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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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第八話 画面の向こう

 配信端末の画面に、青白い階段が映っていた。


 それは、協会支部の記録回線でも、澪の端末カメラでもない。第一層第七環、風裂き地帯の奥。かつて澪が見て、入らずに引き返した場所。そこにあるはずのない映像が、第四環の境界門内側にいる全員の端末へ割り込んでいた。


 砕けた雲の骨。薄く鳴る風。夜でも昼でもない、冷えた青の空。


 そして階段の上に立つ、人影。


 配信コメントは、制限をかけられているはずなのに流れ続けていた。協会側で止めようとしているのだろう。画面端に何度も警告表示が出る。だが、それすら押し流すように文字が増えていく。


『誰だあれ』

『九環のカメラじゃないよな?』

『第七環?』

『映像乗っ取り?』

『影、動いた』

『こっち見てる』

『今、手を上げた?』

『協会止めろ』

『先生たち下がって』

『これ、配信じゃなくて何かの接続じゃないの』


 人影が、こちらへ片手を上げた。


 ただの映像のはずだった。


 なのに、その瞬間、澪の背中に冷たいものが走った。視線が合った、と思った。顔は見えない。目もない。画面の向こうにいるだけだ。それでも、あの影は明らかにこちらを認識していた。


 朱音が澪の前に立った。


「見ないで」


「見えてる」


「じゃあ、目を逸らして」


 朱音の声は低い。怒っているのではなく、警戒している。槍の穂先は画面ではなく、崩れた境界門の方を向いていた。久遠も同じ場所を見ている。彼だけは、配信端末を見ていなかった。


「水瀬、映像を切れ」


 久遠の声に、水瀬蓮が端末を操作する。細い指が何度も画面を叩き、解析式札が数枚、空中に広がった。水瀬の顔色は悪いが、声はまだ冷静だった。


「切断要求、通りません。支部側からの強制遮断も失敗。こちらの配信回線に見えますが、実際にはダンジョン内の観測網を経由していません。映像信号というより、魔力反応を画面表示に変換させられています」


「つまり?」


 遥が短剣についた青白い膜を振り払いながら言った。軽口を挟む余裕はあるが、目は端末から離れていない。


「画面を使われています。こっちが配信しているんじゃなく、向こうが表示させている」


 凛の声が、通信越しに入った。


『支部側でも同じ映像が出ています。一般視聴者側にも一部流れているみたいで、協会が緊急遮断をかけています。でも、完全には止まってません』


「三枝、一般回線の遮断を優先しろ。生徒用端末は触るな。下手に切ると逆流する」


『は、はい!』


 凛の返事は震えていたが、すぐにキーボードを叩く音が続いた。普段の凛なら、こういう場面で一歩引いてしまう。だが今は違う。支部側に残された彼女が、後ろから全員の退路を支えていた。


 澪は端末の画面から視線を外し、自分の状態を確認した。さっきの戦闘で身体がどれだけ削れているか、把握しておく必要がある。視界の奥に、いつもの表示が開く。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:45 → 46


 状態:

 疲労:中

 左足首裂傷:再負荷

 手首負荷:中

 脇腹裂傷:回復中

 魔力消耗:中

 空膜魔力付着:軽微

 精神汚染:微弱


 ユニークスキル:

 《適応》


 通常スキル:

 《身体強化》Lv5

 《魔力操作》Lv7

 《魔力強化》Lv4

 《魔力感知》Lv3 → Lv4

 《格闘術》Lv5

 《短剣術》Lv3

 《鎖術》Lv3 → Lv4

 《投擲》Lv2 → Lv3

 《再生》Lv8

 《状態異常耐性》Lv4

 《精神汚染耐性》Lv2

 《風属性耐性》Lv1

 《空間把握》NEW Lv1

 ――――――


 新しいスキルが増えていた。


 《空間把握》。さっき、崩れた足場と変異個体の動きを読み、鎖の支点を作り続けた結果だろう。魔力感知とは少し違う。見えている場所だけでなく、足場の厚み、崩れかけた空膜の角度、仲間の移動先まで、頭の中に薄い線として浮かぶ。


