第一話 帰還
空葬原の白い空の下で、二人の周りだけが赤く濡れていた。
朱音の手は冷たい。けれど、握り返してくる。弱く、すぐ消えそうな力だった。澪はその指を両手で包み、何度も確かめた。息がある。鼓動もある。さっきまで何もなかった場所に、命の音が戻っている。
白鯨の残骸は、遠くの墓標群へ降り続けていた。白い根。淡く光る器官。青白い骨片。薄い膜。空葬原の距離を狂わせていたものの名残が、雨のように白い地面へ落ちていく。メイが低く鳴った。欲しがっている。澪も見ていた。あれは必要なものだと分かる。アークラインが、確保できるならしてほしいと言っていたものだった。
けれど、澪は朱音の手を離せなかった。
「朱音先輩」
「……なに」
「生きてる?」
「うん。生きてる」
「ほんと?」
「ほんと」
「……よかった」
「澪は?」
「生きてる」
「うん。胸、痛い?」
「痛い」
「どれくらい?」
「……かなり」
「よし。嘘つかなかった」
「よし?」
「澪はすぐに嘘つくから」
朱音の声は掠れていた。顔色も悪い。胸元の傷は塞がり始めているが、白い防護外套には赤が残っている。けれど、マシロは違った。澪を包んでいた白い布の表面を血が滑り、淡い光に押し出されるように落ちていく。裂けていた箇所も、細い糸が自分で結び直すように戻っていた。黒を弾くために白くなった装備は、赤も汚れとして長く留めなかった。
朱音はそれを見て、小さく息を吐いた。
「マシロ、便利だね」
「うん」
「でも澪は洗えないからね」
「洗う?」
「あとで。今は帰る」
「素材」
「澪」
「いっぱい」
「今それじゃない」
「でも、言われてた」
「アークラインに?」
「うん。確保できたらって」
「確保できたら、でしょ。澪が倒れそうな顔で全部拾えって意味じゃない」
「消えるかも」
「…ちょっとだけだよ?」
「うん」
澪は片手で朱音の手を握ったまま、黒い収納袋を出した。黒樹胎種から落ちた、根で編まれたような袋。空鐘袋よりも口が重く、白い空の下に置くと、そこだけ黒い森の湿った影が戻ってきたように見えた。
メイの鎖が白鯨の膜へ伸びる。澪は柄を軽く叩いた。
「喰べすぎない」
メイが鳴る。
「少しだけ」
また鳴る。
「先に入れる」
鎖は不満そうに揺れたが、白い膜片を絡め取り、袋の口へ運んだ。続けて、淡い金を含む器官を一つ。青白い骨片を一つ。そして、小さな薄片を拾い上げた。朱音が見ている。澪は少し考えて、それも袋へ入れた。
「小さいの」
「見えてる」
「小さい」
「分かったから、もう閉じて」
「うん」
袋を閉じると、メイが白い膜の端をほんの少しだけ噛んだ。澪は見逃した。朱音も見ていたが、今は言わなかった。遠くではまだ素材が降っている。拾えばいくらでも拾えた。けれど、朱音の手が冷たい。澪の胸が痛い。空葬原の魔物は遠巻きにしているが、ここは優しい場所ではない。
配信端末は生きていた。白く歪んだ映像の端に、コメントが流れている。
『朱音さん、生きてる』
『手、握ってる』
『澪ちゃん、血がまだ』
『白鯨素材、落ち方がやばい』
『朱音さんの指示が戻ってきた』
『さっき死亡って出てたよな』
『言うな』
『でも見た』
『生命反応、再取得って協会が』
『再取得って何』
『止まってたってことだろ』
『澪ちゃんの心臓が戻る音を聞いた床になって、誰にも踏まれず朝まで冷えていたい』
このコメントは削除されました。
『今それを言える神経』
『でも詩としては妙に残るのやめろ』
『【アークライン配信管理部】未確認の能力名、推定効果、医療判断の投稿を制限します。両名は帰還準備中です』
『【探索者協会】第一層第九環域への接近を禁じます。後追い探索、救助目的の無許可侵入を確認した場合、処分対象となります』
『【Noah Vale】She is holding the hand first. Everything else can wait.(彼女はまず、その手を握っています。他のことは後でいいのです)』
『帰ってくれ』
『もう帰って』
澪は最後の方だけ見た。
「帰る」
「帰還符使おっか」
「いらない」
「転移?」
「近い」
