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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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第四話 風縒り鉄

# 第四話 風縒り鉄


 翌朝、澪は目を覚ますより先に、背中の痛みで自分の身体を思い出した。


 布団の中でわずかに寝返りを打っただけで、肩甲骨の下から腰へかけて、細い熱がすっと走る。昨日、風裂燕の切断羽に裂かれた傷だ。表面はほとんど塞がっている。服が擦れても血は出ない。だが、皮膚の奥に薄いざらつきが残っていた。風属性の魔力残留。協会の処置で大部分は抜けたが、完全ではない。自分の魔力を背中へ流すと、傷の奥で砂粒のような抵抗がある。再生だけで押し潰すこともできるが、それでは魔力の消費が重い。


 澪はベッドの上で上体を起こし、背筋を伸ばした。ゆっくり息を吸い、魔力を背中へ回す。残った風のざらつきを薄く削り、皮膚の外へ逃がすように押し出す。昨日、風裂き地帯で覚えたやり方だ。毒抜きに似ているが、毒ほど重くない。軽い。軽すぎて掴みにくい。見えない糸を指先で摘まむように、澪は魔力を細く動かした。


 数秒後、背中の熱が少し引いた。


「……使える」


 小さく呟いてから、自分の状態を開く。探索者の状態表示は、他人には見えない。配信にも映らない。協会の端末に勝手に送られるわけでもない。けれど、自分の身体を客観視するには便利だった。前の世界にも似た鑑定魔術はあったが、ここまで探索者全員が当たり前に扱えるものではなかった。この世界のダンジョンは、命を削る代わりに、命を削るための道具も与える。そういうところが、少しだけ気持ち悪く、少しだけ面白い。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:44


 種族:人間

 存在進化:未到達


 状態:

 軽度疲労

 背部裂傷:回復中

 風属性魔力残留:微弱

 精神汚染:微弱


 ユニークスキル:

 《適応》


 通常スキル:

 《身体強化》Lv5

 《魔力操作》Lv6

 《魔力強化》Lv4

 《魔力感知》Lv3

 《格闘術》Lv5

 《短剣術》Lv3

 《鎖術》Lv2

 《投擲》Lv2

 《再生》Lv8

 《状態異常耐性》Lv4

 《精神汚染耐性》Lv2

 ――――――


 大きな変化はない。だが、背中の傷は昨日より軽い。魔力消耗も戻っている。今日なら動ける。戦える。採れるかどうかは別の話だ。


 机の上には、昨夜書き込んだ地図が広がっていた。第一層第七環入口。風裂き地帯。風縒り鉄の位置。風裂燕の出現地点。青白い階段が現れた裂け目。澪の字は小さく、必要最低限だ。だが、その余白には朱音の字が増えている。やや丸く、筆圧が強く、注意書きが多い。


 風裂き周期:短い。

 採取中に横風注意。

 護符を使うこと。

 無理なら帰る。

 帰還札をケチらない。

 ご飯を食べる。


 最後の一文だけ、明らかに地図情報ではない。澪はそれを見つめ、少しだけ首を傾げた。だが消さなかった。昨夜、消そうとした瞬間、朱音に「命に関わる注意事項だから」と真顔で言われた。再生に栄養が必要なのは分かる。食事が命に関わるのも理解している。けれど、探索地図に書くべきことなのかは、まだ少し納得していない。


 スマートフォンが震えた。


『起きた?』


 朱音からだ。もう通話ではなくメッセージだった。澪は短く返す。


『起きた』


 すぐに次が来る。


『食べた?』


『まだ』


『食べて』


『あとで』


『今』


 澪はしばらく画面を見つめた。文字なのに、朱音の声が聞こえる気がした。逃げ道はない。台所へ行き、昨日朱音が買ってきた栄養バーとヨーグルトを取り出す。味は悪くない。だが、朝から食べるには少し重い。澪は一口ずつ噛み、食べ終えてから写真を撮って送った。


『よし』


 まるで調教師のようだと思ったが、口には出さなかった。出せばたぶん怒られる。


 今日の探索届はすでに出してある。第一層第七環入口、風裂き地帯の再観測および風縒り鉄の少量採取。帰還札は正規二枚、低位二枚。追加の風避け護符は、朱音が昨日の帰りに二枚用意してくれた。学校の素材処理室から借りた簡易採取具もある。


 風縒り鉄は普通の金属ではない。風が結び目を作るように鉱化した素材で、無理に叩くと砕ける。切るよりも、周囲の硝子草の根ごと剥がし、風の流れを乱さないように収納する必要があるらしい。


 面倒だ。けれど、鉤鎖を強くするには必要だ。


 澪は装備を整えた。防刃ジャケットの背中には、昨日の傷に合わせて補修布を貼っている。腰には鉤鎖。太腿に短杭。インベントリには魔力補助ゼリー、栄養バー、水、採取具、風避け護符、帰還札。朱音の書いた「ご飯を食べる」は行動済み。地図には小さく丸をつけておいた。


 学校へ向かう途中、朱音から通話が来た。澪は歩きながら出る。


『今日、本当に採るんだよね』


 通話越しの朱音の声は、昨日より落ち着いていた。心配はある。けれど、澪が完全には止まらないことを受け入れた後の声だ。澪が「うん」と答えると、朱音はすぐには叱らず、少し間を置いた。


『採れなかったら?』


「帰る」


『採れそうでも、裂け目が出たら?』


「帰る」


『青白い階段がまた見えても?』


 その問いだけ、少しだけ声が硬かった。


 澪は黙った。昨日見た階段。空の裂け目の向こうに二段だけ浮かんでいた、青白い光。透明な何か。標準鑑定範囲外。思い出すだけで、足の奥が前へ出ようとする。


『澪』


 朱音の声が低くなった。通話越しなのに、眉を寄せている顔が浮かぶ。


「今日は、入らない」


『今日は、ね』


「うん」


『その言い方、ものすごく引っかかるけど、今はそれで手を打つしかないんだろうなって思ってる自分が嫌だよ』


 朱音は少しだけ笑った。苦笑に近い。怒っているのに、諦めている。諦めているのに、見捨ててはいない。


『今日は入らない。風縒り鉄を少し採って帰る。配信は切らない。帰還札はケチらない。煽りコメントは読まない。あと、ご飯は食べた?』


「食べた」


『写真見た。えらい』


「子ども扱い」


『子どもより手がかかるからね』


 澪は少しだけ不満だったが、言い返せなかった。実際、朝食を食べた証拠写真を送ったばかりである。


『あと、昨日《再生》Lv8を言ったせいで、変な人も増えてるから気をつけて。もっと怪我して見せろ、とか、再生検証しろ、とか、そういうの』


「読まない」


『うん。読まなくていい。澪はたぶん、そういう言葉を真に受けるタイプじゃないけど、別方向に燃料にしそうだから嫌なんだよね』


「燃料?」


『ほら、危ないからやめろって言われると、危ないなら成長できるって考えるでしょ』


「……」


『黙った。ほら、やっぱり』


 通話越しに朱音が呆れたように笑う。その笑い方が、少しだけ普段に戻っていて、澪はなぜか安心した。


『でも、綺麗って言ってくれるコメントは読んでもいいかも。昨日の風裂き地帯、私も怖かったけど綺麗だった。だから、そういう人にはちゃんと見せてあげて。……死なない範囲で』


「朱音先輩も見る?」


『見る。今日は学校の訓練終わったら、ずっと見る。だから帰ってきて』


「分かった」


『本当に?』


「本当」


 通話が切れる。澪はスマートフォンをしまい、協会支部へ向かった。


 ゲート前は、昨日よりさらに人が多かった。澪を待っていたわけではないはずだが、視線はすぐに集まる。探索者高校の生徒、協会職員、配信者らしき者、素材業者。昨日の「九環」の配信は、一部の探索者界隈でかなり広がっているらしい。澪が受付へ向かうと、列の前にいた大人の探索者が少しだけ道を開けた。好意というより、厄介なものを先に通すような距離の取り方だった。


 受付の女性は、昨日と同じ人だった。ライセンスを確認し、探索届を読み、顔を上げる。仕事用の表情の中に、隠しきれない心配が混じっている。


「本日は、第一層第七環入口、風裂き地帯での少量採取ですね。昨日より危険度が上がります。採取行動中は無防備になりますので、魔物の接近があった場合は即時中断してください」


「はい」


「風縒り鉄は、量よりも無事に持ち帰ることを優先してください。粉末片でも研究資料として価値があります。大きな塊を無理に狙わないでください」


「はい」


 受付の女性はそこで少しだけ声を落とした。周囲に聞こえないほどではないが、職務を離れたような響きだった。


「昨日、ちゃんと帰還札を使ったの、見ました。今日もお願いします」


「はい」


「続きが見たいので」


 澪はわずかに目を瞬かせた。昨日も似たようなことを言われた。死んだら続きが見られない。配信者になったつもりはあまりなかったが、九環という名前で映像を流す以上、続きを待つ人間がいるらしい。それは澪にとって、まだ少し新しい感覚だった。


