第二十二話 死神
澪は、もう何度死神に触れられたのか覚えていなかった。
黒い水膜の上には、いつも同じ冷たさがある。踏めば沈み、走れば波が追ってくる。水なのに床で、床なのに息をしていて、油断すると足首から名前まで持っていかれる。ここに落ちて最初の頃、澪は黒い水の下から出てくる影を敵だと思っていた。斬り、砕き、逃げ、戻り、また斬った。
けれど、違った。
敵は最初から一体だけだった。影も、黒い水も、骨片の雨も、前世の死を何度も見せる暗い記憶も、全部そいつの手の内だった。
死神。
前の世界の最後、崩れた砦の中で澪の額に触れたもの。血と煤と折れた旗の向こうで、声もなく近づいてきたもの。死んだはずの澪の魂に、冷たい指を置いたもの。
この黒い水膜の底で、そいつは何度も形を変えた。影になった。声になった。朱音の幻になった。前世の戦場になった。白い裂け目の奥で、ただ目だけを浮かべていたこともある。
それでも、澪にはもう分かっていた。
どれだけ姿を変えても、触れ方が同じだ。
そいつは、澪の終わった場所に触れてくる。
白い裂け目は、前よりも少しだけ太くなっていた。
黒い水膜の向こうに走る、細い傷。そこから風が来る。湿った土と、遠い雨と、鉄の匂い。第二層の匂いに似ている。まだ地上ではない。まだ帰還ではない。それでも、ここではない場所へ繋がる匂いだった。
澪は裂け目の前に立ち、メイの鎖を短く握った。空葬装束の胸元は黒く濁り、裾は何度も裂けている。深藍と白だった布は、黒い水膜に削られて、ところどころ色を失っていた。
でも、完全には沈んでいない。
何度黒に飲まれても、澪が魔力を通すたび、白い部分だけが戻ってくる。汚れが落ちるのではない。奪われた形を取り返している。黒い水膜が布を同じ黒へ混ぜようとするたび、空葬装束は澪の魔力を噛んで、ほんの少しだけ白く戻る。
まだ名前はない。
澪はまだ、その服をただの空葬装束として扱っていた。
「開ける」
澪が言うと、裂け目の奥で青白い瞳が細くなった。
「まだ、あけない」
「もう聞いた」
「おまえは、まだしんでいる」
「今は生きてる」
「ひとつめのしを、かえして」
黒い水膜が静かに盛り上がった。
死神が出てくる。
初めてではない。
何度も見た姿だ。長い黒の外套。顔のないフード。奥で燃えるような青白い瞳。手に持つ鎌は、黒い水よりも暗く、刃の縁だけが白い。最初の形は白く、ぼんやりした人型とも動物とも取れる形だった。形はどんどん鮮明になっていく。澪が裂け目に近づくたび、死神もまた輪郭を取り戻していく。
つまり、近い。
核に近づいている。
だから、向こうも隠れなくなった。
死神が鎌を振る。
澪は受けない。もう知っている。あの鎌は刃を受けても、受けた場所とは別の場所を斬る。最初にやられた時、澪はメイで完全に防いだはずなのに、背骨の内側を切られた。次は肩。次は喉。斬られるのは肉ではなく、死神が触れたことのある終わりの線だった。
だから澪は沈む。黒い水膜へ足を半分沈め、体勢を落とし、鎌の軌道ではなく、死神の手首を見る。
刃が首元を抜ける。空気が死ぬ。音が遅れる。
その一拍後、澪の左頬が裂けた。
読んでいても、完全には避けられない。けれど浅い。澪はその痛みを無視し、メイの鎖を死神の右手へ投げた。
鉤刃が外套を裂く。
手応えは薄い。だが、空ではない。死神はもう、ただの幻ではなくなっている。黒い水膜の底で何度も斬り合い、澪が核へ近づき続けたせいで、死神の側にも触れるべき輪郭が生まれていた。
澪は鎖を引く。
死神の手首がわずかにずれた。
その隙に、澪は踏み込んだ。
水膜を蹴る。
足場が沈む。
沈む前に、次の場所へ体重を移す。転移は使わない。死神は転移後の残響を斬れる。前にそれで右目を持っていかれかけた。だから、今は足で行く。
澪は低く入り、死神の膝下へメイの柄を叩き込んだ。
軽い。
