表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/50

第七話 境界門防衛

 《空膜裂き・変異個体》が、崩れた境界門を踏み越えた。


 それだけで、足元の石畳が薄く鳴った。石が割れる音ではない。もっと嫌な音だ。地面の表面だけが、紙のように剥がれ、下から青い空が滲み出してくる。第四環の空膜崩落が、門の内側にまで広がろうとしていた。


 澪は反射的に足元を見た。右足の下はまだ硬い。左足の下は少し薄い。半歩ずれれば抜ける。目で見るだけでは分からない。魔力感知を足裏へ落とし込み、地面の密度を拾う。空膜が薄い場所は、魔力の流れが少しだけ軽い。風縒り鉄に触れた時の感覚に近かった。


 朱音が槍を構えたまま、低い声で言う。


「後ろの生徒、どこまで下がった?」


 水瀬が振り返らずに答えた。


「境界門内側、二十メートル。三枝さんが支部側と通信を維持しています。負傷教師は搬送準備中。ただ、この門が壊れると転送陣までの道が不安定になります」


「つまり、ここで止めるしかないってことね」


 遥が短剣を逆手に持ち替え、口元だけで笑った。


「訓練場配信の続きにしては、豪華すぎない?」


「冗談を言う余裕があるなら右を見ろ」


 久遠の声が飛ぶ。遥は返事の代わりに身体を沈めた。次の瞬間、硝子草の隙間から飛び出した玻璃草蛇を、短剣の背で叩き落とす。殺すより早い。蛇は石畳を転がり、空膜の薄い場所へ落ちて消えた。


「右、見たよ」


「なら次は黙って処理しろ」


「はいはい、怖い先生」


 遥の軽口はいつも通りだったが、目は笑っていない。朱音も、水瀬も、久遠も、全員が変異個体を見ている。


 変異個体は普通の魔物とは違った。獣に似た形をしているが、肉がない。透明な空膜を何枚も重ねたような胴体の中で、青白い光と黒い裂け目が交互に揺れている。四本脚は刃のように長く、足先が地面に触れるたび、石畳の表面を削り取った。顔の中心には目も口もない。ただ黒い穴が開いている。そこを見ていると、足元の感覚が少しずつ遠くなる。


 澪は眉を寄せた。


 見続けるとまずい。


 視線を少し下げ、脚の動きと空膜の揺らぎだけを見る。顔の穴は見ない。標準鑑定はさっき水瀬が読んだ通りだが、澪の視界にも遅れて情報が浮かぶ。


 ――――――

 《空膜裂き・変異個体》


 分類:異常発生型魔物・変異種

 出現域:第一層第四環以降・大規模空膜崩落地点

 特徴:空膜切断/地形侵食/身体分裂/吸引裂孔

 危険度:極高

 ――――――


 危険度、極高。

挿絵(By みてみん)


 四環の実技班が遭遇していい相手ではない。もちろん、澪たちが今の装備で正面から戦っていい相手でもない。久遠がいなければ、全員で逃げるしかなかった。だが、その逃げるための道を、変異個体が壊そうとしている。


 久遠が短槍を片手で回した。


「水瀬、後方の安全確保。七瀬、正面を抑えろ。浅見は側面から脚を狙え。天瀬は足場を見ろ。抜ける場所を見つけたら声を出せ」


「はい」


 澪は頷いた。倒す役ではない。足場を見る。退路を残す。逃げ遅れた人を引き寄せる。今の自分にできることは分かっている。分かっているのに、変異個体の動きを見ると、身体の奥が前へ出たがる。


 戦いたいわけではない。


 ただ、知りたい。


 あれがどう動くのか。どこを切れば止まるのか。空膜がどう魔物の身体になっているのか。その黒い穴の向こうに何があるのか。


「澪」


 朱音の声が、横から刺さった。


「顔。今、行きたそうだった」


「行かない」


「本当?」


「本当。足場を見る」


「よし」


 朱音はそれだけ言って前へ出た。


 変異個体が動いた。


 速い。


 大きな身体に似合わない低い踏み込みで、一気に間合いを詰めてくる。前脚が振られた。空気が裂け、青白い刃が地面を斜めに走る。朱音は槍を受けに使わなかった。横へ滑り、石突きで地面を叩き、自分の身体を半歩浮かせる。刃は足元を通り過ぎ、背後の石畳を薄く削った。