 ゲート前で配信を始める。今日のタイトルは、昨日より直接的にした。


『風縒り鉄を採りに行く』


 開始直後からコメントが流れた。


『来た』

『本当に採りに来た』

『昨日の今日で草』

『今日はちゃんと帰れ』

『再生Lv8の子だ』

『朱音先輩見てる?』

『風縒り鉄は高いからな』

『採取中が一番危ないぞ』

『九環ちゃん、札ケチるなよ』

『今日は裂け目に入るな』


 澪は最後のコメントを見て、少しだけ眉を動かした。見ている側にも、昨日の裂け目はかなり印象に残ったらしい。青白い階段。透明な何か。標準鑑定範囲外。あれの話題が、コメントの中に何度も混じっている。だが、今日は入らない。そう決めている。少なくとも、今日は。


「今日は採取」


 澪は短く言った。コメントがまた流れる。


『宣言した』

『聞いたぞ』

『今日は採取』

『裂け目禁止』

『朱音先輩、録音して』

『本人の今日は、の意味が怖い』


 澪はコメントを閉じるように視線を外し、ゲートをくぐった。


 第一層は、今日も美しかった。第一環の空の池は薄い朝色をしていて、草の上には透明な雫が浮いている。水滴ではない。空滴と呼ばれる、第一層特有の現象だ。触れると弾け、小さな雲になる。新人探索者がそれを指で割って遊び、教官に注意されていた。澪は横目で見ながら通り過ぎる。第一環、第二環、第三環。安全域の空は、今日も柔らかい。


 第四環へ入ると、地面の下の空が深くなり、逆さ虹の根がいくつも見え始める。第五環の正規下降路では、今日も複数のパーティーが第二層へ向かっていた。大きな盾を持つ男、魔法杖を背負った女、荷物を管理する支援職、配信カメラを浮かべる若い探索者。彼らは澪の方を見るが、声はかけない。昨日よりも、澪を見る目に「知っている」が増えている。九環という配信者名は、少しずつ独り歩きしている。


 澪は正規下降路へ向かわず、外縁へ進む。六環の硝子草は、昨日より静かに見えた。だが、静かだから安全というわけではない。昨日避けた青雷兎の群れが、今日は見当たらない。代わりに、遠くで雲喉狐の白い雲が立っている。澪は風下を選び、群れの気配を避けた。今日は戦闘を最小限にする。素材を取りに来たのであって、経験値を拾いに来たわけではない。


 とはいえ、ダンジョンは澪の予定を守ってくれない。


 第七環入口手前、昨日風裂燕と戦った場所に近づいた時、硝子草の奥から硬い足音が聞こえた。軽くない。鳥ではない。兎でも狐でもない。澪は足を止め、鉤鎖を左手に巻いた。魔力感知を薄く広げる。風の中に、重い魔力が一つ。ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


 現れたのは、四本脚の獣だった。体高は澪の肩ほど。鹿に似た形だが、頭部には角ではなく、半透明の帆のようなものが広がっている。帆が風を受けるたび、周囲の硝子草がざわめいた。脚は細いが、蹄は黒い金属のように硬い。標準鑑定を通す。


 ――――――

 《風帆鹿》


 分類:風属性魔物

 出現域:第一層第六〜七環境界

 特徴:突進/風圧跳躍/硬質蹄

 危険度:中〜高

 ――――――


 昨日の風裂燕ほど厄介ではない。だが、突進型。受けると重い。今の目的を考えれば、避けたい相手だった。風帆鹿は澪を見て、頭部の帆を広げた。風を受け、身体が一瞬浮く。次の瞬間、蹄が硝子草を砕き、一直線に突っ込んできた。


 澪は横へ避けた。鉤鎖は投げない。絡めれば倒せるかもしれないが、時間を食う。風帆鹿の突進が通り過ぎ、背後で硝子草が砕ける。澪はそのまま走った。逃げるのではなく、進路をずらす。風帆鹿は旋回に時間がかかる。突進は速いが、小回りは利かない。なら、相手にしない。


 コメントが流れる。


『戦わない?』

『鹿スルー』

『目的優先してる』

『昨日より探索者してる』

『突進型は相手するだけ損』

『でも素材そこそこ高いぞ』

『釣るな』


 風帆鹿が二度目の突進に入る前に、澪は硝子草の濃い場所へ飛び込んだ。草の間を低く走り、空膜の薄い場所を避ける。背後で風圧が弾ける音がした。風帆鹿がこちらを追いきれず、別方向へ抜けたのだろう。澪は足を止めず、風裂き地帯へ向かった。


 七環の空気は、やはり薄い。


 耳の奥がきしむ。地面の下に沈んだ空が、ところどころ引き延ばされて見える。銀色の線が空中を走るたび、風が世界の表面を削っていく。昨日と同じ風裂き地帯。だが、今日は昨日より少し見えた。周期がある。完全に不規則ではない。風裂きの線は、風縒り鉄の周囲でわずかに曲がる。おそらく、風縒り鉄が風の流れを引き寄せている。だから採取が難しい。素材そのものが、危険を呼んでいる。


 澪は風裂き地帯の手前でしゃがみ、配信端末の角度を少し下げた。視聴者にも見えるように、風縒り鉄の位置を映す。黒銀の細い鉱脈が、硝子草の根元に絡んでいる。昨日よりはっきり見える。細い。だが、加工には十分かもしれない。


「採る」


 短く宣言する。コメントが騒ぐ。


『来た』

『護符使え』

『周囲確認して』

『風裂燕いない?』

『後ろも見て』

『札ケチるな』

『朱音先輩、心臓止まってそう』


 澪は周囲を確認した。風裂燕の気配はない。風帆鹿も遠い。風裂きの周期は、左から右へ走る銀線が三呼吸に一度。足元を斜めに裂く細い線が五呼吸に一度。不規則な裂けは、風縒り鉄の真上に時折走る。採取できる時間は短い。


 澪は朱音の護符を一枚取り出し、胸元へ貼った。薄い紙片が魔力を受けて淡く光る。風を丸く逃がす術式。強い風裂きは防げないが、細い切れ端なら逸らせるかもしれない。


 次に、採取具を取り出す。小さな鉤状の刃と、根を傷つけずに剥がすための薄いヘラ。澪は息を整えた。身体強化は指先と足だけ。全身強化はしない。手元が狂う。再生に回す魔力も残す。


 風が鳴る。


 銀線が左から右へ走った。次の三呼吸。澪は前へ出た。一歩、二歩、三歩。足元の空膜に銀線が走る前に、風縒り鉄の前へ膝をつく。採取具を根元へ差し込む。黒銀の細い素材は、見た目より柔らかい。金属というより、固まった風の繊維だ。無理に引けば千切れる。澪はヘラを滑らせ、硝子草の根ごと薄く剥がす。


 風が来る。


 胸元の護符が熱を持った。右から細い風裂きが走り、澪の頬の手前で丸く逸れる。護符が一瞬で焦げた。使い切り。だが腕は無事だ。澪は作業を続ける。黒銀の繊維が少しずつ浮く。あと少し。


 背後で、羽音がした。


 風裂燕ではない。もっと重い。澪は採取具を動かしながら、魔力感知だけを背後へ向けた。小型の風属性魔物。数は一。近い。採取を中断すれば安全。続ければ素材が取れる。風裂きの次周期まで、二呼吸。


 澪は採取を続けた。


 魔物が近づく。背中へ冷たい気配。護符はもう一枚ある。だが、胸元に貼っている焦げた護符は使えない。澪は左手で風縒り鉄を押さえ、右手で最後の根を剥がした。黒銀の繊維がふわりと浮く。採れた。


 同時に、背後から風の刃が来た。


 澪は身体を倒しながら、採った風縒り鉄をインベントリへ押し込んだ。完全な収納確認を待つ余裕はない。背中を切断羽が掠める。昨日と同じ痛み。だが、浅い。澪は転がり、短杭を抜いた。背後にいたのは、風裂燕ではなく、さらに小さい魔物だった。羽虫に近い。薄い羽が四枚、刃のように震えている。


 ――――――

 《風刃蜻蛉》


 分類:風属性魔物

 出現域:第一層第七環

 特徴:高速接近/浅層切断/群れ化注意

 危険度:中

 ――――――


 一体なら問題ない。群れになる前に処理する。澪は短杭を投げず、鉤鎖の鎖部分を鞭のように振った。小さい魔物は刺すより叩く方が早い。鎖が空気を裂き、風刃蜻蛉の羽を折る。落ちたところを踏み潰す。ドロップ光は小さい。拾わない。


