第二十七話 黒樹龍
「次、強そう」
その声は小さかった。けれど、少しだけ楽しそうだった。
森が、息を止めていた。
さっきまで澪を追っていた根の獣も、葉の鳥も、花の口を持つ魔物も、黒い幹の影で低く伏せている。逃げたのではない。伏せて、動かない。何かが通り過ぎるのを待つように、根も葉も胞子袋も、自分の音を殺していた。
澪はメイを肩から下ろした。
黒い森の奥で、根がほどける。
地面が割れたわけではない。幹が倒れたわけでもない。森そのものが、何かを通すために道を開けている。絡み合っていた黒根が左右へ逃げ、幹に張りついていた花が一斉に閉じる。枝から垂れていた胞子袋はぷつりと切れ、地面へ落ちる前に黒い煙になって消えた。
甘く腐った匂いが濃くなる。
澪の猫耳が伏せられる。
音が多い。根の奥を流れる樹液。袋状の器官が脈打つ音。幹の内側で蠢く小さな虫。どれも細かく、湿っていて、耳の奥に残る音だった。だが、その全部の上に、もっと大きな呼吸が重なっている。
龍の呼吸だった。
姿が現れる。
最初に見えたのは、角ではなかった。黒い枝に似た、ねじれた突起。次に、長い首。鱗に見えるものは、硬化した樹皮と濡れた薄膜が重なった外殻だった。色は黒緑。ところどころ灰白に乾き、隙間から濃い樹液が光っている。翼は薄い葉脈の膜で、羽ばたくたびに細かい胞子がこぼれた。
全長は二十メートルほど。
巨人よりずっと小さい。
けれど、その龍が一歩を踏み出した瞬間、森の奥が暗く沈んだ。重さではない。巨体の圧でもない。そこにある根、胞子、腐った樹液、花の香り、幹の中の虫、そのすべてが龍の呼吸に従っている。森の魔物たちは、あれを恐れて伏せていた。
澪はその姿を見上げた。
「きれい」
普通の綺麗ではなかった。白でも銀でもない。澄んでもいない。腐った花の香りをまとった黒緑の外殻の奥で、暗い魔力が脈打っている。翼の葉脈は細かく、鱗の割れ目から漏れる霧は、光を浴びるとほんの少し虹のように揺れる。気味は悪い。けれど、整っている。危ないものほど、美しく見える瞬間がある。
澪の口角が、ゆっくり上がった。
龍が、澪を見た。
黒緑の瞳の奥で、花粉に似た光が揺れる。
次の瞬間、龍の周囲に浮いていた胞子が一斉に止まった。止まった胞子が針の形へ変わる。数十、数百、数千。小さな黒い針が、音もなく澪へ向いた。
「それ、痛そう」
澪は前へ出た。
針が降る。
雨ではない。ひとつひとつが、澪の関節、目、喉、脇腹、マシロの縫い目を狙っている。澪はメイを振る。青白い斬撃が扇のように走り、正面の針をまとめて裂いた。裂けた針は黒緑の霞へ戻る。霞は消えず、澪の周囲へまとわりついた。
マシロの襟が立つ。
白い布が口元を守る。澪は息を止めず、甘く腐った匂いを少しだけ吸った。舌が痺れる。喉の奥が重くなる。けれど、動ける。
龍の尾が来た。
尾というより、黒い根の束だった。先端に花がいくつも咲き、振られるたびに花弁から濃い液が飛ぶ。澪は跳ぶ。マシロが白い足場を作る。足場を蹴って、尾の上へ着地する。
濡れた薄膜が靴底へ絡む。
澪は気にせず走った。
メイの刃を尾へ突き立てる。刃が樹皮を裂き、奥の黒い樹液へ触れる。メイが鳴った。刃の青が、黒緑の液に触れて濁る。だが、すぐに沈む。食べた。ほんの少しだけ。
龍の身体が震える。
尾が跳ねる。
澪は飛ばされる前に転移した。白い残像が尾の上に残り、次の瞬間には龍の首元へ出る。メイを横へ振る。鎌の風圧が青白い斬撃になって飛び、首の外殻を削った。
浅い。
巨人の腕を落とした斬撃が、龍の首では濡れた膜と樹皮を削るだけで止まる。削れた場所から黒い樹液が流れ、その液がすぐに固まり、傷を塞ぎ始めた。
「硬い」
澪は嬉しそうに言った。
『龍だ』
『森から出てきた』
『黒緑の龍』
『気持ち悪いのに綺麗』