 便利だ。


 そして、今の状況ではありがたい。


 澪は足元の石畳を見る。境界門の内側だが、完全に安全ではない。さっき《空膜裂き・変異個体》が暴れたせいで、何カ所か地面が薄くなっている。特に右奥、崩れた門柱の根元。そこは青い空が表面近くまで来ている。見た目は石だが、踏めば沈む。


「久遠先生」


「言え」


「あの門柱の根元、抜けます」


 澪が指した瞬間、久遠は負傷教師を運ぶ協会職員へ怒鳴った。


「右に寄るな! 左の白線沿いに進め!」


 職員がぎょっとして進路を変える。その直後、右奥の石畳が音もなく沈んだ。穴ではなく、薄い空が開く。もしそのまま進んでいれば、担架ごと落ちていた。


 水瀬が一瞬だけ澪を見た。


「今の、見えていたんですか」


「なんとなく」


「なんとなくで命を救うの、やめてほしいですね。分析役の立場がなくなります」


「水瀬先輩の方が詳しい」


「慰めとして受け取っておきます」


 言葉は静かだったが、水瀬の指は止まらない。彼は端末の画面に映る青白い階段と、現場の魔力反応を重ね合わせていた。端末の片隅に、幾つもの線が走っている。


 朱音は画面を見ないようにしながら言った。


「それで、あの影は何なの」


「分かりません。ただ、映像が第七環側の座標と連動しています。さっき落とした変異個体の反応が、第七環の風裂き地帯付近へ移ったのは間違いありません」


「倒したんじゃなく、逃げたってこと?」


「逃げた、というより、落下先が繋がった可能性があります」


 水瀬の言葉に、遥が顔をしかめる。


「嫌な言い方するね。つまり、あの崩落穴と第七環の変な階段がどこかでつながってるかもしれないってこと?」


「可能性はあります」


「最悪」


 久遠が短く言った。


「全員、支部へ戻る。現場判断での追跡は禁止。第七環には協会封鎖が入る。天瀬、お前もだ」


 澪は答える前に、画面を見た。


 青白い階段の上の影が、まだ手を上げている。


 招いているようにも見える。止まっているようにも見える。人型だが、人間とは限らない。けれど、確かにそこにいる。第七環。風裂き地帯。あの場所の向こう。


「天瀬」


 久遠の声が一段低くなった。


「返事」


「……はい」


 澪は短く答えた。朱音が少しだけ安堵したように息を吐く。


 だが、その安堵は長く続かなかった。


 配信端末の画面が、急に砂嵐のように乱れた。青白い階段が歪み、人影がぼやける。代わりに、現場の空気が冷えた。澪はすぐに足元を見る。地面ではない。壁だ。崩れた境界門の内側、石と空膜が混じった壁面に、薄い青い線が走っている。


 水瀬が叫んだ。


「現場に反応! 残留片です!」


 壁が裂けた。


 《空膜裂き・変異個体》本体ではない。だが、同じ魔力を持つ透明な膜片が、細い刃のように壁から飛び出してきた。一本、二本、三本。狙いは後方へ運ばれている負傷教師と生徒たち。まるで、さっき逃した獲物を取り戻そうとしているようだった。


 朱音が動いた。


 槍が横に走る。一本目の膜片を叩き落とし、続く二本目を柄で受け流す。だが三本目が低い。足元を這うように伸び、水瀬の式札防壁を避けて通路へ向かった。


「澪!」


「見えてる」


 澪は鉤鎖を投げた。刃で切るのではなく、鎖の中間を膜片の上に落とす。重さと勢いで進路を変え、床へ押し付ける。膜片は蛇のように暴れた。手首に嫌な震動が返る。直接触れると、皮膚の下に冷たいものが入ってくる感覚がある。


 空膜魔力付着。


 状態欄に出ていたものが、また強くなる。


 澪は短杭を抜き、膜片ごと石畳に打ち込んだ。青白い火花が散り、膜片が裂ける。だが、裂けた端がさらに細い刃になって跳ねた。澪は上体を反らす。頬を掠める。浅い傷。再生がすぐに動く。


 遥が横から滑り込んだ。


「細かいのは任せて」


 短剣が二本、空中で交差する。膜片の先端が切り落とされ、床で泡のように消えた。遥はそのまま壁際へ走り、裂け目の周囲を斬って広がりを抑える。見た目は軽い動きだが、足場の薄い場所は避けている。さっき澪が示した危険な線を覚えていたのだろう。