 だが、風裂き地帯は採取の成功を見逃してはくれなかった。


 風縒り鉄を抜いた場所で、風の流れが変わる。さっきまで素材に引き寄せられていた風が、行き場を失ったように周囲へ散った。銀線の周期が乱れる。一本、二本、三本。澪の足元に、予測していない裂け目が走った。


 左足の外側が切れた。深い。靴ごと裂け、足首の肉が開く。澪は顔をしかめるより先に、二枚目の護符を握り潰した。風が丸く逸れる。だが全部ではない。右腕に細い傷が走る。頬にも一筋。魔力が削られる。


 コメント欄が爆発する。


『採れた!?』

『足!』

『帰れ!』

『周期乱れた!』

『風縒り鉄抜いたからか』

『護符二枚目使った』

『札! 帰還札!』

『九環ちゃん撤退!』


 澪は風縒り鉄がインベントリに入ったことを確認した。量は少ない。だが、ある。今日の目的は達成した。


「帰る」


 即断だった。惜しいとは思わなかった。採れた。なら、次は帰る。風裂き地帯から離れなければならない。足の傷は再生するが、風属性の魔力が残っている。走ると開く。だが歩いている余裕はない。澪は身体強化を足首周辺に薄くかけ、傷口を魔力で押さえた。痛みが跳ねる。無視する。


 風裂き地帯を抜けるまで、十数歩。だが、周期は乱れている。澪は前へ出た。銀線が斜めに走る。身体を捻る。背中の補修布が裂ける。浅い。次。足元。跳ぶ。着地で左足が悲鳴を上げる。再生が追いつかない。風が残る。だが、止まらない。


 視界の端で、青白い光が揺れた。


 澪は反射的に見そうになった。昨日の階段。今日も出たのか。だが、見ない。見れば足が止まる。足が止まれば切られる。澪は奥歯を噛み、視線を前へ固定した。風裂き地帯の外側。硝子草の濃い場所。そこまで行けば、まずは勝ち。


 最後の一歩で、背後から鐘のような音が鳴った。


 見たい。


 それでも、澪は振り返らなかった。


 風裂き地帯を抜けた瞬間、胸元の探索者ライセンスが赤く点滅した。危険域判定継続。傷の状態悪化。帰還推奨。澪は足を止め、正規帰還札を取り出した。ここはまだ七環入口。札の成功率は五環より落ちる。だが、今は歩いて戻るより使う方がいい。


 起動。


 足元に白い光が広がる。発動まで数秒。その数秒が長い。風裂き地帯の奥で、また鐘が鳴る。青白い光が視界の端で揺れる。何かが見ている。透明な何か。昨日と同じか、別のものかは分からない。


 来るな、と言っているのか。

 来い、と言っているのか。


 澪は札の光の中で、短く呟いた。


「今日は帰る」


 白い光が反転する。地面の空が上へ浮かぶ。次の瞬間、澪は協会管理拠点の帰還陣に立っていた。


 同時に、膝が折れた。


 左足の傷が、思ったより深かった。帰還陣の白い床に血が落ちる。治療班が駆け寄ってくる。久遠の声が飛ぶ。受付の女性が何かを叫ぶ。配信端末はまだ生きている。コメントが流れ続ける。


『帰った!』

『札使った!』

『足やばい』

『風縒り鉄採れた?』

『採って即帰還えらい』

『最後、鐘鳴ったよな?』

『青い光見えた』

『振り返らなかったの偉すぎる』

『朱音先輩呼べ』

『九環ちゃん、今日はマジで寝ろ』


 澪は治療班に支えられながら、インベントリを確認した。黒銀の細い繊維が、確かに入っている。風縒り鉄。少量。傷の痛みが遅れてくる。左足が熱い。再生が走る。だが、風が邪魔をする。治療班の手が足首へ触れ、属性魔力を抜き始める。痛い。けれど、澪は少しだけ笑った。


 採れた。


 その事実だけで、痛みの意味が変わる。


 処置室へ運ばれる直前、スマートフォンが震えた。通話着信。七瀬朱音。澪は治療班に止められる前に、片手で通話を取った。


『澪!? 帰った!? 今、協会!?』


 通話越しの声は完全に慌てていた。怒る余裕もないらしい。澪は治療班に足を固定されながら、短く答える。


「帰った。採れた」


『採れたじゃない! 足! 足どうなってるの!』


「切れた」


『見れば分かる!』


「でも、採れた」


 通話の向こうで、朱音が絶句した。数秒の沈黙。次に聞こえた声は、怒っているのに泣きそうで、でも少しだけ笑っていた。


『……もう、本当に、あんたは』


「うん」


『うんじゃない。そこで満足そうにしない。処置受けて。私、今から行くから。動かないで。素材売りに行くな。地図広げるな。処置室から出るな』


「分かった」


『本当?』


「たぶん」


『澪!』


「本当」


 通話の向こうで、朱音が深く息を吐いた。


『よし。待ってて』


「うん」


 通話が切れる。澪は治療椅子に座らされ、左足の処置を受けながら、もう一度インベントリの中を見る。風縒り鉄は、細い。量も多くない。けれど、確かにそこにある。鉤鎖を変えるための最初の素材。昨日見えた道へ近づくための、小さな一歩。


 治療班の女性が、呆れたように言った。


「笑うところじゃありませんよ」


「採れたので」


「足を切ってまで?」


「足は治る」


「その考え方、周りの心臓に悪いです」


 また同じようなことを言われた。澪は少しだけ首を傾げる。周りの心臓。自分の傷なのに、周りが痛がる。それはまだ、少し不思議だった。


 処置が終わる頃、簡易鑑定とステータス確認が行われた。協会側の鑑定は素材の確認だけだ。澪自身のステータスは、本人にしか見えない。治療班に言われ、澪は自分の状態を開く。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:44 → 45


 状態:

 魔力消耗:中

 左足首裂傷:回復中

 風属性魔力残留:小

 背部裂傷:回復中

 精神汚染:微弱


 通常スキル:

 《身体強化》Lv5

 《魔力操作》Lv6 → Lv7

 《魔力強化》Lv4

 《魔力感知》Lv3

 《格闘術》Lv5

 《短剣術》Lv3

 《鎖術》Lv2

 《投擲》Lv2

 《再生》Lv8

 《状態異常耐性》Lv4

 《精神汚染耐性》Lv2

 《風属性耐性》NEW Lv1

 ――――――


 澪は表示を見て、少しだけ目を細めた。


 《魔力操作》がLv7へ上がっている。風属性魔力を傷口から抜く処理を、戦闘中と帰還中に何度も行ったからだろう。そして、新しいスキル。《風属性耐性》。まだLv1。だが、確かに増えている。風裂きに切られ、風裂燕に裂かれ、風縒り鉄の周囲で風の魔力を浴びた。普通なら避けるべき負荷が、澪の中では成長の材料になる。


 便利だ。けれど、危ない。新しい耐性が生えたということは、それだけ身体が必要だと判断したということでもある。


 澪はステータスを閉じ、治療台に背を預けた。


 風縒り鉄は採れた。魔力操作も上がった。風属性耐性も生えた。左足は痛い。朱音は怒る。久遠もたぶん怒る。けれど、次へ進む材料は揃い始めている。


 処置室の扉の向こうから、早足の音が近づいてきた。


 朱音だ。


 澪は目を閉じ、少しだけ覚悟した。


 採取より、戦闘より、今からの説教の方が長いかもしれない。


 処置室の扉が、勢いよく開いた。


 入ってきた朱音は、制服の上から探索者用の薄いジャケットだけを羽織っていた。おそらく訓練場からそのまま走ってきたのだろう。髪は少し乱れ、肩で息をしている。目元には怒りがある。けれど、それよりも先に澪の左足へ視線が落ちた。包帯で固定され、治療術式の淡い光に包まれている足首。血は止まっているが、処置台の横に置かれた廃棄布には赤黒い染みが残っている。


 朱音は数秒、何も言わなかった。


 その沈黙が、怒鳴られるよりも少し重かった。澪は処置台に座ったまま、左足を軽く動かそうとして、治療班の女性に「動かさない」と止められる。朱音の眉がぴくりと跳ねた。


「澪。今、動かそうとしたよね」


「確認」


「何を」


「動くか」


「処置中の足が動くか確認しようとする人間に、私は何から言えばいいと思う?」


 朱音は笑っていた。笑っていたが、目は笑っていない。澪は少し考えた。


「……ごめん?」


「疑問形にしない」


「ごめん」


「よし。まず一つ目はそれ。二つ目は、足を切った直後に『採れた』って報告してくるのをやめなさい。三つ目は、たぶん、じゃなくて本当って言いなさい。四つ目は、私が来るまで処置室から出ないって言ったのに、たぶん地図のこと考えてたでしょ」


