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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第三章

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第二十六話 白猫の通り道

 巨人の残骸は、黒い森へ沈みきっていた。


 拾えるものは、もうほとんど収納袋に突っ込み、インベントリへ入れてある。大量の素材も、槍も、短剣も、杖も、盾のような装備も。マシロの白い裾が、黒い根の上で静かに揺れている。


 澪は指先に小さな水玉を作り、口へ運んだ。


「ぬるい」


 それでも飲める。黒い森の液体より、ずっといい。もう一度水を作り、マシロの袖口へ残った黒い汚れを少し拭う。水はすぐ黒く濁り、地面へ落ちて白い煙を上げた。


「飲み水、できる」


 澪は少し満足そうに言った。


『水魔法だー!』

『すごい!いつの間に覚えたの?』

『これが例のスキルオーブの影響では?』

『水出せるの強い』

『澪ちゃんの作った水を飲みたい』

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『削除が早い』

『飲み水は大事』

『【アークライン公認解説/Noah Vale】Clean water generation is small in scale, but it changes survival value in long stays.(生成量は少ないですが、長期滞在では生存価値が大きく変わります)』

『解説ニキ、水で安心してる』

『今は安心できる要素なら何でもいい』


 澪は水で指先を洗い、メイを肩に担いだ。


 巨人がいた場所には、深い穴と割れた根だけが残っている。地下から聞こえていた鼓動はもうない。黒根虫の残りも動かない。森は静かだった。だが、静けさは安全ではない。


 澪の猫耳が動いた。


 右。


 黒い幹の影から、細いものが飛び出した。獣ではない。四本足の形をした根の塊。背中に鋭い葉が並び、口の代わりに縦に裂けた花が開いている。澪の喉元へ一直線に跳んできた。


 澪は振り向かない。


 メイを軽く振った。


 青白い斬撃が、横へ走る。


 飛びかかった魔物は、澪へ届く前に上下へ分かれた。分かれた身体が地面へ落ち、黒い汁を散らす。散った汁から根が伸びようとしたが、マシロの裾が白く揺れ、触れた根を焼いた。


「軽い」


 澪はそう言って歩き出す。


 次は左上だった。


 幹の途中に張りついていた猿に似た魔物が、枝を蹴って飛ぶ。腕が長い。指先は刃のように薄い。目はない。首の左右に咲いた黒い花が、澪の位置を追っている。


 澪は一歩だけ横へずれた。


 爪が白い髪を掠める。


 その瞬間、澪の左手が魔物の手首を掴んだ。


 細い指が、黒い腕へ食い込む。


 捻る。


 魔物の腕が折れた。澪はそのまま引き寄せ、膝を腹へ入れる。根と花殻でできた胴がくの字に曲がり、背中から黒い汁が噴く。澪はメイの柄で頭を打ち下ろした。


 魔物は地面へ叩きつけられ、動かなくなった。


『今の魔物、速かったよな?』

『速かった』

『でも澪ちゃんが普通に掴んだ』

『見ないで斬った』

『見てないのに横斬撃飛ばした』

『軽いって言った』

『軽いのは澪ちゃんの感想だけだろ』

『一般探索者なら首ない』

『今の膝、音したぞ』

『あの膝で人生の悪いところを全部矯正されたい』

このコメントは削除されました。

『治療目的でもだめです』

『【黒鉄旅団公式】手首を取る動作が速すぎる。握力よりも入りの角度が異常』

『黒鉄、うれしそう』

『【アークライン公認解説/Noah Vale】She is reacting before the attack reaches her field of view. The ears are likely catching movement through sound and vibration.(視界へ入る前に反応しています。耳が音と振動を拾っている可能性が高いです)』


 森は澪を通したくないらしい。


 枝が鳴る。根が浮く。黒い葉が一斉に裏返る。そこから、次々に魔物が出てきた。


 鹿に似た細い魔物。脚が六本あり、角の先から黒い水を垂らしている。

 蜥蜴に似た魔物。腹が白く膨らみ、地面へ潜ろうとするたび皮膜が波打つ。

 鳥に似た魔物。翼は葉で、羽ばたくたび刃の形の葉片を飛ばす。


 数は多い。


 澪は立ち止まらなかった。


 鹿が角を下げて突っ込む。澪は角を片手で掴み、横へ投げた。細い身体から出る力ではない。鹿の魔物は空中で回り、別の魔物を巻き込んで幹へ叩きつけられた。


 蜥蜴が足元へ潜る。澪は跳ぶ。マシロが白い足場を作る。空中でメイを振る。青い斬撃が地面へ潜った蜥蜴を根ごと裂いた。


 鳥の葉刃が雨のように降る。澪は左手を上げる。何枚かは指で摘む。何枚かはマシロが受ける。残りはメイの鎖が弾いた。澪は摘んだ葉刃をそのまま投げ返す。葉刃は鳥の翼を裂き、鳥の魔物は落ちる。