「水瀬くん、あの裂け目、閉じられる?」


「完全封鎖は無理です。流入を遅らせるだけなら」


「それでいい!」


 朱音が槍で膜片を押さえながら叫ぶ。


 水瀬は式札を三枚投げた。札が空中で光り、裂け目の前に薄い格子を作る。膜片がぶつかり、青白い光が散った。完全には止まらない。だが、勢いは落ちる。


 久遠が折れた短槍の柄を構え直した。


「七瀬、左。浅見、右。天瀬は中央。水瀬は封鎖維持。後方を通すまで持たせる」


「はい!」


 朱音の槍が左を押さえる。遥が右の膜片を斬り落とす。澪は中央で、次々に伸びてくる透明な刃を鉤鎖と短杭で捌いた。敵の本体がない。攻撃の起点は裂け目だが、膜片そのものは生き物のように動く。刃であり、触手でもあり、罠でもある。切ると増えるものもある。押さえ込むと床を削るものもある。


 面倒だった。


 だが、分かってきた。


 伸びる前に、裂け目の周囲が一瞬だけ膨らむ。魔力の流れが集まり、薄い青い線が走る。その線が濃いほど、膜片は硬い。逆に、色が薄いものは速いが脆い。澪は鉤鎖を振るいながら、その違いを目で追った。


「次、左上。硬い」


 澪が言うと、朱音が槍を横に構えた。直後、左上から太い膜片が落ちる。朱音は穂先で受けず、柄で斜めに滑らせた。まともに受ければ槍ごと持っていかれる。滑らせれば、床へ落とせる。澪はそこへ短杭を打ち込む。硬い膜片が床に縫い止められ、遥が根元を切った。


「助かる!」


 朱音が言った。


「次、右下。速い」


「はいよ」


 遥が身を低くする。右下から伸びた細い刃が、彼女の頬を掠める寸前で短剣に弾かれた。遥は笑う余裕もなく、そのまま靴底で膜片を踏みつける。


「澪、便利になってない?」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて、今めちゃくちゃ助かってる!」


 水瀬の声が重なる。


「後方、負傷者搬送完了まで十秒!」


「十秒!」


 朱音が復唱する。


 十秒なら持つ。そう思った瞬間、配信端末がまた揺れた。


 画面の中の人影が、手を下ろした。


 それだけで、裂け目の奥の魔力が変わった。


「来る」


 澪は言った。


「何が!」


 朱音が叫ぶ。


「大きいの」


 次の瞬間、裂け目が縦に広がった。細い膜片ではない。まるで巨大な爪のような空膜の刃が、壁を内側から割って現れる。狙いは水瀬だった。封鎖式札を張っている彼を潰せば、裂け目が広がる。そう判断したような動きだった。


 水瀬は避けられない。


 式札を維持している。足元も悪い。反応はしているが、間に合わない。


 澪は鉤鎖を投げた。


 水瀬の身体ではなく、彼の肩掛け鞄の金具へ。鉤刃が金具に引っかかる。引く。水瀬の身体が横へずれた。その直後、巨大な刃が彼のいた場所を通り過ぎる。床が裂け、石畳の下から青い空が噴き上がった。


 引く力が強すぎた。


 水瀬が体勢を崩し、壁へぶつかりかける。澪は鎖を緩めようとして、手首に痛みが走った。戻りが速い。制御が甘い。だが、朱音が間に入った。槍の柄で水瀬の背を受け、衝撃を殺す。


「水瀬くん、大丈夫!?」


「助かりました。鞄の肩紐は死にましたが、僕は生きています」


「ならよし!」


 遥が巨大な刃へ飛びつく。短剣では浅い。朱音の槍でも弾かれる。久遠が前へ出た。折れた槍の柄を捨て、腰から予備の短い槍を抜く。教員用の携行武器。長さは足りないが、久遠が持つとそれだけで戦場の空気が締まる。


「天瀬、支点を作れ」


「はい」


「七瀬、俺が止める。お前が押せ」


「はい!」


「浅見、根元を削れ」


「了解!」


 指示が速い。


 澪は境界標へ鉤刃を飛ばし、鎖を裂け目の前へ斜めに張る。久遠が巨大な刃を短槍で受ける。受けるといっても、力比べではない。刃の向きをわずかに変えるだけだ。そこへ朱音が槍を入れ、下から押し上げる。遥が根元へ潜り込み、膜の薄い部分を削る。