「考えてた」


「正直でよろしい。よろしいけど腹立つ」


 朱音はそう言って、処置台の横に置かれた丸椅子へ腰を下ろした。怒っている。だが、座った途端に肩の力が抜けた。張り詰めていたものが少し緩んだように、額に手を当てる。


「もう、心臓に悪い……。配信で足が切れた瞬間、ほんとに変な声出たんだからね。遥に『朱音が死にそう』って言われたし、水瀬くんには『帰還札使います、たぶん』って謎の実況されるし」


「水瀬先輩、当たった」


「そういう問題じゃないの。あと、コメント欄で『朱音先輩呼べ』って流れた瞬間、もう呼ばれてるよ! って言いそうになった」


 朱音の言葉は早口だった。怒りと安堵が混ざり、どこから叱ればいいか分からないまま全部出てきている。澪はそれを聞きながら、少しだけ口元を緩めた。


「笑ってる?」


「少し」


「今、笑うところあった?」


「朱音先輩が元気になった」


 朱音は一瞬言葉を失った。それから、困ったように眉を下げる。


「元気になったんじゃなくて、安心して怒れるようになったの」


「安心して怒る」


「そう。死にそうな時は怒る余裕もないからね。帰ってきたから怒れるの。だから、怒られてる間は生きてる証拠だと思ってありがたく聞きなさい」


「長い?」


「長い」


「採取より?」


「採取より」


 澪は少しだけ真面目に嫌そうな顔をした。朱音はそれを見て、ついに小さく吹き出した。笑いながらも、目元はまだ赤い。


「ほんと、変な子」


「よく言われる」


「よく言われて直す気は?」


「必要なら」


「じゃあ必要。少なくとも、怪我した直後に満足そうに素材確認するのは直して」


「難しい」


「難しくない」


 そのやり取りの途中で、処置室の扉が軽く叩かれ、久遠玲司が入ってきた。相変わらず怖い顔をしている。だが、昨日や今朝と同じような怒りの圧は薄い。視線はまず澪の左足へ向き、次に朱音へ向き、最後に治療班の女性へ向いた。


「状態は」


 治療班の女性はカルテを見ながら答える。


「左足首に深い裂傷。風属性魔力の残留あり。本人の再生が強く働いているので、表層処置と残留魔力の抜去を優先しました。骨は無事です。腱も完全断裂はしていません。ただ、しばらく激しい運動は避けるべきです」


「しばらくとは」


「普通なら三日。天瀬さんなら……本人の再生を考えると、明日には歩けるでしょう。ただし、歩けることと戦えることは別です」


 最後の一文は、明らかに澪へ向けたものだった。澪が目を逸らすと、朱音がすぐ横からじっと見てくる。逃げ場がなかった。


 久遠は短く頷き、腕を組む。


「風縒り鉄は」


「少量ですが採取成功。素材鑑定に回しています。品質は悪くないようです」


 久遠の目が一瞬だけ細くなった。澪を見る。その視線には叱責だけではなく、わずかな評価が混じっていた。


「目的は達成したわけか」


「はい」


 澪が答えると、朱音が横で小さく「目的だけはね」と呟いた。久遠はそれを聞こえなかったふりで続ける。


「帰還札を七環入口で使った判断は悪くない。採取後に周期が乱れた時点で撤退を選んだのも正しい。風縒り鉄は周辺の風流を引き寄せる。抜けば局所的な乱流が起きる。講義でも扱う内容だが、実地で見ると分かりやすかっただろう」


「はい」


「だからといって、足を裂かれていい理由にはならない」


「はい」


「返事はいい」


 久遠の声は重いが、怒鳴り声ではなかった。澪は少しだけ久遠を見る。彼は澪の足ではなく、処置室の隅に置かれた配信端末を見ていた。まだアーカイブ保存処理が続いている。コメント欄は終了後も流れていて、配信の切り抜きがすでに拡散されているらしい通知が表示されていた。


 久遠は低く言う。


「再生Lv8を公開したそうだな」


 朱音が少しだけ肩を強張らせた。澪は頷く。


「はい」


「理由は」


「真似する人が出ると困るから。Lv8でも危ないと分かる方がいいと思った」


 久遠は黙った。怒られるかと思ったが、そうではなかった。むしろ意外そうな目で澪を見ている。


「七瀬に言われたか」


「少し」


「だろうな」


 朱音が気まずそうに視線を逸らす。久遠は小さく息を吐いた。


「悪い判断ではない。スキル情報の公開は探索者にとってリスクだが、お前の場合、昨日の映像で再生能力の高さはほぼ露見していた。曖昧なままより、再生Lv8でも七環では危険だと示した方が、抑止にはなる」


 朱音が少しほっとした顔をした。自分の助言が完全に間違いではなかったと分かって、肩の力が抜けたのだろう。澪は久遠の言葉を聞きながら、公開した情報の重さを改めて考える。探索者にとってスキルは手札。再生Lv8を知られれば、澪がどこまで壊れても戦えるかを推測される。同時に、どこを壊せば止まるかも考えられる。けれど、それは昨日の時点である程度見られている。隠し切れるものではない。


 久遠は続けた。


「ただし、ユニークスキルは絶対に口にするな」


 その言葉だけは、鋭かった。朱音は一瞬だけ澪を見た。彼女は澪のユニークスキルを知らない。久遠も、おそらく知らない。ただ、何かを持っていると疑っている。探索者として長く生きた者の勘なのだろう。


 澪は表情を変えずに頷いた。


「はい」


「通常スキルはまだいい。再生や身体強化は、映像からでも推測される。だが、ユニークは違う。名前を知られた瞬間、対策される。狙われる。研究対象にもなる。協会内にも、善人だけがいるわけではない」


 朱音がそこで眉を寄せた。協会内にも善人だけではない。その言い方が気になったのだろう。けれど久遠はそれ以上説明しなかった。代わりに、澪へ一枚の書類を差し出す。


「今日の探索報告書だ。簡単でいいから書け。七環の風裂き周期、風縒り鉄の採取時の変化、青白い光を見たかどうか」


 澪は書類を受け取り、最後の項目で手を止めた。


「見えました」


「映像でも確認した。昨日と同じか」


「たぶん。同じか、近いもの」


「近づいたか」


「近づいてません」


 横から朱音が即座に言った。


「本当に近づいてません。足は出しかけたかもしれないけど、見ないで撤退しました。そこは褒めてください」


 朱音の勢いに、久遠が一瞬だけ目を瞬かせた。澪も少しだけ驚く。朱音は頬を赤くしながらも、引かなかった。怒っている時とは違う。澪ができたことはできたこととして認めてほしい、という顔だった。


 久遠はしばらく朱音を見てから、澪へ視線を戻した。


「……そうか。なら、そこは正しい判断だ」


「はい」


「ただし、次に見えても入るな」


「今日は入りませんでした」


「次もだ」


 澪は少し黙った。朱音の視線が刺さる。久遠の視線も重い。処置室の空気が、何かを待っている。


「準備ができるまでは」


 澪がそう言うと、朱音が額を押さえた。久遠は深く息を吐いた。


「その準備が、いつ整ったと判断するかが問題だ」


「風縒り鉄で鎖を強化します。風属性耐性も生えました。次は護符を増やして、帰還札も――」


「待て」


 久遠の声が澪の言葉を止めた。朱音も顔を上げる。


「今、何と言った」


「風属性耐性」


 処置室が少し静かになった。治療班の女性まで手を止める。朱音が目を丸くして澪を見る。


「生えたの?」


「うん」


「いつ?」


「さっき確認した」


 澪は自分のステータス表示を思い返しながら、淡々と言う。


「《魔力操作》Lv6からLv7。《風属性耐性》NEW Lv1」


 朱音は口を開きかけ、閉じた。驚き、呆れ、納得、心配が順番に顔を通り過ぎる。最後に出てきたのは、やっぱり心配だった。


「……そんな、怪我のついでみたいに言うことじゃないよ」


「怪我したから生えたと思う」


「だから!」


 朱音が声を上げかけたところで、久遠が片手を上げて止めた。彼は澪をじっと見ている。教師の顔ではない。探索者として、未知の成長例を見た時の顔だった。


「風属性耐性の獲得条件は、一般には継続的な風属性被害への暴露、または風属性魔力の体内残留への適応とされている。だが、普通はもっと時間がかかる。七環で一日二日切られただけで生えるものではない」


「そうなんですか」


「そうなんですか、ではない」


 久遠の声は低い。だが、怒りよりも考察の色が強い。澪は黙る。ユニークスキル《適応》。それが関係しているのは間違いない。けれど言わない。久遠も、今ここで聞かない。聞けば答えないことを分かっているのだろう。


