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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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第二話 九環

魔法の存在する異世界から、ダンジョンのある現代日本へ転生した少女、天瀬澪。戸籍上は探索者高校に通う一年生だが、本人は学校よりもダンジョンを優先し、ほとんど出席していない。


 両親を失い、探索者遺族年金で暮らす澪は、帰還札や装備代を稼ぐため、そして何よりも「死ぬほど美しいダンジョンの景色」を誰かに見せるため、探索者配信を始める。


 第一層《零れ空の庭》。普通の探索者なら第五環で第二層へ降りるところを、澪は正規攻略に不要な危険域、第六環へ足を踏み入れる。そこで変異種《硝子翼狼》と遭遇した澪は、防戦一方の死闘を強いられるが、戦闘の中で《再生》を一段深く成長させ、鎖鉤と短杭を使った異常な近接戦闘でこれを討伐する。


 戦いの果て、澪は空裂きの向こうに、割れた空が墓標のように積み重なる景色を見る。今の自分では届かない。行けば確実に死ぬ。それでも澪は、配信越しに呟いた。


「次は、あそこまで行く」


 その映像は探索者界隈で拡散され、澪の存在は一夜にして注目を集める。やがて彼女は、配信者名を変える。


 ――九環。


 誰も帰らない絶景を、ソロで見に行く少女の名が、静かに広まり始めていた。


 朝、天瀬澪のスマートフォンは、目覚ましより先に熱を持っていた。


 枕元に伏せていたはずの小さな板が、布団越しにも分かるほどじんわりと温かい。充電器に繋いで眠ったはずなのに、画面を点けるとバッテリーは八割を切っている。通知欄には赤い数字が重なり、探索者用配信アプリ、学校連絡、協会通知、朱音からのメッセージ、知らない相手からの申請、動画サイトの切り抜き通知まで、見慣れない文字列が何段にも積み上がっていた。


 澪はしばらく画面を見つめ、それから静かにスマートフォンを裏返した。


 情報が多すぎる。


 前の世界にも、戦場の翌朝に報告が山のように積まれることはあった。死者の数、負傷者の数、失った武器、消えた魔術師、奪った物資、敵軍の動き、次に燃やす村、次に守る砦。それらはどれも、見落とせば誰かが死ぬ情報だった。だから読んだ。覚えた。必要なら怒鳴った。だが、いま画面の中で増え続けている通知は、澪からすると重要度が分からない。


『昨日の子?』

『再生速度おかしくない?』

『チャンネル名、九環になってる』

『いや名前が物騒』

『誰か学校止めろ』

『帰還札代ほしいですは草』

『でも映像めちゃくちゃ綺麗だった』

『あの奥、第一層だよな?』

『第一層であんな場所あるの初めて見た』

『札幌入口でも同じ場所に行ける?』

『いや入口エリア違うから無理』

『同じ層だけど横断できないやつだろ』

『あの空裂き、既存地図に載ってなくね?』


 澪は最後の方だけ少し目を細めた。札幌入口、東京入口、北米入口、欧州入口。地上には国ごと、地域ごとにいくつものダンジョン入口が存在する。けれどそれぞれが完全に別の迷宮へ繋がっているわけではない。入口は違っても、内部は同じ巨大な異界へ続いている。日本から入っても第一層は《零れ空の庭》で、海外から入っても第一層は《零れ空の庭》だ。ただし、降り立つ場所は違う。入口ごとに初期到達エリアがあり、それらは世界壁や境界霧、位相断層と呼ばれる不可視の隔たりで分断されている。ダンジョンを通って海外旅行、という都合のいい抜け道は存在しない。


 同じ海に別々の港がある。ただし、港同士を歩いて渡ることはできない。探索者学校の教本には、そう書かれていた。


 澪は布団の中でゆっくり身体を起こした。腹の奥に、昨日の硝子翼狼に裂かれた熱がまだ残っている。表面は塞がった。肩も動く。左手の指も戻っている。だが完全ではない。握れば関節の奥で細い痛みが走り、深く息を吸えば肋骨の内側が引きつる。治っている。けれど、今日もう一度あの狼と同じ戦いをすれば、途中で再生が追いつかなくなる可能性があった。


 澪はベッドの上で膝を抱え、意識を内側へ沈めた。


 探索者になった者は、自分の状態をある程度確認できる。外から見えるものではない。協会端末に勝手に送られるわけでも、配信に表示されるわけでもない。自分の身体の内側に視線を落とすような感覚だ。慣れていない探索者は数字として見る。慣れた者は、傷の場所や魔力の減り、身体の重さでだいたい把握する。澪はその中間だった。前の世界で魔力を扱っていたせいか、表示される文字と、肉体感覚の両方が重なる。


 澪は、そっと自分の状態を開いた。


【天瀬 澪】


探索者Lv:43


種族:人間

存在進化:未到達


職業:探索者

所属:探索者高校一年


状態:

・軽度疲労

・魔力消耗:中

・筋繊維損傷:回復中

・肋骨損傷:回復中

・神経焼灼痕:軽微

・精神汚染:微弱


ユニークスキル:

《適応》


通常スキル:

《身体強化》Lv5

《魔力操作》Lv6

《魔力強化》Lv4

《魔力感知》Lv3

《格闘術》Lv5

《短剣術》Lv3

《鎖術》Lv2

《投擲》Lv2

《再生》Lv8

《状態異常耐性》Lv4

《精神汚染耐性》Lv2


 昨日、確かに《再生》はLv8に到達した。表示を見なくても分かる。傷の戻り方が違う。今までは、裂けた皮膚が塞がり、出血が止まり、骨がゆっくり繋がっていく感覚だった。だが今は、失った肉が内側から押し戻される。切れた筋繊維が、熱を持ちながら無理やり編み直される。欠けた場所を、身体が戦闘中に取り戻そうとする。


