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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第三章

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第二十一話 映像断片

 澪が消えてから、三ヶ月目が過ぎた。


 その頃には、黒画面を取り巻く騒ぎは少しだけ形を変えていた。偽薬業者は佐伯によって順番に潰され、祈願商法の大半は決済経路を塞がれた。

完全に消えたわけではない。だが、澪の名前を使えばすぐに法務が来る、という認識は広がった。

ノア・ヴェイルの公認解説は定着し、断片が戻るたびに過剰な希望と過剰な絶望を抑える役目を果たした。

エルンスト・ヴァルトの経過観察は安定している。若返りはしない。古傷も消えない。それでも老化指標は悪化せず、探索者医療基金への拠出は続いた。白い小瓶は世界を変え始めていたが、それを澪が知ることはなかった。


 四ヶ月目に入る頃、朱音たちは救助補助として数度、現場へ出た。


 大きな事件ばかりではない。第二層中盤で足を折った探索者の搬送。第一層深部で錯乱した学生パーティーの帰還誘導。黒樹の根に装備を取られた荷物持ちの救出。地味で、泥臭く、配信には乗らない現場ばかりだった。だが、朱音の槍は少しずつ変わった。前へ出るだけの槍ではなく、戻すための槍になっていく。遥は短剣で細い拘束を外し、負傷者の足元を作る。語尾を伸ばした柔らかい声で、恐慌に落ちかけた者を少しだけ現実へ戻す。

水瀬は記録係でありながら、何度か前へ出た。見えているのに動かない方が悪い場面がある。黒堂にそう言われた日から、水瀬は端末を持ったまま戦場の一歩内側へ入るようになった。


「お前は記録係で逃げるな」


 黒堂の言葉は短かった。


「見えているなら、動け。動いた結果を記録しろ」

「記録が乱れます」

「死者が出るよりはいい」

「……はい」


 水瀬はその日、初めて端末を腰へ固定し、両手を空けた。戦闘向けの存在進化をしている身体は、本人が思っているよりも前へ出ることに向いていた。魔力の流れを読むだけではない。

読んだ場所へ、最短で踏み込める。朱音はそれを見て、少し悔しそうに笑った。遥は「水瀬、前に出ると怖いね〜」と言った。水瀬は「怖くない」と返したが、たぶん少し嬉しそうだった。


 地上は止まらなかった。


 それでも、黒画面は黒いままだった。


 断片は少しずつ減っていた。

三ヶ月目の終わりに、音声だけが一度戻った。鎖の音と、遠い衝撃音。

四ヶ月目の半ばに、白い布のようなものが画面の端を横切った。空葬装束かどうかは分からない。

四ヶ月目の終わりに、呼吸らしき波形が一度だけ検出された。ノアは毎回、同じように線を引いた。見えるものは見える。見えないものは見えない。澪の安全は確認できない。位置は特定できない。だが、装備反応は消えていない。


『【アークライン公認解説/Noah Vale】Absence of a clear fragment is not evidence of death. It is only absence of observable data.(明瞭な断片がないことは死亡の証拠ではありません。観測可能な情報がない、というだけです)』

『【アークライン公認解説/Noah Vale】Do not fill silence with certainty.(沈黙を断定で埋めないでください)』


 その二文は、黒画面に何度も引用された。


 五ヶ月目に入った朝、朱音はアークライン本部の食堂で、卵焼きを見ていた。


 自分の皿ではない。澪が帰ってきたら食べさせるものを、なぜか最近考えるようになっていた。卵焼き。白いご飯。温かい味噌汁。肉。甘いもの。消化にいいもの。辛くないもの。澪が好きそうなもの。澪はたぶん、帰ってきた瞬間に何かを食べようとする。検査が先だと止められて、不満そうにする。そこまで想像して、朱音は箸を止めた。


「朱音、また考えてる〜」


 遥が隣に座る。


「分かる?」

「卵焼き見てる時の顔が、最近ずっと澪待ちの顔〜」

「どんな顔」

「怒りそうで、泣きそうで、お腹空いてそうな顔〜」

「最後は違う」

「違うかな〜」


 水瀬が向かいで端末を閉じた。


「今日で百五十日」

「数えなくても分かってる」

「分かっていても、記録はいる」

「うん」

「澪が戻った時、地上で何が起きたか説明するには整理が必要」

「澪、途中で寝るよ」

「それも想定して要約版を作ってる」

「水瀬、準備よすぎ〜」


 朱音は少しだけ笑った。


 その日の午後、黒画面に変化はなかった。夕方にもなかった。夜になっても、白い文字は変わらなかった。視聴者数は以前ほど乱高下しない。日常になったからだ。だが、消えたわけではない。人々は食事をし、働き、眠り、起き、その合間に黒い画面を開いた。祈る場所ではなく、待つ場所として。


