第一話 零れ空の庭
天瀬澪が目を覚ました時、カーテンの隙間から差し込む光は、もう朝と呼ぶには遅すぎる色をしていた。薄い白ではなく、埃を含んだ午前の終わりの光。ベッドの脇に落ちた制服の袖が、だらしなく床へ伸びている。枕元ではスマートフォンが何度も震えていたが、澪はしばらく手を伸ばさなかった。仰向けのまま天井を見上げ、自分の呼吸の音と、隣室で古い冷蔵庫がかすかに唸る音を聞いていた。日本の部屋は静かすぎる。壁の向こうに獣の爪音も、夜明け前の警鐘も、砦の見張りが短く合図を交わす声もない。窓の外で車が通り、アパートの薄い壁がほんの少し震える。それだけだった。
前の世界なら、こんな時間まで眠っていれば誰かに蹴り起こされていた。寝過ごした者は朝食を逃し、見張りを怠った者は罰を受け、戦場で眠りの深い者はそのまま死んだ。だが、この世界では寝坊しても天井は落ちてこないし、魔物が窓を破って入ってくることもない。代わりに、スマートフォンという薄い板が、しつこく震え続ける。
澪はようやく腕を伸ばし、指先で画面を引き寄せた。通知欄には、七瀬朱音、という名前が並んでいる。未読が十件、通話が三回。最後のメッセージには、短い文章が怒りの速度で重なっていた。
『澪、今日一限から実技説明だよ』
『来てる?』
『来てないよね』
『先生が探してる』
『またダンジョン行くつもりじゃないでしょうね』
『既読つけたら返事』
『澪?』
『寝てる?』
『起きなさい』
『本当に行くならせめて連絡して』
澪は寝返りを打ち、画面を見つめたまましばらく考えた。返事に使えそうな言葉は、あまり浮かばなかった。前の世界では、用件がない連絡に返事をする習慣は薄かった。生きていれば次の集合で会う。死んでいれば返事はない。それだけで済んだ。けれどこの世界では、既読というものがあり、既読をつけたのに返事をしないと怒られる。便利なのか、面倒なのか。澪にはまだ判断がつかない。
『起きた』
それだけ打って送る。ほとんど間を置かずに返事が来た。
『学校は?』
『眠い』
『理由になってない』
『ダンジョン行く』
『もっと理由になってない!』
『昨日の続き』
『何の続き!?』
『六環の地図、まだ埋まってない』
『だからって学校休む理由にはならないからね!?』
『あと少しで七環の入口見つかる』
『そういう報告をさらっとしないで!』
澪は既読だけつけて会話を閉じた。直後に通話着信が表示されたので、無言で電源ボタンを押す。スマートフォンは静かになった。たぶん、あとで怒られる。けれど、あとで怒られるというのは、少なくとも帰ってくる予定があるということだった。澪はそう解釈して、ベッドから起き上がった。
床に足を下ろした瞬間、右膝から下に鈍い違和感が走る。昨日、第一層第五環の外れで遭遇した青雷兎の群れにやられた名残だった。表面はもう塞がっている。皮膚もほとんど戻っている。だが神経の奥に、まだ焦げたような鈍さが残っていた。澪は足首を回し、膝を曲げ、立ち上がって数歩だけ歩く。問題ない。走れる。跳べる。壊れるとしても、すぐではない。
洗面所の鏡に映る少女は、まだ寝ぼけた顔をしていた。黒に近い深藍の髪は肩のあたりで跳ね、白い頬には枕の跡が薄くついている。澪は自分の顔を見るたび、ほんの少しだけ奇妙な気分になる。前世の顔は、もう細部が薄れている。男だったこと、今より骨が太く、声が低く、傷跡の多い身体だったことは覚えている。けれど、鏡の中にいる少女の顔も、もう他人のものではなくなり始めていた。柔らかい輪郭、細い首、頼りない手首。最初は脆すぎると思った肉体は、ダンジョンに潜るたび、少しずつ澪の魂に合わせて変わってきている。肌は白いままだが、筋肉の奥には魔力の通り道が増えた。骨は細いが、以前より折れにくい。目は、たぶん少し暗くなった。朱音は最近、澪の目を見るたびに、何か言いたげに眉を寄せる。
澪は洗面台の冷たい水で顔を洗い、濡れた前髪を指で払った。意識を少し沈めると、自分の中にあるものが分かる。誰かに見えるものではない。配信に映るものでも、協会の端末に勝手に表示されるものでもない。探索者になった者だけが、自分の内側を覗くようにして把握できる、薄い感覚。レベル、身体の調子、保有しているスキル、状態異常の有無。文字として浮かぶ者もいれば、感覚で理解する者もいるらしい。澪の場合は、前の世界で魔力の流れを読んでいた癖のせいか、数字よりも節や熱のように感じる。
《再生》は、七つ目の節が限界近くまで膨らんでいる。あと一度、深く壊れれば次へ届く。そういう感覚があった。普通なら、壊れることを前提にしない。けれど澪は違う。壊れなければ伸びないものがある。傷つかなければ覚えないことがある。死に近づかなければ見えない景色がある。
台所には、朱音が昨日置いていったコンビニのおにぎりが二つあった。鮭と昆布。澪は昆布を手に取り、包装を開けながら探索者用の口座残高を確認した。少ない。探索者遺族年金は、贅沢をしなければ暮らせる程度には入る。だがダンジョンに潜るとなると話が変わる。武器、防具、薬品、登録料、素材の鑑定料、帰還札。特に帰還札が高い。低位帰還札なら学生でも買えるが、あんなものは第一環から第三環までの保険でしかない。第五環から先では成功率が落ちる。第八環では不安定。第九環では、成功例より失敗例の方がよく語られる。澪が行きたい場所では、金のかかった札でさえ命綱とは呼べない。せいぜい、切れかけた細い糸だ。
それでも、札は要る。装備も要る。鑑定料も馬鹿にならない。素材を持ち帰っても、標準鑑定で分かるのは名称、等級、簡易効果、売却目安、危険表示くらいだ。深い環の素材になるほど、隠し効果や存在進化素材としての真価は、協会の鑑定官か高位鑑定設備に回さなければ分からない。そして、それにも金がかかる。ダンジョンは美しい。だが、美しいものを見るには金がかかる。澪はそれを、この世界に来てから学んだ。
食べ終えた包装を丸めて捨て、澪はクローゼットを開けた。制服ではなく、黒い探索用インナーと、軽い防刃ジャケットを取り出す。防具としては頼りない。第一層の第五環までならともかく、第六環以降では気休めに近い。だが重い鎧を買う金はないし、そもそも澪の戦い方に合わない。避け、潜り、引っ掛け、密着し、壊れかけても動き続ける。必要なのは、すべてを受け止める鎧ではなく、壊れる寸前まで自由に動ける身体だった。
机の上には、昨夜手入れした鉤鎖が置かれている。探索者向けの中古品を、澪が自分で改造したものだった。片端には返しのついた鉤刃。もう片端には短い杭を固定できる環。鎖そのものは細めだが、魔力を通すと硬く締まり、しなやかに動く。剣ではない。槍でもない。華やかさはない。けれど澪はこれを気に入っていた。敵の肉に食い込ませられる。関節に掛けられる。地形に刺せる。自分の身体を引き寄せることも、敵の体勢を崩すこともできる。片腕が使えなくなっても歯で噛める。足に巻ける。再生途中の腕に縛りつけることもできる。便利だ。
剣は違う、と澪は思っている。前の世界でも剣を使う者は多かったし、澪も扱えないわけではない。けれど剣には剣の道がある。線があり、型があり、積み上げる時間があり、斬るための美しさがある。澪が欲しいのは、それではない。澪の戦いはもっと汚い。敵の足を引っ掛け、喉に短杭を打ち、腹の下へ潜り、折れた骨を魔力で固定して、なお前へ出る。いずれ本物の剣を極めた者と出会うとしても、その場所を奪う気はなかった。澪には澪の壊れ方がある。
