第六話 空膜裂き
新しい鉤鎖の慣らし配信は、学校の訓練場で行うことになった。
朱音が決めた配信タイトルは、『風縒り鉤鎖の試用訓練』だった。澪としては「鉤鎖」で十分だと思ったが、それを言った瞬間、朱音に「また説明を削りすぎ」と却下された。配信概要欄も朱音が整えた。学校訓練場での武器慣らし。藤堂教員監修。危険区域探索ではありません。新しい武器を実戦でいきなり使うのは危険です。真似しないでください。澪が書けば三行で終わる内容が、朱音の手にかかると急に真面目な注意文になる。
「澪の概要欄って、いつも遺書の逆みたいなんだよね」
「遺書の逆?」
「『死なないつもりです。以上』みたいな」
「分かりやすい」
「分かりやすいけど、読む側の胃が痛くなるの」
朱音はそう言いながら、配信端末の角度を調整していた。訓練場にはいつもより人が多い。校内許可の配信とはいえ、九環の新武器を見ようと、一年も二年も何人か集まっている。久遠は壁際に立ち、藤堂は記録用端末を三脚に固定していた。浅見遥は腕を組んでにやにやしており、水瀬は眼鏡の奥で映像記録の数値を見ている。凛は端の方で、なぜか救急箱の位置を確認していた。
澪は訓練場の中央で、鉤鎖を手にしていた。
先端部だけが変わっている。鎖全体を作り替えるだけの素材はなかったが、鉤刃に近い数節には風縒り鉄が細く編み込まれ、根元には硝子翼狼の変異核片が埋め込まれている。魔力を通すと、鉤刃の周囲に薄い風が巻き、戻りの軌道が以前より鋭くなる。扱いやすい、とは言い切れない。むしろ危ない。投げるより、戻す時の方が神経を使う。昨日の訓練で、澪はそれを嫌というほど理解した。
それでも、手に持つと胸の奥が熱くなる。
この武器なら、届かなかった間合いに届く。逃げる敵の足を取れる。高低差を使える。崩れた足場でも、自分の身体を引き上げられる。戦い方が一段変わる。その予感が、手首から肩まで細く走っていた。
配信を始める前に、澪は自分の状態を確認した。
――――――
【天瀬 澪】
探索者Lv:45
状態:
軽度疲労
左足首裂傷:回復中
手首負荷:軽微
新規武装同調:安定化中
精神汚染:微弱
ユニークスキル:
《適応》
通常スキル:
《身体強化》Lv5
《魔力操作》Lv7
《魔力強化》Lv4
《魔力感知》Lv3
《格闘術》Lv5
《短剣術》Lv3
《鎖術》Lv3
《投擲》Lv2
《再生》Lv8
《状態異常耐性》Lv4
《精神汚染耐性》Lv2
《風属性耐性》Lv1
――――――
左足はまだ完璧ではない。歩くには問題ないが、踏み込むと奥で小さく熱を持つ。手首も、昨日の慣らしで少し赤くなった場所が残っている。今日は出力三割。藤堂にも、久遠にも、朱音にも、同じことを言われている。
「澪」
朱音が近づいてきて、澪の手首を見た。
「痛みは?」
「少し」
「よし。ちゃんと少しって言えた。今日はそれだけでかなり偉い」
「子ども扱い」
「昨日まで痛くても『痛くない』って言ってた人には、これくらいでちょうどいいの」
澪が返事をする前に、遥が横から口を挟んだ。
「朱音、最近ほんとに保護者感すごいよね。連絡帳とか書きそう」
「書けるなら書きたいよ。『今日の澪:訓練場で三割を守れました。えらいです』って」
「幼稚園」
「澪の場合、命の危険がある幼稚園だから」
凛が小さく「笑っていいのかな……」と呟き、水瀬が「笑っている間はまだ平和です」と返した。澪は少しだけ不満だったが、反論はしなかった。反論すると、朱音の注意事項が増える気がしたからだ。
配信が始まる。
コメント欄には、すぐに人が集まった。
『訓練場だ』
『今日は安全回?』
『安全回って言い切れないのが九環』
『朱音先輩いる?』
『藤堂先生監修なら安心』
『新武器かっこいい』
『今日は怪我なしで頼む』
『概要欄がまともすぎる。朱音先輩だな』