 便利になった、というより、無茶をするための猶予が増えた感覚だった。


 ただし、代償も重い。再生が速くなったぶん、魔力の減りが明らかに大きい。身体が熱を欲しがっている。腹の底が空っぽに近い。昨日の戦闘中にあと数分長引いていれば、再生より先に魔力が尽きていたかもしれない。


 それでも、昨日よりは死ににくい。


 澪はその事実だけを確認し、ステータスを閉じた。


 スマートフォンがまた震える。今度は七瀬朱音からだった。


『起きた?』

『今日は学校来るって言ったよね』

『午前だけとか午後だけとか無し』

『家に迎えに行くから』

『逃げたら怒る』


 澪は数秒考えた。


『起きた』


 すぐに返事が来る。


『準備して』


『傷が痛い』


『じゃあなおさら学校で保健室行きなさい』


『ダンジョン行かない』


『当たり前!』


『今日はたぶん』


『たぶんを消して』


 澪は返事をせず、布団から出た。床に足を下ろす。昨日よりは軽い。だが、右膝に微かな震えが残っていた。青雷兎の雷と硝子翼狼の衝撃が、筋肉の奥でまだ喧嘩している。澪は足首を回しながら、机の上を見た。昨夜広げたままの簡易地図。第一層第六環、硝子翼狼の遭遇地点、空裂きの推定位置。その横に、眠る前に書いた文字。


 配信概要欄、書く。


 澪はそれを見て、小さく眉を寄せた。面倒だ。だが朱音に言われた。配信を続けるなら最低限の説明が要るらしい。何を説明すればいいのかは分からない。澪は椅子に座り、スマートフォンを手に取った。配信アプリを開く。昨日のアーカイブは、協会によって一部警告表示がついていたが、非公開にはなっていなかった。視聴数は澪の予想よりずっと多い。フォロワーも増えている。収益化条件というものに近づいているらしい。帰還札代に近づくなら悪くない。


 チャンネル名は、昨夜変更したばかりだった。


 九環。


 未帰還領域を目指す、という意味を込めたわけではない。そこまで丁寧に考えたわけでもない。ただ、コメント欄で何度もそう呼ばれ、妙に馴染んだ。自分の本名よりも、配信者名としてはずっと分かりやすい。危ない場所を映す人間。帰ってこない場所を見に行こうとする人間。そういう意味なら、たぶん合っている。


 概要欄には短く書いた。


『ダンジョンの空を見に行きます。戦闘多め。無言多め。危ないので真似しないでください。』


 しばらく考え、最後に一行足す。


『帰還札代がほしいです。』


 正直すぎる気もしたが、嘘ではないのでそのまま保存した。


 チャイムが鳴った。時間ぴったりだった。澪が玄関を開けると、朱音が立っていた。今日は昨日よりも表情が険しい。制服姿で、片手に紙袋、もう片手にスマートフォン。画面には、澪のチャンネルページが開かれていた。


 朱音は最初に澪の顔を見て、次に腹のあたりを見て、最後に左手を見た。怒っているのに、目の奥だけは安心したように揺れる。指が戻っていることを確認したのだろう。澪はそれに気づいたが、口には出さなかった。


「名前、変えたんだ」


 朱音の声は、責めるというより確認に近かった。けれど、眉間の皺だけは深い。澪が「うん」と頷くと、朱音はスマートフォンの画面をこちらへ向けた。そこに表示された「九環」の二文字を見せつけるようにしながら、唇を小さく尖らせる。


「よりによって、その名前にする? 分かりやすいのは分かるけど、協会の人が見たら頭抱えるよ。昨日あれだけ怒られて、今日これって、挑発してるみたいに見える」


「挑発してない」


 澪が短く返すと、朱音はすぐには言い返さなかった。画面の中の二文字を見つめたまま、怒った顔の奥で、認めたくないものを認めるように目を伏せる。


「……似合ってるのが嫌なんだけど」


「嫌なの?」


「嫌。危なっかしいから。でも、似合ってる。そこが余計に嫌」


 それを言う時の朱音の声には、怒りだけではなく、諦めに似た苦さが混じっていた。澪は返事に迷った末、短く頷く。朱音はため息をつき、紙袋を澪に押しつけた。中には温かいサンドイッチと、野菜ジュースが入っている。


「食べながら行くよ。久遠先生、朝から待ってるから」


 澪が「行きたくない」と小さく言うと、朱音は玄関の前に立ったまま、逃げ道を塞ぐように紙袋をさらに押しつけてきた。怒っているはずなのに、視線は澪の腹のあたりへ落ちている。昨日の傷が痛むのではないかと、先に心配している目だった。


「行くの。傷が痛いなら、なおさら保健室にも行ける。ちょうどいいでしょ」


「朱音先輩、強い」


「昨日の配信見た後で、あんたに甘くできる人間いると思う?」


 朱音はそう言ってから、ふっと視線を落とした。怒鳴るでもなく、責めるでもなく、澪の肩口へ手を伸ばしかけ、途中で止める。触れれば痛いと思ったのかもしれない。


「本当に、朝起きられるくらいには戻ってるんだね」


「うん」


「……それも、それで怖いんだけど」


 小さくこぼされた言葉は、澪に向けたというより、朱音自身の中から漏れたもののようだった。澪は返答を探したが、適切な言葉が見つからなかった。治るから大丈夫、と言えばたぶん怒られる。治らなければ死んでいた、と言えばもっと怒られる。だから黙って靴を履いた。