短杭を太腿のホルダーへ収め、鉤鎖を腰へ巻き、リュックの中身を確認する。簡易治療薬、正規帰還札、一枚。携帯食、朱音が置いていった栄養ゼリー、予備の魔力電池、簡易水筒。インベントリには昨日の素材を売った残りの空きがある。インベントリは探索者の標準機能だが、無限ではない。容量を超えれば入らないし、生き物は収納できない。大きすぎるものも無理だ。呪物や深環素材は、入っても内部で妙な圧迫感を出す。深く潜るほど、便利な機能でさえ完全な安全ではなくなっていく。
準備を終えた頃、玄関のチャイムが鳴った。澪は数秒だけ無視したが、続けて二度、三度と鳴る。誰かは分かっている。ドアを開けると、そこには制服姿の七瀬朱音が立っていた。栗色の髪を後ろでまとめ、探索者高校のブレザーをきっちり着ている。澪より二つ上の先輩で、実技成績も良く、後輩の面倒見も良い。つまり、澪のような不登校気味の後輩を放っておけない人間だった。
「……澪」
「おはよう」
「もう昼前」
「じゃあ、こんにちは」
「そういうことじゃない」
朱音は深く息を吐き、澪の格好を上から下まで見た。制服ではなく探索装備。腰には鉤鎖。太腿には短杭を収めたホルダー。背中には小さなリュック。朱音の目元がぴくりと動く。
「今日、実技説明だって言ったよね」
「聞いた」
「じゃあなんでダンジョン行く格好してるの」
「実技だから」
「学校の実技!」
朱音の声が少し大きくなる。廊下の向こうで誰かのドアが閉まる音がした。澪は朱音の後ろの空気を見ながら、短く言った。
「学校の実技、たぶん簡単」
「簡単とかそういう問題じゃないの。出席日数、本当に危ないんだよ。先生も心配してるし、久遠先生なんて今朝から顔が怖いし」
「いつも怖い」
「そうだけど!」
朱音は言い返しかけて、しかし途中で言葉を飲み込んだ。怒るために来たのだろう。けれど澪の目の下に残る薄い隈と、首筋にまだ完全には消えていない傷跡を見て、表情が変わった。怒りより先に心配が出る人だった。前の世界では、怪我をして戻った者はまず報告を求められた。どの方角で、何に遭遇し、何人死に、何を持ち帰ったのか。心配というものはたぶんあったのだろうが、それを長く表に出している余裕は少なかった。だから朱音の顔を見るたび、澪は少し困る。
「また無茶したの」
「大丈夫」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど」
朱音は鞄から小さな紙袋を取り出し、澪に押しつけた。中には栄養ゼリーと個包装の焼き菓子が入っている。
「食べて。あと、今日帰ってきたら連絡して。既読だけじゃなくて、ちゃんと」
「うん」
「本当に分かってる?」
「たぶん」
「その返事が一番信用できない」
澪は紙袋をリュックに入れた。朱音はそれを見て少しだけ安心したようだったが、すぐにまた眉を寄せる。
「どこまで行くの」
「第一層」
「何環」
「……」
「澪」
「六か七」
「駄目」
即答だった。澪は首を傾げる。
「まだ言い切ってない」
「言い切る前に分かる。第一層の六環から先は、学校の一年が一人で行く場所じゃない。第一層って名前に騙されないで。六環は普通に二層上位、七環は三層入口相当って言われてるんだからね。しかも最近、変異種の目撃が増えてる。協会の注意報見た?」
「見てない」
「見なさい!」
朱音が額を押さえる。澪は、朱音が怒っている時の呼吸の変化をぼんやり観察していた。肩に力が入り、声が少し高くなる。だが本気で突き放す時の音ではない。心配の音だ。温かい。少しだけ、居心地が悪い。
「朱音先輩」
「なに」
「帰ったら連絡する」
「……絶対?」
「絶対」
「怪我したら?」
「治す」
「そういう意味じゃない」
朱音は何か言いたげに唇を結んだが、やがて諦めたように息を吐いた。完全に止められないことを、もう分かっているのだろう。澪が普通の生徒なら、教師を呼んででも止める。だが澪は止められても抜け出す。ならせめて、生きて戻る約束だけでも取るしかない。朱音はそう考えている顔をしていた。
「帰ったら、うちのパーティーの練習見に来て。みんなにも紹介したいし」
「パーティー?」
「そう。私の。あんた、私のこと暇な先輩だと思ってるかもしれないけど、ちゃんと組んでるんだからね」
「知ってる」
「本当に?」
「朱音先輩、槍。盾の人が一人。魔法の人が一人。斥候が一人。回復補助が一人」
「……見てたの?」
「一回」
「一回見ただけで覚えたの」
「うん」
朱音は少し驚いた顔をした後、なぜか嬉しそうに笑った。その笑い方を見ると、澪は胸の奥がわずかにむずむずする。誰かの努力を覚えているだけで、こんなふうに笑われるとは思っていなかった。
「じゃあ、帰ってきたら連絡。それと、今度ご飯。奢るから」
「前も奢った」
「いいの。先輩だから」
澪は少し考えた。奢られるばかりは、たぶん良くない。前の世界では借りは返すものだった。命の借りは命で、食事の借りは食事で、装備の借りは戦果で。朱音に返すなら何がいいだろう。第一層の七環で取れる風結晶は、槍の穂先に相性がいい。六環の青嵐角馬の角も、加工すれば軽い魔力導体になる。今の朱音には少し過剰だが、悪くはない。
「今度、何か拾ってくる」
「食べ物でいいからね。変な呪物とか持ってこないでよ」
「綺麗なのにする」
「澪の綺麗は信用できない……」
朱音はそう言って、ようやく一歩退いた。澪は靴を履き、玄関を出る。背後で朱音がまだ何か言いたそうにしていたが、最後に出た言葉は怒鳴り声ではなかった。
「絶対、生きて帰ってきて」
澪は振り返らず、片手を上げた。
探索者協会の第一層ゲート前は、平日にもかかわらず人が多かった。学生らしい若い探索者、企業ロゴの入った装備を身につけたパーティー、素材運搬の業者、配信機材を持った者たち。売店では低位帰還札と簡易治療薬が並び、掲示板には第一層の注意報が張られている。第六環以降、変異種目撃あり。第七環、風裂き現象増加。第八環、立入非推奨。第九環、情報なし。文字だけを見ればいつもの警告だが、その下に赤く印字された「未成年探索者の単独侵入を禁ずる」という一文が、やけに目立っていた。
澪は掲示板の横に貼られた第一層概略図を見上げた。世界各地にダンジョン入口はある。日本にも複数、海外にも複数。けれど、それぞれが別の迷宮に繋がっているわけではない。入口は違っても、繋がる先は同じ巨大な異界だ。日本入口から入っても、北米入口から入っても、欧州入口から入っても、第一層は第一層。《零れ空の庭》という本質は変わらない。ただし、降り立つ場所は違う。入口ごとに初期到達エリアがあり、それらは世界壁、境界霧、位相断層と呼ばれる不可視の隔たりに分断されている。日本入口から入って第一層を横断し、北米入口側へ出ることはできない。ダンジョンを使った世界旅行はできない。それは、探索者学校の初歩で教わる内容だった。澪は学校にほとんど出ていないが、必要なことは読んでいる。
同じ海に、別々の港があるようなものだ、と教本には書かれていた。ただし、その海は港同士の横断を許さない。
澪は受付でライセンスを提示した。受付の女性は画面を確認した瞬間、わずかに眉をひそめる。
