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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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第三話 風の裂け目

インベントリの仕様一部変更。

 探索届というものは、紙一枚のくせに思ったより面倒だった。


 澪は朝の机に向かい、昨日の夜に書いた文字をもう一度見下ろしていた。第一層第六環以降の探索目的。撤退予定ルート。帰還札所持数。配信有無。同行者。探索者高校と協会へ提出する書類は、ただの報告ではなく、未成年探索者に対する最低限の手綱でもあるらしい。久遠が「嘘を書くな」と言った時の声を思い出し、澪はペン先を止めたまま、小さく息を吐いた。


 同行者欄は空白。帰還札は正規帰還札が一枚、低位帰還札が二枚。低位帰還札は第六環以降ではほぼ保険にならないが、完全な紙切れというわけでもない。少なくとも、第五環まで戻れた後なら使える。問題は、そこまで戻れるかどうかだ。


 探索目的の欄には、昨夜書いた文字が残っている。


 七環入口周辺の地形確認。風裂き地帯の観測。風縒り鉄の採取可能性調査。空裂き発生地点の再確認。


 書いてあることは本当だった。嘘ではない。ただし、言葉が大人しい。紙の上では「地形確認」だが、実際には第一層第七環へ足を踏み入れるつもりでいる。紙の上では「観測」だが、実際には風裂きの中へ近づいて、素材が取れる距離を測る。澪はしばらくその差を眺め、最後に同行者欄へ「なし」と書き込んだ。ひらがな二文字が、妙に目立つ。


 スマートフォンが震えた。朱音からだった。


『探索届、ちゃんと書いた?』


 澪は写真を撮って送る。数秒後、返信ではなく通話がかかってきた。澪は少し迷い、出た。


『澪』


 通話越しの朱音の声は、朝からすでに疲れていた。怒鳴る手前で息を整えているような声だ。


『これ、空白多すぎない?』


「必要なところは書いた」


『同行者なし、は必要なところだけど、私の心には必要じゃないんだよね。あと撤退予定ルートが雑。来た道を戻る、って書いてあるけど、来た道が壊れたらどうするの』


 澪は机の上の地図へ視線を落とした。第一層第六環から七環入口へ向かう予定線。昨日の硝子翼狼と戦った地点の周囲はまだ空白が多い。地図上では一本線でも、実際には硝子草の群生地、風の噴き上げ、空膜の薄い場所、魔物の縄張りが絡む。帰り道が同じ形で残っている保証はない。


「別の道を探す」


『それを先に書きなさい。久遠先生、絶対そこ見るから。あと配信タイトルは?』


「まだ」


『概要欄は?』


「朱音先輩が直した」


『そうだけど、今日の配信説明も書くの。危険区域への接近を含みます。無理な突入はしません、とか』


 澪は少し考えた。無理な突入はしません、という文言は、少し嘘に近い気がする。無理かどうかの基準が、朱音や久遠と澪では違う。


「書きづらい」


 そう言うと、通話越しに朱音が深く息を吸う音がした。怒られるかと思ったが、返ってきた声は思ったより静かだった。


『澪、嘘を書けって言ってるんじゃないの。見てる人が真似しないように、ちゃんと危ないって伝えてほしいの。昨日の配信、すごく伸びてる。あんたが思ってるより、たぶんずっと多くの人が見る。探索者も、学生も、ダンジョンに入ったことがない人も』


 澪はスマートフォンを耳に当てたまま、窓の外を見た。地上の朝は薄く白い。遠くのビルの間に見える空は、第一層の空よりずっと高く、乾いている。


「真似する人、いる?」


『いるよ。馬鹿はいる。澪も人のこと言えないけど、いるの。自分も行けるかもって思う人が絶対に出る』


「行けないのに?」


『行けないから死ぬんでしょ』


 朱音の声が少しだけ強くなった。澪は黙る。死ぬ。簡単な言葉だ。だが朱音が言うと、少し重い。澪自身の死ではなく、澪を見て誰かが死ぬ可能性の話をしているからだ。


 しばらく沈黙があった。通話の向こうで、朱音が小さく息を吐く。


『ごめん。朝から怒りたいわけじゃないの。ただ、あんたの配信名、九環でしょ。もう普通の学生配信じゃない名前になってる。だから、ちゃんと線を引いて。行くなら、自分だけで行って』


 最後の言葉は、突き放すようでいて、そうではなかった。朱音は澪の行きたい場所を完全には止められない。その代わり、無関係な誰かを引きずるなと言っている。澪はそれを理解し、短く頷いた。


「分かった。書く」


『本当?』


「本当」


『……じゃあ、学校で確認する。朝ご飯は?』


「まだ」


『食べて。再生スキル高いんでしょ。栄養取らないと治るものも治らないって保健室の先生が言ってた』


「朱音先輩、保健室の先生と仲良い?」


『澪のせいで仲良くなったんだよ』


 通話が切れた後、澪は配信説明欄を開いた。少し考え、朱音に言われた通りに書く。


『第一層第六環〜第七環境界の地形確認。危険区域への接近を含みます。真似しないでください。単独探索は推奨されません。撤退優先。』


 撤退優先、と書いた文字を見て、澪は少しだけ首を傾げた。優先するつもりはある。死ぬよりは帰る。だが、撤退と前進の境界は、きっと今日も風の中で揺れる。


 学校へ着くと、久遠は探索届を黙って読んだ。面談室の窓からは、訓練場の端が見える。朝の光を受けた人工芝の上で、二年生らしい生徒たちが身体強化の基礎訓練をしていた。澪は椅子に座り、久遠の指が書類の上を移動するのを眺める。久遠の眉は、撤退予定ルートの欄で一度止まり、配信説明欄のコピーでわずかに緩み、同行者欄の「なし」でまた険しくなった。


「七環入口周辺。風裂き地帯の観測。風縒り鉄の採取可能性調査」

 久遠は書類の文字を読み上げるように言った。声に怒りはない。ただ、底が重い。「素材処理室の藤堂先生から聞いた。変異核片を鉤鎖に組み込むつもりらしいな」


「はい」


「風縒り鉄が必要だと?」


「買うと高いので」


「金の問題で七環へ行くな」


 久遠の言葉は短い。澪が黙っていると、彼は書類から顔を上げた。目だけで叱るような、静かな圧がある。


「お前の今のレベルなら、第六環はぎりぎり適正内だ。第七環入口は格上。風裂き地帯はさらに相性が悪い。風刃系の魔物は、再生持ちにとっても厄介だ。斬られた瞬間の出血量が多く、傷口に風属性の魔力が残る。塞がるのが遅れる」


「だから見に行きます」


「だから、の意味が逆だ」


 久遠は額を押さえかけ、途中でやめた。どうやら、ため息をつく回数を減らそうとしているらしい。少しの沈黙の後、彼は机の引き出しから薄い冊子を取り出し、澪の前へ置いた。


「第一層第七環の既存報告だ。古いものが多い。最新の協会地図にも空白が残っている。理由は分かるな」


「行く人が少ないから」


「戻る人も少ないからだ」


 澪は冊子を開いた。第一層第七環。異象環。空間の歪みや重力異常、風裂き、空裂き、空膜崩落が報告される領域。魔物の適正はおおむねLv48〜62。第六環の強個体や変異種が流入することもある。視界は開けているが、安全ではない。空が地面に沈んでいる第一層では、足場のように見えるものが突然「空」へ戻ることがある。落ちれば戻ってこない。


 頁の隅に、小さく手書きのような注が印刷されていた。


 ――風裂きは、ただの風ではない。空間表面を削る刃である。防具で受けるな。


 澪はその一文をじっと見る。防具で受けるな。なら、避けるか、流すか、再生するか、切られる前に近づくか。選択肢は多くない。


「読んだ上で行くなら、条件を追加する」

 久遠は澪が冊子を閉じるのを待ってから、指を一本立てた。「まず、配信は常時接続。切れた場合、協会は救助要請として扱う。次に、七環の深部へ入らない。風裂き地帯は観測のみ。採取は可能性調査まで。最後に、帰還札を一枚追加しろ。低位ではなく正規帰還札だ」


