第五話 出会いと初戦闘
澪が初めてダンジョンへ入った日のことを、朱音は今でも妙にはっきり覚えている。
それは、戦闘が派手だったからではない。第一層第一環。探索者高校の実地導入で使われる、ほとんど訓練場の延長のような場所だ。出てくる魔物も弱く、教師の監督もあり、よほどのことがなければ命に関わるような事故は起きない。もちろん「よほどのこと」が起きるのがダンジョンではあるが、それでも第一環は、探索者たちにとって最初に空気を吸うための場所だった。
朱音が覚えているのは、澪の顔だった。
いや、顔だけではない。最初はたぶん、顔だった。認めたくはないが、そこは否定できない。入学したばかりの一年生たちが、緊張した顔で協会支部のロビーに並んでいた中、天瀬澪だけが妙に浮いていた。深藍の髪は、黒にも青にも見える不思議な色で、光の角度によって少しだけ透ける。肌は白く、頬の線は細く、制服の袖から出た手首は頼りないほど華奢だった。初めて見た時、朱音は一瞬、本当に人間かどうか迷った。人形のよう、という表現はありきたりだ。だが、実際にそう思ってしまった。しかも、綺麗なだけではない。どこか、置き忘れられたような顔をしていた。
周囲の一年生は、初めての実地導入に浮き足立っていた。装備の確認を何度もする者、友人同士で笑い合う者、教師の説明を必死にメモする者、配信用端末の角度を気にする者。探索者高校へ来た者たちは、多かれ少なかれダンジョンに憧れを持っている。強くなりたい。稼ぎたい。配信者になりたい。家族を助けたい。名を上げたい。理由はそれぞれだが、入口に立つ時の目には熱がある。
澪には、それがなかった。
熱がないのではない。違う場所に向いていた。協会職員の説明も、教師の注意も、周囲のざわめきも、彼女の表面を滑っているようだった。視線だけが、ときどきゲートの奥へ向く。まるで、懐かしい声でも聞こえているみたいに。
その日、朱音は二年生として実地導入の補助に入っていた。後輩の装備を確認し、隊列を整え、危なそうな生徒がいれば声をかける。そういう役目だ。面倒見がいいと言われるのは嫌ではない。頼られるのも嫌いではない。だが、特別に後輩全員へ入れ込むわけではない。危なければ止める。困っていれば助ける。それだけのはずだった。
なのに、澪を見た時だけ、胸の奥が少し引っかかった。
綺麗すぎるから、というのもあった。正直に言えば、好みだった。顔立ちも、髪の色も、静かな雰囲気も、朱音の目にはかなり刺さった。後で遥にそれを指摘され、「朱音って、危うい美少女に弱いよね」と笑われた時、否定しきれなかったくらいだ。
けれど、それだけではなかった。
澪は、綺麗なのに、まるで自分の身体を大切に思っていないように見えた。
それが、朱音には嫌だった。
「天瀬澪さん、だよね」
ロビーの隅で一人、装備確認の列から少し離れて立っていた澪に、朱音は声をかけた。澪はゆっくり顔を上げた。目が合った瞬間、朱音は少しだけ言葉に詰まった。黒に近い青の瞳。光はある。けれど、年相応の怯えや浮つきがない。初めてダンジョンに入る一年生の目ではない。
「……はい」
返事は短かった。声も小さい。だが、怯えているわけではない。必要最低限だけ返した、という感じだった。
「私は七瀬朱音。二年。今日は補助で入ってるから、装備確認するね。武器は?」
「これ」
澪が差し出したのは、学校支給の短剣だった。初心者用の安全加工が施されたものだ。切れ味は控えめで、魔力を通せば最低限戦える。第一環なら十分。ただし、澪の持ち方は少し変だった。握り慣れていないようでいて、武器そのものへの怖さはない。剣というより、そこらへんの石を拾ったような扱い方だった。
「短剣、使ったことある?」
「似たものは」
「似たもの?」
「刃物」
朱音は一瞬、どう返せばいいか分からなかった。刃物。広すぎる。包丁なのか、ナイフなのか、もっと物騒なものなのか。澪の表情からは読めない。
「えっと、防具は?」
「これ」
「うん、学校の軽装ジャケットね。サイズは……ちょっと大きいかな。袖、邪魔じゃない?」
