第二十三話 存在進化
皆様。貴重なコメントをありがとうございます。
黒画面になってから、一年が過ぎた。
地上では季節がひと巡りしていた。春の湿った風も、夏の熱も、秋の乾いた葉擦れも、冬の白い朝も、澪のいないまま過ぎていった。アークライン観測室の中央モニターには、変わらず黒い画面があり、白い文字だけが残っている。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
その一年で、地上側も変わった。朱音は救助補助として現場に出るようになり、槍は守るだけでなく、戻すためのものになった。遥は短剣を増やし、黒い根や拘束をほどく技術を磨いた。水瀬は記録係に収まらなくなり、戦闘向けの存在進化にふさわしい前線処理を見せ始めた。
凛は卒業し、黒鉄への就職を決めた。存在進化後の姿はどこか可愛らしく、普段は柔らかい雰囲気になったが、黒鉄の訓練場ではその印象を裏切る速さで動いた。
ノア・ヴェイルの公認解説も、黒画面の日常に組み込まれた。不老薬を巡る騒ぎは沈静化していない。偽薬業者、素材狙い、祈願商法、後追い探索。そのたびに佐伯が潰し、神楽坂が線を引き、黒瀬が現場の怒りを押さえた。
すべてが終わったわけではない。だが、澪の不在を食い物にしようとする者たちは、以前よりずっと動きにくくなっていた。
それでも、中心にいるはずの本人だけが戻らない。
朱音は一年目の夜、観測室の隅で卵焼きの入った小さな弁当箱を膝に置いていた。食べるためではない。いつからか、黒画面を見る時に持ってくるようになった。冷める。傷む。だから毎回作り直す。意味があるのかと聞かれれば、たぶんない。けれど、澪が帰ってきた時に最初に浮かぶものが、検査でも契約でも配信でもなく、温かいご飯であってほしかった。
「今日で一年」
「数えなくても分かってる」
「分かっていても、記録はいる」
「水瀬、そればっかり」
「重要だから」
水瀬はそう言って端末を閉じた。遥は壁に背を預け、短剣の柄に指を添えている。
「澪、帰ってきたら何食べるかな〜」
「最初は消化にいいもの」
「澪が嫌がりそう〜」
「嫌がっても食べさせる」
「怒る〜?」
「怒らない」
朱音は黒画面を見たまま、小さく言った。
「帰ってきてくれたら、それでいい」
その時、観測室の警告灯が白く灯った。
音は遅れて来た。端末群が一斉に立ち上がり、黒画面の白文字が乱れる。ミナトが椅子を蹴るように立ち上がった。神楽坂が回線を開き、佐伯が外部通信を絞る。榊原とユイカの装備監視端末にも、空葬装束とメイの反応が跳ね上がった。
「復旧反応」
「映像来ます」
「原本保存準備」
「音声も拾ってます」
「七瀬さん、見てください」
黒画面が割れた。
最初に映ったのは、黒い水膜だった。けれど、以前とは違う。水膜には無数の白い亀裂が走り、そこから風が吹いている。黒一色だった世界に、外側の匂いが入り込んでいる。湿った土。遠い雨。鉄。第二層の奥にある、生きた森の匂い。
その中心で、澪は死神と斬り合っていた。
伸びた髪は黒に近い深藍を残し、ところどころ白い筋が混じっているだけだった。空葬装束は白く戻り始めていたが、真っ白には遠い。胸元や袖口だけが白く、裾は黒い水に濡れて裂けている。
それでも、澪は立っていた。
死神の鎌が横から薙ぐ。澪は受けない。黒い刃は、刃そのものよりも遅れて死を置いてくる。前にそれで何度も斬られた。澪は知っている。だから半歩沈み、鎌の軌道ではなく死神の手首を見る。死神の指が動く前に、メイの鎖を絡める。
鎖が鳴る。死神の右腕がわずかに下がる。澪はそこへ潜った。メイの刃を逆手に持ち、死神の外套の下へ叩き込む。黒い布の奥から白い火花が散った。
死神は下がらない。左手を伸ばし、澪の胸へ触れようとする。そこはもう何度も奪われかけた場所だった。前話で心臓を握られ、死ぬはずの形を押し戻した場所。死に近い場所へ引き戻されるたび、身体は焼けるように痛む。
「もう、それは効きにくい」
澪は短く言い、胸へ伸びる手を肩で受け流した。
死神の指が空葬装束を裂く。黒い水が布へ入り込む。だが、装束は自分から締まった。澪が命じる前に、黒い水を吐き出し、胸元の白を戻そうとする。澪はそれを感じて、ほんの一瞬だけ目を落とした。
「マシロ」
その名を呼ぶと、白い布が小さく震えた。
コメント欄が爆発した。
『映った』
『澪!!』
『死神まだいる』
『一年ぶりの長尺!?』
『今マシロって言った?』
『服の名前?』
『空葬装束が動いてる?』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】The outfit appears to be responding independently to contamination.(装束が汚染に対して自律的に反応しているように見えます)』