中身のない袋を叩いたような感触。だが、次の瞬間、外套の奥から白い火花が散った。
届いている。
「そこ」
澪はもう一歩踏み込む。
死神の左手が澪の額へ伸びた。
澪はそれを一番嫌っていた。
前世の最後、死神はそこに触れた。額に触れられた瞬間、澪は自分の死を理解した。あの冷たさを、身体が覚えている。だから黒い水膜の中で何度幻を見せられても、額へ伸びる指だけは絶対に許さない。
澪は頭を下げ、額へ触れる直前の手を避ける。
避けたはずだった。
だが、死神の指は澪の髪をすり抜け、頭の奥へ触れた。
砦の匂いが戻る。
焼けた石。血。泥。折れた剣。喉に溜まった鉄の味。
澪は前世の身体で倒れていた。骨が重い。今より手が大きい。呼吸が血で詰まっている。遠くで誰かが叫んでいるが、もう誰の声か分からない。
目の前に死神が立っている。
長い指が額へ伸びる。
終わりが来る。
「違う」
澪は、前世の喉で言った。
声は掠れていた。けれど届いた。
「それは、もう終わった」
澪は自分の胸に巻いていたメイの鎖を引く。痛みが現在へ繋がる。今の身体。細い腕。黒い水に濡れた足。空葬装束の締めつけ。前世の死ではなく、今ここで立っている自分の痛み。
戦場の空が割れる。
黒い水膜の上へ戻った瞬間、死神の鎌が腹を裂いた。
腹の中が開く。
熱が落ちる。黒い水が傷口へ入ろうとする。澪は奥歯を噛み、メイの鎖を死神の腕へさらに絡めた。逃げない。距離を取れば、また前世の死を見せられる。なら、近い方がいい。
《再生》が走る。
傷口が塞がる。肉が戻る。だが、死神の鎌で斬られた線だけは冷たく残る。普通の傷ではない。死が触れた跡。再生しても、そこだけ戻るのが遅い。
ただ、息を吐いた。
「遅い」
死神の鎌が二度目を振るう。
澪は短距離転移で半歩ずれる。白い残像が黒い水膜に残る。死神の鎌は、その残像を斬った。
残像が裂ける。
同時に、澪の肩も裂けた。
予想通りだ。
澪は肩を裂かせたまま前へ出る。死神が残像を斬る癖を使う時、ほんの一瞬、今の澪への反応が遅れる。その一瞬だけで十分だった。
メイの刃が、死神の外套の奥へ入る。
白い核が見えた。
前より近い。ずっと近い。
死神がすぐに外套を閉じる。だが見えた。そこにある。骨輪の欠片や骨の鍵と同じ振動。裂け目を開くために必要なもの。死神が抱え込んでいる、澪の前世の死の欠片。
「それ、いる」
「これは、おまえのし」
「なら、私の」
「こちらのもの」
「勝手に取るな」
澪は鎖を引き、死神の鎌を少しだけ下げる。
死神は下がらない。鎌ではなく、左手を伸ばす。
今度は額ではない。
胸へ来た。
澪はメイを戻そうとしたが、遅い。死神の手が空葬装束をすり抜け、皮膚も骨も無視して、胸の奥へ入った。
心臓を掴まれた。
鼓動が止まる。
呼吸が消える。
黒い水膜の音も、メイの鎖の音も、全部が遠くなる。
これも何度目か分からない。死神は何度も澪の心臓を止めてきた。そのたびに《再生》は無理やり身体を動かし、澪は痛みで意識を繋いだ。だが、今回は深い。
ただ止められたのではない。
死神の指が、心臓の形そのものを持っていこうとしている。
ここで奪われたら、戻らない。
澪はそう理解した。
「かえせ」
死神が言う。
「ひとつめのしを、かえせ」
澪は、死神の手首を掴んだ。
力はほとんど入らない。心臓が止まっている。血が巡っていない。肺も動かない。視界の端が暗く崩れていく。
それでも、指は動いた。
メイの鎖が鳴る。
空葬装束が胸元で締まる。
黒い水が口から溢れる。
澪は、死神を見上げた。
「やだ」
その一言で、視界に薄い文字が浮いた。
《再生》Lv9→Lv10
《再生》が上限に到達しました。
《不老》との統合条件を確認。
生命維持、形状復元、魔力循環再構成を統合します。
ユニークスキル《不老不死》を獲得しました。
心臓が、動いた。