「お金がないです」


「学校から貸与する。返済は素材納品か収益から分割でいい」


 澪は少しだけ目を上げた。久遠はその反応を予想していたのか、表情を変えずに続ける。


「勘違いするな。推奨しているわけではない。お前が無理にでも行くなら、帰る確率を少しでも上げる。それだけだ」


「ありがとうございます」


 澪がそう言うと、久遠はわずかに眉を動かした。礼を言われるとは思っていなかったのかもしれない。すぐに怖い顔へ戻ったが、声は少しだけ柔らかくなる。


「礼を言うなら、帰ってから言え。探索者の礼は、出発前ではなく帰還後だ」


「はい」


「それと、七瀬に余計な心配をかけるな」


 その言葉に、澪は少しだけ黙った。朱音の名前が出ると、胸の奥がわずかに重くなる。怒られるのが嫌なのとは違う。泣きそうな顔をされるのが、少しだけ苦手だった。


「心配は、もうしてます」


「なら増やすな」


「難しいです」


「努力しろ」


 面談室を出ると、廊下の窓際に朱音が待っていた。スマートフォンを両手で握り、何度も画面を点けたり消したりしている。澪が出てきたのに気づくと、すぐに歩み寄ってきた。足音が少し早い。


「どうだった?」


 聞き方は短いが、表情にはいくつもの感情が重なっていた。心配、怒り、諦め、少しの期待。止められたらいいと思っているのに、止められたら澪がどうするかも分かっている顔だ。


「正規帰還札、貸してくれる」


「……そこまでして行かせるんだ」


 朱音はそう言って、唇を引き結んだ。久遠への不満というより、行くことが前提になってしまった現実への不満だった。澪は何か言おうとしたが、朱音の方が先に息を吐いた。


「ごめん。先生に怒ってるわけじゃない。あの人が止めても、澪が別の方法で行くの分かってるし。……貸してくれるなら、ちゃんと借りて。絶対に持って行って」


「うん」


「あと、配信は切らない。コメントは読まなくていいけど、せめて位置と映像は残す。危ないと思ったら帰還札。歩けるから歩く、とか言わない」


「歩けるなら歩く」


「澪」


 朱音の声が低くなった。澪は少し考え、言い直す。


「歩けるけど、帰還札の方が安全なら使う」


「よし」


 朱音はようやく少しだけ表情を緩めた。だが、その顔にはまだ不安が残っている。彼女は鞄から小さな袋を取り出し、澪へ押しつけた。中には魔力補助ゼリー、栄養バー、簡易止血布、そして小さな御守りのような札が入っている。


「これ、うちの班で使ってる風避けの簡易護符。強い風魔法は無理だけど、風裂きの細かい切れ端くらいなら一回だけ逸らせるかもしれない」


「高い?」


「そんなに高くない。だから気にしないで」


 澪は袋を開け、護符を指先でつまんだ。薄い紙片に、風を丸く逃がすような術式が描かれている。簡易品だが、丁寧に作られている。朱音の班で使っている、と言っていた。つまり、余っていたものではなく、彼女たちの備品から出したのだろう。


「ありがとう」


 澪が言うと、朱音は一瞬だけ目を逸らした。照れたのではなく、礼を受け取るより先に心配が出てしまったような顔だった。


「ちゃんと使って。持って帰ってこなくていいから。使わず死にかける方が嫌」


「使う」


「本当?」


「たぶん」


「澪」


「本当」


 朱音はしばらく澪を見つめ、やがて小さく笑った。その笑いは、信じきれないけれど信じるしかない、という諦めに近かった。


 その日の授業は、澪にとって珍しく役に立った。午前の講義では、環ごとの適正難易度と経験値の仕組みが扱われた。ダンジョンは、格下狩りを好まない。適正を大きく外れた場所では、経験値は入らず、ドロップも消え、ボスは出現しない。近づけば部屋そのものが閉じるか、魔物が霧のように消える。逆に格上へ挑めば、経験値もスキル成長も大きい。ただし、普通は死ぬ。


 教師は黒板に、全層の簡易表を書いた。


【正規攻略目安】

第一層:Lv1〜95

第二層:Lv30〜150

第三層:Lv60〜210

第四層:Lv90〜330

第五層:Lv125〜???

第六層:測定不能領域を含む


※第五環が次層への正規下降路

※第六環以降は正規攻略に不要な危険域

※第九環は各層の未帰還領域


 教室の多くは、その表をただ試験範囲として見ていた。だが澪には、別のものに見える。道だ。第一層第七環、八環、淵環。第二層、第三層。正規ルートなら第五環から次へ降りる。だが外縁を踏まずに降り続けても、おそらく届かない場所がある。第六層。名前のない底。過去に世界の強者が壊れた場所。そこへ行くには、ただレベルを上げるだけでは足りない。どこで壊れたか。何で壊れたか。何を持ち帰ったか。きっと、そちらの方が重要になる。


 昼休みに食堂へ行くと、昨日よりも視線が減っていた。飽きたわけではない。朱音が隣にいるからだ。彼女は何もしていないようで、周囲の視線が一定以上近づくと、自然に顔を上げる。そのたびに、周囲は少しだけ距離を取る。朱音は槍を持っていなくても、間合いを作るのが上手かった。


「今日、本当に行くんだよね」


 定食の味噌汁をかき混ぜながら、朱音が言った。怒っているというより、確認する声だった。澪が頷くと、彼女は箸を置き、真面目な顔で続ける。


「私、配信見るから。コメントも見る。変な人が煽っても無視して。『もっと奥行け』とか『帰るな』とか絶対出るから。そういうの、聞かなくていい」


「聞かない」


「あと、海外コメントも増えてる。翻訳で変なこと言われても気にしない」


「読めない」


「それはそれで強いね」


 朱音は少しだけ笑った。その後、表情を戻し、澪の手元に視線を落とす。左手の動きは昨日より良い。だが、まだ少し硬い。朱音はそれを見て、小さく眉を寄せる。


「本当は、あと一日休んでほしい」


「一日休むと、身体が鈍る」


「普通は回復するって言うの」


「回復はしてる」


「してる途中」


 その言葉に、澪は黙った。朱音の言い方は保健室の養護教諭に似ている。動けることと治っていることは違う。何度も言われると、少しずつ覚えてしまう。澪は左手を開閉し、痛みの残り方を確認した。


「今日は、戦いに行くんじゃない」


「本当に?」


「地形確認。素材の場所を見る。危なかったら帰る」


 朱音は澪の顔をじっと見た。昨日から、嘘を見抜こうとする人間が増えている。澪は表情を動かさないようにしたが、朱音はしばらくしてから、少しだけ目を細めた。


「半分くらい信じる」


「半分」


「残り半分は、配信見ながら祈る」


 祈る、という言葉に、澪は少しだけ引っかかった。前の世界では祈りはもっと具体的だった。神に捧げ、魔力を乗せ、時に奇跡を起こすものだった。この世界の朱音が言う祈りは、たぶんもっと柔らかい。何もできない場所から、誰かが帰ることを願うこと。澪はそれをどう受け取ればいいか分からず、ただ小さく頷いた。


 放課後、協会支部で正規帰還札を受け取った。貸与品の札は、澪が持っているものよりも新しく、術式の線が濃い。最後に登録した拠点へ戻るための札。第五環までなら信頼できる。第六環でも状況次第では使える。第七環では成功率が落ちるが、ないよりはずっと良い。