 治療班の女性が、カルテへ何かを書き込みながら言った。


「協会へ報告しますか?」


 久遠は少し考え、首を横に振った。


「通常スキルの自己申告として記録だけ。詳細な成長条件は書くな。配信で言っていないなら、外へ出す必要はない」


「了解しました」


 澪は久遠を見る。協会へ報告するな、と言ったわけではない。最低限の記録に留める。そう判断したのだ。久遠は視線だけで、余計なことを言うなと告げている。


 朱音はそのやり取りを見て、何かに気づいたようだった。だが、口には出さなかった。代わりに澪の方へ身を乗り出し、少し低い声で言う。


「配信では言わないで。再生Lv8はもう言ったから仕方ないけど、今のは言わないで」


「なんで?」


「変な人が増えるから。あと、澪がどこまで切られれば何が生えるのか、試したがる人が出るかもしれない」


 その言葉に、澪はようやく少しだけ納得した。自分が試すのはいい。だが、他人に試されるのは面倒だ。誰かに環境を用意され、傷つけられ、成長を観察されるのは、あまり面白くない。前の世界の魔術師塔にいた研究者たちを思い出す。あれは嫌いだった。


「言わない」


「本当に?」


「本当」


 朱音は澪の目をじっと見てから、小さく頷いた。


 その後、素材処理室に移動した。澪の左足はまだ治療中だったため、朱音が支えようとしたが、澪が自分で歩こうとして怒られた。結局、協会の簡易車椅子に乗せられた。澪は不満だったが、朱音と治療班と久遠の三方向から見られていたので諦めた。


 素材処理室では、藤堂という教師が待っていた。昨日、硝子翼狼の変異核片について相談した素材処理担当だ。彼は澪が車椅子で入ってくるのを見るなり、目を細めた。


「採れたか」


「はい」


「足も持っていかれかけたか」


「少し」


「少しで済ませるな」


 藤堂は呆れたように言いながら、鑑定台の上に置かれた風縒り鉄を見た。黒銀の繊維が、硝子草の根に絡んだまま薄く揺れている。量は手のひらに乗る程度。だが、近くで見ると不思議な素材だった。金属のようでいて、布にも見える。風を受けて震えるのではなく、素材そのものが小さく風を発している。


 藤堂は専用の鑑定具を使い、慎重に表示を出す。澪には協会の専門表示は見えないが、藤堂の表情で品質が悪くないことは分かった。彼の口元が少しだけ上がっている。


「少量だが、使える。鉤刃の根元と鎖の先端部だけなら十分だ。全部を替えるには足りないが、昨日の変異核片を組み込む下地にはなる」


「いつできますか」


「急かすな。素材の安定処理に一日。加工に半日。調整に半日。早くても二日後だ」


「明日は?」


「無理だ」


「少しだけ」


「無理だと言っている」


 藤堂は短く切り捨てた。朱音が横で深く頷いている。澪は少し不満だったが、加工に失敗される方が困るので黙った。


 藤堂は風縒り鉄を小瓶に収め、次に硝子翼狼の変異核片を取り出した。青白い結晶の中で風が小さく渦を巻いている。風縒り鉄と並べると、二つの素材が互いに呼応するように淡く光った。


「相性はいい。風縒り鉄で鎖の魔力伝導を整え、変異核片で投擲時の初速と戻しの軌道を補助する。うまくいけば、鎖の先端が風を掴む。今の鎖とは別物になるぞ」


 澪の目が少しだけ明るくなった。朱音がそれを見て、複雑そうな顔をする。澪が嬉しそうなのは分かる。だが、その嬉しさの理由が「足を切って採った素材で鎖が強くなる」なのが、どうしても心臓に悪いのだろう。


「ただし」


 藤堂の声が低くなる。


「武器が強くなったからといって、すぐに奥へ行くな。武器には慣らしがいる。鎖の戻りが速くなれば、手首も肩も持っていかれる。下手をすれば自分の鎖で自分の腕を折る」


「慣らします」


「訓練場でな。ダンジョンでいきなり使うな」


「……はい」


「今、少し迷ったな」


「顔に出ました?」


「出た」


 最近、顔に出ると言われすぎている。澪は自分の頬に触れた。朱音が横で小さく笑った。


「澪は、悪いこと考える時だけ分かりやすいよ」


「不便」


「便利だよ。こっちが」


 素材の預かり手続きを終え、澪は処置室へ戻ることになった。左足の固定を確認し、魔力補助剤を飲まされ、今日は協会からまっすぐ帰宅するように言われる。朱音は当然のように付き添った。久遠は最後に一言だけ告げた。


「明日はダンジョン禁止だ。学校へ来い。訓練場も軽い確認だけだ」


「明日には歩けます」


「歩けることと戦えることは別だと、何回言われれば覚える」


「今日も言われました」


「なら覚えろ」


 朱音が隣で「本当にそれ」と頷いている。澪は反論を諦めた。


 帰り道、朱音は車椅子を押しながら、やけに静かだった。協会から駅までの道は夕方の人通りが多い。車椅子は目立つ。澪は歩けると言いたかったが、言う前に朱音の手に力が入ったので黙った。


「朱音先輩」


「なに」


「怒ってる?」


「怒ってる」


「どのくらい?」


「足を切った分」


「風縒り鉄は採れた」


「それを言うたびに増える」


 澪は口を閉じた。朱音は少しだけ笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻る。


「でも、帰還札を使ったのは偉かった。裂け目を見なかったのも偉かった。風縒り鉄を採った後、すぐ帰ったのも偉かった。……だから、怒ってるけど、ちゃんと褒めてもいる」


「難しい」


「私も難しいよ」


 朱音はそう言って、夕方の空を見上げた。地上の空は、薄い橙色から紫へ変わり始めている。第一層の空のように足元には沈まない。けれど、今日の澪には少しだけ綺麗に見えた。


「澪が見たいもの、少し分かるようになってきた。風裂き地帯、怖かったけど綺麗だった。青い階段も、怖かったけど……目が離せなかった」


 朱音は言葉を探すように少し黙った。車椅子の車輪が、歩道の継ぎ目を小さく鳴らす。


「だから余計に怖い。綺麗だから、行きたくなるんだろうなって分かるから」


「うん」


「分かるけど、行ってほしくない場所もある」


「うん」


「でも、止めても行くんだよね」


 澪は少しだけ考えた。嘘をつけば、今だけは朱音の顔が楽になるかもしれない。けれど、嘘を書こうとした時と同じように、きっと目が動く。朱音には見抜かれる。


「行く」


 朱音は、やっぱりね、という顔で笑った。笑っているのに、少し泣きそうだった。


「じゃあ、帰ってきて」


「うん」


「それだけは守って」


「できるだけ」


「そこは絶対って言って」


「絶対」


 澪がそう言うと、朱音は少し驚いたように瞬きをした。それから、ゆっくり息を吐く。


「……言ったからね」


「言った」


「録音しておけばよかった」


「もう一回言う?」


「言って」


「絶対帰る」


 言葉にした瞬間、澪は少しだけ妙な気分になった。前の世界では、絶対という言葉はあまり使わなかった。戦場に絶対はない。迷宮に絶対はない。命に絶対はない。けれど今、朱音に向けて言った「絶対」は、戦術的な保証ではなかった。約束に近い。守れなければ意味がないが、口にすることで自分を縛るもの。


 朱音は車椅子を押す手を少しだけ強くした。


「なら、今日は肉うどん」


「肉」


「足したげる。頑張ったから」


「怒ってる?」


「怒ってる。でも食べさせる」


 澪は小さく笑った。


 その夜、澪の配信アーカイブはまた伸びた。風縒り鉄採取の瞬間。周期が乱れ、左足が裂け、それでも即座に撤退を選んだ場面。帰還札を使った場面。そして一瞬だけ映った青白い光。コメント欄では、採取成功を称える声と、危険すぎるという声と、青い階段について考察する声が入り乱れていた。


 澪は食後、自室の机で地図を更新した。朱音はすでに帰っている。今日は部屋を少し片づけてから帰ったので、机の上はいつもより広い。左足はまだ固定されているが、痛みは軽くなっている。再生Lv8はやはり強い。風属性耐性が生えた影響か、昨日より風の残留魔力への不快感も少しだけ減っていた。