『澪ちゃん、きれいって言った』
『笑ってる』
『楽しそう』
『あの針、全部狙ってる』
『メイが何か食べた?』
『食べたよな』
『鎌にあの黒い液が入った』
『澪ちゃんの鎌に食べられたい』
このコメントは削除されました。
『今日も鎌志望』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】The dragon’s body is not simple flesh. It appears to be layered bark, wet film, and magical sap.(龍の身体は単純な肉ではありません。硬化樹皮、濡れた膜、魔力を含んだ樹液が層になっているようです)』
『解説ニキの顔が見たい』
『【黒鉄旅団公式】斬撃が浅い。外殻が硬いだけではなく、傷を樹液で塞いでいる』
龍が口を開く。
喉の奥に光が集まる。炎の赤ではない。氷の白でもない。黒緑の霧が渦を巻き、その奥で青い魔力が細く圧縮されていく。腐った花の香りと魔法が混ざり、喉の内側でひとつの息になる。
澪の耳が、その音を拾った。
水が濁る音。
肉が乾く音。
魔力の流れが内側からほどける音。
吸って終わりではない。触れたものの戻ろうとする力へ根を入れ、治ろうとする流れそのものを濁らせる息。
澪は横へ転移しようとした。
龍の瞳が動く。
転移先の根が先に膨らんだ。そこへ黒い花が咲く。澪が飛ぶはずだった場所に、すでに花の口が開いている。
澪は転移を止める。
止めた一拍で、龍の息が来た。
黒緑の息が森を裂いた。
澪はメイを前に出し、マシロが白く広がる。受ける。流す。斬る。全部が同時だった。メイの刃が息を裂き、マシロが澪の身体を包む。だが、裂けた端から細い根のようなものが伸び、白い布の隙間へ入ろうとした。
澪は跳ぶ。
本流は避けた。
だが、左腕に黒緑の霞が触れた。
皮膚が黒く乾く。
火傷ではない。凍傷でもない。肉が一瞬で水分を失い、炭のように硬くなる。澪の再生が走る。だが、戻ろうとした肉の中へ、細い根が入り込んだ。再生した場所がまた乾く。戻そうとするたび、形が濁って崩れる。
澪は左腕を見た。
黒く乾いた皮膚の下で、緑の筋が蠢いている。
「戻り、遅い」
声が少しだけ低くなった。
龍は、その反応を見ていた。
翼が揺れる。胞子が広がる。龍の瞳が細くなり、口元の薄膜がわずかに開いた。笑っているようにも見えた。
澪は左腕を振った。
動く。だが重い。細い根が内側で絡んでいる。再生が追いつかないわけではない。再生しようとするたび、邪魔されている。
メイが鳴る。
澪は刃を左腕へ近づけた。刃の奥で、さっき食べた黒緑の液が小さく揺れる。メイはそれを理解しようとしている。澪も同じだった。龍の息は肉を壊しているのではない。もっと奥へ小さな根を刺し、そこから再生の道筋を歪めている。
「そこ、邪魔してる」
澪は小さく言った。
龍が再び息を吸う。
『かすっただけだぞ』
『左腕、黒くなった』
『戻ってない』
『いつもなら戻るだろ』
『再生が遅い』
『中で何か動いてる』
『マシロ、守って』
『澪ちゃん、腕切る気?』
『やめて』
『いや、あれ抜かないと戻らないのか?』
『【アークライン配信管理部】医療班、待機状態を引き上げます』
『朱音さん見てる?』
『見てるに決まってる』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】The damage is not simple tissue destruction. Something is interfering with the path of regeneration.(単純な組織破壊ではありません。再生の経路そのものへ干渉しています)』