 受付の女性は、澪のライセンスを確認しながら、明らかに言いたいことを飲み込んでいた。昨日の受付と同じ人だった。


「本日の申請は、第一層第七環入口周辺まで。配信あり。帰還札、正規二枚、低位二枚。間違いありませんか」


「はい」


「探索者高校および協会監視対象として、映像断絶時は救助判断が行われます。ただし、第七環以降の救助には時間がかかります。救助が間に合うとは限りません」


「はい」


 受付の女性はそこで一度、画面から顔を上げた。仕事用の声ではなく、少しだけ個人の感情が混じった声になる。


「昨日の配信、見ました。……綺麗でした。でも、怖かったです」


 澪は少しだけ目を瞬かせた。受付の女性はすぐに視線を戻し、手続きを続ける。澪はその横顔を見ながら、短く返した。


「今日も、綺麗だと思います」


 女性は驚いたように目を上げ、それから困ったように笑った。


「それなら、ちゃんと帰って映像を残してください。死んだら、続きが見られませんから」


 その言い方は、朱音とは少し違った。止めるためではない。帰って続きを見せろという、配信を見る側の言葉だった。澪はその言葉を少しだけ気に入った。


「はい」


 ゲート前で配信を開始すると、視聴者数は昨日とは比べものにならない速度で増えた。タイトルは短くした。


『風の裂け目を見に行く』


 コメントが流れる。


『来た』

『九環ちゃん本当に行くのか』

『学校止めろ』

『概要欄ちゃんとしてて草』

『帰還札持った?』

『朱音先輩見てる?』

『今日は無理するな』

『でも見たい』

『第一層七環? やばくね?』

『風裂き地帯は配信映えするけど危険』


 澪はコメントをほとんど読まない。ただ、朱音の名前だけ目に入り、少しだけ画面の端を見る。どこかで見ているのだろう。きっと眉間に皺を寄せ、スマートフォンを握りしめている。


 そこで、コメントの流れの中に同じ問いが何度も混じっていることに気づいた。


『昨日の再生なに?』

『再生スキル持ちなの?』

『欠損治りかけてなかった?』

『レベルいくつ?』

『本人見てるなら教えて』

『ログ見えないから自己申告しかないんだよな』


 澪はしばらく黙っていた。スキルの詳細を話すのは、本来あまり良くない。探索者にとって、スキル構成は手札だ。何ができるか、どこまで耐えられるか、どの攻撃に弱いか。それを知られることは、戦闘で服を脱ぐようなものに近い。


 けれど、《再生》に限って言えば、もう隠す意味は薄かった。昨日の映像で、異常な回復速度は見られている。むしろ曖昧なままにしておくと、低い再生スキルでも真似できると思う者が出るかもしれない。朱音の声が、朝の通話の中から蘇る。


『ちゃんと線を引いて。行くなら、自分だけで行って』


 澪はゲート前で立ち止まり、配信端末の角度を少し直した。画面に自分の顔が映り込む。黒に近い深藍の髪。まだ少し血色の薄い頬。昨日裂けたはずの肩は、服の下で鈍く熱を持っている。


「再生は、Lv8」


 短く言った。


 コメント欄が一瞬止まり、次の瞬間に跳ねた。


『は?』

『Lv8!?』

『嘘だろ』

『再生Lv8って国内前衛でもほぼいないやつでは?』

『そりゃ治るわ』

『いや逆にLv8でもあの状態なのか』

『真似したら死ぬやつ』

『九環ちゃん、急に爆弾落とすな』

『協会見てる?』

『これ公開していい情報なの?』


 澪は流れる文字を見ながら、少しだけ首を傾げた。驚かれるとは思っていたが、ここまで反応するとは思っていなかった。再生Lv8。自分にとっては、昨日の死闘でようやく届いた生存手段だ。だが、世間ではそれだけで十分に異常らしい。


「でも、昨日は死にかけた」


 澪は淡々と続けた。脅すつもりはない。ただ、事実として言う。


「Lv8でも、魔力が切れたら止まる。首を落とされて、間に合わなければ死ぬ。風属性の傷は塞がりにくい。痛みも消えない。だから真似しないで」


 言葉を選ぶのは苦手だった。けれど、朱音に言われた「線を引く」というのは、たぶんこういうことなのだろう。自分ができるから、他人もできるわけではない。自分が生き残ったから、次も生き残る保証があるわけではない。


 コメント欄に、さっきまでとは違う空気が流れた。


『ちゃんと注意してる』

『Lv8でこれなら無理だわ』

『普通の再生Lv2だけど六環行くのやめます』

『先生みたいなこと言い出した』

『朱音先輩に言わされてそう』

『でも助かる』

『情報公開ありがたい』

『再生Lv8でも危ない七環って何なんだよ』


 澪は最後のコメントだけ目で拾い、少しだけ口元を緩めた。


「だから、見に行く」


 それだけ言って、澪はゲートをくぐった。ゲートの向こうで、世界が変わる。


 第一層《零れ空の庭》は、今日も地面に空を零していた。第一環の草原は明るく、風は穏やかで、空鱗蝶が薄い雲を散らしながら飛んでいる。昨日と同じ場所なのに、配信端末の向こうにいる視聴者の数が違うだけで、空気が少し違って感じられた。だが澪が歩き始めると、その違和感はすぐに薄れた。第一環、第二環、第三環。安全な空を踏み越え、第四環へ。空の池は深くなり、草は硬さを増し、第五環では正規下降路へ向かう探索者たちが装備を整えていた。


 正道環。次層への道。普通の探索者はここで第二層へ降りる。第五環の中央にある下降路は、空に沈む階段のように見える。地面に零れた巨大な青空の中へ、白い石段が伸びている。下へ降りているはずなのに、見た目は空の奥へ沈んでいく。初めて見た者は、たいていそこで足を止める。綺麗だからだ。怖いからだ。自分がどこへ向かうのか、分からなくなるからだ。


 澪はその階段を横目に見て、外側へ向かった。


 コメントが少し騒がしくなる。


『そっちじゃない』

『はい外縁行き』

『五環から降りない女』

『普通はここで第二層なんだよな』

『九環って名前の時点で普通じゃない』


 第六環へ入ると、空気が冷えた。昨日と同じ硝子草の海。足元から吹き上がる風。地面に沈んだ空は、今日は深い群青をしている。澪は鉤鎖を左手首に巻き、右手で短杭を確認した。身体は昨日より軽い。だが完全ではない。だから、戦闘は避ける。できるだけ避ける。そう決めて、足音を殺した。


 昨日の硝子翼狼との戦闘地点へ近づくと、空膜に残った傷がまだ薄く光っていた。狼の巨体が転がった場所には、硝子草が円形に折れ、地面の空がひび割れたままになっている。血の跡はほとんど消えていたが、澪には分かる。ここで左腕が裂けた。ここで腹を抉られた。ここで《再生》がLv8へ届いた。身体が場所を覚えている。


 澪は少しだけ立ち止まり、足元のひびへ触れた。冷たい。空の下に、さらに別の空があるような冷たさだった。


「ここから先」


 その一言だけを配信に乗せ、澪はさらに奥へ進んだ。


 第七環入口は、明確な門ではなかった。硝子草の先端が同じ方向へ倒れ、風が横ではなく斜めに裂け始める。地面に沈んだ空の色が、一箇所だけ引き延ばされたように薄くなり、そこを通ると耳の奥がきしむ。空間が薄い。前の世界で、転移魔術の失敗した場所に似ていた。ただし、こちらはもっと美しい。空の膜が、薄い絹のように重なり、風が通るたびに銀色の線が走る。


 風裂き地帯は、その先にあった。


 草原の一部が、無数の透明な刃で刻まれている。刃そのものは見えない。だが、風が通った跡だけが見える。空中に銀の傷が走り、次の瞬間には消える。地面の空膜が細く裂け、裂け目から夕焼けや星空や昼の青が一瞬だけ噴き上がる。まるで、いくつもの空が重なった薄布を、見えない爪で引っ掻いているようだった。


 その奥に、黒とも銀ともつかない細い鉱脈が見えた。硝子草の根元に絡むように、風を受けて震えている。風縒り鉄。おそらく、あれだ。


 澪は息を止めた。綺麗だった。危険だと分かる。近づけば切られる。防具では受けるなと冊子にあった。けれど、その危険を理解した上でなお、目を離しにくい。風が空を裂き、裂けた空がまた閉じる。その繰り返しが、呼吸のように見える。