「バレてる」
朱音が笑う。澪は端末を一瞥し、鉤鎖を構えた。藤堂が短く手を打つ。
「天瀬。まずは昨日と同じだ。投げる、戻す、止める。的には当てるな。鉤刃を引っ掛けるのもまだ禁止」
「はい」
「出力は」
「三割」
「よし。言ったな」
藤堂の目は怖い。久遠とは別の種類の怖さだ。失敗したら武器を没収する、と本気で思っている目だった。
澪は魔力を細く流した。風縒り鉄が淡く光り、鉤刃の根元の変異核片が青白く脈を打つ。鎖の先端が、ほんの少しだけ軽くなる。空気を切る準備が整う。
投げる。
鉤刃が走った。布巻き支柱の横を掠め、白い軌跡を描く。澪は手首を返し、戻りの勢いを殺す。強く受け止めない。肘を抜き、肩を逃がし、鎖を身体の外側へ回す。鉤刃は澪の袖を掠めず、足元へ落ちた。
「一投目は合格」
藤堂が言った。
朱音が小さく息を吐く。
「袖、無事」
「袖が基準?」
「昨日切ったからね」
『袖チェック入った』
『朱音先輩、見るところ細かい』
『戻り速すぎない?』
『あれ三割?』
『普通に怖い武器だな』
二投目、三投目。澪は戻りの速度をわざと変えた。魔力を抜けば、鉤刃はわずかに重くなる。風縒り鉄を起こせば、戻りが鋭くなる。変異核片は初速に強く反応するが、戻りにも影響する。出力を上げなくても、流し方だけでずいぶん挙動が変わった。
面白い。
その感情が顔に出たのだろう。朱音がすぐに言う。
「澪、楽しいのは分かるけど、出力は上げない」
「上げてない」
「上げようとはした?」
「……少し」
「正直でよろしい。却下」
周囲で小さな笑いが起きる。澪は鉤鎖を握り直した。反論はしない。今のは確かに、少しだけ魔力を多く流したくなった。
次は、救助用の人形を使った訓練だった。
藤堂が重い布人形を訓練場の中央へ置く。人間とほぼ同じ重さに調整されており、強く引きすぎると胸部の印が赤く光る。人形とはいえ、首に鎖をかければ失敗。肩に強く当てても失敗。鉤刃を刺しても失敗。狙うのは胴体。巻く。引く。勢いを殺して止める。
「敵を転ばせるのとは違う」
藤堂が言う。
「生きた人間を引っ張るなら、強くやればいいってものじゃない。骨は折れる。関節は外れる。地面に叩きつければ、助けた意味がなくなる」
「難しい」
「だから練習するんだ」
澪は頷いた。
一回目。鎖は人形の肩に当たり、赤い光が点いた。
「肩、外れてる」
朱音が即座に言った。
「人形」
「人間なら外れてる」
二回目。胴に巻けたが、引く力が強すぎた。人形は地面を転がり、支柱にぶつかって止まる。
遥がぼそりと言った。
「救助っていうか、勢いのある回収」
「遥」
「ごめん。でも今のは回収だった」
コメント欄にも容赦がない。
『勢いがすごい』
『人形、絶対痛い』
『九環ちゃん、敵と味方で力加減変えよう』
『これ難しいな』
『助けるのって戦うより繊細なんだな』
三回目で、澪は呼吸を変えた。
敵を捕まえる時と同じ感覚では駄目だ。勢いで叩きつけるのではなく、逃がさず、壊さず、こちらへ滑らせる。鎖の腹を使う。鉤刃を外へ向ける。風縒り鉄への魔力を細くして、戻りの力を半拍だけ遅らせる。
投げる。
鎖が人形の胴を捉えた。強く締めすぎない位置で巻き、床を滑らせるように引く。最後に手首を返し、勢いを横へ流す。人形は澪の手前で止まり、胸部の印は光らなかった。
「よし」
藤堂が頷いた。
「今の感覚を忘れるな。強さより、止め方だ」
朱音も少し笑った。
「今のは見てて安心した」
「安心」
「うん。壊さずに引っ張れた」
澪は足元の人形を見た。倒すでも、刺すでも、縛るでもない。動けない相手を引き寄せる。今までの戦い方とは違うが、使えそうだった。ダンジョンの地形はよく崩れる。段差も多い。足場が抜けることもある。自分にも、他人にも使える技術だ。
その時、訓練場の壁際にある緊急端末が鳴った。
鋭い音だった。