『再生の経路って何』
『かすっただけでそれは怖すぎる』
地上側では、別の準備が進んでいた。
第一層第九環、空葬原への救助班。協会の要請を受け、黒鉄旅団から第一層救助経験者が出る。アークラインは監視と配信管理を続けながら、装備と回線を回した。救助対象は、第八環から第九環境界付近へ流された小規模隊。帰還札の反応は不安定。位置は、空葬原の外縁と推定されている。
朱音は準備区画で、白い防護外套に袖を通していた。
澪の装備とは比べものにならない。だが、第一層第九環へ入るために、今用意できる中では上等だった。袖口には帰還補助札。腰には応急封鎖具。背中には細い予備槍。手に持つ槍は、いつものものより少し重い。
胸元の端末から、澪の配信音声が低く流れている。
『戻り、遅い』
朱音の手が止まった。
画面の中で、澪の左腕が黒く乾いている。白いマシロが必死に黒緑の筋を押し返そうとしている。メイの刃が低く鳴っている。
「澪……」
今すぐ戻ってきてほしかった。
そう思った瞬間、配信コメントのひとつが目に入った。
『戻れるなら戻って』
澪が、何でもない声で答えた。
『戻れる』
朱音は固まった。
水瀬も、端末を操作する指を止めた。佐伯がゆっくり顔を上げる。黒鉄の救助隊員が一瞬だけ朱音を見た。
『……澪、戻れるの?』
朱音の声が配信へ入った。
澪は黒樹龍の細針を避けながら、短く答える。
「うん」
『戻れるのに、戻ってないの?』
「戻ったら、たぶん怒られる。あと、またここ来るの面倒」
『澪』
「今のなし」
なしになるはずがなかった。
朱音は目を閉じ、深く息を吸った。
『帰ってきたら、話があります』
「長い?」
『長い』
「やっぱり戻りにくい」
『それも含めて話があります』
澪は少しだけ黙った。
「うん」
返事は素直だった。
朱音はそれ以上言わなかった。今は問い詰める時間ではない。救助隊が動く。第一層第九環へ入る準備をしなければならない。
『戻れる!?』
『戻れるって言った!?』
『澪ちゃん!?』
『戻れるなら戻って』
『怒られるから戻らないは草通り越して鎖』
『朱音さんの声が低い』
『説教だ』
『説教が来る』
『【アークライン配信管理部】該当発言を記録しました』
『公式も記録した』
『逃げ場がない』
『【黒鉄旅団公式】七瀬朱音、今は救助に集中しろ。説教は帰還後でいい』
『黒鉄が説教を許可した』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】She said she can return. I will not interpret that further during combat.(戻れると発言しました。戦闘中のため、これ以上の解釈は控えます)』
『解説ニキも逃げた』
『戻れる白猫、戻らない白猫』
朱音は槍を握り直した。
黒鉄の隊員が言う。
「境界を越えたら、七瀬が前。俺たちは左右を固める。救助対象を確認したら即撤退。戦闘は最小限だ」
「はい」
「白鯨反応が出たら?」
「撤退優先」
「違う。撤退以外考えない」
「……はい」
朱音は頷いた。
胸元の端末から、澪の声が聞こえる。
「濁り、分かったかも」
朱音は息を呑んだ。
画面の中で、澪が黒く乾いた左腕を前に出している。メイの刃が、その腕に触れた。切るのではない。中で絡んでいる細い根だけを探るように、刃の青が黒緑の筋へ染み込んでいく。
澪は黒樹龍を見上げた。
口元がまた、ほんの少し上がる。
痛い。
戻りが遅い。
邪魔されている。
それでも、目の前の龍は強く、美しく、面白かった。
「もう一回」
黒樹龍が、二度目の息を吸った。
新しいボスです。
イメージとしてはこのフロアでいちばん強いです。
だって龍だからね。