 コメントはすでに滝のように流れていた。


『やば』

『綺麗すぎる』

『これ一層?』

『七環風裂き地帯だ』

『近づくな』

『風縒り鉄見えてない?』

『採る気か?』

『観測だけって概要に書いてたぞ』

『九環ちゃん、約束守れ』


 澪は画面の端に流れた最後のコメントを見て、少しだけ口元を緩めた。約束。誰との約束かは分からない。朱音か、久遠か、配信を見ている知らない誰かか。


「今日は観測」


 澪はそう言ってから、少しだけ間を置いた。通話越しではない。目の前に誰かがいるわけでもない。それでも、見ている誰かへ届くように、普段より少しだけはっきり発音する。


「採取は、できると思った時だけ。危ないなら帰る。再生Lv8でも、ここは危ない」


 言った瞬間、コメントがまた流れた。


『えらい』

『朱音先輩見てるか』

『ちゃんと帰れ』

『Lv8でも危ないは説得力ある』

『いや本当に近づくなよ』

『観測だけでお願いします』


 その時、風裂きの向こうで何かが動いた。


 銀色の細い鳥のような影。翼ではなく、裂けた布のような膜を持つ魔物が三体、風の刃の間を滑るように飛んでいる。身体は薄く、骨のような芯だけが透けて見える。標準鑑定を通す。


《風裂燕》


分類:風属性魔物

出現域:第一層第七環

特徴:高速飛行/切断羽/群れ行動

危険度:高


 澪は短杭を抜いた。観測だけで終わるとは、最初から思っていなかった。だが、できるだけ戦闘は小さくする。深追いしない。素材に目を奪われない。帰る道を残す。


 風裂燕の一体が、銀の線を引いて飛んだ。速い。硝子翼狼ほどの重さはないが、軌道が読みにくい。風裂きの線と混ざる。澪は身体を低くし、鉤鎖を地面の硝子草へ掛けた。鳥の影が頬を掠める。細い痛み。血が一筋流れる。浅い。だが傷口が少し開いたままになる。風属性の魔力が残っている。久遠の言葉通りだった。


 澪は笑わなかった。今日は壊れに来たわけではない。観測だ。確認だ。必要な分だけ、戦う。


 風が裂ける。空が鳴る。澪は鎖を引き、身体を横へ滑らせた。


 その瞬間、風の裂け目の向こうに、昨日見たものとは別の空がちらりと覗いた。


 割れた空の墓標ではない。もっと細い、もっと深い、糸のような道。空葬原へ続くかどうかは分からない。だが、その先に何かがある。澪はほんの一瞬だけ、その奥を見た。


 次の瞬間、風裂燕の二体目が喉元へ飛び込んできた。


 澪は短杭を握り直し、浅く息を吐く。


「少しだけ」


 誰に対しての言葉か、自分でも分からなかった。少しだけ戦う。少しだけ近づく。少しだけ、奥を見る。


 風の裂け目が、澪の髪を細く切った。


 風裂燕は、鳥というより刃だった。


 羽ばたきはない。細い身体が風の流れに乗り、空間の裂け目と裂け目の間を滑る。翼膜は薄く、光の角度によってはほとんど見えない。けれど通り過ぎた後には、硝子草が遅れて裂け、地面に沈んだ空の表面に銀色の線が走る。あれを正面から受ければ、皮膚どころか筋肉ごと持っていかれる。昨日の硝子翼狼の一撃は重かった。噛まれれば骨が軋み、叩きつけられれば内臓が揺れた。だが風裂燕の攻撃は違う。軽い。薄い。速い。だからこそ、傷が深く入るまで気づきにくい。


 澪は喉へ飛び込んできた二体目を、短杭で受けなかった。受ければ短杭ごと腕を持っていかれる。防具で受けるな、という久遠の言葉が頭の奥をかすめる。なら、防がない。澪は上体を落とし、鉤鎖を引いた。硝子草に掛けた鉤が軋み、鎖が張り、身体が横へ滑る。風裂燕の切断羽が澪の首筋を掠めた。痛みは細い。だが、すぐに熱くなる。血が一筋流れ、傷口の内側に風の魔力が残った。再生が走る。けれど、塞がりが遅い。肉が戻ろうとするたび、傷の中に残った風が薄く開こうとする。


 澪は舌打ちしなかった。ただ、覚えた。風属性の傷は、切られた部分をそのまま戻すだけでは駄目だ。傷口に残る魔力を先に押し出すか、上から無理やり肉を被せる必要がある。だが後者は効率が悪い。魔力を食う。首筋の浅い傷一つでこれなら、腹を裂かれれば再生Lv8でも面倒になる。


 配信画面の端では、コメントが流れ続けている。


『今の首いった?』

『血出てる』

『風裂燕はマジで傷塞がらんぞ』

『再生Lv8でも遅いの怖すぎ』

『帰れ』

『観測だけって言ったよな?』

『でも動き綺麗だな……』


 澪はコメントをほとんど追わない。目の前の風の方が速い。三体の風裂燕は、澪を中心に輪を描くように飛んでいた。群れで獲物を追い込む、と鑑定にはあった。正面から一体、左右から二体。攻撃の軌道そのものは単純だが、風裂き地帯の銀線と混ざるせいで、どれが魔物でどれが地形の刃なのか一瞬分からなくなる。見てから避けるには遅い。だから澪は視覚の優先度を下げた。


 風の音を聞く。足元から吹く風、横へ裂ける風、風裂燕が通る時にだけ生まれる高い鳴き。耳の奥がきしむ。右から来る一体は音が軽い。囮。左奥の風裂きは本物。正面の一体が低く沈んだ。喉ではない。腹を狙う軌道。


 澪は短杭を逆手に持ち、右足を半歩だけ引いた。下がるのではなく、沈む。風裂燕が腹の高さを抜ける瞬間、澪は身体をさらに低くし、短杭を上へ跳ね上げた。刺さる感触は薄い。肉ではなく、硬い紙を裂いたような手応え。だが芯には触れた。風裂燕の身体がぐらりと揺れ、軌道が乱れる。そこへ鉤鎖を投げる。普通の鎖なら当たらない。だが昨日から、鎖の重さが前より分かる。投げるのではなく、置く。風が通る場所へ、先に鎖を置いておく。


 鉤が風裂燕の翼膜へ引っかかった。


 軽すぎる。引けば千切れる。素材として欲しいなら丁寧に仕留めるべきなのだろうが、今日は素材狩りではない。澪は鎖を踏み、短杭を持った右手を振り下ろした。風裂燕の芯が割れる。銀色の羽膜がふっとほどけ、光の糸のように空へ散った。小さなドロップ光が残る。澪は拾わない。残り二体がいる。


 背中に冷たいものが走った。見えない刃が来る。澪は左腕を上げかけ、途中で止めた。朱音の顔が脳裏に浮かぶ。治りかけ、と言われた左腕。受ければ動く。だが裂ける。今日はそれをする意味が薄い。澪は身体を横へ投げ、足元の空膜を転がった。硝子草が頬を切り、肩が痛む。だが風刃は避けた。背後で空が裂け、昼の青が一瞬だけ噴き上がる。


 綺麗だった。


 澪は転がった姿勢のまま、その青を見た。ほんの一瞬、地面の下から空が咲いたようだった。刃が通った跡に、別の空が開く。閉じる前のわずかな時間だけ、向こう側の色が見える。風裂き地帯は危険だ。だが、ここはただの危険地帯ではない。空が剥がれる場所だ。世界の表面が薄い場所だ。昨日見た空葬原とは違う。ここには、裂け目がある。細い道がある。


 風裂燕の二体目が追撃に入る。澪は寝た姿勢のまま、右手の短杭を投げた。狙いは魔物ではない。少し先の硝子草の根元。短杭が刺さり、そこへ鉤鎖の中間を絡める。即席の支点。澪は鎖を引き、自分の身体を地面すれすれに滑らせた。風裂燕の羽が髪を切る。深藍の髪が数本、空へ舞った。


 起き上がると同時に、澪は鎖を手繰る。二体目の軌道はもう見えた。軽い魔物は方向転換が速い。だが、速すぎるものは風の流れを無視できない。風裂き地帯では、風そのものが道になる。澪は足元の風を読み、魔物が嫌う裂け目の位置を見た。右に逃げる。そう判断して、先に短杭を投げる。風裂燕はその通りに逃げた。短杭が芯を掠める。決定打ではない。だが一瞬だけ速度が落ちる。


 澪は踏み込んだ。身体強化を深くかけすぎない。足首、膝、腰だけ。全身に流せば速いが、魔力を食う。再生に回す分が減る。今日は長く戦わない。必要な分だけ強化する。細く、短く、鋭く。