訓練場の空気が一気に変わる。コメント欄の流れも止まったように見えた。久遠が端末へ向かい、表示を確認する。藤堂も顔を上げる。朱音はすでに槍を手に取っていた。遥の笑みが消え、水瀬が記録端末を閉じる。
久遠が低く言った。
「第一層第四環。実技班が事故に遭った」
凛が息を呑む。
久遠は続ける。
「空膜崩落で退路が分断。引率教師が負傷。生徒三名が取り残されている。協会救助隊は別件で到着が遅れる。朱音、浅見、水瀬、俺と出る」
「はい」
朱音の返事は速かった。遥も水瀬もすぐに動く。凛は一歩前へ出かけたが、久遠が首を横に振った。
「三枝は待機。支部との連絡補助に回れ」
「……はい」
凛は悔しそうに頷いた。
澪は鉤鎖を握ったまま、一歩前へ出た。
「私も行きます」
朱音が振り返る。
「澪、足がまだ完全じゃない。武器も仮仕上げ。さっきまで訓練してたばかりでしょ」
「今の訓練、使えます」
「現場は人形じゃない」
「だから必要です」
朱音が言葉を止めた。澪は久遠を見た。
「空膜崩落なら、足場が抜けます。取り残された人を引き寄せるなら、これが使えます。戦闘は最低限にします」
久遠は澪を見据えた。怖い顔のまま、短く問う。
「命令は守れるか」
「守ります」
「出力三割。単独行動禁止。七瀬の指示に従え。救助対象の確保と退路の補助を優先。勝手に深追いしたら、鎖を没収する」
「はい」
朱音はまだ納得していない顔だった。だが、現場に人が残っている。時間は少ない。彼女は一度だけ目を閉じ、次に開いた時には、もう先輩探索者の顔になっていた。
「分かった。私の指示を聞いて。勝手に前に出たら、現場でも怒るから」
「はい」
「本当?」
「本当」
朱音は澪の目を見て、それから槍を握り直した。
「行くよ」
第一層第四環《境界環》は、第一環や第二環とは空気が違う。
足元の空は深く、草原のところどころに薄い青い膜が張っている。地面に見えて地面ではない場所があり、硝子草の群生地は風を受けるたびにきらきらと鳴った。遠くには逆さ虹の根が地中から伸び、空中でほどけるように揺れている。美しい。だが、足場を誤れば、それだけで大事故になる場所だった。
現場へ近づくほど、風が乱れていた。
空膜崩落。
それは、地面が穴になるのとは違う。大地の一部が、空へ戻る。草が生えていたはずの場所が青く透け、その下に果てのない空が広がる。落ちればどこへ行くか分からない。第一層の下へ落ちることもあれば、同じ階層の別座標へ吐き出されることもある。運が悪ければ、回収できない。
取り残された生徒たちは、崩落した空膜の向こう側にいた。
三人。全員一年。顔は真っ白で、互いに寄り添うようにして立っている。少し離れた場所で、引率教師が肩を押さえて片膝をついていた。血が流れている。周囲には玻璃草蛇が数体、硝子草に紛れて這っていた。さらに奥には、白い雲を喉袋に溜めた雲喉狐が二体。崩落音に寄ってきたのだろう。
朱音が一瞬で指示を出す。
「遥、右の蛇を払って! 水瀬くん、先生の状態を見て! 澪、まず支点!」
「はい」
澪は走りながら鉤鎖を投げた。狙いは崩落手前の古い境界標。白い石柱のくびれに鉤刃を回す。風縒り鉄が鳴り、鎖が石柱に巻き付いた。強く引く。支点になる。地面が抜けても、ここを軸にできる。
玻璃草蛇が足元へ飛んできた。透明な鱗が硝子草と同じ色を映し、肉眼では見えづらい。澪は魔力感知で位置を拾い、短杭を抜いた。蛇の頭が跳ね上がる寸前、杭で横へ弾く。踏み込まず、膝で体勢を落とし、鎖を支えたまま蹴り飛ばす。深追いはしない。倒すことが目的ではない。
朱音の槍が雲喉狐を牽制する。遥が横から入って、玻璃草蛇を二体まとめて斬り払う。水瀬は後方から魔力糸を伸ばし、負傷教師の状態を探る。
「肩の裂傷、出血あり! 意識はあります。ただ、魔力消耗が大きいです。自力移動は厳しい!」
「了解!」