 地図の端に、新しい項目を書く。


 風縒り鉄:採取成功。抜くと周期乱れ。採取後即撤退必須。

 風属性傷:先に残留魔力を抜く。再生のみでは消耗大。

 青白い階段:再出現。採取後の乱流に連動? または風縒り鉄周辺の空間歪曲。

 透明個体:未確認。接近禁止。まだ。


 最後の「まだ」を、朱音が見たら怒るだろう。澪は少し考えたが、消さなかった。これは地図だ。自分に嘘を書いても意味がない。


 続けて、今日の成長記録をノートへ写す。ステータスそのものは本人にしか見えないが、手書きの記録は残せる。配信に映らないよう、ページの角度には気をつける。


 ――――――

 【成長記録】


 探索者Lv:44 → 45

 《魔力操作》Lv6 → Lv7

 《風属性耐性》NEW Lv1

 ――――――


 文字にすると、今日の痛みが少し整理される。左足を切った。風裂きに削られた。護符を二枚使った。帰還札も一枚使った。その代わり、風縒り鉄を得た。魔力操作が上がった。風属性耐性が生えた。鉤鎖強化の準備が進んだ。


 悪くない。


 澪はノートを閉じ、ベッドへ横になった。左足を少し高くする。朱音に言われた通りだ。背中の傷も、足首の傷も、眠っている間にかなり戻るだろう。明日はダンジョン禁止。久遠に言われた。朱音にも言われる。なら、学校へ行くしかない。訓練場で軽く鎖の確認。藤堂に加工状況を聞く。青白い階段の映像をもう一度見る。風裂きの周期を計算する。やることは多い。


 目を閉じると、風の音が蘇った。銀線が空を裂く音。鐘のような、遠い音。青白い階段が浮かぶ一瞬。透明な何かの視線。


 行きたい。


 だが、その前に帰るための準備がいる。朱音に「絶対帰る」と言った。言ってしまった。なら、帰る方法も強くしなければならない。


 澪は眠りに落ちる直前、小さく呟いた。


「次は、鎖」


 風縒り鉄と変異核片。二つが組み合わされば、澪の鉤鎖は変わる。届かなかった速度へ、少しだけ近づく。


 そして、その先にある青白い階段も、いつか。


翌朝、澪は珍しく目覚ましより早く起きた。


 理由は単純で、足が痛かったからではない。左足首の傷は、夜のうちにほとんど塞がっていた。布団から出る時に少し引きつるが、骨にも腱にも大きな問題はない。普通の人間なら松葉杖を使ってもおかしくない傷だったらしいが、澪の身体はもう歩ける程度には戻っている。傷の奥に残っていた風属性のざらつきも、昨日ほどではなかった。《風属性耐性》が生えた影響か、それとも単に処置が効いたのかは分からない。おそらく両方だろう。


 それでも澪が早く起きたのは、机の上に置いたメモが目に入ったからだった。


 ――鎖、二日後。


 藤堂はそう言った。昨日の時点で、素材の安定処理に一日、加工に半日、調整に半日。早くても二日後。つまり、今日ではない。今日ではないが、気になる。風縒り鉄と硝子翼狼の変異核片。二つが組み込まれた鉤鎖は、どれほど変わるのか。鎖の先端が風を掴む、と藤堂は言った。あの言葉が、眠っている間も頭の奥に残っていた。


 澪はベッドの上で左足をゆっくり回した。痛みはある。だが動く。少し無理をすれば走れる。戦えないこともない。けれど今日は、久遠にも朱音にもダンジョン禁止と言われている。訓練場も軽い確認だけ。藤堂にも、武器の慣らしは訓練場でやれと言われた。


 いろいろな人に禁止されている。


 それだけで、少し面倒だった。


 スマートフォンが震えた。朱音からのメッセージだ。


『起きた?』


 澪は短く返す。


『起きた』


 すぐに次が来る。


『足は?』


『動く』


『痛みは?』


『少し』


『学校来る?』


『行く』


 そこで数秒、返事が止まった。澪は画面を見たまま待つ。やがて、朱音から新しいメッセージが届いた。


『偉い。あと、走らない。ダンジョン行かない。勝手に素材処理室へ突撃しない。藤堂先生を急かさない。ご飯食べる』


 澪は一文ずつ読んだ。指折り数えたくなるほど禁止事項が多い。


『多い』


『澪のせい』


『素材処理室は行く』


『授業後なら可。突撃は禁止』


『突撃とは』


『朝一で「できましたか」って顔して入ること』


 澪は少しだけ目を細めた。予定していた。つまり、突撃に該当するらしい。


『しない』


『本当?』


『たぶん』


『やり直し』


『本当』


『よし。ご飯』


 澪はスマートフォンを置き、台所へ向かった。昨日買ってもらった肉うどんの残りはない。代わりに、朱音が置いていった栄養バーと、コンビニのおにぎりが二つある。鮭と昆布。澪は少し迷い、両方食べることにした。再生には栄養が要る。朱音の地図メモにも書かれている。命に関わる注意事項、らしい。


 食後、澪は探索者高校へ向かった。左足にはまだ薄い固定具を巻いている。歩けるが、違和感はある。階段を下りる時、少しだけ重心がずれる。身体は戻っているのに、傷を庇う癖が残っていた。面白くない。澪は歩きながら、足首へ薄く魔力を流す。固定しすぎると動きが硬くなる。流しすぎると治りかけの筋が熱を持つ。ちょうどいい濃さを探す。


 駅へ向かう道で、何人かが澪を見た。昨日までは探索者高校の生徒や協会関係者の視線が多かったが、今日は一般人らしき人も混じっている。配信の切り抜きが広がったのだろう。足を切りながら風縒り鉄を採り、即座に帰還札を使う少女。再生Lv8の一年生。九環。そういう言葉が、画面の向こうから現実へ漏れてきている。


 澪は視線を気にしない。見られること自体は、前の世界でも慣れている。問題は、その視線がどんな種類かだ。尊敬。好奇。警戒。恐怖。欲。敵意。今のところ、駅前の視線に殺気はない。なら、無視できる。


 校門の前では、朱音が待っていた。


 制服姿で、片手に紙袋を持っている。澪を見るなり、まず顔ではなく足元を見た。その視線の動きがあまりにも自然だったので、澪は少しだけ感心する。朱音は槍を持っていなくても、相手の重心や傷を見る癖がある。


「歩き方、まだ少し変」


「分かる?」


「分かる。澪、痛い時に顔には出ないけど、左足を置く時だけちょっと雑になる」


「雑」


「そう。雑。大事にしなさい」


 朱音はそう言って紙袋を差し出した。中には温かいカフェオレと、小さな蒸しパンが入っている。澪がじっと見ると、朱音は先回りするように言った。


「朝ご飯食べたのは知ってる。これは追加。再生持ちの燃費を信用してないから」


「燃費悪い?」


「悪い。というか、昨日あれだけ足切って、朝おにぎり二つで足りると思ってるのが怖い」


「二つ食べたの知ってる?」


「写真の端に包装が映ってた」


 朱音は少し得意そうに言った。澪はスマートフォンで送った写真を思い返す。確かに、包装の端が写っていたかもしれない。観察力が無駄に高い。


「朱音先輩、探索者より探偵」


「探索者は探偵みたいなこともするの。特に澪みたいな問題児を相手にする時はね」


「問題児」


「異論ある?」


「少し」


「どこに?」


「児、のところ」


「そこ?」


 朱音は一瞬ぽかんとして、それから笑った。朝の空気の中で、その笑いは少しだけ軽い。昨日の処置室で見せた、泣きそうな怒りとは違う。澪は紙袋を受け取り、蒸しパンを一口かじった。甘い。ふわふわしている。ダンジョンの保存食とは違う食感だ。


 校舎へ入ると、廊下の空気がわずかに変わった。昨日よりも視線が多い。澪が車椅子で帰ったこと、配信で風縒り鉄を採ったこと、再生Lv8を公表したこと。そのすべてが、生徒たちの間で話題になっているのだろう。けれど、露骨に近づいてくる者は少ない。朱音が隣にいるからだ。彼女は何も言っていないのに、自然と周囲との間に薄い壁を作っている。