「邪魔」
「なら言ってよ」
「聞かれなかった」
朱音はそこで、初めてこの子は少しずれているのだと理解した。悪気はない。反抗的でもない。ただ、自分から困っていることを言う発想が薄い。朱音は軽く息を吐き、澪の袖口を調整した。手首のベルトを締め直すと、細い手が少しだけ固定される。
「これでどう?」
「動く」
「感想が最低限だね……。痛くない?」
「痛くない」
「きつくなったら言って。ダンジョンの中で袖が引っかかる方が危ないから」
「分かった」
分かった、と言った時の澪の顔は、やはりほとんど変わらなかった。だが、朱音が袖を直す手元をじっと見ていた。人に装備を整えられることに慣れていないのか、それとも観察しているのか。たぶん両方だ。
朱音は次に、澪のリュックを確認した。水、携行食、簡易包帯、低位帰還札、学校支給の小型ライト。最低限は入っている。だが、携行食の量が少なかった。朱音は眉を寄せる。
「朝ご飯、食べた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「昨日の夜は食べた」
「それは朝ご飯じゃない」
朱音が思わず強めに言うと、澪は少しだけ首を傾げた。本当に分かっていない顔だった。朱音は頭を抱えたくなるのを堪え、自分の鞄から栄養ゼリーを一本取り出して押しつけた。
「食べて。今」
「今?」
「今。ダンジョンに入る前。第一環でも、空腹で動きが鈍ると危ないから」
「第一環は安全って言ってた」
「安全寄り、であって安全じゃないの。あと、私は朝ご飯を食べない一年生を安全とは認めない」
澪はゼリーを見つめ、それから朱音を見た。何か言いたげだったが、結局素直に封を切った。飲む速度は遅い。味わっているのではなく、食事という行為そのものに少し興味が薄いように見えた。朱音はそれを見ながら、ますます放っておけない気持ちになった。
「天瀬さん、探索者になりたかったの?」
思わず尋ねた。補助役としては少し踏み込みすぎた質問だったかもしれない。だが、澪の様子を見ていると、どうにも気になった。探索者高校に入っているのだから、理由はあるはずだ。けれど彼女は、憧れに燃える新人にも、稼ぎたいだけの子にも、家の事情で仕方なく来た子にも見えなかった。
澪はゼリーの袋を手にしたまま、少し考えた。
「ダンジョンがあるから」
「うん。あるね」
「だから、入る」
「……それ、理由になってる?」
「なってない?」
朱音は言葉に詰まった。澪の中では、それで完結しているらしい。山があるから登る、海があるから潜る、穴があるから覗く。そういう単純さに近い。だが澪の場合、そこに熱狂や遊び心はない。ただ、当然のこととして言っている。
「怖くないの?」
「怖いと思う」
「思う?」
「まだ入ってないから」
澪はそう言って、ゲートの方を見た。
協会支部の奥にある第一層ゲートは、白い枠の中で薄く揺れている。水面のようで、空の膜のようでもある。向こう側には第一層《零れ空の庭》の入り口がある。多くの新人にとって、それは夢の入口だった。澪にとっては、違うようだった。
「この世界は、静かすぎる」
澪がぽつりと言った。
朱音は聞き返しそうになり、やめた。澪の声が、さっきまでと少し違ったからだ。独り言に近い。誰かに説明するつもりの言葉ではない。
「静か?」
「魔力が薄い。夜に獣が鳴かない。壁の向こうで人が死なない。空が遠い。普通は、いいことだと思う」
普通は、という言い方が妙だった。まるで澪だけがその普通にうまく馴染めないみたいだった。朱音は眉を寄せる。両親をダンジョンで亡くした子だと、資料で見た。探索者遺族年金で暮らしているとも聞いている。だから、静かな部屋に一人でいることが苦手なのかもしれない。そう解釈した。今の朱音には、それ以外の背景を知る術はなかった。
「だから、ダンジョン?」
「ここは、少し近い」
「何に?」
澪は答えなかった。答えられないのではなく、言葉が見つからないようだった。しばらくゲートを見つめ、やがて短く言う。
「息がしやすそう」
朱音は、その言葉を笑えなかった。