朱音が返し、崩落縁へ近づいた。
その瞬間、向こう側の地面がまた薄く光った。
空膜が割れかけている。
生徒の一人が悲鳴を上げ、後ずさる。駄目だ。そこはさらに薄い。澪は鎖を引き直し、身体を低くした。
「一人ずつ引きます。胴に巻いて」
向こう側の男子生徒が泣きそうな顔で首を振った。
「無理、手が震えて……!」
「じゃあ動かないで」
「え?」
「こっちで巻く」
澪は鎖を投げた。鉤刃を外側へ逃がし、鎖の腹を使う。訓練場の人形ではない。生身の人間だ。強く当てれば折れる。緩すぎれば外れる。男子生徒の脇腹から背中へ回し、胸を潰さない位置で止める。
引く。
床を滑らせる。途中で空膜が抜けた。男子生徒の足が青い空を蹴り、悲鳴が上がる。澪は手首を返し、戻りの勢いを横へ逃がした。朱音が反対側で受け止める。
「一人目!」
朱音の声が響く。
続けて二人目。今度は女子生徒だった。恐怖で膝が抜けかけている。玻璃草蛇が彼女の足元へ寄る。遥が間に合わない。澪は短杭を投げた。蛇の頭を地面へ縫い付ける。女子生徒が泣きながら鎖を掴もうとするが、掴む位置が悪い。手首に絡めれば引いた瞬間に壊れる。
「伏せて」
「え、なに、やだ、怖い!」
「その方が安全」
返事を待つ暇はなかった。澪は鎖を低く滑らせ、女子生徒の背中側から胴に回した。布地を引っかけないように、鉤刃を外へ向ける。引く。女子生徒の身体が地面を滑り、崩落の縁を越える。朱音が抱き留め、水瀬がすぐに補助魔術をかけた。
「二人目!」
残りは一人と負傷教師。
だが、雲喉狐の一体が喉袋を大きく膨らませた。白い雲が破裂する。視界が奪われる。朱音の槍が一瞬遅れる。辺り一面に白い霧が広がり、崩落縁が見えなくなった。
澪は目を閉じた。
視界は捨てる。
風の流れ。鎖の張り。足元の空膜の薄さ。人の呼吸。魔力感知を広げる。霧の向こうで、最後の生徒が後ずさっている。恐怖で自分の位置が分からなくなっている。背後はもう地面ではない。
「止まって!」
澪は叫んだ。
声が届いたかどうか分からない。足音は止まらない。次の瞬間、空膜が割れた。
生徒が落ちる。
澪は鎖を放った。
胴へ巻く余裕はない。腕では駄目だ。肩が外れる。首は論外。澪は落ちる身体の軌道を読み、鎖の中間を胸の下へ滑り込ませるように投げた。風縒り鉄が鳴る。鉤鎖が青い空の中へ伸び、落ちかけた生徒の身体を捕まえた。
重い。
訓練場の人形とは違う。暴れている。泣いている。身体が硬い。鎖がずれれば、肋骨を折る。緩めれば落ちる。
澪は腰を落とし、鎖を自分の身体に一度回した。衝撃を手首だけで受けない。背中、腰、右足で支える。左足が痛む。空膜の縁がさらに崩れる。青が広がる。奥歯を噛み、澪は一気に引いた。
「朱音先輩!」
「来てる!」
霧の中から朱音が飛び込んだ。槍を地面に突き立て、支点にする。澪が引き上げた生徒を、朱音が腕ごと受け止めた。勢いで二人とも転がる。だが、落ちてはいない。
「三人目!」
朱音の声は少し震えていた。
残るは負傷教師。
その時、崩落した空膜の下から、透明な脚が這い上がってきた。
硝子草蛇ではない。雲喉狐でもない。形が安定していない。青い空の膜をまとった、細長い獣のようなもの。脚が地面に触れるたび、足元の空膜が薄くなっていく。標準鑑定が走った。
――――――
《空膜裂き》
分類:異常発生型魔物
出現域:第一層第四環以降・空膜崩落地点
特徴:薄膜切断/空膜侵食/不安定形態
危険度:高
――――――
朱音が低く息を呑んだ。
「四環の実技ルートに出る魔物じゃない……!」
久遠の声が飛ぶ。
「全員、後退準備! 倒すな、時間を稼げ! 七瀬、教師を確保!」
「はい!」
朱音が負傷教師へ走る。遥が雲喉狐を押さえ、水瀬が霧を払う。久遠は短槍を抜き、《空膜裂き》の進路へ向かった。
澪は鉤鎖を握った。