『マシロ自律してるの!?』
『服になりたい』
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『早い』
『一年待って第一声それかよ』
澪は死神の懐へ入った。
死神の鎌が返ってくる。澪はメイで受ける。刃と刃がぶつかり、今度は音が鳴った。以前は音が死んでいた。死神の領域では、斬撃の音も、呼吸の音も、全部が黒い水へ沈んだ。けれど今は違う。メイが鳴らしている。マシロが響かせている。澪の身体が、死神の沈黙に負けていない。
鎌を押し返す。死神の刃が上へ流れる。澪はその下を潜り、右足を踏み込んだ。黒い水膜が足首を飲もうとするが、マシロの裾から白い糸が落ち、水膜を一拍だけ押さえた。澪はその上を踏む。足場ができる。ほんの一瞬。それで十分だった。
メイの刃が、死神の胸へ入る。
浅い。
死神が澪の首を狙う。澪は避けず、首を傾けるだけで済ませた。頬が裂ける。血が飛ぶ。傷は戻る。冷たい線は残る。それでも止まらない。
二撃目。外套の奥へ。
三撃目。白い核の縁へ。
四撃目。死神の手首を落とす位置へ。
死神の手首は落ちない。だが、揺れた。青白い瞳が細くなる。澪はそのわずかな乱れを見逃さなかった。鎖を引き、死神の鎌を自分の方へ寄せる。危険な引き方だった。黒い刃が澪の肩を裂き、骨の奥まで冷えた。だが死神の胸も開く。
「そこ」
澪はメイを突き込んだ。
死神の核に届く。
白い火花が散る。黒い水膜が逆立つ。前世の戦場が一瞬だけ映った。瓦礫。血。折れた旗。死んだはずの澪の身体。死神は最後の抵抗として、その景色を澪へ押しつける。
ここで終わった。
ここで死んだ。
ここがお前の最後だ。
澪は全部見た。見た上で、メイをさらに押し込んだ。
「それは、前の私」
死神の鎌が澪の腹を貫く。
痛みが走る。内臓が潰れる。黒い水が入る。だが、澪は引かない。死を押し戻す力はもうある。身体が壊れるそばから、魔力が形を戻す。治っているのではない。戻している。死神に取られる前に、澪自身の形へ引き戻している。
「今の私は」
澪は息を吸った。
「天瀬 澪だ!」
メイが核を割った。
音がした。
小さく、硬く、世界の奥で鍵が折れるような音だった。
死神の青白い瞳が揺れる。外套が内側から裂け、黒い鎌が崩れ始める。死神は澪の胸へもう一度手を伸ばした。前世の最後に触れた手。何度も澪を終わりへ引き戻そうとした手。
澪は、その手を掴んだ。
「もういい」
握り潰す。
白い骨の粉が舞った。粉は黒い水へ落ちず、マシロの胸元へ吸い込まれる。黒く濁っていた布が一気に白へ近づく。まだ完全ではない。けれど、中心はもう黒に戻らない。マシロが黒を吐き、澪の魔力を受け、白くなろうとしている。
死神が崩れる。
「しを、こえたか」
「知らない」
「なにに、なる」
「それも、知らない」
澪はメイを引き抜いた。
「でも、終わった」
死神が砕けた。
黒い水膜が割れる。水面だったものが霧になり、霧だったものが白い光になって、裂け目の向こうへ吸い込まれていく。死神のいた場所に、細い白い道が現れた。道の上には、前世の砦の瓦礫も、黒い水も、死の匂いも残っていない。
そして、澪の視界に薄い文字が浮いた。
《存在進化条件を満たしました》
《存在進化を開始します》
澪は目を細めた。
「今?」
返事はない。
身体の奥で、何かが組み替わる。
痛みとは少し違う。傷ではない。肉が裂けるのでも、骨が伸びるのでもない。もっと深いところで、自分という形の輪郭が書き換わっていく感覚だった。黒い水膜の中で何度も死を押し戻し、死神の手を砕き、戻るという意思だけを足場にして立ち続けた結果が、ようやく形になる。
髪から色が抜ける。
深藍だった髪が、根元から白へ変わっていく。ただの白ではない。黒い水の底を潜って残った白だ。内側や耳の後ろ、毛先の一部に、墨を細く流したような黒が差す。白だけではない。黒を拒み、黒を越え、それでも黒の名残を持つ色。
次に、頭の上が熱くなった。
「……?」
澪が手を上げる前に、髪の中から小さな耳が二つ立った。
猫の耳だった。
白い毛並みに、先端だけわずかに黒い。耳は空気の震えを拾うようにぴくりと動き、澪自身が少し驚いた顔をした。死神との戦闘中に生えたものではない。死神を越えた後、存在進化が確定した証として現れたものだった。
目の色も変わる。
青。
死神の青白さとは違う。けれど、その名残はある。見たものを吸い込むような、底のない青だった。黒い水膜の暗さと、死神の冷たさと、それを越えた澪の意思が混ざった色。画面越しでも、見ている者の息を止めるほど深かった。
マシロが最後に変わった。
黒く濁っていた布が、端から白く戻っていく。裾、袖、胸元、腰、背中。裂けた部分はそのまま縫い直されるように閉じ、重さが抜け、白い外套が澪の動きに合わせて静かに広がる。完全な純白ではない。縫い目や装飾の奥に、細い黒が残っている。それが逆に、白を際立たせていた。