「天瀬澪さん。探索者高校一年、ですね。本日の予定環は?」
「第一層」
「何環までの申請ですか?」
「五環」
嘘ではない。五環までは行く。受付の女性は澪の装備を見る。鉤鎖、短杭、軽装。パーティーメンバーなし。彼女は明らかに何か言いたげだったが、申請上は第一層第五環までで、ライセンス上も完全に違反とは言えない。探索者は自己責任。それがこの世界の原則だった。
「帰還札は?」
澪はリュックから一枚取り出して見せた。正規帰還札。低位ではないが、高位でもない。第六環以降で使うには心許ない品だ。
「第五環までなら問題ありません。ただし、第六環以降では成功率が落ちます。第八環から先は推奨されません」
「知ってる」
「第九環ではほぼ使用不能です」
「行かない」
受付の女性は、澪の目を見た。信じていない目だった。澪は表情を変えずに見返す。数秒後、女性は諦めたようにため息をつき、通行許可を出した。
「無理はしないでください」
「できるだけ」
できるだけ、という言葉は便利だ。無理をしないとは言っていない。澪はゲートを抜ける直前、スマートフォンを取り出した。探索者用の簡易配信アプリを開く。アカウントは昨日作ったばかりで、名前は「澪」とだけ表示されている。アイコンも説明文もない。配信機材は高価な浮遊カメラではなく、協会が貸し出している肩掛け式の記録端末だ。視聴者など最初はほとんどいないだろう。
配信を始めようと思った理由はいくつかある。帰還札代が欲しい。装備代も欲しい。素材鑑定料も必要だ。けれど、それだけならもっと安全な環で安定した狩りをした方がいい。配信まで始める必要はない。澪は一瞬、月城冴の配信を思い出した。白銀庭園所属の人気探索者。美しく、強く、視聴者に向けて楽しそうにダンジョンの景色を語る女性。澪はあの配信で、画面越しに第一層の夕空池を見た。ダンジョンは、ただの狩場ではない。金稼ぎの場所でも、レベルを上げるための施設でもない。あの世界は綺麗だ。死ぬほど綺麗だ。だから、見せたい。誰に、とはまだうまく言えない。推しといつか同じ景色を見たい、という俗っぽい願いもある。帰還札代が欲しい、という現実的な理由もある。ただ、それら全部の奥に、もっと単純な欲がある。
澪は配信タイトルを入力した。
『第一層、空の端を見に行く』
開始ボタンを押す。視聴者数は、ゼロから一になった。たぶん、アプリの巡回か、偶然開いた誰かだろう。澪は挨拶をしなかった。何を話せばいいのか分からなかったし、話すために潜るわけでもなかった。
ゲートの向こうで、世界が変わる。
第一層《零れ空の庭》。初めて訪れた者の多くは、そこで足を止める。澪も最初に来た時は、ほんの少し呼吸を忘れた。地面に空が零れている。草原のあちこちに、水たまりのような青空が沈み、足元で雲が揺れている。浅い空、夕焼けの空、夜明けの空、星雲を含んだ夜空。それらが薄い硝子の膜の下に広がり、風が吹くたびに、草ではなく空そのものが波打つ。遠くには逆さに生えた虹があり、その根元を小さな空鱗蝶が飛んでいた。蝶の羽は薄い空を折り畳んだような色をしており、羽ばたくたびに小さな雲が散る。
配信の視聴者数が三になった。コメントが一つ流れる。
『無言?』
澪は見ていない。第一環は安全だ。安全すぎる。学生が訓練し、配信者が景色を映し、新人が空鱗蝶や青雷兎を追う場所。澪は立ち止まらず進んだ。第二環、第三環、第四環。景色は少しずつ変わっていく。空の水たまりは深くなり、草は青みを増し、時折、地面の下に鳥の影が泳ぐ。第五環に近づくと、空の欠片は水面ではなく裂け目に近くなる。覗き込むと、底がない。地面の下に、別の空がある。その空には、地上には存在しない大きな月が浮かんでいた。
第五環の正道には探索者が多い。第二層へ降りる正規下降路があるからだ。六人パーティーが装備を整え、荷物を確認し、配信者が笑顔で挨拶をしている。第一層の第五環は、初心者にとっては一つの到達点だ。ここにある正規下降路を通れば第二層へ行ける。普通の探索者はそうする。わざわざ第六環より外へ行く必要はない。第六環、第七環、第八環、第九環。そこは正規攻略に不要な危険域だ。危険なわりに、得られるものは少ないとされている。少なくとも、世間はそう考えている。
澪の肩掛けカメラを見た一人が、軽く手を振った。澪は反応せず、その脇を抜ける。正規下降路へは行かない。そのさらに外側へ向かう。
第六環に入る境界は、分かりやすい門があるわけではない。ただ、空気が変わる。風が冷たくなる。足元の空が深くなり、草の音が消える。協会が置いた警告杭が、ところどころに刺さっている。ここから先、単独侵入非推奨。帰還札成功率低下。変異種目撃あり。澪は警告杭の文字を指でなぞり、少しだけ口元を緩めた。
「ここから」
初めて声を出したせいか、コメントが少し増えた。
『喋った』
『え、六環行くの?』
『タイトル詐欺じゃなくて草』
『帰れ』
『一年っぽくない?』
澪は進んだ。
第六環の空は、美しいというより、少し狂っていた。地面の下に沈んだ空の色が濃すぎる。青ではなく、青の向こう側にある色。草の一本一本が硝子のように硬く、踏むと小さな音を立てて欠ける。風は上からではなく足元から吹き上がり、リュックの紐がふわりと浮いた。遠くで、何かが走る音がした。澪は立ち止まり、鉤鎖を左手に巻く。右手には短杭。魔力を薄く流す。身体の内側を通る魔力の線が、骨と筋肉に沿って淡く熱を持った。
《身体強化》を深くかけすぎると、今の身体では壊れる。だから薄く、必要なところだけ。足首、膝、腰、肩、指。鎖を握る手。視線の焦点。呼吸の深さ。前の世界では魔力で肉体を補強する者は多かったが、この世界の《身体強化》はどこか大雑把に使われがちだった。筋力を上げる。速度を上げる。防御を上げる。だが澪にとって身体はもっと細かい部品の集まりだ。筋肉だけでは動けない。神経だけでも動けない。骨、腱、血流、内臓、魔力の巡り。それらをすべて噛み合わせることで、初めて一歩が変わる。
最初に現れたのは、雲喉狐だった。白い喉から雲を漏らす狐型の魔物。第六環では珍しくないが、第五環までの探索者なら群れに囲まれただけで危険になる。三体。澪は真正面からぶつからなかった。鉤鎖を投げ、一本の硝子草に引っ掛けて身体を横へ滑らせる。狐の一体が雲を吐き、視界が白く潰れた。澪は目を閉じる。視界を奪われた時、目に頼ると遅れる。足音、雲の流れ、魔力の濃淡。右から一体。低い。喉を狙っている。
短杭を逆手に持ち替え、澪は一歩だけ踏み込んだ。逃げるのではなく、近づく。雲喉狐の牙が肩を掠める。皮膚が裂ける。浅い。澪は狐の口の奥へ短杭を叩き込み、そのまま顎を蹴り上げた。骨が割れる音。次の一体が背後から跳ぶ。鉤鎖を戻す時間はない。澪は倒れた狐の身体を掴み、盾のように引き上げる。衝突。腕に重い痺れ。狐の爪が死体ごと澪の前腕を裂いた。血が散る。痛みが来る。澪はその痛みの角度を覚え、前腕の筋肉を締めた。三体目が雲の中から飛び出す頃には、澪は鉤鎖を足で踏んで固定し、鎖の中ほどを引き上げていた。狐の足が鎖に絡む。転ぶ。首筋に短杭。沈黙。
視聴者数が二十を超えていた。コメントが流れる。
『動きやば』
『一年?』
『雲喉狐三体ソロは草』
『いや六環なら普通に死ぬぞ』
『声出せ』
『鎖使い珍しいな』