 そして、五ヶ月目。


 配信が戻った。


 最初に映ったのは、黒い床ではなかった。


 暗い水面だった。


 水というより、光を吸う膜のようなものが、床一面に薄く広がっている。そこへ白い骨片が雨のように落ちていた。音は小さい。かつ、無数にある。さらさらと乾いた音がして、落ちた骨片は水面に触れる前に黒く沈む。画面は揺れている。観測ドローンの映像ではない。何かに引っ掛かり、斜めに傾いた視界のようだった。


 次に、メイの鎖が映った。


 以前より太く見えた。いや、太くなったのではない。鎖の隙間に、黒い骨質のようなものが絡みついている。

ところどころ白い節があり、引かれるたびに低く鳴る。鎌刃は画面の外だが、鎖だけで分かる。メイは変わっている。壊れながら、何かを取り込みながら、まだ澪の手元にある。


 画面の端で、足が動いた。


 澪だった。


 全身が映ったのは、一瞬遅れてからだった。黒い水膜の上を、低く滑るように歩いている。空葬装束は原型を残しているが、五ヶ月前と同じではなかった。深藍の外套は裂け、縁には黒い骨片が縫い込まれたように並んでいる。白い内布はところどころ灰色に濁り、胸元の髑髏留め具は半分だけ黒く染まっていた。髪は伸びている。

肩より少し下まで伸び、元の深藍に白い筋が増えていた。顔の半分は影で見えない。頬に血があるのか、黒い水が跳ねただけなのか分からない。けれど、立っていた。


 澪は左手でメイの鎖を握っていた。


 右手には何もない。いや、指先に何か白い紐のようなものが絡んでいる。装束の切れ端か、骨片の繊維か、それとも別の何かか。判別できない。澪は立ち止まり、背後を見た。画面には映らない何かが、黒い水の下で動いている。大きい。水面が盛り上がり、骨片の雨が一瞬だけ上へ跳ねた。


 澪は鎖を引いた。


 メイの鎌刃が画面の外で何かに食い込む音がした。金属ではない。肉でもない。硬いものが内側から割れるような音。澪の身体が後ろへ持っていかれかける。足元の黒い水膜が波打つ。澪は膝を沈め、身体を低くした。鎖を腕だけで引かない。腰、背中、脚、足元の黒い骨床。全部を使って、何かを止めている。


 音声が遅れて戻った。


 呼吸。


 重い。


 けれど、切れていない。


「……まだ」


 声が入った。

 今度は、はっきりしていた。


「まだ、終わってない」


 その瞬間、画面の奥で何かが起き上がった。


 影。骨。水膜。青白い目。形は定まらない。大きいとしか分からない。

澪よりはるかに高く、画面の外へはみ出している。そいつが動く前に、澪が踏み込んだ。短距離の転移のような白い揺れが走る。

次の瞬間、澪の姿は影の足元ではなく、半歩横にずれていた。メイの鎖が張る。鎌刃が何かを剥がす。黒い骨片が雨のように散る。


 澪は笑っていなかった。

 泣いてもいなかった。

 ただ、目が暗かった。

 その目だけが、一瞬だけ画面を見た。


 配信カメラを見たのか、偶然なのかは分からない。だが、地上の全員には、こちらを見たように見えた。


 澪の唇が動いた。


「戻る」


 音声はそこで途切れた。


 映像は、さらに数秒だけ残った。澪がメイを引き、黒い影が崩れ、骨片の雨が強くなる。空葬装束の外套が揺れる。白い髪が黒い水を払う。澪の右手が何かを掴む。白い紐のようなものがほどけ、画面へ向かって流れた。