 澪は鎖を引く。


 巨大な刃が軋む。裂け目の周囲が歪む。水瀬が式札を追加する。格子が厚くなり、裂け目の動きが鈍った。


「後方搬送、完了!」


 凛の声が通信から響いた。


『負傷者と生徒三名、支部側安全区域へ入りました!』


 朱音の肩から、わずかに力が抜けた。


 だが久遠はすぐに言った。


「気を抜くな。ここから退く」


 退く。


 その言葉を聞いた瞬間、裂け目の奥の映像がまた揺れた。青白い階段。人影。影が、ゆっくり首を傾ける。まるで、こちらが下がることを不思議がっているように。


 澪はその影を見てしまった。


 一瞬だけ。


 それだけで、足元の感覚が遠くなった。階段の一段目が近く見える。第七環まで距離があるはずなのに、目の前にあるように思える。行けば分かる。あの先を見れば、さっきの変異個体も、空膜崩落も、九環につながる何かも分かる。


 澪の足が半歩前に出た。


 朱音が腕を掴んだ。


「駄目」


 短い声だった。


 澪は瞬きをする。足元が戻る。朱音の手が痛いほど強い。


「今、行こうとした」


「……うん」


「うんじゃない」


 朱音は怒っていた。だが、それ以上に怖がっていた。


「画面、見ちゃ駄目。あれはたぶん、呼んでる」


 呼んでいる。


 澪もそう思った。だが、その言葉を口にしたのは朱音だった。朱音が分かるほど、あの影の誘いは露骨だったのだ。


 久遠が水瀬に言う。


「映像を物理的に塞げ。端末を壊してもいい」


「了解」


 水瀬は迷わず、自分の端末に小型の封印札を貼った。画面が黒く染まり、青白い階段が消える。他の端末にも同じ処理が回る。コメント欄も途切れた。最後に流れた文字だけが、澪の目に残った。


『今、影が笑った』


 裂け目の動きが一瞬、弱くなった。


 画面を塞がれたからか。こちらへの接続が乱れたのか。理由は分からない。だが、今が退く時だった。


「全員、下がる!」


 久遠の指示で、隊列が動く。水瀬が後ろへ。遥がその横。朱音が澪の腕を掴んだまま一歩下がる。久遠が最後尾。澪は歩きながら鉤鎖を振るい、伸びてくる膜片を払い落とした。もう攻める必要はない。足止めだけでいい。


 それでも、裂け目はしつこかった。


 細い刃が何本も伸びる。床を削る。壁を裂く。朱音の槍がそれを弾き、遥が薄いものだけを切り、水瀬の式札が退路に仮の足場を作る。澪は危ない床を指示し続けた。


「そこ、踏まないで」


「右、薄い」


「次の柱まで走れる」


「朱音先輩、足元」


 言葉が増える。


 普段なら、澪はあまり喋らない。必要なことだけ言う。それも短い。だが、今は言わなければならなかった。見えているものを、自分だけで抱えていては意味がない。凛が後方で情報を伝えるように、水瀬が解析を口にするように、澪も足場を伝える必要がある。


 朱音は一度だけ、ちらりと笑った。


「澪、ちゃんと指示出せてる」


「今言う?」


「今だから言うの。あとで褒め忘れるかもしれないから」


「変」


「戦闘中に褒められる方が覚えるでしょ」


 朱音はそう言いながら、膜片を一つ槍で叩き落とした。


 退路の先に、支部側の転送陣が見えた。完全な転送ではない。第一層内の短距離搬送補助だ。負傷者を安全区域へ移すための協会設備。そこまで行けば、この場から離脱できる。


 だが、裂け目が最後に大きく震えた。


 壁からではなく、床から来た。


 澪の《空間把握》が警告を投げる。足元一帯が薄くなる。全員が乗っている石畳ごと、下へ抜ける。


「跳んで!」


 澪が叫ぶ。


 朱音が迷わず跳んだ。遥も、水瀬も、久遠も動く。澪は最後に鉤鎖を投げ、転送陣の支柱へ巻きつけた。地面が抜ける。青い空が口を開ける。身体が沈む。だが、鉤鎖が張った。戻りの力を使い、自分の身体を前へ運ぶ。