 二体目の風裂燕を、鉤鎖の戻りで叩き落とした。芯が折れ、銀の羽膜が裂ける。今度はドロップ光が二つ浮いた。風裂羽と、小さな風結晶。澪は風結晶だけ拾い、インベントリへ入れる。鑑定は後でいい。残り一体。


 最後の風裂燕は、すぐに攻めてこなかった。空中で薄く旋回し、澪から距離を取る。群れのうち二体が落ちたことで、警戒したのかもしれない。あるいは、誘っている。風裂きの濃い場所へ。澪は息を整え、首筋の傷に指を当てた。まだ塞がりが悪い。血は止まりかけているが、皮膚の下で風の魔力がざらざらと残っている。


「風が残る」


 澪は小さく呟いた。配信端末が拾ったのか、コメント欄が反応する。


『風が残る?』

『傷口に属性魔力残るやつか』

『上級講義でやるやつ』

『再生持ちでも対策いるんだな』

『九環ちゃん実況しないけど独り言が情報になる』


 澪は最後の一体を見上げた。風裂燕の身体は薄い。だが、あの膜は風裂きの中を通っても切れない。身体の表面に風を沿わせ、刃を逃がしているのだろう。風裂き地帯で生きる魔物は、地形への答えを持っている。倒せば素材になる。観察すれば技術になる。


 最後の一体が飛んだ。正面からではない。上から斜めに落ちる。澪は避けようとして、足を止めた。背後に風裂きが走っている。下がれば切られる。横へ逃げれば、別の銀線とぶつかる。なら前へ出るしかない。


 澪は身体を低くし、風裂燕の下へ潜った。切断羽が背中を裂く。薄い傷では済まない。肩甲骨のあたりから腰へかけて、熱い線が走る。血が吹く。再生が始まるが、遅い。傷の中に風が残る。痛みが背中で広がる。


 だが、潜れた。


 澪は振り向かず、背後へ鎖を投げた。鉤刃が風裂燕の芯に引っかかる。引く。背中の傷が開く。筋肉が悲鳴を上げる。だが、引く。軽い身体が空中で乱れ、風の流れから外れた。風裂燕は地面へ落ちる前に体勢を戻そうとしたが、澪の短杭が先に届いた。芯を貫く。銀の膜がほどけ、最後の一体が光になった。


 戦闘が終わると、風裂き地帯の音だけが残った。細い銀線が空中に走り、消え、また別の場所に走る。澪は膝に手をつき、浅く息を吐いた。背中が熱い。首筋も痛い。腹の古傷が少し引きつる。だが、立てる。魔力消耗はまだ許容範囲。撤退するには早い。採取するには、まだ危ない。


 澪はインベントリから魔力補助ゼリーを取り出した。朱音が渡したものだ。蓋を開け、無言で飲む。甘い。薬草の苦みが少しある。配信のコメントが妙に沸いた。


『ちゃんと飲んだ』

『朱音先輩見てるか、飲んだぞ』

『えらい』

『幼児扱いで草』

『でも飲まないと死ぬからな』

『背中の傷大丈夫か?』

『再生遅いな、風属性えぐい』


 澪は背中の傷に意識を向けた。風の魔力が残っている部分を、再生で押し戻すのではなく、魔力操作で薄く削る。前の世界で、毒を血から抜く時に似ていた。ただし、風は毒より軽い。軽いから散る。散るから掴みにくい。澪は呼吸を浅くし、傷口に残るざらつきを少しずつ外へ逃がした。数秒、十数秒。血がまた少し流れ、風の魔力が抜ける。抜けた瞬間、再生が早まった。皮膚の下で筋繊維が熱を持ちながら繋がる。


「先に、風を抜く」


 澪は忘れないように呟いた。コメントがまた騒ぐ。


『自分で治療法見つけてる?』

『再生+魔力操作?』

『これ普通に教材では』

『メモった』

『真似できる気はしない』

『再生Lv8前提の治し方やめろ』


 澪は風裂燕のドロップを拾い終え、風縒り鉄の方へ目を向けた。黒銀の細い鉱脈は、まだ風の中で震えている。距離は二十歩ほど。だが、その二十歩の間に銀線がいくつも走っている。風裂きには周期があるようで、同じ場所に同じ間隔で刃が通る部分と、まったく不規則に裂ける部分があった。風縒り鉄がある場所は、ちょうどその中間だ。取れない距離ではない。取れるかもしれない。だが、採るには数秒立ち止まる必要がある。採掘道具を出し、根元を削り、インベントリへ入れる。その間に風裂きが来れば、腕が落ちる。


 澪は左手を見た。昨日、朱音に何度も見られた手。今は動く。だが、まだ完全ではない。この手を今日落とす価値があるか。あるような気もする。だが、落として採れなかった場合は無駄だ。朱音の護符もある。一回だけなら風を逸らせるかもしれない。だが、それをここで切るべきか。


 澪はインベントリから小さな護符を取り出した。朱音が渡した風避けの簡易護符。薄い紙片に、風を丸く逃がす術式が描かれている。指先でつまむと、朱音が紙袋を押しつけてきた時の顔を思い出した。使わず死にかける方が嫌、と言っていた。


 使えば、採れる可能性は上がる。だが、帰り道で必要になる可能性もある。


 澪は護符をしまった。


「今日は、採らない」


 その言葉を口にした瞬間、コメント欄が大きく動いた。


『えらい!!!!!』

『帰れ帰れ帰れ』

『朱音先輩泣いてそう』

『観測できたから勝ち』

『採らない判断できるの偉すぎる』

『いや普通なんだけど九環ちゃんだと偉業』


 澪は少しだけ不満だった。採らない判断が偉いというのは、どうなのだろう。だが、今日は観測。朱音にも言った。久遠にも紙で出した。受付の女性にも、続きが見られませんから、と言われた。帰る理由は、思ったより多い。


 その時、風裂き地帯の奥で空が鳴った。


 音は鐘に似ていた。第一層には本来ないはずの、深く、遠い音。澪は反射的に顔を上げる。風縒り鉄のさらに奥、銀線の密集する場所で、空の膜が縦に裂けた。昨日見た空葬原へ続く空裂きとは違う。今回の裂け目は細く、長い。糸のようで、傷のようで、扉の隙間のようでもあった。


 裂け目の向こうに、青白い階段が見えた。


 一段だけ。いや、二段。空中に浮いている。地面にはつながっていない。階段の先は見えない。そこへ、透明な羽を持つ何かが止まっていた。鳥ではない。蝶でもない。骨のように細い脚があり、頭部らしき部分には目がない。だが、こちらを見ていると分かった。


 鑑定を通そうとした。標準鑑定は、数瞬遅れて表示を返した。


```text

名称:不明

分類:不明

危険度:測定不能

備考:標準鑑定範囲外

```


 澪の背中に、冷たいものが走った。恐怖ではない。いや、恐怖もある。だがそれ以上に、見つけた、という感覚があった。風裂き地帯はただの素材場ではない。ここに、どこかへ続く傷がある。空葬原ではないかもしれない。だが、配信者名に選んだあの言葉へ向かう道の一部かもしれない。


 コメント欄は混乱していた。


『なに今の』

『階段?』

『鑑定不明出た?』

『帰れ』

『マジで帰れ』

『それ七環のやつじゃない』

『音聞こえた?』

『朱音先輩これ見てたら発狂するぞ』

『九環ちゃん止まれ』


 澪は一歩、足を出しかけた。


 その瞬間、胸元の護符が熱を持った。朱音の風避け護符ではない。協会から貸与された正規帰還札でもない。探索者ライセンスに組み込まれた緊急警告が、赤く点滅している。危険域判定。標準探索範囲外干渉。接近禁止。


 そして、通話着信。


 七瀬朱音。


 澪は裂け目を見た。青白い階段はまだある。透明な何かも、こちらを見ている。だが空の傷は少しずつ細くなっていた。今行かなければ閉じる。閉じれば次にいつ開くか分からない。足が前へ出そうになる。


 スマートフォンが震え続ける。


 澪は目を閉じた。朱音の声を思い出す。ちゃんと線を引いて。行くなら、自分だけで行って。久遠の声を思い出す。礼を言うなら、帰ってから言え。受付の女性の声も思い出す。死んだら、続きが見られませんから。