メイも鳴った。
鎌の刃に残っていた黒い死の縁が白く澄み、鎖の節に青い光が入る。髑髏の意匠はそのまま。だが、死神の欠片を喰ったせいか、刃の内側には吸い込まれそうな青が薄く宿っていた。
そのすべてが、配信に映っていた。
『は?』
『え』
『猫耳』
『猫耳!?』
『今生えた!?』
『存在進化!?』
『死神倒した後に変わったぞ』
『戦闘後変化だよな?』
『髪白い』
『黒アクセントある』
『目、青すぎる』
『吸い込まれる』
『マシロ真っ白になった』
『メイも変わってる』
『情報量が多すぎる』
『待って、猫耳動いた』
『動いた』
『耳動いたぞ』
『澪ちゃんの猫耳の先っぽの黒になって死神撃破の余韻を震わせたい』
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『早い』
『白い耳の内側に住みたい』
このコメントは削除されました。
『もっと早い』
『マシロの裾になって猫耳澪の一歩に合わせて揺れたい』
このコメントは削除されました。
『変態も存在進化するな』
『【公式】アークライン配信管理部:外見変化に関する過度な断定はお控えください』
『無理です』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】This appears to be a post-combat transformation, not a combat-phase mutation.(これは戦闘中の変異ではなく、戦闘後の変化に見えます)』
『ノアさん冷静すぎる』
『こっちは無理』
『朱音さん大丈夫?』
『誰か朱音さん見て』
朱音は大丈夫ではなかった。
大丈夫ではないが、倒れもしなかった。画面の中の澪を見て、弁当箱を握りしめたまま息を止めている。怒りはない。言葉もない。ただ、帰ってきてほしいという気持ちだけが強くなっていた。
「猫耳……」
遥が小さく呟く。
「かわいい〜……」
「記録する」
「水瀬、今それ言えるのすごい〜」
「言わないと忘れる」
「忘れないよ〜」
「情報が多い」
水瀬の声も震えていた。
画面の中で、澪が自分の頭に手を伸ばした。猫耳に触れる。耳がぴくりと動き、澪は少しだけ眉を寄せる。
「増えた」
その一言で、コメント欄がまた壊れた。
『増えたwww』
『本人の感想それ!?』
『増えたは草』
『かわいい』
『死神倒して猫耳増えた』
『世界一雑な存在進化感想』
『澪ちゃんらしい』
『増えた記念日』
『増えた、じゃないんだよ』
『かわいいからいい』
『よくない、かわいい』
『どっちだよ』
澪は猫耳を軽く触ったあと、マシロの胸元を見た。
「白い」
マシロが小さく揺れる。
「いいね」
メイが低く鳴った。
「メイも、綺麗」
鎖が少しだけ誇らしげに鳴った。
白い道の先で、景色が開く。
黒い水膜の領域は崩れていった。代わりに現れたのは、巨大な森だった。天井は見えない。幹はビルのように太く、枝は空のように重なり、光る花がゆっくりと開閉している。第二層第九環の、さらに奥。死神の試練を越えた先の場所だった。
その森の向こうで、地面が揺れた。
一歩。
森全体が震える。
二歩。
光る花がいくつも落ちる。
三歩目で、巨人が姿を見せた。
人の形に近い。だが、人とは呼べない。樹皮と岩を縫い合わせたような皮膚。山のように厚い肩。腕には、巨木を引き抜いて削ったような棍棒を担いでいる。顔には目が一つだけあり、その周りに根が絡みついていた。足元の花は踏み潰され、白い管のような根が潰れて光を漏らしている。
澪は巨人を見上げた。
「大きい」
声は少しだけ楽しそうだった。
『なんかいる』
『でか』
『休ませろ』
『死神倒した直後だぞ』
『巨人!?』
『次のボスか』
『澪ちゃん、行く顔してる』
『やめろ』
『行くな』
『でも行くんだろうな』
『猫耳で巨人狩り』
『字面が強すぎる』
『【アークライン公認解説/Noah Vale】A massive humanoid entity detected ahead. She has not returned yet.(前方に巨大な人型反応。彼女はまだ帰還していません)』
『まだ帰還してない、重い』
『でも死神は終わった』
『ここから次か』
朱音は画面を見たまま、弁当箱を抱きしめた。
「澪、帰ってきて」
届かない声だった。
けれど、画面の中の澪は一瞬だけ耳を動かした。
偶然かもしれない。黒い森の音を拾っただけかもしれない。それでも、朱音には何かを聞いたように見えた。
澪はメイを肩に担ぎ、マシロの白い裾を揺らして、一歩前へ出る。
「次」
巨人の足音が、森を揺らした。
第二層第九環の奥は、まだ澪を帰すつもりがなかった。