澪は狐の素材を軽く回収した。死体に手を触れ、意識でインベントリを開く。血に濡れた牙、雲を含んだ喉袋、薄い毛皮。標準鑑定では、名称と簡単な用途、売却目安くらいしか出ない。雲喉狐の喉袋は煙幕系の道具や風魔法媒体に使える。高くはないが、売れない素材ではない。澪は必要な分だけ回収し、残りは置いていく。ドロップはあったが、目的ではない。第六環で狩りすぎるとレベルが上がる。経験値が一人に集中する。強くなるのは良い。だが上がりすぎると、本命の九環ボスが消える。ダンジョンは格下狩りを許さない。適正を外れた者の前に、本当に欲しい敵は現れない。だから澪は、必要以上には狩らない。必要な敵だけ。必要な痛みだけ。必要な死に方だけ。
しかし、第六環は澪を見逃すほど優しくなかった。
風が止んだ。足元の空が、ひび割れたように白く光る。澪は右へ跳んだ。その直後、さっきまで立っていた場所を、透明な刃が斜めに裂いた。草が切れたのではない。空の膜ごと裂け、下に沈んでいた夕焼けが一瞬だけ噴き上がる。澪は着地と同時に鉤鎖を構え直した。
それは狼だった。だが普通の狼ではない。肩までが澪の胸ほどあり、背中から硝子のような翼片が何枚も生えている。白い毛並みに青い筋が走り、開いた口からは雲ではなく、薄い風の刃が漏れていた。協会の警告にあった変異種。おそらく、第七環側から流れてきた個体。
「硝子翼狼」
澪が呟くと、コメント欄が一気に荒れた。
『変異種!?』
『帰還札』
『逃げろ』
『六環で出るやつじゃない』
『配信切って帰れ』
『これ三層入口級じゃね?』
硝子翼狼が消えた。いや、消えたように見えた。速い。澪は考える前に左腕を上げた。次の瞬間、腕の外側に熱い線が走り、血が飛んだ。遅れて痛み。硝子の翼片が刃のように澪の腕を裂いていた。浅くない。筋肉まで開いている。澪は一歩下がり、鉤鎖を投げた。狼は跳んで避ける。速い。鉤刃が空を切り、地面の空膜に刺さる。澪は鎖を引いて自分の身体を横へ飛ばした。直後、狼の牙が澪のいた空間を噛み砕く。空気が破裂し、耳の奥が鳴った。
勝てない。最初の判断はそれだった。今のままでは無理だ。速度が違う。硬さが違う。攻撃の一つ一つが、澪の防御を裂く。だが逃げるにも背中を向ければ終わる。帰還札を使うには時間が必要だ。発動中に喉を噛まれれば終わる。だから、戦うしかない。勝つためではない。帰るために。いや、帰るためだけでもない。ここで逃げれば、次に九環へ行く身体にならない。
澪は息を吐いた。魔力を足へ落とす。ふくらはぎ、足首、足裏。強化。次に左腕。裂けた筋肉を魔力で仮止めする。痛みが鋭くなった。自分の内側で、《再生》が鈍く動き始める。治ってはいる。だが遅い。今の速度では間に合わない。
硝子翼狼が再び動いた。澪は今度は避けきれなかった。肩から胸へ、硝子の翼片が走る。防刃ジャケットが裂け、肉が開く。肋骨に硬い衝撃。一本、折れた。肺が浅くなる。澪は倒れず、折れた肋骨の周囲だけ魔力で固める。無理に深く吸わない。短く吸う。短く吐く。
狼の爪が来る。澪は鉤鎖を地面から引き抜き、真正面へ投げた。狼はまた避ける。だが今度は、当てるためではなかった。鉤刃は狼の背後の硝子草に刺さる。澪は鎖を握り、狼の突進に合わせて自分の身体を前へ投げた。避けるのではない。相手の懐へ、死ぬほど近い場所へ入る。狼の牙が澪の脇腹を抉る。肉が持っていかれる。視界が赤く跳ねた。だが澪の短杭も、狼の前脚の付け根に届いた。
刺さらない。硬い。表皮で止まる。澪は歯を食いしばり、魔力を短杭の先端へ圧縮した。前世の魔法の感覚。今の世界の《魔力操作》。それを無理やり繋ぐ。短杭の先で、魔力が針のように細くなる。もう一度押す。今度は、ほんの少し入った。
硝子翼狼が吠えた。近すぎる咆哮が、澪の鼓膜を揺らす。爪が腹に入る。熱い。深い。澪の身体が宙へ浮いた。投げられたのだと理解した時には、背中から地面へ叩きつけられていた。肺の空気が抜ける。視界が暗くなる。コメント欄はもう読めないほど流れている。
澪は動かなかった。動けなかった。硝子翼狼が近づく音がする。爪が硝子草を踏むたびに、薄い音が鳴る。綺麗な音だった。殺される前に聞くには、少し綺麗すぎる。澪は薄く笑った。やっぱり、ダンジョンはいい。ここは痛い。怖い。苦しい。けれど、死ぬほど綺麗だ。
狼が跳ぶ。喉を狙っている。澪は右手を上げた。間に合わない。左腕も動かない。肋骨は折れ、腹は裂け、脇腹から血が流れ続けている。普通なら終わりだった。
その瞬間、身体の奥で何かが噛み合った。
文字が誰かに見えるわけではない。配信画面に表示されるわけでもない。ただ、澪の内側にだけ、確かに分かった。《再生》の七つ目の節が破れ、八つ目が開く。裂けた腹の奥で肉が蠢いた。傷口がただ塞がるのではない。失われた組織を補うように、筋繊維が編まれ、血管が伸び、砕けた骨の周囲に白い熱が走る。痛みは消えない。むしろ増えた。治る痛み。戻る痛み。失ったものを無理やり形に戻す痛み。澪はその痛みを噛み締めながら、動いた。
狼の牙が喉に届く直前、澪は頭を横へずらした。完全には避けられない。牙が肩に入る。肉が裂け、鎖骨が軋む。だが喉ではない。澪は噛まれたまま、右手で狼の首の毛を掴み、左腕を上げた。左腕はまだ完全ではない。裂けた筋肉が再生しながら震え、指も半分しか動かない。それでも、動く。魔力操作で無理やり握らせる。鉤鎖を巻きつける。狼が頭を振る。肩の肉が剥がれる。澪は離さない。
「捕まえた」
初めて、澪の声に熱が混じった。
配信視聴者には、澪の内側で何が起きたのかは分からない。ただ、さっきまで動かなかった左腕が不完全な形で動き始めたこと、腹の傷があり得ない速度で塞がり始めたこと、澪の動きが変わったことだけが見えていた。
『今、何が起きた?』
『傷、塞がってない?』
『再生スキル持ち?』
『いや速度おかしい』
『動き変わった』
『さっきまで防戦一方だったのに』
澪は身体強化を全身に流した。今までのように薄くではない。壊れる寸前まで。筋肉が悲鳴を上げる。骨が軋む。再生が追いつく。適応が、さっき噛まれた角度を覚えている。次はそこを壊させない。魔力を骨の内側へ流す。狼が暴れる。硝子翼が澪の背中を切る。血が飛ぶ。だが澪は、噛まれた肩を支点にして身体を回した。鎖が狼の首に食い込む。鉤が皮膚を裂き、硬い毛皮の下へ沈む。
自分の内側で、何か新しい扱い方が形になる。鎖の重さ、張り、緩み、引く角度。今まで道具として使っていたものが、自分の腕の延長になっていく。スキルとしての名を、澪はまだ深く意識しない。ただ、鎖の使い方が一段変わったことだけは分かった。
世界が少し遅くなった気がした。いや、澪の目が追いつき始めたのだ。狼の動きはまだ速い。だが速さの中に癖がある。跳ぶ前に右後脚へ体重が乗る。風刃を放つ前に翼片がわずかに震える。噛みつく直前、首の筋肉が硬くなる。澪はそれを見た。見て、覚えた。次の風刃が来る前に、鎖を引く。狼の首がわずかに逸れる。風刃が澪の耳を掠め、後ろの硝子草を切り裂いた。
澪は短杭を抜き、狼の前脚の付け根へもう一度叩き込んだ。さっきは浅かった。今度は違う。魔力を細く、硬く、針のように。再生中の左手で鎖を固定し、右手に全身の力を集める。杭が入る。硬い表皮を抜け、筋の隙間に届く。狼が悲鳴のような吠え声を上げた。澪はさらに押す。奥へ。もっと奥へ。骨と筋肉の間、魔力の流れが乱れている場所へ。