 澪は足を戻し、通話に出た。


『澪! 帰って!』


 通話越しの朱音の声は、怒鳴っていた。けれど、その奥で震えていた。配信映像を見て、何が映ったのか分からないまま、それでも危ないと判断したのだろう。


 澪は空の裂け目を見たまま、短く言った。


「見えた」


『見えたじゃない! それ、今日の目的じゃないでしょ!』


「うん」


『うんじゃなくて! 帰って。お願いだから、今日は帰って』


 お願い、という言葉が、風裂きの音より強く聞こえた。澪はしばらく黙った。裂け目は細くなっていく。青白い階段が薄れ、透明な何かの輪郭もぼやける。向こう側の何かが、名残惜しそうにこちらを見ている気がした。気のせいかもしれない。誘っているのかもしれない。


 澪は息を吐いた。


「今日は、帰る」


 通話の向こうで、朱音が息を詰める音がした。信じられない、という沈黙だった。


『……本当に?』


「本当」


『帰還札は?』


「まだ使わない。歩ける。危なくなったら使う」


『危なくなってからだと遅いこともある』


「分かった」


 朱音はまだ何か言いたげだったが、澪の声がいつもより少しだけ素直だったからか、怒鳴り続けることはしなかった。通話越しに、深く息を吐く音がする。


『配信、切らないで。そのまま戻って。私、見てるから』


「うん」


 通話は繋いだままにした。朱音の声はしばらく聞こえなかったが、向こうにいる気配だけはあった。澪は裂け目が完全に消えるのを見届けた。最後に、青白い階段の一段目だけが光り、すぐに空へ溶けた。


 惜しい。


 そう思った。心の底から思った。けれど、今日は帰る。帰って、地図に書く。風裂き地帯、青白い階段、不明個体、標準鑑定範囲外。次に来る時は、今日より準備する。風縒り鉄を採る。鎖を変える。風属性の傷への対策を作る。護符を増やす。帰還札も増やす。今日見えたものを、次に近づくための材料にする。


 澪は背を向けた。風裂き地帯を離れる。風裂燕のドロップと、風結晶を確認する。風縒り鉄は採っていない。だが、位置は見た。風の周期も少し読めた。収穫はある。


 帰り道、朱音の声が通話越しに小さく聞こえた。


『……澪』


「なに」


『帰ったら、ちゃんとご飯食べて。あと、今日の映像、私にも見せて』


「配信で見てた」


『そうじゃなくて、一緒に確認するの。危ない場所、次に行かないように』


「次は行く」


『言い方』


 朱音の声に、少しだけ力が戻っていた。怒っている。心配している。呆れている。けれど、泣きそうな震えは薄くなっていた。澪はそれを聞きながら、硝子草の海を歩く。


 風はまだ足元から吹いている。空は地面に沈み、遠くで逆さ虹が薄く揺れている。第一層は今日も美しい。美しくて、危なくて、少しだけ優しくない。


 配信コメントが流れている。


『帰ってる!』

『えらい』

『朱音先輩ナイス』

『今の階段なんだったんだ』

『標準鑑定不明はやばい』

『今日の情報量多すぎ』

『風縒り鉄は次回か』

『九環ちゃん、ちゃんと帰ってくれ』


 澪は歩きながら、ほんの少しだけ笑った。


「次は、採る」


 通話越しに、朱音が即座に反応した。


『まず帰ってから言いなさい!』


 風裂き地帯の音が遠ざかる。空の傷はもう見えない。けれど、澪の瞼の裏には、青白い階段が焼きついていた。

 帰路は、行きよりも静かだった。


 風裂き地帯から離れるにつれて、足元から吹き上げる風は少しずつ弱まり、硝子草の鳴る音も薄くなっていく。けれど澪の背中には、さっき受けた切断羽の熱がまだ残っていた。傷そのものは塞がり始めている。だが、皮膚の下で風属性の魔力がざらついた名残を残していて、動くたびに細い針で内側を撫でられているような不快感があった。


 痛みは嫌いではない。痛みは情報だ。どこが壊れたのか、何が足りないのか、次に同じ攻撃を受けた時どこを避けるべきかを教えてくれる。けれど、風の痛みは少し違う。熱でも、圧でも、毒でもない。傷が閉じようとする瞬間に、薄く開き直される感覚。治ることそのものを邪魔されるような痛みだった。


 澪は歩きながら、背中に意識を向ける。魔力を薄く流し、傷口の奥に残る風を少しずつ外へ押し出す。無理に再生だけで塞ぐと消耗が重い。先に異物を抜き、それから肉を戻す。さっき見つけたやり方を、帰り道でも繰り返す。


 通話はまだ繋がっていた。朱音はほとんど喋らない。時々、向こうで小さく息を飲む音がするだけだ。澪が足を止めるたびに、朱音の気配も固くなる。たぶん、配信映像と位置情報の両方を見ているのだろう。怒る準備をしながら、祈るように見ている。そんな姿が頭に浮かび、澪は少しだけ歩調を安定させた。


『……足、引きずってない?』


 しばらくして、通話越しの朱音が低く尋ねた。責める声ではない。画面越しの小さな違和感を拾った、慎重な声だった。


「背中が痛いだけ」


『それを、だけ、って言わないの。血は?』


「止まりかけ」


『止まった、じゃなくて?』


「止まりかけ」


 通話の向こうで、朱音が深く息を吐いた。怒鳴りたいのを飲み込んだ音だった。


『帰還札、使ってもいいんだよ』


「まだいい」


『澪』


 名前を呼ばれた。強くではない。止めるためでも、叱るためでもない。確認するような響きだった。澪は足を止め、視線だけで周囲を確認する。硝子草の海。空膜のひび。風裂き地帯はもう後方にある。魔物の気配は遠い。ここで札を使えば安全だ。けれど、歩いて戻れる距離でもある。正規帰還札は高い。貸与品とはいえ、返済が必要になる。次の探索のためにも、無駄にはしたくない。


 ただ、朱音は札の値段ではなく、澪の命を見ている。


「第五環まで戻る。そこで使うか決める」


 少し考えてから、澪はそう言った。完全に拒否しない。使う可能性を残す。朱音が欲しいのは、たぶんその余地だ。


『……分かった。第五環までね。そこまでに何か出たら、使って』


「うん」


『本当?』


「本当」


 朱音はそれ以上、強くは言わなかった。その代わり、通話を切らなかった。澪はその無言を背中に受けながら歩く。配信画面のコメント欄では、朱音とのやり取りを聞いていた視聴者たちが妙な盛り上がりを見せている。


『朱音先輩の圧で帰還判断が改善されている』

『保護者通話助かる』

『九環ちゃん、言質取られてて草』

『第五環まで戻ったら札使え』

『風裂き地帯から歩いて帰る時点でおかしい』

『でも昨日より慎重』

『成長してる……?』

『戦闘じゃなくて社会性が?』


 澪は最後の方を読んで、少しだけ眉を寄せた。社会性。たぶん、前の世界でも足りないと言われたことがある。命令は聞く。戦術も理解する。だが、人の感情を扱うのが下手だと言われた。今もあまり変わっていない気がする。違うのは、朱音のように何度も怒ってくる相手がいることだ。


 六環の空気は、七環よりずっと穏やかに感じた。昨日はあれほど危険に思えた場所なのに、風裂き地帯を見た後では、硝子草の海も少しだけ柔らかく見える。慣れは危険だ。そう思いながら、澪は足を止めた。


 前方、硝子草の陰で小さな雷が弾けた。


 青雷兎。二体。昨日の帰路にも出た魔物だ。六環個体は速く、雷を纏う。今の澪なら倒せる。倒せるが、戦いたくはない。魔力は温存したい。背中の傷もまだ完全ではない。澪は鉤鎖へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。戦えばすぐ終わる。だが、戦わない選択をする練習も必要だ。


 澪はインベントリから、昨日拾った雲喉狐の喉袋の端材を取り出した。標準鑑定では煙幕素材。乾燥させれば視界を奪う道具にできるが、未加工でも少しは使える。澪は短杭で袋を浅く裂き、風上へ放った。白い雲が薄く広がる。青雷兎たちの耳がぴくりと動いた。雷の光が揺れる。視界を嫌ったのか、二体は左右に散った。