 着地。


 左足に激痛。


 膝が折れかける。朱音が支える。今度は礼を言う暇もない。久遠が転送陣の起動符を叩き込んだ。


「起動!」


 水瀬が式札を重ねる。


 青白い光が足元から立ち上がる。裂け目の膜片が、その光の中へ伸びてきた。朱音が槍で弾く。遥が切る。澪が短杭を打つ。久遠が最後の一本を踏み潰す。


 転送陣が発動した。


 視界が白くなる。


 次の瞬間、澪たちは協会支部の安全区域へ吐き出された。床は硬い。空ではない。壁も裂けていない。警報音だけが鳴り続けている。


 凛が駆け寄ってきた。


「全員、戻ってます! 負傷者も生徒さんたちも無事です!」


 朱音がその場に膝をつきそうになり、槍で支えた。遥は床に座り込み、天井を見上げて長く息を吐いた。水瀬は割れた眼鏡の端を押さえながら、まだ端末を確認している。久遠は支部職員へ短く指示を飛ばした。


「第一層第四環の境界門を封鎖。第七環風裂き地帯も立入禁止。協会本部へ上げろ。映像干渉の記録は全て保全。一般公開分は削除要請を出せ」


「了解!」


 支部職員たちが一斉に動く。


 澪は壁際に立ち、息を整えた。脇腹の傷はもう塞がりかけている。だが、左足首が熱い。手首も痛む。何より、頭の奥に青白い階段が残っている。


 朱音が近づいてきた。


「澪」


「行かない」


 先に言うと、朱音は少しだけ目を丸くした。


「……今は?」


「今は」


「そこ、正直に言わなくていいところなんだけど」


「嘘は駄目」


「うん、まあ、そうなんだけど」


 朱音は疲れたように笑い、それから真剣な顔に戻った。


「今日は絶対に行かせない。足も手首も限界。先生も止める。私も止める。凛ちゃんもたぶん泣く」


「凛、泣く?」


「泣く」


 凛が後ろで小さく「泣きます」と言った。声が本気だった。


 澪は少しだけ黙り、頷いた。


「分かった」


 久遠が歩いてくる。彼の手にも血が滲んでいる。折れた短槍は支部職員が回収していた。


「天瀬、報告しろ。画面の影について、見えたものを全てだ」


「青白い階段。第七環で見たものと同じ。影は人型。顔は見えない。けど、こっちを見ていました」


「手招きか」


「たぶん」


「言葉は」


「聞こえません」


 澪はそこで一度、言葉を切った。


 聞こえなかった。


 だが、呼ばれている感じはあった。音ではない。意味でもない。もっと直接、足を前へ出させる何か。見たいという欲と、行けば分かるという確信に似たもの。


 久遠はそれを察したのか、眉間に皺を寄せた。


「精神干渉の可能性がある。水瀬、記録。七瀬、天瀬を一人にするな。三枝、保健室と連携して精神汚染チェックの準備」


「はい!」


 三人が同時に返事をした。


 澪は少し不満だったが、反論はしなかった。今の自分が一人になったら、第七環へ行く理由を考えてしまう。それは分かっていた。


 その時、支部の大型モニターが点いた。


 協会職員が操作したわけではない。画面が勝手に暗くなり、ノイズが走る。全員が振り向く。職員の一人が悲鳴に近い声を上げた。


「遮断したはずです!」


 水瀬の顔色が変わる。


「全端末遮断、物理回線も切っています。なのに表示が――」


 大型モニターに、青白い階段が映った。


 今度は、影が一人ではなかった。


 階段の途中に、いくつもの輪郭が立っている。人型。獣型。鳥のような影。虫のように細い影。どれもぼやけていて、姿ははっきりしない。だが、その中央にいる最初の影だけは、少しだけ近づいていた。


 久遠が低く吐き捨てる。


「本部に繋げ。これはもう事故じゃない」


 画面の中央、青白い階段の上で、影がゆっくりと口を開いた。


 音は出ない。


 だが、画面の下に文字が浮かんだ。


 ――九環。


 支部の空気が凍った。


 朱音の手が、澪の腕を強く掴む。


 澪は画面を見つめた。


 文字はすぐに消え、次の一文が表示された。


 ――まってる。


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