第二十六話 白猫の通り道
巨人の残骸は、黒い森へ沈みきっていた。
拾えるものは、もうほとんど収納袋に突っ込み、インベントリへ入れてある。大量の素材も、槍も、短剣も、杖も、盾のような装備も。マシロの白い裾が、黒い根の上で静かに揺れている。
澪は指先に小さな水玉を作り、口へ運んだ。
「ぬるい」
それでも飲める。黒い森の液体より、ずっといい。もう一度水を作り、マシロの袖口へ残った黒い汚れを少し拭う。水はすぐ黒く濁り、地面へ落ちて白い煙を上げた。
「飲み水、できる」
澪は少し満足そうに言った。
『水魔法だー!』
『すごい!いつの間に覚えたの?』
『これが例のスキルオーブの影響では?』
『水出せるの強い』
『澪ちゃんの作った水を飲みたい』
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『削除が早い』
『飲み水は大事』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】Clean water generation is small in scale, but it changes survival value in long stays.(生成量は少ないですが、長期滞在では生存価値が大きく変わります)』
『解説ニキ、水で安心してる』
『今は安心できる要素なら何でもいい』
澪は水で指先を洗い、メイを肩に担いだ。
巨人がいた場所には、深い穴と割れた根だけが残っている。地下から聞こえていた鼓動はもうない。黒根虫の残りも動かない。森は静かだった。だが、静けさは安全ではない。
澪の猫耳が動いた。
右。
黒い幹の影から、細いものが飛び出した。獣ではない。四本足の形をした根の塊。背中に鋭い葉が並び、口の代わりに縦に裂けた花が開いている。澪の喉元へ一直線に跳んできた。
澪は振り向かない。
メイを軽く振った。
青白い斬撃が、横へ走る。
飛びかかった魔物は、澪へ届く前に上下へ分かれた。分かれた身体が地面へ落ち、黒い汁を散らす。散った汁から根が伸びようとしたが、マシロの裾が白く揺れ、触れた根を焼いた。
「軽い」
澪はそう言って歩き出す。
次は左上だった。
幹の途中に張りついていた猿に似た魔物が、枝を蹴って飛ぶ。腕が長い。指先は刃のように薄い。目はない。首の左右に咲いた黒い花が、澪の位置を追っている。
澪は一歩だけ横へずれた。
爪が白い髪を掠める。
その瞬間、澪の左手が魔物の手首を掴んだ。
細い指が、黒い腕へ食い込む。
捻る。
魔物の腕が折れた。澪はそのまま引き寄せ、膝を腹へ入れる。根と花殻でできた胴がくの字に曲がり、背中から黒い汁が噴く。澪はメイの柄で頭を打ち下ろした。
魔物は地面へ叩きつけられ、動かなくなった。
『今の魔物、速かったよな?』
『速かった』
『でも澪ちゃんが普通に掴んだ』
『見ないで斬った』
『見てないのに横斬撃飛ばした』
『軽いって言った』
『軽いのは澪ちゃんの感想だけだろ』
『一般探索者なら首ない』
『今の膝、音したぞ』
『あの膝で人生の悪いところを全部矯正されたい』
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『治療目的でもだめです』
『【黒鉄旅団公式】手首を取る動作が速すぎる。握力よりも入りの角度が異常』
『黒鉄、うれしそう』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】She is reacting before the attack reaches her field of view. The ears are likely catching movement through sound and vibration.(視界へ入る前に反応しています。耳が音と振動を拾っている可能性が高いです)』
森は澪を通したくないらしい。
枝が鳴る。根が浮く。黒い葉が一斉に裏返る。そこから、次々に魔物が出てきた。
鹿に似た細い魔物。脚が六本あり、角の先から黒い水を垂らしている。
蜥蜴に似た魔物。腹が白く膨らみ、地面へ潜ろうとするたび皮膜が波打つ。
鳥に似た魔物。翼は葉で、羽ばたくたび刃の形の葉片を飛ばす。
数は多い。
澪は立ち止まらなかった。
鹿が角を下げて突っ込む。澪は角を片手で掴み、横へ投げた。細い身体から出る力ではない。鹿の魔物は空中で回り、別の魔物を巻き込んで幹へ叩きつけられた。
蜥蜴が足元へ潜る。澪は跳ぶ。マシロが白い足場を作る。空中でメイを振る。青い斬撃が地面へ潜った蜥蜴を根ごと裂いた。
鳥の葉刃が雨のように降る。澪は左手を上げる。何枚かは指で摘む。何枚かはマシロが受ける。残りはメイの鎖が弾いた。澪は摘んだ葉刃をそのまま投げ返す。葉刃は鳥の翼を裂き、鳥の魔物は落ちる。
澪は歩く。
歩きながら戦っている。
足を止めず、呼吸を乱さず、目の動きも少ない。魔物の方が必死に近づき、澪の通り道で勝手に砕けていくようだった。