第一層《零れ空の庭》へ入った瞬間、澪は足を止めた。
ほとんどの新人が足を止める。朱音も一年前、初めてここへ来た時はそうだった。地面に空が零れている。草原のあちこちに青空が水たまりのように沈み、白い雲が足元をゆっくり流れていく。触れれば弾ける空滴。逆さにかかった虹。遠くには、空の欠片を食べる小さな鳥の群れ。第一環は安全域に近い。だが、その景色だけで、ここが地上ではないことを嫌でも理解させられる。
新人たちが歓声を上げた。
「すごい」
「本当に空が落ちてる」
「配信で見たやつだ」
「やば、綺麗」
朱音はその反応を見ながら、少し懐かしく思った。自分も最初は、そうだった。怖さより先に、綺麗だと思った。探索者を続けている者は、たぶん誰でも最初にその感覚を知っている。
だが、澪は歓声を上げなかった。
ただ、立ち尽くしていた。
深藍の髪が、第一層の風に揺れる。目が、足元の空を見ている。表情はほとんど変わらない。だが、朱音には分かった。澪は見惚れている。泣きそうでも、笑いそうでもない。ただ、長い間忘れていた呼吸を思い出したような顔をしていた。
「……綺麗」
声は小さかった。たぶん、配信端末でも拾えないくらい。朱音のすぐ近くだから聞こえただけだ。
その瞬間、朱音は少し困った。
顔が好みだから気になる、というだけなら笑い話にできた。危なっかしい後輩だから世話を焼く、というだけなら補助役の範囲だった。だが、足元の空を見て「綺麗」と呟いた澪の横顔は、朱音が思っていたよりもずっと脆かった。放っておけば、この子は綺麗なものを追って、危ない場所まで歩いて行く。そんな予感がした。
実地導入は、第一環の浅い範囲を歩き、空滴の扱い、簡易鑑定、魔物との距離の取り方を学ぶだけのものだった。教師が先頭に立ち、二年補助が周囲を見る。新人たちは班ごとに分かれ、決められた道を進む。澪は朱音の担当班に入っていた。凛も同じ班だったが、当時はまだ澪に話しかける余裕はなかった。凛は緊張で装備確認を何度もしていたし、澪はそもそも周囲をあまり見ていなかった。
最初の魔物は、空雫鼠だった。
第一環の草むらに出る、小さな魔物だ。体長は三十センチほど。薄い青色の毛皮を持ち、尻尾の先に空滴をぶら下げている。見た目は可愛い。実際、新人向けの最初の敵としてよく使われる。だが、油断すると噛む。空滴を破裂させて目くらましもする。初心者に「魔物は可愛い見た目でも危険」と教えるにはちょうどいい相手だった。
教師が班に向かって説明する。
「空雫鼠だ。危険度は低いが、素手で触るな。空滴を破裂させる前に距離を取り、短剣か訓練用の棒で対応する。倒すことより、動きを見ることを優先しろ」
新人たちは緊張した。凛などは短剣を握りすぎて指が白くなっている。朱音は少し後ろから見守った。空雫鼠が草むらから顔を出し、尻尾の空滴を揺らす。可愛い、と誰かが呟いた。次の瞬間、空雫鼠は一番近くにいた男子生徒へ飛びかかった。
男子生徒は悲鳴を上げて後ろへ下がる。短剣を振るが、空雫鼠は小さく跳ねて避ける。教師はまだ止めない。危険は少ない。経験させる場面だ。
その時、空雫鼠が方向を変えた。
男子生徒ではなく、横にいた凛へ向かった。凛は目を見開き、短剣を構えようとして遅れた。空滴が破裂する。白い雲がふわりと広がり、視界が遮られる。凛が小さく息を呑む。朱音が踏み出そうとした。
その前に、澪が動いた。
速かったわけではない。今の澪と比べれば、ずっと遅い。身体強化も未熟で、足運びも現代の探索者としては荒い。だが、迷いがなかった。雲の中へ一歩踏み込み、凛と空雫鼠の間に身体を入れる。短剣を振るのではなく、左手を差し出した。
空雫鼠が、その手に噛みついた。
「天瀬さん!」
凛の声が上がる。朱音も目を見開いた。普通は避ける。盾で受ける。訓練用ジャケットで流す。素手を差し出すなど、初戦闘の新人がすることではない。空雫鼠の牙は小さいが、肉を裂くには十分だ。澪の細い手の甲に、赤い血が滲んだ。
だが澪は、顔色を変えなかった。