 教室へ入ると、隣の席の三枝凛が、立ち上がりかけて机に膝をぶつけた。


「痛っ……じゃなくて、天瀬さん、大丈夫!?」


 本人が先に痛がっている。澪はそれを見て、少しだけ首を傾げた。


「凛の方が痛そう」


「私は机にぶつけただけだから! 天瀬さん、昨日、足、すごいことになってたよね? 配信見てて、うちのお母さんが悲鳴上げたんだけど」


「お母さん」


「うん。私が見てたら横から覗いてきて、『この子、本当に高校生なの?』って。そこから一緒に見ちゃって……いや、一緒に見る内容じゃなかったんだけど」


 凛は自分で喋りながらだんだん混乱しているようだった。澪の足元を見たり、顔を見たり、また足元を見たりしている。


「歩けるの?」


「歩ける」


「痛くないの?」


「少し痛い」


「少しで済む傷じゃなかったよね?」


 凛は真剣だった。責めているのではなく、本当に分からないという顔だ。澪が返事に迷っていると、朱音が横から口を挟む。


「凛ちゃん、その反応が正しいから大丈夫。澪の『少し』は、普通の人間の『病院に行こう』くらいだと思って」


「やっぱりそうですよね……」


「朱音先輩、翻訳しないで」


「必要だからしてるの」


 朱音が当然のように答える。凛は二人のやり取りを見て、少しだけ笑った。怖がっているだけではなく、少しずつ澪との距離を測り直しているようだった。


「でも、帰還札使ったの、すごく安心した。コメント欄もすごかったよね。『使った!』って」


「高い」


 澪が言うと、凛は困ったように眉を下げた。


「命よりは安いよ」


 朱音が横で深く頷いた。


「ほら、凛ちゃんもこう言ってる」


「みんな同じこと言う」


「みんなが同じこと言う時は、だいたい澪が変」


 澪は少しだけ考えた。反論できなかった。


 授業開始前、久遠が教室へ入ってきた。出席簿を置く音だけで、教室のざわめきが消える。久遠はいつもの怖い顔で教室を見渡し、澪のところで視線を止めた。


「天瀬」


「はい」


「今日、ダンジョン禁止」


「はい」


「訓練場は軽い確認のみ」


「はい」


「素材処理室へ行くのは授業後。藤堂を急かすな」


「……はい」


 一瞬だけ返事が遅れた。教室の数人が小さく笑う。久遠は笑わない。だが、目だけは少しだけ呆れている。


「返事が遅れた理由は分かっている。行くなよ」


「はい」


「七瀬。監視」


「はい」


「凛。見かけたら報告」


「え、私もですか!?」


 突然名前を呼ばれた凛が背筋を伸ばす。久遠は平然としている。


「周囲の目は多い方がいい」


「えっと、はい。頑張ります」


 凛は戸惑いながらも頷いた。澪は少しだけ不満だった。監視が増えた。


「先生」


「なんだ」


「私は魔物ではないです」


「魔物の方がまだ行動範囲を予測しやすい」


 教室に笑いが起きた。澪は真面目に少し傷ついた。朱音は隣で口元を押さえている。笑っている。


 午前の授業は、昨日の配信を直接教材にしたものではなかったが、明らかに意識されていた。テーマは「採取行動中の危険評価」。探索者は魔物との戦闘だけで死ぬわけではない。素材を見つけた瞬間、判断が甘くなる。採取中は姿勢が固定され、視界が狭まり、手が塞がる。さらに高価な素材ほど、周辺環境そのものが危険なことが多い。風縒り鉄、深層苔、雷晶花、血吸い鉱。素材の価値と危険は、だいたい比例する。


 教師は黒板に「採れそう、が一番危ない」と書いた。


 澪はそれを見て、少しだけ昨日のことを思い返した。風縒り鉄の根元が剥がれ、あと少しで採れると分かった瞬間。背後に魔物の気配があった。中断すれば安全。続ければ採れる。澪は続けた。その結果、採れた。足は切れた。正しい判断だったかどうかは、少し難しい。目的は達成した。だが、朱音は怒った。久遠も足を裂かれていい理由にはならないと言った。


 澪は授業を聞きながら、ノートに小さく書く。


 採れる時ほど、帰る道を見る。


 自分で書いた文字を見て、少しだけ違和感があった。前の世界なら、採れる時は取る。敵が来るなら殺す。帰り道は、取った後に作る。そういう場面も多かった。だが、この世界で配信をしている澪には、帰る理由が増えている。続きを見たいと言った受付の女性。帰ってきてと言う朱音。配信コメントの『ちゃんと帰ってくれ』という文字。そういうものが、少しずつ判断に混ざる。


 昼休み、朱音に連れられて食堂へ行くと、二年の浅見遥と水瀬がすでに席を取っていた。遥は澪を見るなり、にやりと笑った。


「お、話題の採取成功者。足はついてる?」


「ついてる」


「よかった。配信見てた時、朱音が『足! 足!』ってずっと言ってたから、こっちまで足の存在を確認しちゃったよ」


 朱音が顔を赤くした。


「遥、余計なこと言わない」


「だって本当じゃん。水瀬なんて冷静ぶってたけど、帰還札起動した瞬間、眼鏡ずれてたし」


 水瀬は苦笑しながら眼鏡を直した。


「それは単に訓練後で汗をかいていただけです。ただ、昨日の採取映像はかなり貴重でした。風縒り鉄を抜いた直後に周期が乱れる瞬間が、あれだけはっきり映っているのは珍しいと思います」


 水瀬の声は落ち着いているが、目は少し輝いている。研究寄りの人間なのだろう。澪はカレーを受け取りながら、水瀬を見る。


「使える?」


「かなり。教材にもなると思います。もちろん、天瀬さんが許可すればですけど」


「いい」


 澪が即答すると、水瀬の方が少し驚いた。


「いいんですか?」


「真似しないなら」


 水瀬は一瞬きょとんとして、それから柔らかく笑った。


「そこはちゃんと注意書きを入れます。再生Lv8でも足を裂かれます、って」


「それ、宣伝文句として強すぎない?」


 遥が笑う。朱音は笑えない顔で澪の足を見た。


「本当に笑いごとじゃないからね。配信で再生Lv8って言ったせいで、逆に『九環ちゃんなら大丈夫』みたいな空気も出てるし」


「大丈夫ではない」


 澪が言うと、朱音はすぐにこちらを見た。


「それ、配信でも言って。今みたいに、ちゃんと」


「言った」


「何回でも言うの。澪の配信、今は戦闘映像だけじゃなくて、危険区域の資料みたいにも見られてるんだから」


 水瀬が頷く。


「実際、昨日のアーカイブは探索者掲示板でもかなり分析されています。風裂き周期、帰還札判断、再生Lv8の回復速度、風属性魔力残留への自己処置。あと、青白い階段については考察が荒れていますね」


 青白い階段。その言葉が出ると、食卓の空気が少しだけ変わった。遥の笑みが薄くなる。朱音は箸を止める。澪はカレーを食べる手を止めなかったが、意識だけは水瀬へ向いた。


「何て?」


「いくつか説があります。第一層九環の空葬原に繋がる一時裂け目説。第七環特有の空間異常説。風縒り鉄の採取で局所的に位相がずれた説。あとは、配信映像のノイズ説もありますけど、協会が緊急警告を出しているのでノイズではないと思います」


 水瀬はそこで少しだけ声を落とした。


「ただ、標準鑑定範囲外の存在が映っていたので、軽く扱うものではないです。あれを『レア演出』みたいに言ってる人もいますけど、たぶん違います」


「見たら、行きたくなる?」


 遥が澪を見た。冗談めかしているが、目は真面目だ。澪は少し考える。


「なる」


 朱音が額を押さえた。遥は逆に笑う。


「正直だなあ」


「嘘ついても顔に出るから」


「それはそれで可愛い弱点じゃん」


「可愛い?」


 澪が首を傾げると、朱音がすかさず口を挟んだ。


「遥、澪を変な方向にからかわない。反応が遅れて本気にするから」


「いや、今のは普通に可愛いって言っただけなんだけど」


「澪に普通は通じないの」


「朱音が保護者すぎる」


「うるさい」


 遥と朱音のやり取りに、水瀬が小さく笑う。凛も途中から合流して、少し遠慮がちに席へ座った。いつの間にか、澪の周りに人が増えている。前なら面倒だと思ったかもしれない。今も少しは面倒だ。けれど、食事の味が悪くなるほどではない。


 放課後、澪は朱音に見張られながら素材処理室へ向かった。突撃ではない。授業後だ。約束は守っている。素材処理室の扉を開けると、藤堂が作業台の前で何かを調整していた。部屋には金属と薬液、乾いた風の匂いが混じっている。机の上には、澪の鉤鎖が分解された状態で置かれていた。


 澪は一歩前へ出た。朱音が肩を掴む。


「急かさない」


「見てるだけ」


「見てる顔が急かしてる」


「顔に出る?」


「出てる」


 藤堂がこちらを見ずに言った。


「出てるぞ」


 また言われた。澪は少しだけ不満だった。


 作業台の上には、風縒り鉄の細い繊維が処理液に浸されていた。黒銀だった色が少し淡くなり、光の角度によって青く見える。硝子翼狼の変異核片は、鉤刃の根元に仮固定されていた。まだ完成ではない。それでも、並べられた部品を見るだけで、以前の鉤鎖とは違う気配があった。軽く、鋭く、どこか落ち着かない。風が閉じ込められている。