狼の前脚が崩れた。
それは勝利ではなかった。硝子翼狼はまだ生きている。まだ澪より強い。だが、初めて姿勢を崩した。澪はその一瞬を逃さず、鎖を巻き込んで狼の首を引き、膝を叩き込んだ。鈍い音。狼の牙が澪の頬を掠める。皮膚が裂ける。再生が走る。痛みが遅れてくる。澪は笑っていた。
配信の視聴者数は、気づけば千を超えていた。
『再生したよな?』
『ログ見えないけど絶対スキル上がっただろ』
『鎖の扱い、急に変わった』
『戦闘中に成長してる?』
『いや逃げろ』
『なんで笑ってんの』
『怖い』
『綺麗』
『この子誰?』
硝子翼狼が最後の突進姿勢に入る。澪も膝を沈めた。もう一度ぶつかれば、たぶんどちらかが壊れる。澪の再生は一段先へ進んだ。だが魔力は無限ではない。血も流れすぎた。視界の端が白い。帰還札を切るべきだった。だが、今この瞬間だけは、帰る選択肢が遠かった。敵はまだ前にいる。痛みはある。恐怖もある。身体は壊れかけている。だからこそ、もう一歩だけ進める。
狼が跳んだ。
澪は鉤鎖を手放した。狼の目がわずかに揺れる。武器を捨てたと判断したのかもしれない。だが鎖は狼の首に残っている。澪は短杭を口にくわえ、両手で鎖を掴んだ。再生途中の左手が裂ける。指が開く。魔力で無理やり閉じる。狼の質量が迫る。澪は逃げず、真正面から身体を落とした。狼の牙が頭上を通過する。首に巻いた鎖が張る。澪は全身を使って、鎖を地面へ叩きつけた。
狼の首が落ちる。完全にではない。だが軌道が崩れる。硝子翼狼の巨体が澪の横を滑り、地面の空膜を割って転がった。澪も膝から崩れた。追撃する力はほとんど残っていない。それでも短杭を手に取り、狼の喉元へ歩く。狼は立とうとしていた。前脚が震えている。まだ動く。澪は喉の下、柔らかい毛の奥に杭を当てる。魔力を圧縮する。刺す。
一度では足りない。二度。三度。血が噴く。硝子のような翼片が震え、最後にぱきりと音を立てて割れた。狼の身体から力が抜ける。澪はしばらくその上に膝をついたまま動かなかった。呼吸が浅い。心臓がうるさい。腹の傷は塞がりかけているが、まだ内側が熱い。肩の肉は戻っている途中で、左手の指は三本しか動かない。
それでも、生きている。
ドロップ光が狼の身体から淡く浮き上がった。硝子翼、風を含んだ牙、硬質化した爪、そして小さな青白い結晶。澪は手を伸ばし、まず標準鑑定を通した。表示されるのは浅い情報だけだ。硝子翼狼の翼片。風属性素材。軽量防具、風魔法媒体、切断系武器の補助素材。売却目安、高。危険表示、低。青白い結晶は、変異核片。用途不明、要詳細鑑定。澪はそれを見て、少しだけ目を細めた。詳細鑑定には金がかかる。だが、これは売らない方がいい。たぶん、後で使える。
素材をインベントリへ収める。容量が少し重くなった感覚があった。スキルオーブではない。九環ボスではないからだ。そもそも澪は、まだそれの本当の名前も知らない。ただ、深い環には標準鑑定では測れないものがあると知っているだけだった。
視線を上げる。第六環のさらに奥、硝子草の海の向こうで、空が裂けていた。地面の下に沈んでいたはずの夕焼けが、縦に割れている。裂け目の向こうに、違う景色が見えた。
空の墓場。
割れた青空が、巨大な貝殻のように積み重なっている。雲の骨が風で鳴り、遠くで透明な獣が、空そのものを食べていた。
澪は血に濡れた口元を拭った。痛みで膝が震えている。魔力も残り少ない。今行けば死ぬ。間違いなく死ぬ。まだ九環は遠い。第一層第九環。《空葬原》。適正は、今の澪よりずっと上。九環五座ボスなど論外だ。眷属に見つかっただけでも、今日の硝子翼狼よりひどいことになるだろう。
けれど、景色は見えた。
配信のコメントが流れ続けている。誰かが「帰れ」と叫んでいる。誰かが「今の何」と聞いている。誰かが「綺麗」と呟いている。澪は裂け目を見つめたまま、小さく言った。
「次は、あそこまで行く」
その声は、ひどく静かだった。けれど視聴者の誰もが、それを冗談だとは思わなかった。
澪は帰還札に手をかけた。使えば戻れる可能性はある。だが、第六環で正規帰還札を切るのは惜しい。帰れる足があるなら、歩くべきだ。帰還札は、歩けなくなった時の最後の札。ぽんぽん使えるほど安くないし、信用できるほど優しくもない。澪は札から手を離し、鉤鎖を拾い上げた。再生途中の左手ではうまく握れない。だから鎖を手首に巻き、歯で結び目を締めた。
帰り道の空は、来た時より少し暗く見えた。第六環の風は相変わらず足元から吹き上げている。硝子草の先に、雲喉狐の気配がいくつか揺れた。血の匂いに寄ってきたのだろう。澪は短杭を一本だけ抜き、息を整えた。もう戦う力はほとんどない。だが、帰るまでが探索だ。素材を持ち帰るまでが勝ちだ。
視聴者数はさらに増えていた。コメントが滝のように流れる。
『帰還札使え』
『歩いて帰る気か?』
『馬鹿なの?』
『いや金ないのか』
『誰か学校に通報しろ』
『これ本当に一年?』
『さっきの奥、九環じゃない?』
『空葬原?』
『第一層にあんな場所あるの?』
『綺麗だった』
『やばい、また見たい』
澪は最後のコメントだけ、視界の端で拾った。少しだけ、口元が緩む。
「でしょ」
それだけ言って、澪は血の跡を引きながら歩き出した。第一層の空は、足元で静かに揺れている。空の底に沈んだ夕焼けが、裂けた傷口のように赤く光っていた。
血の匂いは、思ったより遠くまで届くらしい。第六環の風は足元から吹き上げる。だから地上の森や草原とは匂いの流れ方が違う。血は地面に落ちるたび、空の膜の上で薄く広がり、硝子草の根元に滲む。そこから風に撫でられ、上ではなく横へ、時には下から澪の頬へ戻ってくる。自分の血の匂いを嗅ぎながら歩くのは、あまり良い気分ではない。前の世界でも何度も経験した。血を流したまま帰る道は、勝利の後ではなく、次に死ぬまでの猶予でしかない。
澪は鉤鎖を左手首に巻きつけたまま、短杭を右手に持っていた。左手の指はまだ三本しかまともに動かない。薬指と小指は、再生途中の白い筋肉と薄い皮膚が絡み合い、握ろうとするたびに焼けるような痛みが走った。腹の傷は塞がりかけているが、内側はまだ熱い。肋骨の折れた部分は、魔力で仮固定している。深く息を吸うと痛みが走るので、呼吸は浅く、短く、一定に保つ。歩幅は小さく。足音は抑える。血の跡は消せない。なら、せめて音だけは殺す。
配信はまだ続いている。肩掛け式の記録端末は、澪の右肩に固定され、わずかに傾いた映像を送り続けていた。途中で狼に叩きつけられたせいで、視界の端に細いノイズが走っている。視聴者数は増え続けていた。澪が画面を見なくても、コメントが流れている気配だけは分かる。通知音は切ってある。それでも、端末そのものが熱を持ち、魔力電池の消費が早まっているのが肌に伝わった。
『帰還札使え』
『歩くなって』
『血の跡やばい』
『六環だぞ? 帰り道も敵出るぞ?』
『誰か協会に通報した?』
『した』
『学校にも送った』
『これライブ? 録画じゃないよな?』
『初見だけど何この子』
『さっきの奥、絶対九環だよな』
『空葬原って第一層九環の俗称じゃなかった?』
『俗称っていうか生還者が少なすぎて資料ないやつ』
『なんで高校生が見てんの?』