『多い多い』
『急に森が出してきた』
『数で押す気か?』
『押せてない』
『澪ちゃん歩いてるだけに見える』
『歩いてるだけで周りが壊れる』
『角を掴んで投げた』
『鹿みたいなのが横に飛んだ』
『あの細腕でどうやって投げた』
『葉っぱ摘んだぞ』
『刃を摘むな』
『投げ返した』
『澪ちゃんに道を譲りたい』
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『それは普通に賢い』
『道になりたい』
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『一線越えた』
『【黒鉄旅団公式】武器を選ばない動きになっている。投げ、柄打ち、足運び、全部が繋がっている』
『黒鉄の目が怖い』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】These creatures are dangerous, but they cannot force her to stop. That difference matters.(危険な魔物ですが、彼女の足を止められていません。この差は大きいです)』
観測室では、誰も軽く見ていなかった。
画面の中では澪が淡々と進んでいる。けれど、そこに出てくる魔物は、どれも第二層第九環の深部個体だ。普通の探索者なら一体でも撤退判断になる。数が揃えば、上位クランの一隊でも足を止める。
それが、澪の足止めにもなっていない。
黒瀬は腕を組んだまま、低く言った。
「格が変わったな」
「死神の討伐後の存在進化が、数字以上に出ています」
水瀬の声は硬い。
「身体出力、反応速度、空間処理、武器の扱い。全部が上がっています。ただ、本人が慣れていません」
「慣れていないのに、これか」
「はい」
朱音は画面から目を離さなかった。
澪は白くなった。猫耳が生えた。目の色も変わった。服も、武器も、動きも変わった。けれど、素材を拾って「便利」と言い、水を飲んで「ぬるい」と言うところは変わらない。
だからこそ、帰ってきてほしかった。
「ご飯、食べさせないと」
「そこなんですね〜」
「そこ」
遥の声に、朱音は即答した。
「まず食べさせる。それから寝かせる。検査はその後」
「協会が聞いたら困りそう〜」
「困ってもらう」
佐伯が静かに言った。
「可能な限り、その順で調整します」
「お願いします」
「ただし、帰還時の汚染検査だけは先です」
「……それは分かってます」
朱音は小さく息を吐いた。
その間にも、澪は森を進んでいる。
黒い葉の雨を抜け、根の獣を斬り、花の口を持つ魔物を踏み越える。メイは何度も低く鳴った。マシロは白い裾を汚し、そのたび黒を吐き出して戻る。澪はたまに指先へ水を作り、喉を湿らせた。
小さな水玉を飲んで、澪は少し眉を寄せる。
「やっぱり、ぬるい」
『また飲んだ』
『ぬるい水でも飲めるならいい』
『澪ちゃんに冷たい水を渡したい』
『氷入れてあげたい』
『水筒になってインベントリで待ちたい』
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『水筒志望消えた』
『普通に渡せ』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】She is using water carefully. Small recovery actions like this may decide whether she can keep moving.(水を慎重に使っています。こうした小さな回復行動が行動継続を左右します)』
『解説ニキ、保護者みたいになってきた』
『みんな保護者になるわ』
森の奥で、道が変わった。
黒い根が少なくなり、白い幹が増えた。花の色も黒から青白へ変わっていく。空気が軽い。巨人のいた場所とは違う。腐った温度ではなく、冷たい水辺に近い匂いがする。
澪は足を止めた。
耳が動く。
さっきまでの魔物の音ではない。枝を蹴る音でも、根が走る音でも、皮膜が鳴る音でもない。もっと大きい。もっと澄んでいる。水面が遠くで揺れるような音と、雷が雲の奥で溜まるような音が重なっている。
澪は上を見た。
枝葉のさらに奥で、白い影が動いた。
まだ降りてこない。
姿も、はっきりとは見えない。
けれど、その影が動いただけで森の魔物たちは一斉に伏せた。さっきまで澪へ襲いかかっていた根の獣も、葉の鳥も、幹の影へ逃げ込む。花が閉じ、白い胞子が落ちる前に止まる。
森が、息を止めた。
澪の青い目が細くなる。
「上に、いる」
白い影の奥で、何かが息を吸った。
空気が冷える。
マシロの裾がわずかに揺れ、メイが低く鳴った。
澪はメイを肩から下ろす。
「次、強そう」
その声は小さかった。
けれど、少しだけ楽しそうだった。
2層9環の一般モンスターは普通に強いです。