倒す必要はない。止めればいい。朱音が教師を回収するまで、数秒稼げばいい。
澪は《空膜裂き》そのものではなく、周囲の石柱と硝子草の根へ鎖を投げた。一本目、右の石柱。二本目、崩れかけた境界標。三本目、太い虹根の根元。鉤鎖を走らせ、敵の前に斜めの線を作る。
《空膜裂き》が突っ込んだ。
透明な脚が鎖に触れる。風縒り鉄が鋭く鳴る。敵の身体が一瞬だけ歪み、進路がずれた。澪は鎖を引き、さらに張る。出力は三割。足りない。押される。鎖が軋む。手首が熱い。
だが、上げない。
力を増やすのではなく、支点を増やす。敵を正面から止めるのではなく、進む方向を変える。澪は魔力を細く分け、鎖の角度を変えた。《空膜裂き》の身体が横へ滑る。久遠がそこへ短槍を叩き込んだ。透明な脚が一本折れ、崩落の縁へ落ちる。
「天瀬、今のまま押さえろ!」
「はい!」
久遠の槍は速かった。短い動きで、敵の接地だけを壊していく。朱音とは違う。守るための槍ではなく、崩すための槍だ。深い場所で生き残った人間の動きだった。澪はその動きを見ながら、鎖の角度を合わせる。久遠が突く方向へ、敵の身体をずらす。敵が戻ろうとするところへ、鎖を張る。
朱音が教師に到達した。
「水瀬くん!」
「補助入れます!」
水瀬の魔力糸が負傷教師を包み、朱音が槍を支えにして引き起こす。遥が横から玻璃草蛇を斬り払い、雲喉狐の喉袋を潰した。白い霧が薄くなる。視界が戻る。全員がこちら側へ動き始める。
その瞬間、《空膜裂き》が形を変えた。
獣の姿が潰れ、薄い刃のように広がる。地面を切るつもりだ。澪は鎖を引き戻そうとしたが、遅い。空膜裂きの刃が、崩落縁だけでなく、こちら側の足場まで裂いた。
地面が抜ける。
生徒たちの足元ではない。朱音と負傷教師の足元だった。
「朱音先輩!」
澪は叫び、鎖を投げた。狙うのは朱音ではなく、教師を支える補助帯。鉤刃を刺さず、帯の金具に引っかける。朱音は教師を抱えたまま落ちかけていた。彼女の槍が地面を掠める。届かない。
澪は引いた。
重い。
負傷教師と朱音、二人分。出力三割では足りない。手首が悲鳴を上げる。左足が滑る。鎖が食い込む。朱音がこちらを見た。彼女は一瞬で状況を理解し、教師を澪側へ押し出すように身体を捻った。
「先生を先に!」
「朱音先輩も!」
「分かってる!」
朱音は怒鳴り返しながら、槍の石突きを残った足場に打ち込んだ。遥が横から飛び込み、朱音の腕を掴む。水瀬の魔力糸が教師の身体を支える。久遠が《空膜裂き》を押し戻す。
澪は奥歯を噛み、鎖を腰に回した。力任せでは壊れる。だが、緩める余裕はない。鎖の戻りを利用する。風縒り鉄へ細く魔力を流し、変異核片の補助を一瞬だけ強める。三割の範囲内で、引く角度だけを変える。
教師の身体が崩落縁を越えた。朱音が続く。遥が引く。水瀬が支える。
全員が、地面へ転がった。
だが、《空膜裂き》も止まっていなかった。
久遠の短槍を弾き、透明な身体が一気に門の方へ伸びる。第三環側へ戻る境界門。そこを抜ければ安全圏に近い。逆に言えば、そこを壊されれば退路がなくなる。
「走れ!」
久遠の声が響いた。
全員が動いた。生徒三人、負傷教師、朱音、遥、水瀬。澪は最後尾で鉤鎖を走らせ、安全な足場を示すように青白い線を引く。見える場所だけを踏ませる。硝子草の下に空が透けている場所は避ける。玻璃草蛇が飛び出すたび、短杭か鎖の腹で弾く。雲喉狐の霧は遥が切り、朱音の槍が狐を遠ざける。
境界門まであと少し。
その時、背後で空膜が大きく鳴った。
《空膜裂き》が、分裂した。
細い透明な刃が三本、地面を這うように伸びてくる。一つは久遠へ。一つは澪へ。最後の一つは、生徒たちの後ろを狙っていた。
澪は反射で動いた。
自分へ向かう刃を避けるだけなら簡単だった。だが、生徒へ向かう刃が速い。朱音は教師を支えている。遥は前方の蛇を払っている。水瀬は防壁維持中。間に合うのは澪だけ。