澪はコメントを読まない。ただ、断片的に視界の端へ流れる文字が、外の世界の騒がしさを伝えてくる。外の世界はいつも騒がしい。誰かが危ないと言い、誰かが止めろと言い、誰かがもっと見たいと言う。澪にとって重要なのは、そのどれでもなかった。今は帰る。素材を持ち帰る。今日見た空裂きの位置を覚える。硝子翼狼の動きと、自分の壊れ方を身体に残す。それだけだ。
硝子草の海が、風に鳴る。澪は足を止めた。前方、右手側。風の中に違う呼吸が混じった。雲喉狐ではない。もっと軽い。もっと速い。小さな雷の匂いがする。青雷兎。第一環や第二環では初心者向けの魔物に分類されるが、第六環の個体は別物だった。空の濃度が高い場所で育った個体は、雷を纏うだけではなく、踏み込む瞬間に足元の空膜を蹴って加速する。小さい。見えにくい。だが、まともに食らえば焼けた神経が一瞬で反応を止める。
澪は右足を半歩引いた。短杭を握る指に、力を入れすぎない。動かないで待つ。硝子草の奥で、青い火花がひとつ弾けた。次の瞬間、小さな影が低く走る。澪は避けなかった。避ければ足が遅れる。足が遅れれば、背後に回られる。だから待った。右脛を狙って飛び込んできた青雷兎へ、短杭を落とすように突き刺す。手応えは軽い。だが雷が流れ込んだ。右腕が痺れる。肩まで焼けるような痛みが走る。澪は歯を噛み、短杭ごと青雷兎を地面へ押しつけた。兎の身体が小さく痙攣し、青い火花が空へ散る。
右腕の痺れが抜けない。魔力で神経の流れを補助しながら、澪は青雷兎の核を抜き取った。標準鑑定では、青雷核。雷属性の小素材。低位雷魔法媒体、反応強化薬の材料。売却目安、中。澪はそれをインベントリへ入れ、耳を澄ませる。まだいる。二体。いや、三体。血に寄ってきたのではなく、最初からこの一帯にいた群れだ。澪はため息をつきたい気分になったが、呼吸が浅いのでやめた。
「面倒」
小さく呟いた声を、配信端末が拾ったらしい。
『面倒じゃないが』
『死にかけてる人の台詞じゃない』
『帰れ』
『今の青雷兎、初級魔物じゃなくね?』
『六環個体だろ。速さおかしい』
『ていうかまだ戦うの?』
澪は戦うつもりはなかった。帰るつもりだった。だが、帰る道に魔物がいるなら、それはもう戦闘と変わらない。鉤鎖を右側の硝子草へ引っ掛け、身体を低くする。青雷兎は小さい。小さい敵は、視界の中心で追うと見失う。視界の端、草の揺れ、雷の匂い、空膜の震え。それらをまとめて見る。前の世界で、夜の湿地に棲む刃鼠を狩った時と似ている。あれも、見えない小ささで足を切りに来た。違うのは、ここが恐ろしく美しいことだけだ。
一体目が左から来る。澪は身体を開いて通した。追わない。二体目が背後へ回る。右足で鎖を踏み、引く。硝子草に引っ掛けた鉤が戻り、鎖が地面すれすれを走る。二体目の足が絡まった。転ぶ。三体目が正面から跳ぶ。澪は短杭ではなく、膝で受けた。雷が膝から腰へ抜ける。痛い。だが折れない。さっき硝子翼狼に砕かれた肋骨よりは軽い。澪は膝に当たった青雷兎を左手で掴みかけたが、指が動かなかった。逃げられる。なら、噛む。澪は再生途中の左手ではなく、肩で兎を押さえ込み、右手の短杭を喉へ落とした。
戦闘は数十秒で終わった。短い。だが消耗は大きい。魔力が減る。再生に食われる。身体強化に食われる。神経の補助に食われる。澪は青雷核を二つだけ回収し、三体目の素材は捨てた。インベントリ容量の問題ではない。拾う動作が面倒だった。しゃがむたび、腹の奥が熱く痛む。
その時、配信端末が小さく震えた。通知音は切ってあるはずだが、緊急通知だけは別扱いらしい。澪は目だけで画面を見た。探索者協会からの警告。配信中の位置情報と映像内容から、第六環単独探索および重傷状態が確認されました。速やかに帰還札を使用してください。継続探索は重大事故につながる恐れがあります。
続けて、探索者高校の校内連絡。久遠玲司。短い一文。
『戻れ。今すぐだ』
澪は画面を閉じた。戻っている。今まさに戻っている。だから問題ない。自分の感覚ではそうだったが、たぶん久遠はそう解釈しない。朱音も、間違いなくそう解釈しない。帰ったら怒られる。今度は確実に怒られる。澪は少しだけ面倒そうに瞬きをした。
帰路の途中で、空の色が変わり始めた。第六環の空膜は、時間によって色を変える。地上の時計とは完全には一致しない。昼でも足元に夜が沈むことがあるし、夕方でも薄い朝焼けが揺れることがある。今、澪の足元には深い紺色の空が沈んでいた。星が見える。地面の下に星がある。硝子草の根がその星の光を吸い、青白く輝いている。血を流し、息を浅くし、痛みに耐えながら歩いているのに、澪はその景色に目を奪われた。
綺麗だ。
痛みと美しさは、同時に存在する。どちらか片方だけなら、きっとここまで惹かれない。安全な花畑なら、澪はすぐに飽きる。醜いだけの戦場なら、前の世界でいくらでも見た。ここは違う。美しいものが殺しに来る。綺麗な音を立てて骨を割り、眩しい光を撒きながら神経を焼き、透明な牙で空ごと肉を噛み砕く。だから見たい。もっと奥を。もっと、誰も帰ってこない場所を。
肩の端末がまた震えた。今度はコメントの勢いが変わっている。誰かが切り抜いたのだろう。配信の視聴者数が跳ね上がっていた。三千、五千、八千。数字が増える意味を澪はぼんやり眺めた。人が増えると何が変わるのか。広告収益が増える。投げ銭が来る。帰還札代に近づく。推しの配信者がいつか見るかもしれない。面倒も増える。協会に怒られる。学校に怒られる。朱音に怒られる。得と損を比べると、すぐには判断できない。だが、誰かが「綺麗」と言った。それだけは悪くなかった。
第四環まで戻る頃には、出血はほぼ止まっていた。見た目だけなら、重傷者というより、ひどく汚れた探索者くらいには戻っている。もちろん内側は別だ。折れた骨はまだ繋ぎかけで、筋肉は何度も裂け、再生途中の組織が熱を持っている。だが、第一層の第四環まで来れば、もう致命的な敵は少ない。澪はようやく短杭をしまい、鉤鎖を腰へ戻した。
第五環の正規下降路近くに出ると、周囲の探索者たちの視線が一斉に向いた。血まみれの少女が、配信端末を肩に乗せ、硝子翼狼の素材を持って戻ってきたのだから当然だった。六人パーティーの一人が、声をかけようとして固まる。別の配信者が、慌てて自分のカメラを伏せた。何人かは、澪の配信を見ていたのだろう。目が合うと、すぐに逸らした。
「あの、君、大丈夫……?」
盾を持った若い探索者が、迷いながら声をかけてきた。澪は自分の状態を確認した。歩ける。呼吸できる。喋れる。素材もある。なら大丈夫だ。
「大丈夫」
「いや、絶対大丈夫じゃないでしょ。治療所――」
「戻る」
「そのまま歩いて?」
「うん」
「いやいやいや」
若い探索者が仲間を振り返る。どうする、と目で相談している。澪はそれを待たずに通り過ぎた。助けは要らない。手を貸されると、身体が自分の壊れ方を覚える機会が少し減る。それに、他人に補われることに慣れると、ソロでは死ぬ。澪はまだ一人で行ける場所まで一人で行くつもりだった。
第一環まで戻ると、景色は急に優しくなる。空の池は浅く、草は柔らかく、遠くで新人探索者たちが青雷兎を追って歓声を上げていた。澪は自分が血まみれであることを忘れかけていたが、彼らの一人がこちらを見て悲鳴を上げたので思い出した。肩掛け端末の視聴者数は一万を超えている。コメント欄では、協会の救護班を呼べ、学校へ連絡しろ、本人はなぜ普通に歩いている、などの文字が流れ続けている。