 その隙に、澪は足音を殺して進路を変えた。真正面から抜けず、硝子草の濃い場所を迂回する。背中の傷が引きつる。だが、戦闘にはならない。


 コメント欄がまた動いた。


『避けた?』

『戦わない選択したぞ』

『えらい』

『いや普通なんだけど九環ちゃんだと事件』

『雲喉狐素材を煙幕にした?』

『素材の使い方うま』

『昨日の帰りより明らかに慎重』


 通話越しに、朱音が小さく言った。


『今の、よかった』


「何が?」


『戦わなかったこと。戦えないから逃げたんじゃなくて、戦えるけど避けたんでしょ』


「魔力が惜しい」


『理由はそれでもいいの。ちゃんと帰るために選んだなら』


 朱音の声には、わずかな安堵があった。澪はそれを聞いて、少しだけ不思議な気持ちになる。魔物を倒して褒められることは分かる。戦果だからだ。だが、倒さずに避けて褒められる感覚はあまり馴染みがない。前の世界でも偵察任務ならそういう評価はあったが、あれは任務達成のためだった。今の朱音は、澪が生きて戻る確率を上げたことを喜んでいる。


 五環の境界が見えた時、澪の肩から少しだけ力が抜けた。空気が変わる。風が弱まり、空膜のひびが減り、遠くに探索者の声が聞こえ始める。第一層正道環。普通の探索者にとっての通過点。澪にとっては、今日の安全圏の入口だった。


「五環」


 澪が短く言うと、通話の向こうで朱音が息を吐いた。


『帰還札は?』


 澪は歩きながら、腰の札入れに触れる。正規帰還札が二枚。低位が二枚。ここから第一環ゲートまでは歩ける。魔物も少ない。けれど、背中の傷はまだ熱い。魔力消耗も軽くはない。帰り道で余計な事故に遭う可能性もゼロではない。札は高い。だが、貸与品を使う理由としては十分かもしれない。


 澪は少し迷った。


 その迷いを、朱音は画面越しに見抜いたのだろう。急かす声ではなく、少し柔らかい声で言う。


『使っても、負けじゃないからね』


 その言葉に、澪は目を伏せた。負け。そう考えていたつもりはない。だが、どこかで似たような感覚はあった。歩けるのに札を使うのはもったいない。札に頼るのは甘え。死地から歩いて帰ることまで含めて探索。そういう考えが、身体に染みついている。


 しかし、今日の目的は風裂き地帯の観測だった。採取ではない。戦闘でもない。青白い階段という想定外を見た。風裂燕の情報も得た。風属性の傷への対処も少し分かった。十分だ。


 澪は正規帰還札を一枚取り出した。


「使う」


 コメント欄が一気に流れた。


『使った!!』

『えらい!!!!』

『朱音先輩大勝利』

『帰還札代は投げ銭するから使え』

『判断がまともになってる』

『九環ちゃんが成長してしまった』

『探索者として正しい』

『これで帰還事故ったら泣く』


 札を起動すると、薄い白い光が澪の足元に広がった。最後に登録した第一層ゲート前拠点へ帰還する術式。発動には数秒かかる。澪はその間、周囲を警戒した。五環とはいえ、油断すれば死ぬ。帰還札は発動中に妨害されることもある。だが、今回は何も来なかった。


 足元の空が反転する。地面に沈んでいた青が、上へ浮かび上がる。身体がふわりと軽くなり、次の瞬間、澪は協会管理拠点の帰還陣に立っていた。


 帰還陣の周囲には、協会職員が二人、治療班が一人、そしてなぜか久遠がいた。久遠は腕を組んだまま、澪を見る。顔は怖い。だが、昨日よりはほんの少しだけ眉間の皺が浅い。


「帰還札を使ったか」


「はい」


「よし」


 その一言だけだった。叱責も説教もない。よし。それだけ。澪は少しだけ目を瞬かせた。久遠はすぐに治療班へ視線を向ける。


「背中と首だ。風属性残留の可能性がある。表層だけ確認してくれ」


「了解しました」


 治療班の女性が澪の背中を見るため、簡易処置室へ案内する。澪は通話がまだ繋がっていることに気づき、スマートフォンを見た。


「帰った」


 通話越しに、朱音の息が震えた。


『見てた。……おかえり』


「うん。ただいま」


 そう返すと、朱音は少し黙った。たぶん、何かをこらえている。怒りなのか、安堵なのか、涙なのか、澪には分からない。ただ、その沈黙は嫌ではなかった。


『あとで行く。勝手に帰らないで。協会で待ってて』


「分かった」


『本当?』


「本当」


『地図だけ見て先に帰るとか、素材売って帰るとか、しないで』


「しない」


『……信じるからね』


 通話が切れる。澪はスマートフォンをしまい、治療班の指示で処置用の椅子に座った。背中の防具を外すと、治療班の女性が小さく息を呑む。傷は塞がりかけているが、風裂燕の切断羽が走った跡は、赤黒い線となって肩甲骨から腰へ伸びていた。傷口の周囲には、薄い銀色の魔力残滓がまだ残っている。


「よくこの状態で帰還札まで温存しましたね」


「五環で使いました」


「本当はもっと早く使ってほしいです」


 治療班の女性は呆れたように言いながらも、手つきは丁寧だった。風属性の残留魔力を抜く処置は少し痛かった。澪が自分で行った方法よりもずっと効率的だが、その分、傷の奥を細い針でなぞられるような感覚がある。澪は眉ひとつ動かさずに座っていたが、指先だけが少し強く椅子を握っていた。


「痛いですか?」


「少し」


「少し、ではないと思いますけど。再生が高い人は痛みに鈍いんじゃなくて、痛くても動けてしまうだけです。動けるから平気、とは思わないでください」


 今日はどこへ行っても同じことを言われる。澪は少しだけ不満だったが、反論できるほど間違ってもいなかった。処置が終わると、傷の熱はかなり引いていた。再生も早まっている。やはり風を抜くのが正解だったらしい。


 素材確認では、風裂燕の風結晶が三つ、風裂羽が二枚、薄い切断羽膜が一枚。大した量ではないが、第七環素材としては悪くない。風縒り鉄はなし。協会の鑑定官は、澪が風縒り鉄を採っていないことに少し驚いた顔をした。


「映像では見えていましたが、採取しなかったんですね」


「今日は観測だったので」


 澪がそう答えると、鑑定官は一瞬だけ目を丸くし、それから苦笑した。


「昨日の配信を見た身としては、かなり意外な返答です」


「よく言われます」


「良い判断だと思います。風縒り鉄は採取中の事故が多い素材です。位置情報と周期映像があるだけでも、次回以降の準備に役立ちます」


 鑑定官はそう言って、風結晶を一つずつ鑑定台に置いた。標準鑑定よりも詳しい表示が出る。風属性純度、切断性、微量の空間歪曲反応。最後の項目で、鑑定官の手が止まった。


「空間歪曲反応……。やはり、あの裂け目の影響ですか」


 澪は顔を上げた。鑑定官は映像を確認しながら、眉を寄せている。青白い階段が映った瞬間の静止画。裂け目の向こうにいた透明な何か。標準鑑定では不明と出た存在。


「これ、何ですか」


 澪が尋ねると、鑑定官はすぐには答えなかった。答えられない、という沈黙だった。協会職員らしい慎重な表情のまま、言葉を選ぶ。


「分かりません。少なくとも、第一層七環の通常記録には該当しません。九環由来の現象が、七環側に漏れた可能性。あるいは、風裂き地帯特有の一時的な空間接続。どちらにせよ、標準鑑定範囲外です」


「危険?」


「危険です。分からないものは、基本的に危険です」


 鑑定官はそう言って、映像を協会深環研究部へ送信した。昨日も似たようなことを言われた気がする。澪の配信映像は、また協会の深い部署へ送られるらしい。


 処置と鑑定が終わる頃、朱音が協会へ着いた。少し走ってきたのか、制服の胸元がわずかに乱れ、呼吸も浅い。けれど、澪が処置室から出てくるのを見ると、すぐに足を止めた。怒る準備をしていた顔が、一瞬だけ崩れる。安堵が先に出た。