 探索者高校へ向かう道は、いつもより視線が多かった。駅前の大型ビジョンには探索者協会の安全啓発広告が流れている。第六環以降の単独探索は危険です。帰還札を過信しないでください。画面の中の文言は昨日までと同じはずなのに、澪には少しだけ自分に向けられているように見えた。朱音はその広告を見て、横目で澪を見る。言いたいことは山ほどありそうだったが、口には出さなかった。代わりに歩く速度を少し落とす。澪の右足がまだわずかに遅れていることに気づいている。


 澪はサンドイッチを食べながら歩いた。卵の味がする。甘い。柔らかい。血の味がしない食べ物は、時々妙に現実感が薄い。


「昨日のアーカイブ、見返した?」


 朱音が前を向いたまま尋ねた。声は落ち着いていたが、肩に少し力が入っている。澪が「少し」と返すと、朱音はすぐに「自分で見てどう思った?」と続けた。澪は記憶の中の映像を思い返し、最初に浮かんだことをそのまま口にする。


「カメラ傾いてた」


「そこじゃない」


「血で見づらい」


「そこでもない」


 朱音は額に手を当てた。怒っているというより、どう伝えればいいか迷っている顔だった。駅へ向かう人の流れの中で、朱音は一度足を止め、澪を正面から見た。


「あのね、澪。私はあんたが強いのは分かってる。普通じゃないのも、昨日で嫌というほど分かった。でも、見てる側は違うの。腕が裂けて、お腹を抉られて、それでも平気そうに立ち上がるところを見せられたら、何が起きてるか分からない。怖いんだよ。あんたが死ぬかもって怖いし、あんたがそれを普通みたいに受け入れてるのも怖い」


 朱音の目はまっすぐだった。怒っている時の鋭さではなく、傷に触れる前の慎重さがあった。澪はその視線を受けて、しばらく黙った。前の世界なら、怖いなら見るな、と言ったかもしれない。けれど朱音は、見たくないから怒っているのではない。見てしまったから、心配している。そういう感情の扱いは、澪にはまだ難しい。


「普通ではないと思う」


 澪がそう言うと、朱音は少しだけ表情を緩めた。やっと通じた、と言いたげな顔だった。だが、澪が続けて「でも、必要」と言うと、その表情はまた困ったように歪む。


「そこなんだよね……」


 朱音は小さくため息をつき、歩き出した。今度は少しだけゆっくりと。澪はその横を歩く。二人の間に少しだけ沈黙が落ちたが、居心地の悪いものではなかった。


 探索者高校は、ダンジョン協会の支部に隣接する形で建っている。校舎は普通の高校に近いが、敷地の奥には訓練場、簡易治療棟、模擬戦フィールド、素材処理室がある。校舎の正面玄関には、今日も大きな掲示板が出ていた。今週の実技予定、第一層第五環到達者の名前、素材処理講習の案内、帰還札登録更新の注意。そして、その横には世界ダンジョン基礎構造の図が貼られている。


 全六層。各層九環。第五環に正規下降路。第六環以降は外縁危険域。第八環は禁足域。第九環は未帰還領域。


 図では分かりやすく同心円で描かれているが、実際のダンジョンはそんな単純ではない。第一層《零れ空の庭》だけでも、地上の都市がいくつも入るほど広い。環はただの円ではなく、地形、魔力濃度、魔物の生息域、空間歪曲の境界によって区分されている。中心に近い第一環は安全で、第五環に正規下降路がある。そこから外へ行くほど、世界の形がずれていく。


 普通の探索者は、第五環で次層へ降りる。だから第六環以降は、正規攻略には必要ない場所だ。必要ない。危ない。割に合わない。だから情報が少ない。


 澪は、その空白が好きだった。


 制服姿の生徒たちが行き交い、その多くが澪を見た瞬間に視線を止めた。


「あれ、昨日の」

「配信者名、九環になってた」

「本物?」

「再生やばかった子?」

「一年だよね?」

「学校来るんだ……」


 声は小さい。だが、澪の耳には届く。好奇心、警戒、少しの恐怖。殺気はない。だから無視できる。朱音は隣で、周囲を一度だけ睨むように見回した。その視線に気づいた生徒たちは、慌てて目を逸らす。朱音は澪よりずっと普通の探索者に見えるのに、こういう時は妙に圧がある。


「朱音先輩」


「なに」


「守ってる?」


 澪がそう尋ねると、朱音は一瞬だけ言葉に詰まった。何かを否定しようとしたのか、視線が少し泳ぐ。けれど結局、彼女は澪の肩越しに周囲を見たまま、少し拗ねたように言った。


「あんたが変な目で見られるの、嫌なだけ」


「そう」


「そこで笑うところ」


「難しい」


 朱音は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。怒りの混じらない笑いだった。澪はその横顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 教室に入ると、空気が一瞬止まった。澪の席は窓際の後ろから二番目だった。机の上には、昨日配られたらしいプリントが何枚か積まれている。隣の席の女子生徒が、澪を見るなり背筋を伸ばした。名前はたしか、三枝凛。何度か話しかけられたことがある。いつも少し緊張しているが、悪意はない。


「あ、あの、天瀬さん……昨日の配信、見たよ」


 凛の声は、驚きと心配の間で揺れていた。笑おうとしているのに、目が澪の手や腹のあたりを何度も確認している。澪が「うん」と返すと、凛は困ったように指先を握った。


「すごかった、ね。……すごかったって言っていいのか分からないけど。途中、本当に駄目かと思って」


「生きてる」


「うん。それは見れば分かるんだけど……」


 凛はそこで言葉を探すように視線を落とした。机の端を指でなぞり、少し迷ってから、顔を上げる。


「天瀬さんって、怖くないの? その、怪我とか。死ぬかも、とか」


 澪は少し考えた。怖くないわけではない。硝子翼狼の牙が喉へ来た時、身体は確かに死を理解していた。心臓は跳ねた。呼吸は乱れた。だが、恐怖より先に、どこをずらせば喉を外せるかを考えていた。


