第二十八話 黒樹龍②
黒樹龍が、二度目の息を吸った。
森の中に散っていた黒緑の霞が、龍の喉へ集まっていく。花の香りが濃くなり、黒い根の表面が濡れたように光る。枝から垂れていた胞子袋がひとつ、ふたつと萎み、代わりに龍の胸元の外殻が脈打った。呼吸ひとつで森の中身を吸い上げているようだった。
澪は黒く乾いた左腕を下げたまま、メイを右手に持つ。
左腕は動く。だが遅い。皮膚の下で黒緑の筋が蠢き、再生の魔力が流れ込むたびに形を濁らせる。戻ろうとした肉が、途中で違うものに縫い直される感覚。痛みより、それが邪魔だった。
「もう一回」
澪はそう言って、口元を上げた。
怖くないわけではない。痛くないわけでもない。けれど、目の前の龍は強い。綺麗で、気味が悪くて、速くて、こちらの動きを読んでくる。澪の身体が勝手に熱を持つ。猫耳が伏せられ、青い目が細くなる。マシロの白い裾が、黒い地面を小さく噛んだ。
龍の息が放たれる。
黒緑の奔流が、音を消して森を裂いた。
澪は正面から受けない。右へ転移する。転移先の根が先に膨らんだ。そこに花の口が開く。澪は転移直後に地面を蹴り、低く潜る。花の口が閉じ、空を噛んだ。黒緑の息は澪を追って曲がる。風ではない。霧でもない。龍が吐いたものが、澪の魔力の匂いを辿ってくる。
メイを振る。
青白い斬撃が黒緑の息を裂いた。裂けたはずの息が、両側から細い根のように伸びる。マシロが広がり、それを弾く。白い布に黒い染みが走り、すぐに外へ吐き出される。吐き出された染みは地面で白い煙を上げた。
澪は前へ出た。
龍が爪を振る。黒い枝のような爪が、横から澪を払う。澪はメイの柄で受けた。衝撃は重くない。だが、爪にまとわりついた濡れた膜が柄へ絡む。魔力が鈍る。澪は眉を寄せ、柄を握り直した。
「それも、邪魔」
左足で地面を蹴る。
転移。
龍の喉元。黒緑の外殻と灰白の筋が交わる場所へ出る。メイの刃を短く叩き込んだ。斬るというより、刃を噛ませる。刃先が外殻へ浅く入り、奥の樹液へ触れた。
メイが鳴る。
黒緑の液が、刃の青に沈む。
ほんの少し、喰った。
龍の喉が震えた。次の息が乱れる。澪はその震えを見て、さらに刃を押し込もうとした。だが、龍の首が曲がる。長い首が鞭のようにしなり、澪の身体を弾き飛ばした。
マシロが白い足場を作る。
澪は空中で足場を蹴り、回転しながら着地した。左腕の黒緑の筋が、また奥へ潜ろうとする。澪は右手でそこを掴み、少しだけ引いた。
肉の奥から、細い根のようなものが引き出される。
痛い。
澪の口角が、また上がった。
「見えた」
『二度目、曲がった』
『息が追ってきた』
『あれ避けても追うのか』
『メイが喉に入った』
『龍が嫌がった?』
『ちょっと揺れたよな』
『澪ちゃん、腕から何か引っ張った』
『見たくないけど目が離せない』
『口元上がってる』
『楽しそうで怖い』
『でも分かる、あの龍きれい』
『黒緑なのに綺麗なのずるい』
『澪ちゃんの黒くなった腕を白い布で包みたい』
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『包みたいだけなら分かるが言い方がだめ』
『【アークライン装備開発部】マシロの損傷ログを保存。現時点では自己修復継続中』
『装備開発部が出てきた』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】The breath is following her magical trace. Cutting the mist is not enough; the source inside the dragon must be disturbed.(息は彼女の魔力痕を追っています。霞を裂くだけでは足りず、龍の内側の源を乱す必要があります)』
『解説ニキ、今回はかなり嫌そう』