噛みつかせたまま、右手の短剣を逆手に持ち替える。刃を大きく振るのではなく、空雫鼠の首元へ短く入れた。動きは綺麗ではない。だが、急所を迷わず選んでいる。空雫鼠が痙攣し、尻尾の空滴が弾ける前に力を失った。
第一環の空気が、少しだけ静かになった。
新人たちは、魔物が死ぬ瞬間を見て固まっていた。可愛い見た目の小さな敵。それが血を流して動かなくなる。訓練ではあるが、初めての戦闘としては十分に現実だった。
澪は空雫鼠の牙を自分の手から外し、傷口を見た。血が出ている。痛いはずだ。だが、彼女は傷よりも空雫鼠の動きを思い返しているようだった。朱音は慌てて近づき、澪の手を掴んだ。
「何してるの!」
思わず声が強くなった。補助役として、怪我をした後輩にかける第一声としては少し違ったかもしれない。けれど、朱音は驚いたのだ。怖かったのだ。澪があまりにも自然に、自分の手を餌のように使ったから。
澪は朱音を見上げる。
「止めた」
「止めた、じゃない。手を噛ませる必要なかったでしょ」
「凛に行ったから」
名前を呼ばれた凛が、びくりと肩を揺らした。澪はそれを見て、少しだけ目を伏せる。
「短剣、間に合わなかった」
「だからって手を出す?」
「手は治る」
彼女は、当たり前のように言った。手は治る。だから噛ませてもいい。そういう考え方が、すでに身体に染みついている。
朱音は自分のポーチから消毒布を取り出し、澪の手を包んだ。傷は浅くない。牙が二本、しっかり入っている。だが不思議なことに、出血は思ったより早く弱まっていた。朱音はそこで初めて、澪の身体に何かあるのかもしれないと思った。けれど、その時はまだスキル名までは分からない。
「痛い?」
「少し」
「それ、絶対少しじゃないやつ」
「少し」
「……もう」
朱音は包帯を巻きながら、怒りたいのか、褒めたいのか、自分でも分からなくなった。凛を庇ったのは確かだ。初戦闘で身体が動いたのもすごい。だが、その方法が危なすぎる。澪は自分の身体を道具のように使う。怪我を計算に入れる。初めての第一環で、それをやった。
教師が近づいてきて、澪と空雫鼠を見比べた。
「天瀬、今のは危険だ。庇った判断は悪くないが、素手で受けるな。噛み傷は感染や魔力残留がある」
「はい」
「返事はいい。次から盾か防具で受けろ」
「盾、ないです」
「なら避けろ」
「凛に当たる」
「……七瀬、後でこの子を保健室へ」
「はい」
朱音は短く返事をした。教師も扱いに困っている顔だった。初戦闘で魔物を倒した新人は珍しくない。だが、初手で自分の手を噛ませて味方を庇い、そのまま急所を刺す新人はあまりいない。
戦闘後、澪は少し離れた場所で自分の状態を確認していた。朱音は横から覗けない。ステータスは本人にしか見えないからだ。だが、澪の目の動きで、何かを見ているのは分かった。
澪の内側には、初めての成長表示が浮かんでいた。
――――――
【戦闘後確認】
探索者Lv:1 → 2
通常スキル:
《身体強化》NEW Lv1
《短剣術》NEW Lv1
《格闘術》NEW Lv1
《再生》NEW Lv1
――――――
澪はそれを見て、少しだけ納得した。ダンジョンは、この世界でもやはり戦えば応える。痛み、恐怖、傷、勝利。それらを材料にして、身体を変える。前の世界の魔術体系とは違う。だが、根っこは似ている。生き残った者が、次も生き残るために変わる。そういう場所だ。
手の傷が、少しずつ塞がっていく。遅い。今の《再生》はLv1にすぎない。だが、確かにただの自然治癒より早い。澪はそれを確認し、包帯の上から手を握った。
朱音が横でじっと見ていた。
「今、何か上がった?」
鋭い。澪は少しだけ視線を動かす。朱音はそれを見逃さなかった。
「その顔、何か隠してる顔だ」
「顔に出る?」
「出る。少なくとも今は出てる」
「少しだけ」
「何が?」
「治るのが、少し早くなるやつ」
澪は正確なスキル名までは言わなかった。言わない方がいい気がした。朱音も、それ以上は聞かなかった。ただ、包帯の上から澪の手を見て、困ったように眉を下げる。
「だからって、噛ませていい理由にはならないからね」