「怖いけど、先に考える」


「考える?」


「どうしたら死なないか」


 凛は目を丸くした。理解したというより、理解できないものを見た顔だった。けれど、馬鹿にするような色はない。ただ、澪の言葉を自分の中でどう置けばいいのか分からないのだろう。


「そっか……。えっと、今日、保健室行った方がいいと思う」


「みんなそれ言う」


「みんな言うくらいには必要ってことだよ」


 凛が真面目な顔でそう言ったので、澪は少しだけ頷いた。


 授業が始まる前に、教室の扉が開いた。久遠玲司が入ってくる。出席簿を教卓へ置く音だけで、教室のざわめきが消えた。久遠はいつもの怖い顔で教室を見渡し、最後に澪のところで視線を止める。


「天瀬。授業後、職員室」


 久遠の声に、澪は素直に「はい」と返した。久遠はそこで終わらせず、教卓に手を置いたまま、淡々と続ける。


「授業中に寝るな。配信を開くな。ダンジョン地図を広げるな」


 最後の一つにだけ、澪の返事がわずかに遅れた。周囲の生徒が小さく笑う。久遠は笑わない。ただ、澪の机の横に積まれたプリントを一瞥し、低い声で続けた。


「それと、保健室にも行け。自分で治っていると思っている時ほど、内部損傷を見落とす」


「はい」


「返事だけは素直だな」


「怒られるので」


「理解しているなら行動を改めろ」


 教室にまた小さな笑いが起きる。久遠はそこで話を切り、授業を始めた。


 今日の講義は、第一層第五環以降の危険性についてだった。昨日の配信を教材にするような真似はしなかったが、明らかに意識している。黒板には、第一層の環構造が大きく書かれていた。


第一層《零れ空の庭》 適正目安


一環 門前環 Lv1〜5

二環 浅環  Lv4〜10

三環 狩環  Lv8〜18

四環 境界環 Lv16〜28

五環 正道環 Lv25〜38

六環 外縁環 Lv38〜50

七環 異象環 Lv48〜62

八環 禁足環 Lv60〜78

九環 淵環  Lv75〜95


「この表は絶対値ではない。探索者のスキル構成、パーティー構成、装備、帰還札の等級、地形相性によって上下する。だが目安としては覚えておけ」


 久遠はそう言いながら、五環の横に赤い線を引いた。


「普通の探索者は五環で第二層へ降りる。第一層五環は、第一層の終点ではなく、正規ルート上の通過点だ。六環以降は、正規攻略には不要な危険域になる。ここを勘違いする者が毎年出る。第一層という名前だけを見て、六環や七環へ入る。そういう者から死ぬ」


 教室の視線が、ちらちらと澪へ集まる。澪は黒板を見ていた。自分のレベルは43。六環は適正内。七環は格上。八環は危険。九環は、まだ遠い。表にすると分かりやすい。昨日の硝子翼狼は七環寄りの変異種だった。第六環で遭遇したのは、運が悪かったとも言える。だが、運が悪い場所へ行かなければ、身体は変わらない。


 久遠は続ける。第六環以降では魔物の強さが跳ね上がること。帰還札の成功率が下がること。変異種と遭遇した場合は、戦闘ではなく撤退を優先すべきこと。単独探索では、回復、索敵、盾、遠距離火力、撤退補助をすべて自分で補わなければならないこと。


 澪は眠らず聞いていた。内容は退屈ではなかった。むしろ、普通の探索者が何を恐れているのかがよく分かる。パーティーは安全だ。盾が受け、槍が止め、魔法が削り、斥候が罠を読む。回復役が傷を塞ぐ。ドロップ権は人数分あるため、収入も安定する。探索者として生きていくなら、たぶん正しい。だが、その正しさの中では伸びないものがある。傷を誰かが塞いでくれるなら、《再生》は伸びにくい。毒を誰かが解除してくれるなら、《状態異常耐性》は深まらない。恐怖を支援スキルで抑えてもらうなら、《精神汚染耐性》は遠い。ソロは愚かだ。けれど、愚かでなければ届かない成長がある。


 授業が終わると、澪は職員室へ連れて行かれた。朱音は廊下の向こうで待っていたが、久遠に目で制され、渋々引き下がった。職員室の一角、面談用の小部屋に通される。久遠は向かいに座り、昨日の配信アーカイブをタブレットに表示した。澪の戦闘、硝子翼狼、再生の変化、空裂きの先に映った空葬原。


 久遠はすぐには話し始めなかった。映像を数秒だけ再生し、澪が狼の牙を肩で受けている場面で止める。画面の中の澪は血まみれで、見ている側からすればどう見ても限界だった。久遠はタブレットから目を離し、静かに澪を見る。怒鳴る前の顔ではない。何かを測る顔だった。


「昨日の映像は、協会の深環研究部に送られた」


「そうですか」


「興味なさそうだな」


「見たのは私なので」


「映像に価値がある。第一層の外縁深部と思われる景色が、これだけはっきり残った例は少ない」


「行けば見れます」


「普通は行けない」


「そうですね」


 久遠はタブレットを伏せた。指先で机を一度だけ叩く。怒りを抑えているというより、言葉を選んでいるようだった。


「天瀬。お前は、あそこへ行く気だな」


 澪が「はい」と答えると、久遠はすぐには叱らなかった。少しだけ椅子に背を預け、彼女の目を見た。


「なぜだ。見たいから、だけではないだろう」


「強くなれるから」


「他には」


 澪は少し考えた。帰還札代。配信。推しといつか話したいという俗っぽい願い。誰かが「綺麗」と言ったこと。理由はいくつかある。だが、久遠が聞いているのはたぶん、そういう表面ではない。澪は自分の中で一番近い言葉を探した。