 そして、暗転。

 いつもの黒画面に戻る。

 白い文字が浮かぶ。


 復旧を試行しています。


 管制室は、しばらく動かなかった。

 誰も声を出せなかった。ミナトですら、指を止めていた。神楽坂は通信回線の向こうで口元を押さえ、佐伯は端末を見たまま瞬きを忘れていた。黒瀬だけが、低く息を吐いた。


「戻る、か」


 その一言で、管制室が動き出した。


「断片映像、二十八・六秒。音声あり。天瀬澪さんと推定される全身映像を確認。発話二件。メイ反応、空葬装束反応、いずれも同期。未知大型反応あり。原本保存」

「バックアップ三系統」

「ノア氏へ共有」

「医療班へ通知」

「七瀬さんへ」


 朱音は、通知が鳴る前に見ていた。


 休憩室の端末で、水瀬と遥と一緒に。映像が戻った瞬間、誰も動かなかった。骨片の雨。黒い水。変わったメイ。伸びた髪。裂けた装束。澪の声。まだ、終わってない。戻る。


 朱音は、端末を握りしめた。


 強く握りすぎて、指が白くなっていた。


「言った」


 声が震えた。


「戻るって、言った」


 水瀬は映像を止め、震える指で一枚ずつ保存確認をした。


「音声、明瞭。言葉として確認できる」

「戻るって言った」

「うん」

「言ったよね」

「言った」


 遥は短剣ホルダーを握ったまま、目を赤くしていた。


「帰ってきたら、ご飯だね〜」

「うん」

「あと寝かせる〜」

「うん」

「怒る〜?」

「怒る」


 朱音は頷いた。


「けど……帰ってきてくれるならそれでいい。」


 コメント欄は、制御しきれないほど流れていた。


『映った』

『長い』

『澪ちゃん映った』

『全身見えた』

『髪伸びてた』

『装束変わってた』

『メイやばくなってた』

『まだ終わってないって言った』

『戻るって言った』

『戻るって言った!!』

『声はっきりしてた』

『泣いてる』

『五ヶ月待った』

『戻るって言った』

『黒い水膜に沈む骨片になって、あの一歩の波紋だけ覚えていたい』

このコメントは削除されました。

『今日は消すなって言いたいけど消える』

『メイの鎖に絡んだ黒い骨質の隙間になって、五ヶ月分の摩耗を抱えたい』

このコメントは削除されました。

『マニアックすぎるのに分かる』

『空葬装束の裂けた外套の縁になって、帰るという声にだけ揺れたい』

このコメントは削除されました。

『詩的変態が泣いてる』

『白髪に混ざった深藍の一本になって、まだ澪である証拠として残りたい』

このコメントは削除されました。

『これはギリギリどころじゃない』

『でも分かる』

『【アークライン公認解説/Noah Vale】This is the clearest fragment so far. It confirms visual identification, self-directed movement, and intelligible speech. It still does not confirm safety or location.(これはこれまでで最も明瞭な断片です。視覚的確認、自発的な移動、明瞭な発話を確認できます。ただし、安全や位置を確認するものではありません)』

『ノアさんありがとう』

『安全じゃない。でも声がある』

『位置は分からない。でも戻るって言った』

『【アークライン公認解説/Noah Vale】The word “return” should not be treated as evidence that return is imminent. It is evidence of intent.(「戻る」という言葉は、帰還が近い証拠として扱うべきではありません。それは意思の証拠です)』

『意思の証拠』

『重い』

『帰還間近とは言わない。でも意思はある』

『それで待てる』

『【公式】アークライン配信管理部:断片映像を確認しました。現在解析中です。無断加工、過度な断定、後追い探索を促す投稿は制限対象です』

『後追いするな』

『これは地図じゃない』

『でも帰る意思はある』


 アークラインの公式声明は、夜遅くに出された。


 第二層第九環深部より、過去最長の断片映像を確認。天瀬澪本人と推定される全身映像、装備反応、明瞭な発話を記録。本人の安全、現在位置、帰還可能性については未確認。後追い探索は厳禁。断片映像の無断加工、解析偽装、誘導目的の拡散は禁止。


 文章はいつも通り硬かった。


 けれど、世界はもうその硬さの奥にあるものを見ていた。


 澪は立っていた。


 歩いていた。


 戦っていた。


 そして、戻ると言った。


 その夜、黒画面の前で眠れなかった者は多かった。朱音も眠れなかった。けれど、これまでの眠れなさとは少し違った。怖い。怖いままだ。だが、胸の奥に細い熱がある。澪が帰ってくると決まったわけではない。明日戻るわけでもない。安全でもない。ノアの言葉は正しい。


 それでも、意思は届いた。

 朱音は黒画面を見た。


「待ってる」


 小さく言った。

 白い文字は変わらない。


 復旧を試行しています。


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