「でも、凛に当たらなかった」
「それは……うん。そこは、ありがとう。凛ちゃんも助かったと思う。でも、次は別の方法にして」
「別の方法」
「そう。たとえば、間に入るなら短剣の鞘で受けるとか、ジャケットの袖で流すとか、足で距離を変えるとか。自分の肉を最初に差し出さない」
澪は真剣に聞いていた。朱音はそれを見て、少しだけ拍子抜けする。怒られると思って身構えていたが、澪は意外と素直だった。命令や助言が合理的なら聞くのだろう。ただ、その合理の基準が少しずれているだけで。
「分かった」
「本当に?」
「本当」
澪はそう答えた。今よりずっと、ぎこちない「本当」だった。
その日の実地導入が終わった後、保健室で手の処置を受け、澪は朱音と二人で校舎の外を歩いた。夕方の空は薄く赤く、第一層で見た空とは違って地上の高い場所にあった。澪はその空を見上げていた。朱音は隣で、どう声をかけるべきか迷っていた。
「ねえ、天瀬さん」
「澪でいい」
「じゃあ、澪。今日、初めてだったんだよね? ダンジョン」
「うん」
「怖かった?」
澪は少し考えた。空雫鼠の牙。手の痛み。凛の息を呑む声。足元に零れた空。第一層の風。全部を思い返してから、答える。
「怖かった」
「そうは見えなかったけど」
「怖い時は、先に動いた方がいい」
「誰に教わったの、それ」
澪は答えなかった。朱音は、聞いてはいけないことかもしれないと思った。澪の両親のこと、ダンジョン遺族年金のこと、一人暮らしのこと。資料で見た情報が頭をよぎる。まだ出会ったばかりの後輩に踏み込むには、重すぎる。
澪は夕空を見たまま、ぽつりと言った。
「第一環は、優しかった」
「優しかった?」
「綺麗だった。魔物も弱い。帰れる。あそこは、入口」
「うん。入口だね」
「奥に行くと、違う?」
朱音はその問いに、すぐ答えられなかった。第一層の奥。第五環。第六環。第七環。朱音自身、まだ深い外縁へ自由に入れるほどの探索者ではない。だが、先輩として知識はある。奥へ行けば、第一層は優しくなくなる。綺麗さは消えない。むしろ、危険なほど美しくなる。
「違うよ。奥に行くほど、綺麗で、怖い」
朱音がそう答えると、澪は少しだけ目を細めた。
「なら、行きたい」
あまりにも自然な言葉だった。朱音は思わず足を止める。
「今日、手を噛まれたばっかりだよ?」
「手は治る」
「だから、その考え方!」
朱音が声を上げると、澪は少し不思議そうにこちらを見る。怒られる理由は分かる。でも、行きたい理由は消えない。そういう顔だった。
朱音はその時、はっきり思った。
この子は、放っておいたら死ぬ。
死にたがっているわけではない。むしろ、生き残るための判断は早い。だが、見たいもののためなら平気で自分を傷つける。恐怖を否定せず、痛みを情報として扱い、必要なら手を噛ませる。そんな十五歳を、一人でダンジョンへ入れてはいけない。少なくとも、誰かが怒らなければならない。誰かが朝ご飯を食べろと言い、包帯を替えろと言い、帰還札を使えと言わなければならない。
その誰かが、なぜ自分なのか。
朱音は少し考えた。
顔が好みだったから。最初にそう思ったのは事実だ。放っておけないくらい綺麗だったから。危うい横顔に目を奪われたから。だが、それだけではない。澪が凛を庇った時、手を噛まれても顔を変えず、なのに空を見て「綺麗」と呟いた時、朱音はもうこの後輩をただの一年生として見られなくなっていた。
綺麗なものを見たいなら、帰ってこなければならない。
そのことを、誰かが澪に言い続けなければならない。
「澪」
「なに」
「奥に行きたいなら、まずご飯食べて」
「そこ?」
「そこ。手を治すにも、歩くにも、戦うにも、帰るにも、全部そこから。あと、学校にも来ること。出席日数が足りないと探索許可にも響く。装備もちゃんと見る。帰還札もケチらない。分かった?」
澪は目を瞬かせた。あまりにも一気に言われたからかもしれない。朱音は自分でも少し早口だったと思ったが、止まらなかった。