ゲートを抜けた瞬間、協会職員が三人、治療班が二人、そして久遠玲司が待っていた。
久遠は探索者高校の教師で、元上級探索者だ。背が高く、肩幅があり、無駄な表情をほとんど浮かべない。顔が怖い、と朱音が言っていたが、実際に怖い。怒っていなくても怖い顔をしている。今は怒っているので、さらに怖かった。
「天瀬」
「ただいま」
「配信を切れ」
澪は肩の端末を見る。まだ配信中だった。切る前にコメントが爆発する。
『先生!?』
『怖』
『怒られるやつ』
『そりゃ怒られる』
『生還おめ』
『切らないで』
『切れ』
『いや切れ』
澪は素直に配信を終了した。画面が暗くなり、視聴者数が消える。急に世界が静かになった。久遠は治療班に視線を向ける。治療班の女性が澪の肩と腹を見て、顔をしかめた。
「治療室へ」
「もう塞がってる」
「塞がっているかどうかは、こちらが判断します」
澪は少しだけ不満だったが、反論する体力が惜しかったので従った。治療室に連れて行かれる途中、久遠は横を歩きながら、低い声で言った。
「第一層第五環までの申請だったな」
「五環までは行った」
「その先に行ったな」
「少し」
「第六環で硝子翼狼と交戦した映像が配信されている」
「流れてた?」
「流れていた。全国に」
「海外は?」
「翻訳され始めている」
「早い」
「感想はそれか」
久遠の声が低くなる。澪は少し考えたが、適切な返事が浮かばなかった。怒られている時は、余計なことを言わない方がいい。前の世界でも、上官が低い声を出している時は、たいてい黙っていた方が生存率が高かった。
治療室で防刃ジャケットを脱がされると、治療班の表情がさらに険しくなった。腹の傷は表面だけなら塞がっている。だが内部の損傷は大きい。肩は噛まれた痕が残り、鎖骨周辺は再生途中で熱を持っている。背中には硝子翼の切り傷が何本も走り、肋骨はまだ完全には戻っていない。治療班の一人が検査用の簡易鑑定板を澪の近くに置く。ステータスそのものを見る装置ではない。外傷、魔力の乱れ、状態異常、汚染反応を測るためのものだ。
「再生スキル持ちね。しかも、かなり高い」
女性職員が呟く。澪は黙っていた。スキルの詳細を自分から申告する義務はない。協会に登録している公開スキルは、最低限だ。身体強化、魔力操作、短剣術、再生。どの程度かは曖昧にしてある。ユニークスキル《適応》は登録していない。というより、登録する気がない。自分の内側にある異常を、名前ごと誰かへ渡す必要はない。
「天瀬、再生のレベルを申告しろ」
久遠が言った。
「嫌です」
「即答か」
「個人情報」
「命に関わる」
「だから嫌」
久遠のこめかみがわずかに動いた。治療班の女性は苦笑しながら、消毒と魔力安定処置を始める。消毒は痛くない。だが魔力安定処置は少し不快だった。他人の魔力が自分の傷口の周辺へ触れる感覚がする。澪は反射的に身体を強張らせた。久遠がそれに気づき、治療班へ短く指示する。
「深く入れるな。表層だけでいい」
「でも内部損傷が」
「本人の再生が走っている。干渉しすぎると逆に乱れる」
その判断は正しかった。澪は久遠を少し見直した。顔は怖いが、見えているものは見えている。元上級探索者という肩書きは飾りではないらしい。治療班は処置を浅く切り替え、澪の身体に残った硝子片だけを取り除いていく。摘出された小さな破片が金属皿の上に落ちるたび、澄んだ音が鳴った。
治療が一段落した頃、ドアの外が騒がしくなった。足音が速い。感情が前に出た歩き方。澪は誰か分かった。扉が開き、七瀬朱音が飛び込んできた。顔色が悪い。怒っている。泣きそうでもある。手にはスマートフォンが握られていた。たぶん配信を見ていたのだろう。
「澪!」
「帰った」
「そういう問題じゃない!」
朱音の声が治療室に響いた。久遠が一瞬だけ眉を上げる。治療班の女性が気まずそうに目を逸らした。澪はベッドに座ったまま、朱音を見上げる。朱音は澪の包帯、血で汚れたインナー、治療皿の上の硝子片を見て、唇を震わせた。
「何してるの、ほんとに……」
「探索」
「違う。あれは探索じゃない。自殺みたいなものだよ」
「死んでない」
「死んでないからいいって話じゃない!」
朱音の声が揺れる。澪は言葉に詰まった。怒鳴られることには慣れている。命令されることにも慣れている。だが、心配されて怒られることにはまだ慣れていない。どう返せばいいのか分からない。大丈夫、と言えば怒られる。ごめん、と言うべきなのだろうか。だが、ごめんと言ってもまた行く。行かないとは言えない。言えば嘘になる。
だから澪は、少しだけ視線を落として言った。
「綺麗だった」
朱音は言葉を失ったように口を閉じた。
「奥に、空葬原が見えた。割れた空が積み重なってて、透明な獣が空を食べてた。あれは、たぶん第九環」
「……そんなの」
「うん」
「そんなの、見に行くために死にかけたの?」
「死にかけたから、見えた」
朱音の顔が歪んだ。怒りだけではない。悲しみでもない。澪には、その表情の名前がまだよく分からなかった。朱音は何かを言おうとして、結局、言葉にできないまま澪の額を軽く叩いた。痛くはない。だが、澪は少し驚いた。
「馬鹿」
「うん」
「ほんとに馬鹿」
「たぶん」
「そこは否定してよ……」
朱音は椅子に腰を下ろし、顔を両手で覆った。久遠はその様子を見て、深く息を吐いた。
「天瀬。今回の件で、学校と協会から事情聴取がある。配信映像も確認する。未成年の単独深環接近は問題になる」
「深環じゃない。六環」
「第七環境界に近い六環だ。しかも九環と思われる空裂きを映した」
「見えただけ」
「それが問題だ」
久遠は治療室の壁に設置された端末を操作し、配信のアーカイブを表示した。澪が硝子翼狼を倒した後、遠くに見えた裂け目。空葬原のような景色。映像は揺れ、血でレンズが汚れていたが、それでも見える。割れた空、雲の骨、透明な獣。治療室の空気が少しだけ重くなった。朱音も顔を上げ、画面を見た。怒っていた目が、ほんの一瞬だけ揺れる。美しいと思ったのだろう。怖いと思ったのかもしれない。たぶん、両方だ。
「これは、協会の既存資料にほとんどない映像だ」
久遠が言う。
「第一層第九環《空葬原》の可能性が高い。だが、お前が行ける場所ではない」
「今は」
「今後もだ」
「それは分からない」
「分かる。少なくとも今のお前では無理だ。今日の変異種であの状態だ。九環眷属に見つかれば死ぬ」
「じゃあ、死なないようにする」
「言葉遊びをするな」
澪は黙った。言葉遊びではなかった。死なないようにする。死にかけても戻る。壊れても治す。同じ攻撃で壊れない身体にする。足りないなら、さらに奥で足りるものを拾う。澪にとっては、それだけの話だった。だが、久遠や朱音には違うのだろう。彼らは死を終わりとして見ている。澪も、昔はそうだったかもしれない。けれど、今の澪の内側には、死に近づくたびに反応する何かがある。死は壁ではなく、薄い膜に見える。触れれば焼ける。越えれば戻れない。だが、膜である以上、どこかに縫い目がある。そう感じてしまう。