「先生」


「できてない」


「いつ」


「明後日」


「昨日は二日後って」


「だから明後日だ」


「今日を含めると?」


「含めるな」


 藤堂は作業の手を止めずに言った。朱音が横で吹き出しそうになっている。澪は真剣だった。


「少しだけ試すのは」


「未完成品で手首を飛ばしたいならな」


「飛ぶ?」


「飛ばすぞ、俺が」


 藤堂の声は冗談なのか本気なのか分かりにくい。朱音が小さく「先生、ありがとうございます」と言った。なぜ感謝するのか分からない。


 藤堂はようやく顔を上げ、澪の左足を見る。


「で、その足で訓練場へ行く気か」


「軽い確認だけ」


「軽い、の定義を七瀬に決めてもらえ」


「朱音先輩の軽いは軽すぎる」


「お前の軽いは重すぎる」


 藤堂は即答した。周囲の大人たちは、どうしてこう同じようなことを言うのだろう。澪は少しだけ口を尖らせた。朱音がそれを見て、目を丸くする。


「今、ちょっと拗ねた?」


「拗ねてない」


「拗ねたよね? 澪、今の顔もう一回して」


「しない」


「ちょっと可愛かったのに」


「朱音先輩、変」


「澪に言われるのは心外だなあ」


 藤堂が咳払いした。二人とも少し黙る。


「明後日、仮仕上げで渡す。訓練場で慣らし。最初は出力三割。いいな」


「はい」


「五割以上出したら、鎖を没収する」


「……はい」


「返事が遅い」


「五割は必要かと」


「必要にならない場所で試せ」


 澪は黙った。藤堂は鉤鎖の部品を布で覆い、作業台の奥へ移した。これ以上見せると、澪が本当に居座ると思ったのかもしれない。正しい判断だった。


 その後、訓練場へ向かった。澪は自分の古い予備鎖を使い、軽く動きを確認するだけだった。朱音は槍を持ち、浅見遥と水瀬も見に来ていた。凛も見学に来たが、最初から少し緊張している。


「本当に軽くね」


 朱音は槍を構えながら言った。澪は鎖を手首に巻き、頷く。


「分かってる」


「澪の分かってるは、半分くらいしか分かってないから、今日はさらに半分で」


「四分の一?」


「そう。四分の一」


 遥が横で笑う。


「朱音、澪語の翻訳うまくなってるじゃん」


「嬉しくない上達だよ」


 澪は左足に負担をかけないよう、ゆっくり鎖を振った。足首はまだ完璧ではない。踏み込みの瞬間に、わずかに力が逃げる。それを補うために腰を使いすぎると、背中の傷が引きつる。身体は戻っているが、完全ではない。動いてみるとよく分かる。


 朱音は槍の穂先で、澪の動きを軽く止めた。


「そこ。今、左足を庇って右肩が入った」


「分かる?」


「分かる。今のまま新しい鎖使ったら、戻りで肩を持っていかれるよ」


 水瀬が横で頷く。


「映像で見ても分かると思います。足首の固定が甘い分、上半身で補正してますね。今は短時間なら問題ないですが、連続戦闘だと崩れるかと」


 遥は腕を組み、にやりと笑った。


「珍しく、澪がちゃんと弱ってる」


「弱ってない」


「いや、弱ってるよ。弱ってるっていうか、人間らしい?」


「人間」


「うん。昨日までは、なんか傷が増えるたびに戦い方が怖くなる謎生物だったから」


「遥」


 朱音がたしなめるが、遥は悪びれない。


「でも本当でしょ。今日の方が見てて安心する。ちゃんと痛そうだし、ちゃんと庇ってるし、ちゃんと止まる」


 澪は鎖を下ろした。痛そうで安心、というのも不思議な話だ。だが、遥の言いたいことは少し分かる。昨日までの澪は、痛みを無視しすぎていたのだろう。今日は痛みを動きの中に入れている。無視ではなく、管理。たぶん、その方が長く戦える。


「じゃあ、今日は終わり」


 朱音が言った。澪は思わず顔を上げる。


「まだ十分」


「もう十分」


「軽すぎる」


「四分の一って言ったでしょ」


「あと少し」


「駄目」


「一回だけ」


「駄目」


「朱音先輩」


「その声出しても駄目」


「どの声?」


「本人無自覚なのが怖い……」


 朱音は額を押さえた。遥が横で楽しそうに笑う。


「朱音、今ちょっと負けかけた?」


「負けてない」


「澪、もう一回その声で頼んでみたら?」


「遥!」


「冗談だって。朱音の保護者力を試しただけ」


 凛が小さく手を挙げた。


「あの、私は終わった方がいいと思います。天瀬さん、さっきから左足の指、ちょっと丸まってます。痛い時、たぶんそうなってます」


 全員の視線が澪の足へ向いた。澪も見た。確かに、左足の指がわずかに丸まっている。無意識だった。


 朱音が勝ち誇ったように頷く。


「凛ちゃん、えらい。監視役として優秀」


「え、あ、ありがとうございます?」


「澪、今日は終わり。凛ちゃんにも見抜かれてる」


 澪は少しだけ息を吐き、鎖をしまった。


「分かった」


 朱音は満足そうに笑う。遥は「素直じゃん」と言い、水瀬は「良い判断です」と言い、凛はほっとしたように胸を撫で下ろした。澪はその様子を見ながら、自分一人の訓練なのに周囲の反応が多いと思った。だが、不快ではなかった。


 夜、澪は自室で地図とノートを開いた。


 今日はダンジョンに入っていない。だから新しい素材も、戦闘経験もない。けれど、分かったことはある。左足の傷は、動きに出る。新しい鎖は強くなるが、身体が追いつかなければ自分を壊す。朱音は声だけでなく、足の置き方でも嘘を見抜く。凛も思ったより観察している。遥はからかうが、見ているところは見ている。水瀬は分析が細かい。


 人が増えた。


 その事実を、澪はノートの余白に書きかけて、やめた。何と書けばいいか分からなかったからだ。


 代わりに、今日の確認だけを記す。


 ――――――

 【確認記録】


 左足首:通常歩行可。踏み込み時に痛み。

 背部裂傷:ほぼ回復。捻り動作で違和感。

 《風属性耐性》Lv1:風属性魔力残留の不快感が軽減。

 鎖強化:仮仕上げ予定は明後日。初回訓練は出力三割。

 青白い階段:映像再確認。風縒り鉄採取後の乱流と同時発生。

 ――――――


 ステータスを開く。今日は戦っていないため、大きな成長はない。だが、傷の状態は昨日より軽い。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:45


 状態:

 軽度疲労

 左足首裂傷:回復中

 風属性魔力残留:微弱

 精神汚染:微弱


 通常スキル:

 《身体強化》Lv5

 《魔力操作》Lv7

 《魔力強化》Lv4

 《魔力感知》Lv3

 《格闘術》Lv5

 《短剣術》Lv3

 《鎖術》Lv2

 《投擲》Lv2

 《再生》Lv8

 《状態異常耐性》Lv4

 《精神汚染耐性》Lv2

 《風属性耐性》Lv1

 ――――――


 変化なし。悪くない。今日は休む日だった。休むというのは、何も得ない日ではないらしい。身体の癖を知る。道具を待つ。人の視線を覚える。約束の重さを確認する。そういう日も、探索の一部なのかもしれない。


 スマートフォンが震えた。朱音からだった。


『足、冷やした?』


『冷やした』


『ご飯食べた?』


『食べた』


『地図見すぎてない?』


 澪は机の上の地図を見た。広げている。


『少し』


『少しじゃないでしょ』


『朱音先輩、見えてる?』


『見えてなくても分かる』


 澪は少しだけ笑った。通話ではないのに、朱音の呆れた顔が浮かぶ。


『明日も学校。素材処理室に突撃しない。訓練は軽く。寝る』


『分かった』


『本当?』


『本当』


 少し間があって、次のメッセージが届いた。


『絶対帰る、忘れないでね』


 澪は画面を見つめた。昨日、自分で言った言葉だ。絶対帰る。戦場にも迷宮にも絶対はない。それでも、言った。言ってしまった以上、それは装備の一部になる。帰還札や護符と同じように、澪を縛る道具になる。


『忘れない』


 送信すると、すぐに返事が来た。


『よし。おやすみ、澪』


『おやすみ』


 澪はスマートフォンを伏せ、ベッドに横になった。目を閉じると、風裂き地帯の銀線ではなく、分解された鉤鎖が浮かんだ。風縒り鉄の黒銀。硝子翼狼の変異核片の青白い光。二つが合わさった鎖。風を噛む鎖。


 届かなかった場所へ、少しだけ届くようになる。


 だが、届いた後に帰らなければならない。


 澪は左足を少し高くして、静かに息を吐いた。


 次は、鎖。


 その次は、たぶん風。


 そして、いつか青白い階段の先へ。

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