「近いって、どこが?」
「帰還室」
「一人なら、でしょ」
「朱音先輩も」
「……私も?」
「うん」
「前は無理だったよね」
「今はいける」
「いつから」
「黒いとこ」
「死神の?」
「うん」
「あとで聞く。今は、痛くなったらすぐ言う」
「うん」
「少しでも」
「……うん」
澪は朱音の手を握り直した。
いつもの転移は、自分の輪郭だけを掴む。行ったことのある場所。見たことのある場所。そこへ自分だけを落とす。けれど今は、握った朱音の手の熱が、澪の輪郭の内側へ入っている。死神の黒い空間で、何かが変わった。マシロが白く黒を弾き、メイが死神の欠片を喰らい、澪の身体が何度も境目を踏み越えた。自分だけではないものを、少しだけ掴める。
足元に白い光が広がった。
朱音が息を呑む。
「重い?」
「……重い」
「やめとく?」
「大丈夫」
「わかったよ」
空葬原が折れた。
白い墓標、青く割れた空、白鯨の残骸、赤く濡れた地面が、一枚の膜の向こうへ遠ざかる。次の瞬間、澪はアークライン本部の深層帰還室にいた。
立っていられたのは一瞬だった。膝が落ちる。朱音の身体も傾く。マシロが広がって二人を支え、メイの鎖が床を鳴らした。白い床、強い照明、消毒液と魔力洗浄剤の匂い。そこに空葬原の血の匂いが混じる。
「帰還確認! 二名!」
「転移反応、二名分です!」
「七瀬朱音、生命反応あり! 胸部損傷、再生反応あり!」
「天瀬澪、胸部内部損傷継続! 吐血痕多数、再生反応あり!」
「収納袋確認、二つ! 高危険素材反応あり!」
「メイに近づきすぎるな。七瀬さんごと警戒してる!」
医療班が一気に動いた。澪は朱音の手を握ったまま、周囲を見る。白衣。手袋。担架。計測器。アークラインの腕章。協会の観測班。黒鉄の黒い装備。
黒鉄。
澪の目が止まった。
黒鉄の隊員が数名、帰還室の外側にいた。救助班の報告に来ていたのだろう。黒い防護外套。硬い装甲。朱音が守って帰した者たちの所属。朱音が最後に一人で残った場所から、帰ってきた者たちの色。
メイの鎖が、床を削った。
音が変わった。
帰還室の空気が一瞬で凍る。医療班が止まり、素材確認班が後ろへ下がる。黒鉄の隊員たちも身構えたが、それは遅すぎた。澪はまだ担架にも乗っていない。胸を押さえ、朱音の手を握ったまま、黒鉄だけを見ていた。
「澪」
朱音が呼ぶ。
「……なんで」
「澪」
「なんで、朱音先輩だけ」
「澪、違う」
「黒鉄、いた」
「聞いて」
「帰ってた」
「澪!」
朱音の声が少し強くなる。けれど、澪の目は黒鉄から外れない。メイの鎖が一本、床を這う。青白い刃の気配が、帰還室の白い照明を冷たくした。黒鉄の隊員の一人が息を呑む。動けば切れる。誰もがそう分かった。
その時、黒鉄側の後ろから声が届いた。
「澪さん」
大きな声ではなかった。
けれど、帰還室の端から端まで、まっすぐ届いた。怒鳴っていない。震えてもいない。澪の名前だけが、雑音をすり抜けて耳元へ置かれたようだった。
澪の視線が少しだけ動く。
黒鉄の隊員たちの間から、一人の女性が前へ出た。
栗色の髪が、腰のあたりまで伸びていた。肩までしかなかったはずの髪は長くなり、ところどころに青い色が混じっている。光の当たり方で、水面のように薄く揺れた。顔立ちは知っている。けれど、記憶の中の彼女よりずっと大人びていた。おどおどと目を伏せていた少女ではない。黒鉄の腕章をつけ、解析端末を抱え、背筋を伸ばして立っている。
三枝凛だった。
「凛ちゃん?」
「久しぶり、澪さん」
「うん?」
呼ばれた言葉が、少しだけ変だった。
澪の中では、凛は同級生だった。声が小さくて、いつも少し自信がなくて、肩までの栗色の髪を揺らしていた女の子。その凛が今は黒鉄の装備を着て、澪をさん付けで呼んでいる。大人びた凛の前で、澪だけが小さいまま止まっているみたいだった。
「黒鉄?」
「うん。今は黒鉄旅団の解析班」
「……なんで」
「スカウトされた。声と、解析を買われて」
「声?」
「声を届かせるの、少し得意になったんだよね」