「必要なものは、帰れる場所にはあまり落ちてないので」


 久遠の表情がわずかに変わった。怒りではない。嫌なものを思い出した顔だった。


「……その考え方は危険だ」


「はい」


「分かっていてやるのか」


「はい」


「止めても行くな」


 澪が迷わず頷くと、久遠は深く息を吐いた。澪は怒鳴られると思った。だが、久遠は怒鳴らなかった。机の上で組んだ手に力が入り、関節が少し白くなる。元探索者の手だった。指に古い傷がある。剣ではなく、たぶん槍か銃か、あるいは盾を扱っていた手だ。


「俺は昔、そういう探索者を何人も見た。綺麗な場所を見たい、誰も行っていない場所へ行きたい、強くなりたい、死地でしか得られないものがある。そう言って深く潜った連中だ。大半は戻らなかった。戻った者も、どこか壊れていた」


 澪は久遠の声の奥に、少しだけ湿ったものを感じた。怒りではなく、後悔に近い。前の世界で何度も聞いた音だ。助けられなかった者の名を、口に出さずに飲み込む時の声。


「先生は、戻った側ですか」


 澪が尋ねると、久遠は目を細めた。質問が少し踏み込みすぎたのかもしれない。だが久遠は、拒まなかった。


「戻っただけだ」


 その短い言葉で、澪は少しだけ理解した。戻ることと、生きて帰ることは違う。肉体が帰っても、何かを向こうへ置いてくる者はいる。久遠はそういうものを見たのだろう。あるいは、自分がそうなのかもしれない。


 久遠は少し間を置いてから、声を教師のものへ戻した。


「行くなとは言わない。言っても無駄だろうからな。ただし、条件をつける。配信するなら、危険区域への突入予定を事前に学校と協会へ通知しろ。帰還札の所持数を申告しろ。最低限、撤退経路を提出しろ」


「面倒です」


「面倒でもやれ。やらないなら、探索者高校として保護者不在未成年の危険探索として協会に制限申請を出す」


「それは困る」


「ならやれ」


 澪は少し考えた。予定を出すと止められる可能性がある。だが完全に無視すると制限される。どちらが効率的か。事前通知の内容を最低限にし、実際の行動範囲を少しぼかせばよいのではないか。そう考えた瞬間、久遠が目を細めた。


「嘘を書くなよ」


「……はい」


「今、嘘を書く気だった顔をした」


「顔に出ました?」


「出た。お前は無表情だが、悪いことを考える時だけ少し目が動く」


 澪は自分の頬に触れた。そんなに分かりやすいだろうか。久遠は疲れたように眉間を揉み、最後に一枚の紙を差し出した。第一層第六環以降の探索届。帰還札所持欄、配信有無、同行者、撤退予定ルート、探索目的。澪はそれを受け取り、鞄に入れた。面倒だが、必要経費のようなものだ。


「それと、保健室へ行け」


「さっき聞きました」


「お前は一度言われただけでは、重要度を勝手に下げる」


「……はい」


 久遠の観察は少し面倒だった。


 保健室では、養護教諭が澪の検査をした。通常の体温、血圧、魔力循環、外傷確認、簡易状態鑑定。ステータスそのものは見られない。だが、身体の損傷や魔力の乱れはある程度分かる。養護教諭は検査結果を見て、呆れたように眼鏡を押し上げた。


「あなた、本当に昨日の今日で登校したの?」


「朱音先輩が来たので」


「ああ、朱音さんね。彼女には後でお礼を言っておきなさい。普通なら今日は病院よ」


「動けます」


「動けることと、治っていることは違います。そこを混同する探索者は早死にします」


 養護教諭の声は穏やかだったが、妙に刺さる。怒鳴られるよりも逃げ場がない。澪はベッドに座ったまま、素直に頷いた。


「再生スキルが高いのは分かるわ。でも、高い再生は万能じゃない。あなたの場合、回復速度に身体の栄養と魔力が追いついていない。今日は激しい運動禁止。魔力消費も控えめ。放課後の訓練も本当は駄目」


「本当は?」


「朱音さんが見張るなら、軽い確認だけ許可します」


「朱音先輩、強い」


「強いわよ。あなたを止められるかどうかは別として、少なくともあなたが倒れたら担いでくれるでしょう」


 養護教諭はそう言って、栄養剤と魔力補助ゼリーを渡した。澪はそれを受け取り、インベントリには入れず鞄へ入れる。食べ物をインベントリに入れると、味が少し変わる気がする。実際に変わるのかどうかは知らないが、澪はあまり好きではなかった。


 昼休み、朱音に連れられて食堂へ行くと、昨日の配信の話題はさらに広がっていた。澪がトレーを持って席に座るだけで、周囲の視線が集まる。朱音はそれをわざと気づかないふりで受け流し、澪の向かいに座った。怒鳴って追い払うのではなく、澪が普通に食事をする場を作ろうとしている。そういう気遣いなのだろうと、澪は何となく理解した。