 澪は歩く。


 歩きながら戦っている。


 足を止めず、呼吸を乱さず、目の動きも少ない。魔物の方が必死に近づき、澪の通り道で勝手に砕けていくようだった。


『多い多い』

『急に森が出してきた』

『数で押す気か?』

『押せてない』

『澪ちゃん歩いてるだけに見える』

『歩いてるだけで周りが壊れる』

『角を掴んで投げた』

『鹿みたいなのが横に飛んだ』

『あの細腕でどうやって投げた』

『葉っぱ摘んだぞ』

『刃を摘むな』

『投げ返した』

『澪ちゃんに道を譲りたい』

このコメントは削除されませんでした。

『それは普通に賢い』

『道になりたい』

このコメントは削除されました。

『一線越えた』

『【黒鉄旅団公式】武器を選ばない動きになっている。投げ、柄打ち、足運び、全部が繋がっている』

『黒鉄の目が怖い』

『【アークライン公認解説/Noah Vale】These creatures are dangerous, but they cannot force her to stop. That difference matters.(危険な魔物ですが、彼女の足を止められていません。この差は大きいです)』


 観測室では、誰も軽く見ていなかった。


 画面の中では澪が淡々と進んでいる。けれど、そこに出てくる魔物は、どれも第二層第九環の深部個体だ。普通の探索者なら一体でも撤退判断になる。数が揃えば、上位クランの一隊でも足を止める。


 それが、澪の足止めにもなっていない。


 黒瀬は腕を組んだまま、低く言った。


「格が変わったな」

「死神の討伐後の存在進化が、数字以上に出ています」


 水瀬の声は硬い。


「身体出力、反応速度、空間処理、武器の扱い。全部が上がっています。ただ、本人が慣れていません」

「慣れていないのに、これか」

「はい」


 朱音は画面から目を離さなかった。


 澪は白くなった。猫耳が生えた。目の色も変わった。服も、武器も、動きも変わった。けれど、素材を拾って「便利」と言い、水を飲んで「ぬるい」と言うところは変わらない。


 だからこそ、帰ってきてほしかった。


「ご飯、食べさせないと」

「そこなんですね〜」

「そこ」


 遥の声に、朱音は即答した。


「まず食べさせる。それから寝かせる。検査はその後」

「協会が聞いたら困りそう〜」

「困ってもらう」


 佐伯が静かに言った。


「可能な限り、その順で調整します」

「お願いします」

「ただし、帰還時の汚染検査だけは先です」

「……それは分かってます」


 朱音は小さく息を吐いた。


 その間にも、澪は森を進んでいる。


 黒い葉の雨を抜け、根の獣を斬り、花の口を持つ魔物を踏み越える。メイは何度も低く鳴った。マシロは白い裾を汚し、そのたび黒を吐き出して戻る。澪はたまに指先へ水を作り、喉を湿らせた。


 小さな水玉を飲んで、澪は少し眉を寄せる。


「やっぱり、ぬるい」


『また飲んだ』

『ぬるい水でも飲めるならいい』

『澪ちゃんに冷たい水を渡したい』

『氷入れてあげたい』

『水筒になってインベントリで待ちたい』

このコメントは削除されました。

『水筒志望消えた』

『普通に渡せ』

『【アークライン公認解説/Noah Vale】She is using water carefully. Small recovery actions like this may decide whether she can keep moving.(水を慎重に使っています。こうした小さな回復行動が行動継続を左右します)』

『解説ニキ、保護者みたいになってきた』

『みんな保護者になるわ』


 森の奥で、道が変わった。


 黒い根が少なくなり、白い幹が増えた。花の色も黒から青白へ変わっていく。空気が軽い。巨人のいた場所とは違う。腐った温度ではなく、冷たい水辺に近い匂いがする。


 澪は足を止めた。


 耳が動く。


 さっきまでの魔物の音ではない。枝を蹴る音でも、根が走る音でも、皮膜が鳴る音でもない。もっと大きい。もっと澄んでいる。水面が遠くで揺れるような音と、雷が雲の奥で溜まるような音が重なっている。


 澪は上を見た。


 枝葉のさらに奥で、白い影が動いた。


 まだ降りてこない。

 姿も、はっきりとは見えない。

 けれど、その影が動いただけで森の魔物たちは一斉に伏せた。さっきまで澪へ襲いかかっていた根の獣も、葉の鳥も、幹の影へ逃げ込む。花が閉じ、白い胞子が落ちる前に止まる。


 森が、息を止めた。


 澪の青い目が細くなる。


「上に、いる」


 白い影の奥で、何かが息を吸った。


 空気が冷える。


 マシロの裾がわずかに揺れ、メイが低く鳴った。


 澪はメイを肩から下ろす。


「次、強そう」


 その声は小さかった。


 けれど、少しだけ楽しそうだった。

2層9環の一般モンスターは普通に強いです。

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