凛の声は静かだった。けれど、澪の耳へまっすぐ入る。メイの鎖の音も、医療班の足音も、朱音の荒い呼吸も、その声を邪魔できなかった。凛の外見に分かりやすい異形はない。けれど、声だけが水の中を通るように、まっすぐ、遠くまで届いていた。
「朱音先輩を、黒鉄が見捨てたんじゃない?」
澪の目が細くなる。
「帰ってた」
「朱音先輩が帰したの。救助対象も、黒鉄の隊員も、協会の人も。最後の帰還符を起動させて、押し出した。黒鉄は戻ろうとした。でも距離が歪んで、戻れなかった。帰還室でもう一度突入準備してた。私も、ここで見てた」
「でも、朱音先輩、ひとり」
「うん」
「死んでた」
「うん」
凛は否定しなかった。
それが、澪を少し止めた。
「黒鉄のせいじゃないって、言いたいわけじゃない。止められなかった責任はある。帰ってきた人たちも、みんな分かってる。でも、見捨てて逃げたわけじゃない。朱音先輩が、帰したの」
澪は黙った。
メイの鎖が床を削る音が、小さくなる。
朱音が澪の手を握った。
「澪」
「……うん」
「凛の言う通り」
「朱音先輩が?」
「私が帰した。残ったのも、私が決めた」
「でも」
「でも、じゃない。怒るなら、あとで私に怒って」
「朱音先輩に?」
「そう」
「怒れない」
「じゃあ、あとで話す」
澪は黒鉄の隊員たちを見た。敵ではない。そう言われた。朱音が言った。凛が言った。けれど、胸の奥にはまだ冷たいものが残っている。朱音が一人で死んでいた白い場所。誰もいなかった景色。それは消えない。
凛が少しだけ近づいた。
黒鉄の隊員が止めようとしたが、凛は首を横に振った。澪の青い目が凛を見る。凛は、昔ならそこで目を逸らしていた。今は逸らさなかった。
「澪さん。朱音先輩を診てもらって。澪さんも」
「……凛ちゃん、大きい」
「身長?」
「雰囲気」
「澪さんも、変わったよ」
「変わった?」
「うん。でも、変わってないところもある」
凛の視線が、澪の顔から猫耳へ、白を取り戻しつつあるマシロへ、握られた朱音の手へ移る。澪の外見は止まっている。あどけないまま。けれど、中にあるものは、凛が知っていた同級生とは別物になっていた。
澪も、凛を見る。
凛は大人びていた。肩までだった栗色の髪は腰まで伸び、青い差し色が水のように揺れている。黒鉄の装備も似合っている。おどおどしていた女の子ではなかった。なのに、名前を呼べば、同じ人だと分かる。
「凛ちゃん」
「なに?」
「澪さんは、変」
「私も、ちょっと変な感じ」
「凛ちゃんでいい?」
「うん。それでいいよ」
「……そう」
メイの鎖が、床から離れた。
帰還室の空気がようやく動く。医療班が一斉に再開した。澪と朱音は横並びの担架に乗せられる。手は繋いだまま。朱音が放さないのではなく、澪が放さない。けれど朱音も、今は無理に外さなかった。
「右腕出して」
「うん」
「胸の機械、冷たいと思う」
「うん」
「メイは床を切らない」
「うん」
「袋は勝手に開けない」
「……うん」
「今の間」
「中、見たい」
「あとで」
「うん」
佐伯が素材確認班へ合図を出す。黒い収納袋は床に置かれたまま、距離を取って簡易結界だけ張られた。白鯨素材の反応は強すぎるのか、計測器が何度も警告音を鳴らす。
「黒樹系収納袋、内部に白鯨由来素材反応」
「空間歪曲反応あり。開封は危険です」
「所有者は天瀬澪さん。本人立ち会いなしの開封は行いません」
「医療処置終了後、本人確認の上で精査。アークライン希望分はその後に協議」
「袋から三メートル離れてください。没収ではありません。安全距離です」
澪は少しだけ佐伯を見た。
「私の?」
「はい。天瀬さんの所有物です」
「開ける?」
「今は開けません。あとで一緒に確認します」
「売る?」
「必要なら買い取ります。寄贈でも構いません。今は医療が先です」
「うん」
神楽坂美冬が廊下側から歩いてきた。顔は整っているが、端末には通知が溢れている。死亡状態からの回復。白鯨素材。二名転移。黒鉄への敵意。どれ一つ取っても会議室が吹き飛ぶ内容だった。
「配信は停止済みです」
藍沢ミナトの声が、端末越しに届いた。
「ですが、停止前の映像は世界中で保存されています。死亡表示、代償表示、生命反応再取得、すべて確認されています」
佐伯が短く息を吐いた。