「あと、怪我したら言う。痛い時は少しって言わない。危ない場所に行く時は事前に言う。変なもの拾ったら見せる。食べられるか分からないものを食べない。呪物を綺麗だからって持ち帰らない。先生に嘘つかない。私の連絡は無視しない」
「多い」
「多くなるようなことをしそうだから言ってるの」
「朱音先輩」
「なに」
「先輩、面倒見いい」
朱音は一瞬、言葉に詰まった。真正面から言われると、少し照れる。しかも澪は、本当にただ事実を言っている顔だった。
「……そうだよ。だから、面倒見られておきなさい」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは本当って言う」
「本当」
それが、二人の最初の約束に近いものだった。
その後、澪は学校をよく休んだ。第一環の次は第二環、その次は第三環へ行き、気づけば第五環近くまで一人で足を伸ばそうとして朱音に捕まった。朱音は怒った。何度も怒った。食事を持っていき、装備を見て、保健室へ引きずり、教師へ報告し、時には甘やかし、時には本気で叱った。澪は面倒そうにしながらも、完全には拒まなかった。
朱音にとって、澪は危うい後輩だった。
見た目が好みで、放っておけなくて、時々本気で心臓に悪くて、けれどダンジョンの景色を見た時だけ、誰よりも真っ直ぐな目をする少女だった。
そして澪にとって、朱音はたぶん、この世界で最初に「帰ってこい」と言い続けた人間だった。
現在。
澪は夜の部屋で、古い手帳を開いていた。最初の頃に書いた戦闘記録。第一環、空雫鼠、手を噛ませるな、と朱音の字で書かれた注意。自分の字で小さく書いた成長記録。
――――――
【初戦闘記録】
探索者Lv:1 → 2
ユニークスキル:
《適応》
通常スキル:
《身体強化》NEW Lv1
《短剣術》NEW Lv1
《格闘術》NEW Lv1
《再生》NEW Lv1
――――――
懐かしい、というほど昔ではない。けれど、その頃の自分はずいぶん弱かった。空雫鼠に手を噛ませ、ようやくLv2になり、《再生》Lv1を得た。今の澪なら、あの魔物に触れさせず倒せる。だが、あの日の痛みがなければ、今の澪の戦い方は少し違ったかもしれない。
手帳の端には、朱音の字で書かれている。
自分の肉を最初に差し出さない。
澪はそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
今もあまり守れていない気がする。
スマートフォンが震えた。朱音からのメッセージだった。
『寝てる?』
『起きてる』
『足は?』
『ほぼ治った』
『ほぼ、は禁止。ちゃんと治るまで無茶しない』
『分かった』
『本当?』
『本当』
少し間が空いてから、次のメッセージが届いた。
『明日、鎖の仮仕上げでしょ。絶対、訓練場で試してからにしてね。ダンジョン直行したら怒るから』
澪は机の上に置いた鉤鎖のない空のホルダーを見た。明日、新しい鎖が来る。風縒り鉄と変異核片を組み込んだ、風を噛む鎖。胸の奥が少しだけ熱くなる。
『訓練場で試す』
『本当?』
『本当』
『よし。あと、ご飯食べた?』
澪は少しだけ笑った。初めて会った日から、朱音はずっと同じことを言っている。ご飯を食べろ。怪我を言え。帰ってこい。
『食べた』
『偉い。おやすみ、澪』
『おやすみ』
スマートフォンを伏せ、澪は手帳を閉じた。
なぜダンジョンに入るのか。
最初は、そこにあったからだった。魔力があり、空が零れ、地上より少し息がしやすかったから。静かすぎる部屋より、獣のいる草原の方が、自分の身体に馴染んだから。
けれど今は、それだけではない。
見たい景色がある。強くなりたい理由がある。帰ってこいと言う人がいる。
澪はベッドへ横になり、目を閉じた。第一環の柔らかい空、空雫鼠の牙、手の痛み、朱音の怒った声。その全部が、今の自分へ繋がっている。
澪はユニークスキル「適応」によりスキルの取得確率や、レベルアップに必要な経験が他の探索者に比べ飛躍的に優遇されています。
条件がそろえば数十年の積み重ねを数日で追い越すほど。。。
ストーリー上のご都合なのでご理解をお願いします。