『【黒鉄旅団公式】天瀬は今、損傷を観察している。普通なら観察する前に撤退する』
龍が翼を広げた。
葉脈のような翼から、細い胞子がこぼれる。胞子は空中で止まり、澪を中心に円を作った。ひとつひとつが光る。光った胞子は、すぐ黒い針へ変わる。前後左右、頭上、足元。澪がどこへ転移しても、針の輪の中へ出る配置だった。
「囲んだ」
澪は小さく言う。
針が一斉に縮まる。
澪は動かない。
メイの鎖を地面へ落とす。鎖が黒い根の上を走る。巨人戦で喰った根の性質が、鎖の節にわずかに出た。鎖が細く枝分かれし、地面へ食い込む。支点が作られる。澪はその支点を足で踏み、身体を低くした。
針が来る。
メイを一回転。
青白い斬撃が周囲を円に裂く。正面の針が砕ける。背後の針はマシロが受ける。足元の針は鎖が弾く。頭上から落ちた針が一本、澪の左肩に刺さった。黒く乾いた場所へさらに入り込む。
澪は左肩を見ない。
転移。
輪の外ではない。輪の内側をさらに詰める。龍の懐。口元の下。喉の外殻へ、もう一度メイを当てる。
今度は斬らない。
澪は、さっき左腕から引き出した感覚を刃へ乗せた。肉を裂くのではなく、流れを探る。樹液の奥、魔力の奥、呼吸の奥。そのさらに下にある、龍が自分の身体を保つための細い芯。見えない。だが、ある。
刃がそこへ触れた。
龍の瞳が大きく開く。
喉の奥で集まりかけていた黒緑の息が、途中で崩れた。森へ戻るはずの霞が、龍の口元からこぼれる。澪はすぐに飛び退いた。こぼれた霞は地面へ落ち、黒い花をいくつも咲かせる。
「こっち」
澪は息を吐く。
龍の外殻はまだ硬い。傷も浅い。だが、ただ斬るより奥に届く。メイがそれを覚え始めている。刃の青に黒緑の線が一本混じり、鎖の節には細い根の模様が浮いた。
龍が怒った。
声はなかった。だが、森が反応した。伏せていた魔物たちが一斉に震え、幹の内側で虫が暴れ、根が澪へ向かって伸びる。黒樹龍は自分の身体だけで戦っているのではない。森そのものを、手足のように使っている。
澪は笑ったまま、後ろへ跳んだ。
「いっぱい来た」
『囲んだのに内側へ行った』
『外じゃなくて中!?』
『針の輪から出ないで懐に入ったぞ』
『メイの鎖、枝分かれした?』
『巨人の根っぽい』
『今の、喉の息が崩れた』
『龍が怒った』
『森が動いてる』
『黒樹龍、森ごと使ってる』
『澪ちゃん、いっぱい来たって嬉しそう』
『いっぱい来たなら私も行きます』
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『来るな』
『【黒鉄旅団公式】今の一撃は外殻ではなく内側の流れを乱した。武器側が変化している』
『黒鉄が興奮してる』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】Her blade did not cut deeper, but the dragon’s breath collapsed. The attack reached another layer.(刃が深く入ったわけではありませんが、龍の息が崩れました。別の層へ届いています)』
『別の層って何』
『解説ニキも言葉選んでる』
『【日本探索者協会・臨時広報】第二層第九環の該当戦闘記録を優先保存中』
地上側では、朱音たちが第一層第九環へ入っていた。
空葬原の空は、相変わらず美しかった。白い墓標群。青く割れた空。遠くでゆっくり流れる光の帯。地面は骨のように白く、踏むと乾いた音がする。美しい。だからこそ、誰も気を抜けない。
朱音は隊列の前に立っていた。
黒鉄の隊員が左右を固め、協会職員が後方で帰還補助札の反応を見ている。朱音の胸元の端末からは、澪の配信音声が小さく流れていた。
『こっち』
その声を聞くたび、朱音の胸が痛む。
だが、今は前を見る。
救助対象の反応は、墓標群の向こう側。空葬原の外縁。地形がずれやすい場所だった。澪の映像で何度も見た。見たから分かる。見ていたからこそ、怖い。