「澪」


「待ってた」


「うん。……本当に待ってた」


 朱音はそう言って、澪の前に立った。昨日のように怒鳴るかと思ったが、すぐには声を荒げなかった。視線が背中へ回り、首の傷を確認し、手元の処置済みの札を見る。それから、ゆっくり息を吐いた。


「帰還札、使ったんだね」


「五環で」


「うん。見てた」


「高い」


「命より安い」


 朱音は即答した。言い方に迷いがなかった。澪が何か言い返そうとすると、朱音は先に手を伸ばし、澪の額を軽く指で弾いた。痛くはない。けれど、不意打ちだったので澪は少し瞬きをした。


「今日は、それで許す。風縒り鉄も採らなかったし、裂け目にも入らなかったし、帰還札も使った。だから、怒るのは半分にする」


「半分は怒る?」


「当たり前でしょ。風裂燕三体と戦って背中切られて、標準鑑定範囲外の何かに近づきかけたんだから」


 朱音の声は少しずつ普段の調子に戻っていく。怒っている。だが、泣きそうな震えはない。澪はそれを少し安心して聞いていた。


「でも、帰ってきた」


「そう。帰ってきた。そこは、ちゃんと偉い」


 朱音は言ってから、少し照れたように視線を逸らした。澪はその横顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。褒められることに慣れていないわけではない。戦果を褒められたことはある。敵を倒したこと、生き残ったこと、命令を遂行したこと。だが、帰還札を使って帰ったことを褒められるのは、少し不思議だった。


「じゃあ、ご飯」


 澪が言うと、朱音は一瞬だけ目を丸くした後、呆れたように笑った。


「今それ?」


「食べろって言った」


「言ったけど。……まあ、食べようか。今日は消化にいいもの。脂っこいのは駄目」


「肉」


「消化にいいもの」


「肉うどん」


「うどん部分は許す」


 協会の外へ出ると、地上の夕暮れは薄い紫色に変わっていた。ダンジョンの空とは違う。裂けない。沈まない。風で削れない。けれど、今日は少しだけ綺麗に見えた。青白い階段を見た後だからかもしれない。あの階段は、地上の空にも、第一層の空にも似ていなかった。もっと奥の色だった。


 食事を終えた後、澪は朱音と一緒に自宅へ戻った。朱音は本当に映像確認をする気らしく、澪の部屋へ上がるなり机の上を片づけ始めた。散らばった地図、空のゼリー容器、短杭の手入れ布、協会資料。朱音はひとつひとつを見て、呆れた顔をする。


「澪、生活環境がダンジョン寄りすぎる」


「部屋」


「部屋なのに野営地みたい」


「ベッドある」


「そういう問題じゃない」


 朱音は文句を言いながらも、手際よく机を空けた。澪は配信アーカイブを開き、風裂き地帯の映像を表示する。二人で並んで画面を見る。配信中は戦闘で追えていなかった細部が、静止画にするとよく分かる。銀線の周期、風裂燕の飛行軌道、風縒り鉄の位置。そして、青白い階段。


 朱音はその場面で黙った。


 画面の中、空の裂け目の向こうに二段だけ浮かぶ階段。そこへ止まる透明な何か。配信越しでは一瞬だったが、静止画にすると不気味さが増す。美しい。けれど、見ていると胸の奥が冷える。触れてはいけないものを、画面越しに覗いているような感覚がある。


「これ、何だと思う?」


 朱音が小さく尋ねた。澪は画面から目を離さずに答える。


「分からない」


「澪でも?」


「分からない。でも、道に見えた」


「道……」


 朱音はその言葉を噛みしめるように繰り返し、すぐに眉を寄せた。


「道に見えたから行く、はなしね」


「次は準備する」


「そういう意味じゃないんだけどなあ」


 朱音は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。疲れている。けれど帰ろうとはしない。澪の部屋で、澪の地図と映像を見て、危ない場所を一緒に確認している。その距離の近さに、澪は少しだけ戸惑った。


「朱音先輩」


「なに?」


「なんで、そこまでするの」


 問いかけると、朱音は天井を見たまま目を瞬かせた。すぐには答えない。少し考え、困ったように笑い、それから澪を見た。


「最初は、放っておけなかったから。学校に来ない一年がいて、ご飯もちゃんと食べてなさそうで、先生にも目をつけられてて。そういうの、気になるでしょ」


「気になる?」


「私はなるの」


 朱音はそう言って、画面に映る澪の戦闘を見た。風裂燕を相手に、低く滑るように動く澪。背中を裂かれても、表情を変えずに鎖を投げる澪。


「でも今は、それだけじゃないかな。あんたの見る景色は、怖いけど綺麗だから。見てほしいって思ってるの、何となく分かるから。……だから、帰ってきてほしい。続きを見せるために」


 澪は黙った。受付の女性と同じようなことを、朱音も言った。死んだら続きが見られない。帰って、続きを見せろ。探索者として強くなれ、ではなく。素材を取れ、でもなく。景色の続きを、という言葉。


 澪は画面の中の青白い階段を見る。見たい。行きたい。だが、帰って見せるという理由も、少しだけ分かり始めていた。


「じゃあ、次も見る?」


「見る。だから無茶しすぎないで」


「難しい」


「知ってる。でも、今日みたいに帰って。採らない判断も、札を使う判断も、ちゃんとできたでしょ」


「朱音先輩がうるさかったから」


「うるさくて結構」


 朱音は少し誇らしげに言った。その表情を見て、澪は小さく笑った。


 夜が深くなり、朱音が帰った後、澪は一人で机に向かった。探索地図に今日の情報を書き込む。風裂き地帯の位置。風縒り鉄の鉱脈。風裂燕の出現数。傷に残る風魔力の対処。青白い階段。透明な不明個体。標準鑑定範囲外。危険域警告。


 そして、最後に小さく書いた。


 次回準備:

 風避け護符を追加。

 正規帰還札二枚以上。

 風属性傷対策。

 鉤鎖更新費用。

 風縒り鉄採取手順。

 裂け目には入らない。まだ。


 まだ、という文字だけ、少し強くなった。


 澪はステータスを開いた。今日の戦闘は昨日ほど激しくはない。だが、得たものはある。


```text

【天瀬 澪】


探索者Lv:44


状態:

・魔力消耗:小

・背部裂傷:回復中

・風属性魔力残留:微弱

・精神汚染:微弱


通常スキル:

《身体強化》Lv5

《魔力操作》Lv6

《魔力強化》Lv4

《魔力感知》Lv3

《格闘術》Lv5

《短剣術》Lv3

《鎖術》Lv2

《投擲》Lv2

《再生》Lv8

《状態異常耐性》Lv4

《精神汚染耐性》Lv2

```


 レベルがひとつ上がっている。大きな変化ではない。だが、七環の魔物を倒した。風裂き地帯を見た。標準鑑定範囲外の何かを見た。その結果としては、妥当なのだろう。


 澪はステータスを閉じ、ベッドへ横になった。背中の傷が寝具に触れて少し痛む。痛みの奥に、青白い階段が残っている。風の裂け目の向こうにあった、二段だけの階段。透明な何かの視線。あれは何だったのか。なぜ七環に現れたのか。九環へ繋がるものなのか。それとも、もっと別の何かなのか。


 分からない。


 分からないから、見たい。


 けれど今日は、帰った。帰って地図を書いた。続きを見るために。


 澪は目を閉じる。足元から吹く風の音が、まだ耳の奥に残っている。空が裂ける銀の線。青白い階段。朱音の『帰って』という声。どれも消えない。


 次は、採る。


 そして、いつかあの階段の先を見る。


 そう思いながら、澪は浅い眠りへ落ちていった。



適正レベルエリアで戦闘を行わないと経験値やアイテムはドロップしないです。7人以上のパーティーの場合も経験値とアイテムの取得ができないです。

ただスキルレベルは何をしたかで変わるため、適正外エリアでも鍛錬可能です。


アイテムはパーティーが増えれば持ち帰り分も増えてお金がたまります。

そりゃパーティー組みますわ。

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