「そこ、踏まないで!」


 澪が叫ぶ。


 削られた場所はもう地面ではない。見た目は石畳のままだが、魔力が抜けている。朱音は返事をする暇もなく、その場所を避けて着地した。遥が側面へ回り込み、変異個体の後脚へ短剣を走らせる。刃は透明な脚の表面を滑ったが、完全には弾かれない。薄い膜が裂け、青白い火花のようなものが散った。


「切れるけど、浅い!」


「接地を崩せ。倒すな、動きを止めろ!」


 久遠が短槍で正面から入った。突きが速い。澪の目でも追い切れないほど短く、無駄がない。槍先は変異個体の胴ではなく、脚の付け根、関節のように見える膜の重なりだけを狙っている。変異個体が久遠へ前脚を振る。久遠は受けずに内側へ入り、槍の石突きで脚を払った。


 巨体がわずかに傾く。


 その瞬間、澪は鉤鎖を投げた。


 狙いは敵の首ではない。首がどこかも分からない。狙うのは、傾いた先の石柱。鉤刃が柱に巻きつき、鎖が変異個体の前を斜めに横切る。そこへ朱音が槍で圧をかけた。変異個体は直進しようとして、鎖に脚を取られる。ほんの一拍、動きが止まった。


 遥がその一拍を逃さない。


「もらい」


 短剣が二本、脚の内側へ刺さる。浅いが、膜の重なりは裂けた。変異個体の身体が揺れ、黒い穴がこちらを向く。


 澪の耳の奥で、低い音が鳴った。


 吸われる。


 そう思った瞬間、身体が前へ引かれた。風ではない。重力でもない。黒い穴が、周囲の空気と魔力をまとめて吸い込んでいる。鎖が柱から軋み、足元の細かい石片が浮き上がった。遥が舌打ちし、朱音が槍を地面に突き立てる。


「水瀬くん!」


「防壁、張ります!」


 水瀬の式札が空中に広がり、透明な壁が生まれた。だが、吸引は壁ごと軋ませる。生徒たちの方まで届けば危ない。澪は鉤鎖を柱から外し、自分の腰に一度巻きつけた。支点を変える。吸われるなら、逆へ引く。


「朱音先輩、三歩左!」


「分かった!」


 朱音が迷わず動く。澪は朱音の槍の柄に鎖の中間を引っかけ、さらに後方の境界標へ鉤を飛ばした。朱音、澪、境界標。三点で線を作る。吸引が来る。鎖が張る。朱音の身体が引かれかけるが、槍と鎖が支えた。


「助かった!」


「長くは無理」


「十分!」


 朱音は槍を支点にして身体を回し、変異個体の顔の穴から視線を外すように横へ出た。久遠も同じタイミングで前へ踏み込み、短槍を黒い穴の縁へ叩き込む。直接刺したわけではない。穴の周囲の膜を歪ませただけだ。だが、吸引が一瞬途切れた。


 水瀬が叫ぶ。


「吸引、止まりました! ただ、魔力の乱れが増えています!」


「次が来るぞ!」


 久遠の声と同時に、変異個体の胴体が裂けた。


 分裂。


 細い脚のような膜片が、三方向へ伸びる。一つは久遠へ。一つは朱音へ。最後の一つは、後方の生徒たちがいる通路へ向かった。水瀬の防壁があるが、持たない。


 澪は考える前に動いていた。


 後方へ伸びる膜片へ鉤鎖を投げる。鉤刃は刺さらない。膜片は薄く、刃を受け流す。なら、刺さなくていい。鎖の重さで進路を変える。澪は鉤鎖を膜片の上から叩きつけ、床へ押し付けた。膜片が暴れる。空膜を削る音が足元で鳴る。


 左足が沈んだ。


 まずい。


 澪はすぐに重心を右へ移すが、遅かった。左足の下の石畳が薄く裂け、青い空が見える。足首の古傷に痛みが走る。再生が反応し、魔力が消える。変異個体の膜片はまだ動いている。逃がせば後方へ行く。


 澪は短杭を抜き、膜片ごと床へ打ち込んだ。


 杭が通った瞬間、青白い火花が散った。膜片が痙攣し、動きが止まる。だが、杭を通して嫌な冷たさが腕へ上がってきた。空膜の魔力だ。傷とは違う。皮膚の上から中へ染みるような、ぞっとする感覚。