止まった心臓を治したのではない。動いていたはずの形を、魔力で無理やり引き戻した。止まった血流の道をなぞり直し、潰れた肺に空気の形を押し込み、薄く剥がれかけた魂を肉体の奥へ縫い戻す。
再生が変わった。
傷を塞ぐ力ではない。死ぬはずの形を、死ぬ前へ押し返す力だった。
痛みが一気に戻る。
心臓を握られた痛み。呼吸が戻る痛み。魂を引き戻す痛み。全部が、今ここにいる証拠のように澪を焼いた。
澪は死神の手首を強く掴んだ。
「それ、私の」
死神の瞳が、初めて揺れた。
「しんだ」
「死んだ」
「なら、こちらのもの」
「今は生きてる」
澪はメイを引いた。
鎖が死神の鎌を絡め取る。黒い刃が軋む。メイの刃に白い火花が走る。空葬装束が胸元で黒い水を吐き出す。白い部分が、じわりと広がる。
死神の手は、まだ澪の心臓を掴んでいる。
澪は構わず前へ出た。
掴まれた心臓ごと、前へ。
肉が裂ける。骨が鳴る。血が逆流する。だが戻る。《不老不死》が魔力を食い、死を押し戻す。
魔力が燃える。
澪の奥で、青白い火が通る。
死神の手が、少しずつ押し出される。
「出てけ」
澪は死神の胸へメイを突き立てた。
今度は届いた。
白い核に、鎌刃が食い込む。
死神が声を上げた。
叫びではない。世界が軋む音だった。黒い水膜が逆立ち、白い裂け目が広がる。前世の戦場がまた見える。瓦礫。旗。死体。澪が終わった場所。
死神はその景色を澪へ押しつけてくる。
ここで終わった。
ここで死んだ。
ここがお前の最後だ。
澪はその全部を見た。
見た上で、鎌をさらに押し込んだ。
「二回目は、いらない」
メイの刃が核を割る。
割れた核から、白い骨片が飛び出した。骨輪でも鍵でもない。小さな指の骨のような欠片。死神が最初に澪の額へ触れた、あの指の先。
澪はそれを掴んだ。
掴んだ瞬間、前世の最後の冷たさが指先から流れ込む。心臓がまた止まりかける。だが、今度は止まらない。止まっても、戻る。
澪は死神の指骨を握り潰した。
白い粉が舞う。
空葬装束が、その粉を受けた。
黒く濁っていた胸元の布が、一気に白へ近づく。真っ白ではない。まだところどころ黒い水が染みている。けれど、中心はもう黒に戻らなかった。
服が、自分で黒を吐いた。
澪はそれを感じた。
「……マシロ」
自然に、そう呼んだ。
長い名前ではない。機能名でもない。黒い水の中で、黒を拒んで白く戻ろうとする服。
マシロ。
胸元の布が、小さく震えた。
返事ではない。たぶん、まだ言葉ではない。
けれど、意志の芽のようなものがあった。
死神の鎌が崩れる。
メイの鎖が黒い刃を食うように絡みつき、刃の縁から白い筋を奪っていく。武器同士が鳴った。澪の手首に、重い振動が伝わる。
「メイ、食べ過ぎ」
澪が呟くと、メイは低く鳴った。
不満そうだった。
死神は沈まない。
核を割られ、指骨を砕かれ、鎌を削られても、まだ立っている。青白い瞳は消えない。澪を見ている。怒りではなく、興味でもなく、ただ深い場所から手を伸ばすような目だった。
「まだ」
「まだ、やる」
「しを、こえる?」
「知らない」
「なにに、なる」
「帰ってから考える」
澪は鎌を構え直した。
身体は重い。魔力も削れた。けれど、底は見えない。魔力が巡れば、死なない。死なないなら、進める。進めるなら、戻れる。
マシロが胸元で小さく締まる。
メイが鎖を鳴らす。
死神が、壊れかけた黒い鎌を再び形にする。
白い裂け目の向こうから、風が強く吹いた。
湿った土と、雨と、鉄の匂い。第二層の匂い。まだ地上ではない。だが、ここではない場所の匂いだった。
「次で、開ける」
澪は踏み込んだ。
死神も、前へ出た。
黒い水膜の上で、二つの鎌がぶつかった。
今度は音が鳴った。
死んでいた音が、戻った。
この死神さんはダンジョン中という事でかなーり弱体化されております。
今回のイレギュラーは条件さえ整えば全探索者に訪れる試練です。澪の場合は前世で出会っている死神さん討伐が試練内容です。