「能力名は?」
「出ていません。ただ、現象は出ています」
「否定は?」
「できません」
「でしょうね」
澪はその会話をあまり聞いていなかった。朱音の手を握り、顔色を見ている。朱音は担架の上で目を閉じかけ、すぐ開いた。寝るのが怖いのかもしれない。死んでいた直後だからかもしれない。澪には分からない。
佐伯が近づいてきた。
「七瀬さん。完成品の投与準備を開始しています」
「はい」
朱音は頷いた。
澪が顔を上げる。
「出来たんだ。朱音先輩の薬」
「はい。封鎖保管していた完成品です。天瀬さんの帰還後、七瀬さん本人の同意を確認して投与する予定でした」
「飲んで」
「飲むよ」
朱音は澪を見た。
「でも、澪」
「なに?」
「澪が言うから飲むんじゃない。私が飲むって決めてたから飲む。そこは間違えないで」
「……うん」
「澪が帰ってきたら飲む。それだけ保留してた」
「僕、帰ってきた」
「うん。帰ってきた。だから飲む」
「死なない方がいい」
「そうだね。私も、もう一回あれを澪にさせたくない」
澪は少し黙った。
胸がまだ痛む。さっきの痛みは、言葉にできるものではなかった。朱音も見ていた。世間も見ていた。画面の向こうの誰かも、澪が血の中でもがいたことを見ていた。
神楽坂が医療班へ合図を送る。封鎖ケースが運ばれてきた。小さい。あまりにも小さいケースだった。何重もの認証を抜け、透明な容器の中に薄い金色の液体が収まっている。帰還室にいる全員が、それが何かを知っている。誰も余計なことは言わなかった。
朱音は容器を受け取った。手が少し震えている。澪の手がわずかに動く。朱音はそれを見て、短く言った。
「澪」
「うん」
「見てて」
「見る」
「胸が痛くなったら言う」
「それ、今関係ある?」
「ある。澪が倒れたら、私が飲む前に医療班が増える」
「……うん」
朱音は金色の液体を飲んだ。
数秒、何も起きなかった。
澪がじっと見ている。朱音は眉を寄せた。
「……まずい」
「まずい?」
「かなり」
「水、いる?」
「あとで」
「吐く?」
「吐かない」
「えらい」
「澪に言われると変」
澪は少しだけ安心した顔をした。
その直後、朱音の胸元で淡い白い光が灯った。傷を塞ぐ光とは違う。身体の奥へ沈み、骨、血、魔力の通り道を一つずつ撫でるような光。朱音は息を止めず、ゆっくり吐いた。背中に、ほんの一瞬だけ白い翼の輪郭が浮かび、すぐ消えた。
「投与反応安定」
「拒絶なし」
「老化指標、変動停止」
「生命維持反応、正常域へ」
「七瀬朱音、状態安定へ移行」
医療班の声が続く。
凛は少し離れた場所から見ていた。黒鉄の腕章をつけたまま、解析端末を胸の前で抱えている。澪と目が合う。凛は何も言わず、小さく頷いた。その声はもう必要なかった。さっき届いた一言で、澪は黒鉄を斬らなかった。
朱音の手が、少し温かくなる。
澪は握り返した。
「死なない?」
「今までよりは、ずっと死ににくい」
「よかった」
「よかった、で済む話じゃないんだけどね」
「でも、よかった」
「……うん。よかった」
帰還室の白い床には、空葬原から持ち帰った血が点々と落ちていた。けれど、澪を包むマシロは白を取り戻している。血を払い、破れを塞ぎ、何事もなかったように澪の肩へ落ちていた。メイは澪のそばで低く鳴り、黒い収納袋は少し離れた場所で簡易結界に囲まれている。医療班が二人の状態を追い、佐伯がすでに次の書類を開いている。神楽坂の端末には、未読の通知が増え続けていた。
死んだ人間が、戻った。
白鯨の素材が、袋の中にある。
澪は、朱音を連れて転移した。
世界が騒ぐ理由はいくらでもあった。
けれど澪は、それを見ていなかった。
朱音の呼吸を数えていた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
朱音は生きている。手を握り返す。薬はまずかった。顔をしかめた。いつもの朱音に近い顔だった。
それだけで、今はよかった。
久しぶりの凛ちゃんです。
歳が止まった澪から見たら完全に年上お姉さんです。
髪が方まで伸びててかなーり美形です。
朱音先輩不老になったね。