「澪、下がって!」


 朱音の声。


「まだ」


「まだじゃない!」


 澪は杭をもう一本打った。膜片が裂ける。ようやく進路が完全に逸れ、後方の通路から外れた。水瀬の防壁に当たらず、石畳を斜めに削って止まる。


 その代わり、澪の左足元が完全に抜けた。


 落ちる前に、澪は右手の鉤鎖を境界標へ飛ばす。届く。巻く。身体が宙で止まる。空が下にある。青い。深い。視界の端で、黒い影が揺れた。空膜崩落の底に、何かがいる。気のせいではない。透明な獣でも、変異個体でもない。もっと細い、人の影に近いもの。


 見たい。


 だが、すぐ上で朱音が叫んだ。


「澪!」


 澪は歯を食いしばり、鉤鎖を引いた。朱音の手が伸びる。今度は掴まれる前に、自分で縁へ戻る。左足が石畳に乗った瞬間、痛みで膝が揺れた。朱音がその肩を支える。


「言ったでしょ、下がってって!」


「後ろに行きそうだった」


「分かってる! だから怒りにくいのが余計腹立つ!」


 朱音はそう怒鳴りながら、澪の前へ出た。槍先が震えていない。怒っていても、戦闘の手は乱れない。それが朱音の強さだった。


 変異個体が、再び身体をまとめる。


 久遠の短槍が一本、変異個体の脚を深く抉っていた。遥は肩で息をしているが、まだ動ける。水瀬の式札は数枚が焼け落ちていた。後方の生徒たちは転送陣へ向かっている。負傷教師も運ばれた。あと少し持たせれば、撤退できる。


 だが、変異個体の形が変わった。


 黒い穴が大きく開く。今度は吸引ではない。穴の奥に、青白い線が集まっている。何かを撃つつもりだ。


 久遠が叫ぶ。


「全員、射線から外れろ!」


 散る。


 朱音は澪の腕を掴んで横へ飛んだ。遥は壁を蹴って上へ逃げる。水瀬は防壁を斜めに展開する。久遠はあえて前へ残った。短槍を構え、黒い穴の真正面に立つ。


「先生!」


 朱音が叫んだ。


 久遠は動かない。


 黒い穴から、細い光が走った。


 空膜そのものを裂く線。触れた石畳が音もなく消える。水瀬の防壁が掠っただけで三枚割れた。久遠はその光に向かって短槍を差し込んだ。槍先が光の線を逸らす。普通ならあり得ない。だが久遠はやった。槍を折りながら、射線をずらした。光は境界門の上部を裂き、天井代わりの空膜へ消える。


 久遠の短槍が半分から折れた。


 彼の手から血が落ちる。


「久遠先生!」


「騒ぐな。まだ動ける」


 久遠は折れた槍を捨て、残った柄を短棍のように握った。その姿を見た瞬間、澪の中で何かが切り替わった。久遠が止めている。朱音が守っている。遥が削っている。水瀬が支えている。なら、自分は何をする。


 足場を見る。


 変異個体を見る。


 黒い穴を見る。


 あれは撃つ前に、周囲の空膜を吸い集める。なら、その集まり方を乱せばいい。直接攻撃ではなく、準備を崩す。鉤鎖だけでは足りない。支点が必要。細い魔力の流れが必要。


 澪は息を吸った。


「水瀬先輩、式札を三枚、床に」


「位置は?」


「私が線を引く」


「了解」


 水瀬は迷わなかった。澪が鉤鎖を床へ走らせる。青白い線が石畳の上に三角形を描く。水瀬の式札がその頂点へ飛ぶ。遥がそれを見て、すぐに動いた。


「私、時間稼ぐよ」


 遥が変異個体の側面へ走る。短剣で脚を切る。深くはない。だが、変異個体の意識が一瞬そちらへ向く。朱音が正面から槍を入れる。久遠が折れた柄で脚を叩く。三人が危険な間合いで、変異個体の動きを散らした。


 澪は鉤鎖へ魔力を流す。


 三割。


 上げない。いや、上げられない。上げれば手首が壊れる。だから細くする。鎖に流す魔力を、式札へ通す。式札から床へ、床から空膜へ。足元の薄い空を、ほんの少しだけ撫でる。