白い墓標の影から、小さな魔物が出た。
鳥の骨のような身体。頭はなく、胸の奥に青白い鐘がある。鐘が鳴る前に、朱音は槍を投げた。槍は胸の鐘を貫き、魔物を墓標へ縫い止める。黒鉄の隊員が即座に追撃し、鐘ごと砕く。
「次、右」
朱音が言う。
右の墓標が一拍遅れて沈む。そこにいたはずの足場が消えた。黒鉄の隊員が息を呑む。
「よく見たな」
「見たんじゃないです。澪の配信で、似た動きを覚えてました」
「十分だ」
朱音は返事をせず、槍を構え直した。
救助対象の声が聞こえた。
『誰か……!』
通信越しではない。生の声。墓標の奥、欠けた白い柱の陰。若い探索者が二人、そこにいた。片方は足を挟まれ、もう片方は肩から血を流している。帰還札は手に持ったまま、青白く点滅しているだけだった。
「対象確認。二名」
朱音は走った。
足場を確かめ、沈む墓標を避け、槍で小型魔物を払いながら距離を詰める。黒鉄の隊員が左右を固める。協会職員が後ろから帰還補助札を展開する。
救助対象の少年が、朱音を見て泣きそうな顔をした。
「助け……」
「喋らないで。帰るよ」
朱音は短く言い、挟まれた足元を槍の柄で持ち上げた。
その時、空葬原の奥から、低い音がした。
鐘ではない。
水のような、獣のような、遠くで巨大なものが身じろぎする音。
黒鉄の隊員の顔色が変わる。
「白鯨反応」
「撤退します」
朱音は即答した。
言い切った瞬間、空の奥で白い影が動いた。
まだ遠い。
だが、見えた。
白い鯨のような巨影が、空葬原の墓標群の向こうをゆっくり泳いでいた。
朱音の指が、一瞬だけ槍を強く握る。
撤退。
それ以外しない。
自分で言った言葉を、胸の中で繰り返す。
「帰還補助、急いで」
「反応が揺れてる!」
「もう一枚重ねます!」
「黒鉄、左から小型三体!」
「止める!」
朱音は救助対象の前に立った。
白い空の奥で、白鯨が向きを変える。
胸元の端末から、澪の声がした。
『いっぱい来た』
朱音は奥歯を噛んだ。
「こっちも、いっぱい来たよ」
その声は、澪には届かなかった。
『朱音さん側、映像ある?』
『救助班は非公開だろ』
『音だけ少し入ってる?』
『今、白鯨って聞こえた?』
『聞こえた気がする』
『第一層第九環の救助班?』
『朱音さん行ってるの?』
『やばい場所じゃん』
『【黒鉄旅団公式】救助班の詳細位置・映像は公開しない。憶測での追跡、接近を禁じる』
『黒鉄が強い』
『【アークライン配信管理部】救助班関連の位置推定コメントを削除します』
『行くなってことだぞ』
『朱音さん無事でいて』
『澪ちゃん、戻れるなら本当に戻って』
『でも今戻ったら黒樹龍が』
『どっちもやばい』
第二層第九環では、黒樹龍が森を動かしていた。
根の槍が地面から生える。胞子の針が空を埋める。花の口が転移先に咲く。澪は笑ったまま、そのすべての間を抜けた。楽しい。苦しい。痛い。戻りが遅い。全部同時にある。
メイが龍の樹液を喰うたび、刃の青に黒緑の細い線が増える。マシロが黒い霞を吐き出すたび、白い布の縁が焦げたように縮む。澪の左腕はまだ完全には戻らない。だが、黒緑の筋がどこから再生を濁らせているのか、少しずつ分かってきた。
龍が高く跳んだ。
翼が葉脈を広げ、森の上に浮く。口元に、三度目の息が集まる。今までより細い。今までより濃い。黒緑の霞が一本の槍のように圧縮されていく。
澪はメイを両手で持った。
左手はまだ黒く乾いている。指の動きは鈍い。それでも握れる。
澪は小さく笑った。
「それ、欲しい」
黒樹龍の息が放たれる。
澪は逃げなかった。
メイの刃を、真正面から合わせた。
黒緑の息と青白い刃がぶつかる。森の音が消える。マシロの白が広がる。メイの刃が、息を裂きながら、その奥の流れを喰らい始めた。
澪の左腕の黒緑の筋が、逆向きに震えた。
龍の瞳が、初めて揺れた。