鉤鎖を投げる。
生徒ではなく、床へ。
鉤刃が石畳の割れ目に食い込む。澪は鎖を張り、自分の身体を横へ投げた。刃の進路に身体ごと割り込む。透明な刃が脇腹を掠めた。熱い痛みが走る。再生が動く。だが、刃は軌道を逸らされ、生徒の足元ではなく石門の縁を裂いた。
轟音。
境界門の片側が崩れた。
全員が門の内側へ転がり込む。朱音が振り返る。
「澪!」
「行って!」
「置いていくわけないでしょ!」
朱音が叫ぶ。
澪は鎖を引いた。石畳に食い込んだ鉤刃が抜ける。戻りが速い。だが、その瞬間、足元が消えた。空膜が崩れ、澪の身体が落ちる。
青が広がる。
今度は自分が落ちる番だった。
澪は門の柱へ鉤鎖を投げた。届く。噛む。引く。風縒り鉄が悲鳴のような音を立てた。肩が抜けそうになる。手首が焼ける。左足が空を蹴る。身体が引き上げられる。
門の縁に手が届く直前、朱音の手が澪の手首を掴んだ。
強い。痛い。だが、離れない。
「掴んだ!」
朱音が叫ぶ。
遥が朱音の腰を掴む。水瀬が補助魔術を重ねる。久遠がさらに後ろから二人を支える。凛の声が通信越しに聞こえた。
『全員、支部側転送陣まであと三十秒! 門の安定、落ちてます!』
澪は歯を食いしばり、自分でも鎖を引いた。朱音の腕と、鉤鎖と、門柱。その三つに引かれて、澪の身体が空から引きずり上げられる。
地面に転がった瞬間、背後の門が半分崩れた。
全員が息を詰める。
こちら側に戻れた。生徒も、教師も、朱音も、澪もいる。だが、終わっていなかった。
崩れた門の向こうで、《空膜裂き》が形を変えていた。
透明だった身体に、青白い輪郭が生まれる。薄い獣の姿ではない。人の背丈を超える長い胴。裂けた空膜をまとった四本脚。頭部に目はない。ただ、空を切り取ったような黒い穴が一つ、顔の中央に開いている。
久遠が一歩前に出た。
「……変異したな」
水瀬の端末が警告音を立てる。
表示された鑑定結果を見て、水瀬の顔色が変わった。
「先生、危険度が更新されました」
久遠が振り返る。
「読め」
水瀬は喉を鳴らし、震える声で告げた。
「《空膜裂き・変異個体》。危険度、高から――極高」
崩れた門の向こうで、変異個体がこちらを向いた。
次の瞬間、配信のコメント制限が破れたように、画面端へ文字が雪崩れ込む。
『逃げろ』
『何だあれ』
『四環の魔物じゃない』
『先生、早く』
『九環ちゃん、後ろ』
『門が閉じる』
『朱音先輩、槍構えてる』
『これ、まだ終わってない』
朱音が槍を構え、澪の前に半歩出た。
「澪、立てる?」
澪は脇腹を押さえながら、鉤鎖を握り直した。痛い。手首も熱い。左足も限界に近い。けれど、立てる。
変異個体が、門の残骸を踏み越えた。
久遠が低く言う。
「全員、戦闘準備。ここで止める」
澪の視界に、戦闘前の状態が開いた。
――――――
【天瀬 澪】
探索者Lv:45
状態:
疲労:中
左足首裂傷:再負荷
手首負荷:中
脇腹裂傷:回復中
魔力消耗:中
精神汚染:微弱
ユニークスキル:
《適応》
通常スキル:
《身体強化》Lv5
《魔力操作》Lv7
《魔力強化》Lv4
《魔力感知》Lv3
《格闘術》Lv5
《短剣術》Lv3
《鎖術》Lv3
《投擲》Lv2
《再生》Lv8
《状態異常耐性》Lv4
《精神汚染耐性》Lv2
《風属性耐性》Lv1
――――――
逃げるには、負傷者が多すぎる。
倒すには、相手が悪すぎる。
だが、足止めならできる。
澪は朱音の横に並んだ。朱音が一瞬だけこちらを見る。怒っている顔ではなかった。怖がってもいる。けれど、槍先はぶれていない。
「三割、守れる?」
「たぶん無理」
「そこは本当って言わなくていい!」
朱音が叫んだ直後、変異個体が地面を蹴った。
青白い刃が、境界門の残骸ごとこちらへ伸びる。
澪の鉤鎖と、朱音の槍が、同時に前へ出た。




