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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第三章

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第二十二話 死神

 澪は、もう何度死神に触れられたのか覚えていなかった。


 黒い水膜の上には、いつも同じ冷たさがある。踏めば沈み、走れば波が追ってくる。水なのに床で、床なのに息をしていて、油断すると足首から名前まで持っていかれる。ここに落ちて最初の頃、澪は黒い水の下から出てくる影を敵だと思っていた。斬り、砕き、逃げ、戻り、また斬った。

 けれど、違った。

 敵は最初から一体だけだった。影も、黒い水も、骨片の雨も、前世の死を何度も見せる暗い記憶も、全部そいつの手の内だった。


 死神。


 前の世界の最後、崩れた砦の中で澪の額に触れたもの。血と煤と折れた旗の向こうで、声もなく近づいてきたもの。死んだはずの澪の魂に、冷たい指を置いたもの。

 この黒い水膜の底で、そいつは何度も形を変えた。影になった。声になった。朱音の幻になった。前世の戦場になった。白い裂け目の奥で、ただ目だけを浮かべていたこともある。

 それでも、澪にはもう分かっていた。

 どれだけ姿を変えても、触れ方が同じだ。

 そいつは、澪の終わった場所に触れてくる。


 白い裂け目は、前よりも少しだけ太くなっていた。


 黒い水膜の向こうに走る、細い傷。そこから風が来る。湿った土と、遠い雨と、鉄の匂い。第二層の匂いに似ている。まだ地上ではない。まだ帰還ではない。それでも、ここではない場所へ繋がる匂いだった。

 澪は裂け目の前に立ち、メイの鎖を短く握った。空葬装束の胸元は黒く濁り、裾は何度も裂けている。深藍と白だった布は、黒い水膜に削られて、ところどころ色を失っていた。


 でも、完全には沈んでいない。


 何度黒に飲まれても、澪が魔力を通すたび、白い部分だけが戻ってくる。汚れが落ちるのではない。奪われた形を取り返している。黒い水膜が布を同じ黒へ混ぜようとするたび、空葬装束は澪の魔力を噛んで、ほんの少しだけ白く戻る。


 まだ名前はない。


 澪はまだ、その服をただの空葬装束として扱っていた。


「開ける」


 澪が言うと、裂け目の奥で青白い瞳が細くなった。


「まだ、あけない」

「もう聞いた」

「おまえは、まだしんでいる」

「今は生きてる」

「ひとつめのしを、かえして」


 黒い水膜が静かに盛り上がった。

 死神が出てくる。


 初めてではない。

 何度も見た姿だ。長い黒の外套。顔のないフード。奥で燃えるような青白い瞳。手に持つ鎌は、黒い水よりも暗く、刃の縁だけが白い。最初の形は白く、ぼんやりした人型とも動物とも取れる形だった。形はどんどん鮮明になっていく。澪が裂け目に近づくたび、死神もまた輪郭を取り戻していく。

 つまり、近い。

 核に近づいている。

 だから、向こうも隠れなくなった。


 死神が鎌を振る。


 澪は受けない。もう知っている。あの鎌は刃を受けても、受けた場所とは別の場所を斬る。最初にやられた時、澪はメイで完全に防いだはずなのに、背骨の内側を切られた。次は肩。次は喉。斬られるのは肉ではなく、死神が触れたことのある終わりの線だった。

 だから澪は沈む。黒い水膜へ足を半分沈め、体勢を落とし、鎌の軌道ではなく、死神の手首を見る。

 刃が首元を抜ける。空気が死ぬ。音が遅れる。

 その一拍後、澪の左頬が裂けた。

 読んでいても、完全には避けられない。けれど浅い。澪はその痛みを無視し、メイの鎖を死神の右手へ投げた。


 鉤刃が外套を裂く。

 手応えは薄い。だが、空ではない。死神はもう、ただの幻ではなくなっている。黒い水膜の底で何度も斬り合い、澪が核へ近づき続けたせいで、死神の側にも触れるべき輪郭が生まれていた。

 澪は鎖を引く。

 死神の手首がわずかにずれた。

 その隙に、澪は踏み込んだ。


 水膜を蹴る。

 足場が沈む。

 沈む前に、次の場所へ体重を移す。転移は使わない。死神は転移後の残響を斬れる。前にそれで右目を持っていかれかけた。だから、今は足で行く。

 澪は低く入り、死神の膝下へメイの柄を叩き込んだ。

 軽い。

 中身のない袋を叩いたような感触。だが、次の瞬間、外套の奥から白い火花が散った。

 届いている。


「そこ」


 澪はもう一歩踏み込む。

 死神の左手が澪の額へ伸びた。


 澪はそれを一番嫌っていた。

 前世の最後、死神はそこに触れた。額に触れられた瞬間、澪は自分の死を理解した。あの冷たさを、身体が覚えている。だから黒い水膜の中で何度幻を見せられても、額へ伸びる指だけは絶対に許さない。