処置が終わり、澪は協会の一室で事情聴取を受けた。配信を始めた理由、到達環、硝子翼狼との遭遇地点、空裂きの位置、帰還札を使わなかった理由。澪は答えられる範囲で答えた。スキルの詳細は答えなかった。《適応》についても、《再生》が戦闘中に一段上がったことについても、言わなかった。戦闘中に動きが変わった理由を問われた時は、慣れた、とだけ答えた。久遠はそれを聞いて目を細めたが、追及はしなかった。
素材鑑定では、硝子翼狼の変異核片に要詳細鑑定の印がついた。協会の標準鑑定官では用途不明。深環由来の風属性変異素材であり、武器強化、移動補助具、あるいは身体強化補助薬に転用できる可能性がある。売却すればかなりの額になる、と言われた。澪は売らなかった。帰還札代は欲しい。鑑定料も欲しい。だが、これは後で使う。直感ではない。身体が覚えている。硝子翼狼の速さ、風刃の角度、翼片の硬さ。それを素材として残しておけば、次に近いものと戦う時、役に立つ。
代わりに、雲喉狐と青雷兎の素材を売った。大した額ではないが、低位帰還札数枚分にはなった。正規帰還札にはまだ遠い。高位帰還札など夢のような値段だ。澪は口座残高を見て、少しだけ目を細める。配信収益はまだ確定していない。だが、アーカイブの視聴数は伸びているらしい。協会の職員が、危険配信として一時的に制限がかかる可能性を説明していたが、澪は半分しか聞いていなかった。制限がかかる前に、必要な映像はもう流れた。
協会を出た頃には、地上は夕方になっていた。空は赤く、ビルの窓に雲が映っている。ダンジョンの空とは違う。地上の空は遠い。手を伸ばしても届かない。踏んでも割れない。そこに沈むこともできない。澪は少しだけ物足りなさを覚えた。
朱音は協会の出口で待っていた。怒り疲れた顔をしている。手には温かい缶ココアが二本あった。そのうち一本を澪へ投げる。澪は右手で受け取った。左手はまだ少し動きが悪い。
「飲んで」
「ありがとう」
「今日、うち来る?」
「なんで?」
「一人にしたくないから」
「大丈夫」
「その大丈夫は信用しない」
朱音は缶ココアを開け、澪の隣を歩き出した。駅までの道は人が多い。仕事帰りの会社員、学生、買い物袋を持った主婦、スマートフォンを見ながら歩く若者。彼らの多くは、すぐ近くに異界への入口があることを知っている。それでも日常は普通に続いている。誰かがダンジョンで死んでも、電車は動く。誰かが第九環の景色を映しても、コンビニではおにぎりが売られる。澪はそれを不思議だと思う。前の世界では、戦場は日常を壊した。こちらの世界では、ダンジョンは日常に組み込まれている。だからこそ、深い場所の異常が見えにくい。
「澪」
「うん」
「また行くんでしょ」
「行く」
「九環?」
「まだ無理」
「そこは分かってるんだ」
「今日行ったら死ぬ」
「今日じゃなければ?」
「準備する」
朱音はため息をついた。諦めの息ではなく、考えるための息だった。朱音は止めたいのだろう。けれど、止められないことも分かり始めている。ならどうするか。止めるのではなく、死なないように何かを渡す。朱音はそういう人間だ。
「必要なもの、ある?」
「お金」
「正直すぎる」
「帰還札が高い」
「配信で稼ぐ気?」
「たぶん」
「じゃあ、せめて概要欄くらい書きなよ。名前だけのチャンネルじゃ怪しすぎる」
「何書けばいい?」
「普通は自己紹介とか、探索範囲とか、注意事項とか」
「第一層の空を見に行きます」
「それだけだと、今日みたいな配信になるって誰も思わないでしょ」
「見れば分かる」
「見る前に分からせるの!」
朱音は少し怒ったが、さっきほどではなかった。澪は缶ココアを飲む。甘い。甘すぎる。だが、血を流した後の身体にはちょうどよかった。糖分が腹の奥へ落ち、再生で消費した熱が少し戻る。
その夜、澪の配信アーカイブは探索者向け掲示板と動画サイトで拡散された。タイトルは勝手につけられていた。「探索者高校一年、第一層六環で変異種ソロ討伐」「血まみれ美少女、第一層九環らしき景色を映す」「再生速度がおかしい」「九環《空葬原》映像か」。切り抜きは海外にも流れ、英語、中国語、韓国語、フランス語のコメントがついた。日本の協会支部には問い合わせが入り、探索者高校には抗議と取材依頼が来た。久遠玲司は翌朝、校長室で長い説明をさせられることになる。
澪はそんな騒ぎを知らず、自宅の狭い部屋で、床に広げた簡易地図を見下ろしていた。第一層第六環の手書き地図。硝子草の群生地、雲喉狐の巣、青雷兎の移動線、硝子翼狼との遭遇地点。そして、その奥に見えた空裂きの位置。裂け目の向こうに見えた空葬原。九環。まだ遠い。今の澪では死ぬ。だが、今日より近づいた。
左手を開く。五本の指は戻っている。まだ動きはぎこちないが、握れる。腹の熱も少し落ち着いた。再生は一段深くなった。鎖の扱いも変わった。身体強化のかけ方も、狼の突進を受けたことで少し変わった。死にかけた価値はあった。
澪は机の上に置いた硝子翼狼の変異核片を見た。青白い結晶の中で、風のようなものが小さく回っている。標準鑑定では用途不明。だが、見ていると分かる。これは速さの残骸だ。あの狼が空を裂いて走った、その一部。これを武器に入れるか、鉤鎖に通すか、身体強化の補助具にするか。考えるだけで、次の戦闘が少し近づく。
スマートフォンが震えた。朱音からのメッセージ。
『明日は学校に来ること』
澪は少し考えた。
『午前だけ』
『全部』
『昼からダンジョン』
『駄目』
『じゃあ午後だけ』
『交渉しない』
澪はスマートフォンを伏せた。学校。面倒だ。だが、行かなければ朱音がまた部屋まで来る。久遠も来るかもしれない。それはもっと面倒だ。なら、少しだけ行く。午前か午後かは、明日の朝考えればいい。
澪は地図へ視線を戻した。第六環。第七環。第八環。第九環。普通の探索者は第五環で第二層へ降りる。だから外側は空白が多い。誰も行かないから、情報がない。情報がないから、誰も行けない。なら、澪が行けばいい。映せばいい。死なずに戻れば、次はもう少し奥へ行ける。誰かが見て、綺麗だと言うかもしれない。誰かが、行きたいと思うかもしれない。危険だと怒られるかもしれない。それでも、あの景色を知ってしまった。
澪は地図の端に、小さく書き込んだ。
第一層第九環《空葬原》。
その横に、次の目標を記す。
――七環入口の安定ルート確認。硝子翼狼変異核片の加工。正規帰還札、もう一枚。高位帰還札、目標。配信概要欄、書く。
最後の一つだけ、少し浮いている気がした。澪は首を傾げたが、朱音がうるさそうなので消さなかった。
窓の外では、地上の夜が静かに降りている。ダンジョンの夜とは違う、何の牙もない夜。澪はそれを少しだけ眺め、やがて目を閉じた。瞼の裏には、割れた空の墓標がまだ残っている。透明な獣が、空を食べていた。美しい。怖い。遠い。だから、行く。
次は、もう少し奥まで。
ダンジョンは全6層。
各層は九環構造。
階層数は少ないが、一層ごとが超広大で、異世界そのもののような広さを持つ。
層:
第一層《零れ空の庭》
第二層《呼吸する黒樹》
第三層《鏡胎都市》
第四層《鐘の降る海》
第五層《星を喰む廃園》
第六層《名前のない底》
各層の九環:
1環:門前環
2環:浅環
3環:狩環
4環:境界環
5環:正道環
6環:外縁環
7環:異象環
8環:禁足環
9環:淵環
第五環に次層への正規下降路がある。
普通の探索者は第五環で次層へ降りる。
そのため第六〜第九環は正規攻略に不要な危険地帯。