 空膜が震えた。


 変異個体の黒い穴へ集まっていた青白い線が、わずかに散る。


「今!」


 澪が叫ぶ。


 朱音が踏み込んだ。


 槍の穂先が、黒い穴の縁ではなく、その下の胴体を突く。遥が反対側の脚を切る。久遠が折れた柄で関節を打つ。変異個体の姿勢が崩れた。そこへ、澪は鉤鎖を投げる。


 狙いは黒い穴ではない。


 穴の上にある、空膜の結び目。


 さっきから、そこだけ魔力の流れが逆になっていた。たぶん核ではない。だが、形を保つための支点だ。鉤刃が結び目へ届く。刺さらない。滑る。澪は手首を返し、風縒り鉄に魔力を流した。鉤刃が空気を噛み、結び目の周囲を一周する。


 捕まえた。


「引きます!」


「全員、下がれ!」


 久遠の声。


 澪は引いた。


 結び目が裂ける。変異個体の身体が大きく歪んだ。黒い穴が悲鳴のような音を立てる。吸引と放出が同時に起き、周囲の石片が浮いた。朱音が澪の腰を掴む。遥が朱音の腕を掴む。水瀬が三人まとめて補助魔術で固定する。


 鎖が軋む。


 手首が痛い。肩が熱い。左足が踏ん張れない。だが、引く。結び目が伸びる。裂ける。変異個体の身体から、薄い空膜が何枚も剥がれ落ちる。


 最後に、久遠が踏み込んだ。


 折れた短槍の柄を、変異個体の脚の付け根へ突き込む。武器としてはもう槍ではない。ただの硬い棒だ。だが、久遠の一撃は正確だった。支点を失った変異個体の身体が傾き、崩落した空膜の縁へ滑る。


「押し込め!」


 朱音と遥が同時に動いた。槍と短剣ではなく、体当たりに近い。水瀬の防壁が背後から押す。澪は鉤鎖を引き切った。


 変異個体が、崩落した空の中へ落ちた。


 落ちる途中、黒い穴がこちらを向く。


 澪は見た。


 穴の奥に、一瞬だけ階段が見えた。


 青白い階段。


 昨日、第七環で見たものと同じ色だった。


 次の瞬間、変異個体は空の底へ沈み、崩落した空膜が波紋のように揺れた。音が消える。風も止まる。訓練場から続いていた配信の記録画面だけが、異様なほど静かに点滅していた。


 誰もすぐには喋らなかった。


 やがて、水瀬の端末が警告音を鳴らした。


「……先生」


 水瀬の声が固い。


 久遠が手の血を拭いながら振り返る。


「今度は何だ」


「変異個体の反応、消えていません。落下地点から、別の座標へ移動しています」


「どこだ」


 水瀬は端末を見たまま、顔色を変えた。


「第一層第七環方面。風裂き地帯の近辺です」


 朱音が澪を見た。


 澪は答えなかった。


 脇腹が痛い。左足が熱い。手首は震えている。だが、それ以上に、さっき見えた青白い階段が頭から離れなかった。


 久遠が低く言った。


「天瀬。今、何を見た」


 澪は少しだけ黙り、正直に答えた。


「階段です」


「色は」


「青白い。前に見たものと同じ」


 空気が重くなった。


 朱音の手が、槍を握り直す音がした。


 その直後、協会端末に赤い警告が表示された。


 ――第一層第七環・風裂き地帯。

 ――未登録空間反応、再発生。

 ――周辺探索者へ退避勧告。

 ――該当地点にて、配信者《九環》の過去記録と類似する映像信号を確認。


 水瀬が、震えた声で最後の行を読んだ。


「……映像信号、現在も送信中」


 遥が冗談を言おうとして、やめた。


 朱音が一歩、澪の前に出た。


「今日は行かないよ」


 その言葉は、問いではなかった。


 けれど澪が返事をする前に、配信端末の画面が勝手に切り替わった。


 暗い空。


 砕けた雲の骨。


 青白い階段。


 そして、その階段の上に立つ、誰かの影。


 コメント欄が、制限を越えて流れ始めた。


『今の何』

『配信、乗っ取られてる?』

『九環の映像じゃない』

『第七環?』

『人がいる』

『誰だ』

『こっち見た』

『待って、笑ってない?』


 画面の中の影が、ゆっくり顔を上げた。


 澪の背筋に、冷たいものが走る。


 影は、まるで澪だけに向けるように、片手を上げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