 澪は頭を下げ、額へ触れる直前の手を避ける。

 避けたはずだった。

 だが、死神の指は澪の髪をすり抜け、頭の奥へ触れた。


 砦の匂いが戻る。

 焼けた石。血。泥。折れた剣。喉に溜まった鉄の味。

 澪は前世の身体で倒れていた。骨が重い。今より手が大きい。呼吸が血で詰まっている。遠くで誰かが叫んでいるが、もう誰の声か分からない。

 目の前に死神が立っている。

 長い指が額へ伸びる。

 終わりが来る。


「違う」


 澪は、前世の喉で言った。

 声は掠れていた。けれど届いた。


「それは、もう終わった」


 澪は自分の胸に巻いていたメイの鎖を引く。痛みが現在へ繋がる。今の身体。細い腕。黒い水に濡れた足。空葬装束の締めつけ。前世の死ではなく、今ここで立っている自分の痛み。

 戦場の空が割れる。

 黒い水膜の上へ戻った瞬間、死神の鎌が腹を裂いた。


 腹の中が開く。

 熱が落ちる。黒い水が傷口へ入ろうとする。澪は奥歯を噛み、メイの鎖を死神の腕へさらに絡めた。逃げない。距離を取れば、また前世の死を見せられる。なら、近い方がいい。

 《再生》が走る。

 傷口が塞がる。肉が戻る。だが、死神の鎌で斬られた線だけは冷たく残る。普通の傷ではない。死が触れた跡。再生しても、そこだけ戻るのが遅い。


 ただ、息を吐いた。


「遅い」


 死神の鎌が二度目を振るう。

 澪は短距離転移で半歩ずれる。白い残像が黒い水膜に残る。死神の鎌は、その残像を斬った。

 残像が裂ける。

 同時に、澪の肩も裂けた。

 予想通りだ。

 澪は肩を裂かせたまま前へ出る。死神が残像を斬る癖を使う時、ほんの一瞬、今の澪への反応が遅れる。その一瞬だけで十分だった。

 メイの刃が、死神の外套の奥へ入る。

 白い核が見えた。

 前より近い。ずっと近い。


 死神がすぐに外套を閉じる。だが見えた。そこにある。骨輪の欠片や骨の鍵と同じ振動。裂け目を開くために必要なもの。死神が抱え込んでいる、澪の前世の死の欠片。


「それ、いる」

「これは、おまえのし」

「なら、私の」

「こちらのもの」

「勝手に取るな」


 澪は鎖を引き、死神の鎌を少しだけ下げる。

 死神は下がらない。鎌ではなく、左手を伸ばす。

 今度は額ではない。

 胸へ来た。

 澪はメイを戻そうとしたが、遅い。死神の手が空葬装束をすり抜け、皮膚も骨も無視して、胸の奥へ入った。


 心臓を掴まれた。


 鼓動が止まる。

 呼吸が消える。

 黒い水膜の音も、メイの鎖の音も、全部が遠くなる。

 これも何度目か分からない。死神は何度も澪の心臓を止めてきた。そのたびに《再生》は無理やり身体を動かし、澪は痛みで意識を繋いだ。だが、今回は深い。

 ただ止められたのではない。

 死神の指が、心臓の形そのものを持っていこうとしている。

 ここで奪われたら、戻らない。

 澪はそう理解した。


「かえせ」


 死神が言う。


「ひとつめのしを、かえせ」


 澪は、死神の手首を掴んだ。

 力はほとんど入らない。心臓が止まっている。血が巡っていない。肺も動かない。視界の端が暗く崩れていく。

 それでも、指は動いた。

 メイの鎖が鳴る。

 空葬装束が胸元で締まる。

 黒い水が口から溢れる。

 澪は、死神を見上げた。


「やだ」


 その一言で、視界に薄い文字が浮いた。


《再生》Lv9→Lv10


《再生》が上限に到達しました。

《不老》との統合条件を確認。

生命維持、形状復元、魔力循環再構成を統合します。

ユニークスキル《不老不死》を獲得しました。


 心臓が、動いた。

 止まった心臓を治したのではない。動いていたはずの形を、魔力で無理やり引き戻した。止まった血流の道をなぞり直し、潰れた肺に空気の形を押し込み、薄く剥がれかけた魂を肉体の奥へ縫い戻す。

