加素材。第二層第九環の素材群。若返り薬の可能性。未知の武具。黒胎袋。澪が朱音を連れて転移した事実。どれも明日まで待ってはくれない。


 けれど、白い医療区画の中では、ただ呼吸だけが続いていた。


「朱音先輩」

 澪が目を閉じたまま呼んだ。

「いるよ」

「まだ?」

「まだいるよ」

「起きたら?」

「起きてもいるよ」

「……うん」


 今度こそ、澪の呼吸が少し深くなった。


 朱音はその手を握ったまま、天井を見た。死んでいたことを、自分でもまだ受け止めきれていない。戻されたことも、澪が払った痛みも、世界が見たものも。全部が遠く、近い。


 朱音は小さく息を吐き、澪の呼吸をもう一度数えた。


 ひとつ。ふたつ。みっつ……

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