 澪はカレーを食べる。甘口だった。悪くない。


「久遠先生、何て?」


 朱音が箸を持ったまま尋ねる。表情は平静に見えるが、目だけは心配そうだった。昨日から何度も怒り、何度も心配し、疲れているはずなのに、まだ澪の返事を待っている。


「探索届出せって」


 澪がそう答えると、朱音は少しだけ息を吐いた。肩の力が抜ける。探索禁止や協会制限ではなかったことに、ひとまず安心したのだろう。


「当然。むしろそれで済んでよかったと思いなさい」


「面倒」


「当然」


「朱音先輩、今日は当然ばかり」


「澪が非常識ばかりするからね」


 朱音は定食の味噌汁を飲み、スマートフォンを取り出した。澪のチャンネルページを開く。少し身を乗り出し、画面を見せながら言う。その顔は怒っているというより、放っておけない後輩の宿題を見ている先輩の顔だった。


「概要欄、見たよ。『帰還札代がほしいです』は正直すぎない?」


「嘘じゃない」


「嘘じゃないけど、もう少し言い方があるでしょ。見た人がびっくりするよ」


「もうびっくりしてる」


「追加でびっくりさせなくていいの。ここ、収益は装備と帰還札と探索準備費に使います、くらいでいいの。あと、危険区域の映像があります、真似しないでください。これは絶対入れて」


 朱音はそう言いながら、澪のスマートフォンを借りて概要欄を整えた。言葉が増えていく。危険区域、探索準備費、未成年探索者、模倣禁止、協会ガイドライン。澪には少し堅苦しく見えたが、朱音は満足げに頷いた。


「これで少しはまとも」


「ありがとう」


「どういたしまして。……本当は、こんな手伝いするより、配信やめなさいって言うべきなんだろうけどね」


 朱音の声が少しだけ落ちた。澪はカレーのスプーンを止める。朱音は苦笑いを浮かべたが、その表情は明るくなりきらなかった。


「でも、やめないでしょ」


「うん」


「なら、せめて変なところで損しないようにする。炎上とか、規約違反とか、危険配信扱いで全部消されるとか。そういうので止まったら、澪は別の方法で潜りそうだし」


「たぶん」


「そこは否定してほしかったなあ」


 朱音は困ったように笑った。澪は、その笑い方が少しだけ好きだった。怒りながらも、完全には突き放さない。心配しながらも、澪が見たいものを頭から否定しない。その距離感は、前の世界にはあまりなかった。


 その時、食堂の入口が少し騒がしくなった。数人の生徒が振り返る。澪もつられて視線を向けた。そこには、朱音と同じ二年の生徒たちが立っていた。探索者用の簡易ジャケットを羽織った男子が一人、背の高い女子が一人、小柄な眼鏡の生徒が一人、そして大きめのスポーツバッグを肩にかけた女子が一人。朱音の普段の訓練相手だ。昨日一度だけ見た顔が混じっている。


「朱音、ここにいたんだ」


 背の高い女子が声をかけてきた。黒髪を短く切り、背筋がすっと伸びている。視線は強いが、乱暴ではない。槍を扱う人間の姿勢だった。彼女は朱音の隣に座る澪へ視線を移し、好奇心と警戒を半分ずつ混ぜた目で見る。


「午後の合同練、時間変わったって。……で、その子が噂の一年?」


 澪はカレーを食べる手を止めず、軽く頷いた。


「天瀬澪」


「知ってる。昨日、嫌でも流れてきたから。私は浅見遥。朱音と同じ班」


 遥は澪の左手を見て、少しだけ眉を動かした。昨日の映像を見た者なら、そこがどれほど壊れていたかを知っている。だが彼女はそれを大げさには言わなかった。代わりに、少しだけ感心したように息を吐く。


「戻るの早いね」


「うん」


「痛くないの?」


「痛い」


「それでカレー食べられるんだ」


「お腹空いた」


 遥は一瞬きょとんとして、それから噴き出すように笑った。朱音が横から眉を寄せる。


「笑いごとじゃないんだけど」


「ごめん。でも、思ったより普通に変な子だったから。朱音が朝からずっと怖い顔してたし、もっとこう、話しかけたら刺される感じかと思ってた」


 遥の後ろで、盾役らしい男子が苦笑した。小柄な眼鏡の生徒は、澪の左手と首筋を交互に見ている。観察が細かい。回復か鑑定寄りだろう。澪が視線を返すと、彼は慌てたように背筋を伸ばした。


「あ、えっと、二年の水瀬です。昨日の配信、見ました。……あの、失礼だったら申し訳ないんですけど、再生系スキル、高いですよね?」


 声は慎重だった。踏み込みすぎないように言葉を選んでいる。澪は少しだけ考えた。高いか低いかで言えば高い。だがレベルを言う気はない。


「たぶん」


「たぶんで済むものなんですか……?」


 水瀬が困ったように笑うと、朱音が横から「済まないから聞かれてるんでしょ」と小さく突っ込んだ。水瀬は気まずそうに眼鏡を直したが、その目は真剣だった。


「昨日の映像、途中で動きが変わってました。傷の塞がり方も。ログは本人にしか見えないので断言はできませんけど、戦闘中に何か上がったんじゃないかって、掲示板でも言われてます」


 澪は何も答えなかった。否定もしない。肯定もしない。水瀬はその沈黙をどう受け取ったのか、小さく頷くだけに留めた。詮索を続ける気はないらしい。その距離感は悪くなかった。


「今日、放課後に訓練場来る?」


 朱音が澪へ視線を戻す。さっきより少しだけ表情が柔らかい。朱音の周囲にいる者たちが、澪を怪物ではなく、面倒な後輩として扱おうとしているのを見て、少し安心したのかもしれない。


「ダンジョンは?」


「今日は駄目。訓練場なら許す。久遠先生も、軽い確認だけならって言ってたでしょ」


 澪が「軽い」と繰り返すと、朱音は疑わしそうに目を細めた。


「澪の軽いは信用しないから、私が見張る」


 澪は少し考えた。身体はまだ万全ではない。ダンジョンへ行けば効率は悪いかもしれない。硝子翼狼の変異核片の加工相談もしたい。訓練場で鎖の感覚を確認するなら悪くない。何より、久遠に探索届を出せと言われたばかりで今日また無断で六環へ行けば、面倒が増える。