 再生が変わった。

 傷を塞ぐ力ではない。死ぬはずの形を、死ぬ前へ押し返す力だった。

 痛みが一気に戻る。

 心臓を握られた痛み。呼吸が戻る痛み。魂を引き戻す痛み。全部が、今ここにいる証拠のように澪を焼いた。


 澪は死神の手首を強く掴んだ。


「それ、私の」


 死神の瞳が、初めて揺れた。


「しんだ」

「死んだ」

「なら、こちらのもの」

「今は生きてる」


 澪はメイを引いた。

 鎖が死神の鎌を絡め取る。黒い刃が軋む。メイの刃に白い火花が走る。空葬装束が胸元で黒い水を吐き出す。白い部分が、じわりと広がる。

 死神の手は、まだ澪の心臓を掴んでいる。

 澪は構わず前へ出た。

 掴まれた心臓ごと、前へ。

 肉が裂ける。骨が鳴る。血が逆流する。だが戻る。《不老不死》が魔力を食い、死を押し戻す。

 魔力が燃える。

 澪の奥で、青白い火が通る。

 死神の手が、少しずつ押し出される。


「出てけ」


 澪は死神の胸へメイを突き立てた。

 今度は届いた。

 白い核に、鎌刃が食い込む。


 死神が声を上げた。

 叫びではない。世界が軋む音だった。黒い水膜が逆立ち、白い裂け目が広がる。前世の戦場がまた見える。瓦礫。旗。死体。澪が終わった場所。

 死神はその景色を澪へ押しつけてくる。

 ここで終わった。

 ここで死んだ。

 ここがお前の最後だ。

 澪はその全部を見た。

 見た上で、鎌をさらに押し込んだ。


「二回目は、いらない」


 メイの刃が核を割る。

 割れた核から、白い骨片が飛び出した。骨輪でも鍵でもない。小さな指の骨のような欠片。死神が最初に澪の額へ触れた、あの指の先。

 澪はそれを掴んだ。

 掴んだ瞬間、前世の最後の冷たさが指先から流れ込む。心臓がまた止まりかける。だが、今度は止まらない。止まっても、戻る。

 澪は死神の指骨を握り潰した。

 白い粉が舞う。

 空葬装束が、その粉を受けた。

 黒く濁っていた胸元の布が、一気に白へ近づく。真っ白ではない。まだところどころ黒い水が染みている。けれど、中心はもう黒に戻らなかった。

 服が、自分で黒を吐いた。

 澪はそれを感じた。


「……マシロ」


 自然に、そう呼んだ。

 長い名前ではない。機能名でもない。黒い水の中で、黒を拒んで白く戻ろうとする服。

 マシロ。

 胸元の布が、小さく震えた。

 返事ではない。たぶん、まだ言葉ではない。

 けれど、意志の芽のようなものがあった。


 死神の鎌が崩れる。

 メイの鎖が黒い刃を食うように絡みつき、刃の縁から白い筋を奪っていく。武器同士が鳴った。澪の手首に、重い振動が伝わる。


「メイ、食べ過ぎ」


 澪が呟くと、メイは低く鳴った。

 不満そうだった。


 死神は沈まない。

 核を割られ、指骨を砕かれ、鎌を削られても、まだ立っている。青白い瞳は消えない。澪を見ている。怒りではなく、興味でもなく、ただ深い場所から手を伸ばすような目だった。


「まだ」

「まだ、やる」

「しを、こえる?」

「知らない」

「なにに、なる」

「帰ってから考える」


 澪は鎌を構え直した。

 身体は重い。魔力も削れた。けれど、底は見えない。魔力が巡れば、死なない。死なないなら、進める。進めるなら、戻れる。

 マシロが胸元で小さく締まる。

 メイが鎖を鳴らす。

 死神が、壊れかけた黒い鎌を再び形にする。


 白い裂け目の向こうから、風が強く吹いた。

 湿った土と、雨と、鉄の匂い。第二層の匂い。まだ地上ではない。だが、ここではない場所の匂いだった。


「次で、開ける」


 澪は踏み込んだ。

 死神も、前へ出た。

 黒い水膜の上で、二つの鎌がぶつかった。

 今度は音が鳴った。

 死んでいた音が、戻った。

この死神さんはダンジョン中という事でかなーり弱体化されております。

今回のイレギュラーは条件さえ整えば全探索者に訪れる試練です。澪の場合は前世で出会っている死神さん討伐が試練内容です。

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