「少しなら」


「よし。少しね。本当に少し」


 朱音が念を押すように言う。遥が隣で面白そうに笑った。


「朱音、完全に保護者じゃん」


「うるさい」


「でも助かる。昨日のあれ見た後だと、誰かが見張ってないと本当にまた潜りそうだし」


「潜るよ」


 澪が何気なく言うと、朱音の声が食堂に響いた。


「今日は駄目!」


 周囲の生徒がまたこちらを見る。澪はカレーを食べ終え、静かに水を飲む。甘口カレーは悪くなかった。食堂の騒がしさも、昨日の第六環の風に比べればずいぶん穏やかだった。


 放課後、澪は訓練場の片隅で鉤鎖を振っていた。協会併設の訓練場は広く、床には衝撃吸収術式が組み込まれている。壁には模擬魔物用の的や、可動式の障害物、魔法防壁の発生装置が並ぶ。ダンジョンほど美しくはない。空も零れていない。風も足元から吹かない。だが、身体の確認には使える。


 昨日から、鎖の感覚が変わっていた。以前は、鉤鎖はあくまで道具だった。投げる。引く。絡める。刺す。だが今は、張りの先にあるものが少し分かる。鎖の先端が空気を切る角度、鉤が的に触れる前の重さ、戻す時に手首へかかる負荷。スキルとして《鎖術》が形になったのだろう。自分の内側を見れば、確かに名前がある。だが、それを外へ出す必要はない。外から見れば、昨日より扱いが上手くなった、というだけだ。


 朱音は少し離れたところで槍を持っていた。模擬戦用の安全槍だが、構えは綺麗だった。足運びに無駄が少ない。朱音は普段の柔らかさとは違い、槍を持つと顔つきが少し変わる。眉が下がらなくなり、目の焦点が相手の胸から足元までをまとめて見る。誰かを守るために距離を作る槍だ。敵を殺すために前へ出る澪の動きとは違う。


「軽く合わせる?」


 朱音はそう言いながら、少し心配そうに澪の腹を見る。


「本当に軽くだからね。怪我してるんだから」


「分かった」


「その顔、分かってない」


「顔に出る?」


「出てる。さっき久遠先生にも言われたでしょ」


 澪は少しだけ不満だった。自分は無表情な方だと思っていたのに、周囲は思ったより読んでくる。朱音は苦笑しながら槍を構えた。その笑みはすぐに消える。訓練用の空気へ切り替わったのだろう。


 開始の合図はなかった。朱音が一歩踏み込む。槍の穂先が真っ直ぐ伸びる。速い。だが硝子翼狼よりは遅い。澪は身体を横へ滑らせ、鉤鎖を槍の柄へ絡めようとした。朱音はそれを読んでいた。手元を柔らかく回し、鎖を滑らせる。穂先が澪の肩へ向く。


 上手い。


 澪は少し目を細めた。朱音は優しい。面倒見がいい。よく怒る。だが槍を持つと、優しさを前に出さない。間合いを作るのが上手い。相手を近づけさせない。自分の後ろに誰かがいることを前提にした槍だ。澪の戦い方とは違う。澪は止めない。掴んで潜って壊す。朱音は近づけさせず、仲間の場所を守る。


 穂先が頬を掠める寸前、澪はわざと半歩踏み込んだ。槍の内側へ入る。朱音の目が細くなる。柄が横に振られる。澪はそれを左腕で受けようとして、朱音が即座に槍を止めた。


「左腕!」


 朱音の声が鋭く飛ぶ。澪が「治ってる」と返す前に、朱音は槍を下ろし、数歩で距離を詰めてきた。怒っているのに、その手つきは慎重だった。左腕を掴むのではなく、触れていい場所を探すように手前で止める。


「治りかけ。そういうのを治ってるって言わないの」


「惜しかった」


「惜しくない!」


 模擬戦はそこで止まった。朱音は本気で怒っていた。頬が少し赤く、目尻に疲れが滲んでいる。昨日から何度同じ心配をしているのか、自分でも嫌になっているのかもしれない。それでも止める。澪はその表情を見て、素直に鎖を下ろした。


「ごめん」


 朱音は一瞬、驚いたように目を開いた。それから、怒った顔のまま少しだけ視線を逸らす。


「……謝れるなら、最初からやらないで」


「それは難しい」


「知ってる」


 朱音はそう言って、槍の石突きを床に軽く置いた。怒りを収めようとしているのが分かる。澪は左手を開閉し、痛みの具合を確かめた。受けていれば、たぶん筋肉がまた裂けていた。今はまだ、そこまで壊す意味は薄い。


 訓練場の端では、朱音の班の面々が二人の様子を見ていた。盾役の男子が、ぽつりと言う。


「朱音が止めなかったら、今の入ってた?」


 水瀬が眼鏡を押し上げ、少し考える。


「どっちも入ってたと思います。朱音先輩の柄打ちも、天瀬さんの鎖も。けど、天瀬さんは受けても動く前提で踏み込んでました」


「怪我人の動きじゃないな」


「怪我人の動きではありますよ。怪我を計算に入れているだけで」


 その言葉に、澪は少しだけそちらを見る。水瀬と目が合った。彼は気まずそうに視線を逸らしかけたが、逃げずに軽く頭を下げる。観察は正しい。怪我をしていないように動くのではない。怪我をしたまま動く。壊れた場所を使わないのではなく、壊れた場所の壊れ方を計算に入れる。それが澪の戦い方だった。


 訓練後、澪は素材処理室へ行った。目的は硝子翼狼の変異核片だ。学校の設備で詳細鑑定まではできないが、簡易加工の相談はできる。担当の教師は、核片を見るなり眉をひそめた。


「これをどこで」


「拾いました」


「昨日の変異種か」


「はい」


「売れば正規帰還札が二枚は買えるぞ」


「使います」


「だろうな」


 教師は諦めたように笑い、核片を光に透かした。青白い結晶の内側で、風が小さく渦を巻いている。その光を見ていると、昨日の硝子翼狼の速度が脳裏に戻る。あの踏み込み。翼片が風を切る音。牙が肩に食い込んだ感覚。澪の身体は、痛みと一緒に敵の性質を覚えていた。


「鉤鎖に組み込むなら、鎖全体ではなく鉤刃の根元だな。引き戻しの初速を上げるか、投擲時の軌道補正に使える。ただし、今の鎖だと素材負けする。先に鎖そのものを替えろ」


「高い?」


「高い」


「どのくらい?」


 教師が提示した金額を見て、澪は無言になった。高位帰還札ほどではないが、今の口座残高では無理だった。配信収益が入ってもすぐには足りないかもしれない。教師はその顔を見て、少し面白そうに笑う。


「安く済ませるなら、第一層七環の風裂き地帯に出る風縒り鉄を取ってこい。普通は買う素材だが、取れるなら加工費だけで済む」


「七環」


 澪の目がわずかに動いた。


 教師はその変化に気づき、慌てたように手を振る。


「待て。今すぐ行けって意味じゃないぞ。風縒り鉄は七環でも風裂きが安定してる場所に出る。周辺には風刃系の魔物も多いし、昨日の身体で行く場所じゃない。普通は二年後半か、上級者の引率付きで狙う素材だ」


「でも、ある」


「あるかないかで言えばある。だが取れるかは別だ」


 澪は核片を見た。硝子翼狼の速さ。鎖の初速。第七環の風裂き。空裂きの向こうに見えた空葬原。必要なものが一本の線で繋がっていく感覚があった。行けば危ない。今すぐでは無理。だが、次の準備としてはちょうどいい。


 教師は澪の顔を見て、やや低い声で言った。


「天瀬。素材を欲しがるなとは言わない。探索者は皆そうだ。ただ、欲しい素材がある場所と、今行ける場所は違う。そこを間違えるな」


「はい」


「その返事、信用していいのか?」


「たぶん」


「信用できないやつだな」


 教師は苦笑しながら、変異核片を保護ケースに戻した。


「これは学校の保管庫に預けておけ。家に置くには少し強い。標準鑑定では低危険表示でも、変異種の核片は寝ている間に魔力を吸うことがある」


「預けるの嫌」


「なくさない。勝手に売らない。加工の時は呼ぶ。それでどうだ」


 澪は少し考えた。家に置いておきたい気持ちはある。だが、寝ている間に魔力を吸われると再生が遅れる。今は回復を優先したい。渋々頷くと、教師は安心したように笑った。


 その日の夕方、澪は朱音と一緒に校門を出た。空は薄く赤く、ビルの窓に雲が映っている。地上の空は遠い。足元に沈まない。踏んでも割れない。だから少しだけ物足りない。けれど、昨日よりは嫌いではなかった。朱音が横にいて、手には魔力補助ゼリーと探索届があり、鞄の中には加工待ちの予定が増えている。面倒は多い。だが、次に行くための道は少し見えた。


「今日はちゃんと帰って寝ること」


 朱音が言う。疲れているはずなのに、声にはまだ気力があった。


「地図だけ見る」


「見るだけ?」


「たぶん」


「だから、そのたぶんを消して」


「見るだけ」


「よし」


 朱音は満足そうに頷いたが、その後すぐに疑わしそうな目になった。


「……本当に?」


「たぶん」


「澪」


「本当に」


 朱音はしばらく澪を見つめ、やがて小さく笑った。完全に信じてはいない。でも、今日はそれで許すという笑いだった。


 帰宅後、澪は机の上に探索届を広げた。第一層第六環以降の探索目的。撤退予定ルート。帰還札所持数。配信有無。同行者欄は空白。そこへ何を書くべきか、しばらくペン先を止める。嘘を書くな、と久遠に言われた。なら本当を書くしかない。


 探索目的。


 澪は少しだけ考え、丁寧とは言い難い字で書いた。


 七環入口周辺の地形確認。風裂き地帯の観測。風縒り鉄の採取可能性調査。


 その下に、もう一行だけ書き足す。


 空裂き発生地点の再確認。


 九環としての次の配信タイトルは、まだ決めていない。だが、行く場所は決まった。第一層第七環。風裂き地帯。そこに、鎖を変えるための素材がある。鎖が変われば、昨日届かなかった速度に少し近づく。少し近づけば、あの空裂きの向こうをもう少し長く見られる。


 澪は窓の外を見た。地上の夜が静かに降りている。ダンジョンの夜とは違う、何の牙もない夜。けれど瞼の裏には、割れた空の墓標がまだ残っている。透明な獣が、空を食べていた。美しい。怖い。遠い。だから、行く。


 机の端に置いたスマートフォンが震えた。配信アプリからの通知。チャンネル「九環」のフォロワー数が、また一つ増えていた。


 澪はそれを見て、小さく呟いた。


「次は、風の裂け目」


 誰に聞かせるでもない声は、夜の部屋に静かに落ちた。



第一層《零れ空の庭》



通常は各層の5環から次の階層に進みます。

澪の適正レベルは6環ですが、6環以降だと難易度が高すぎるため、トップ探索者でも近寄らないです。


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