第十八話 封鎖室の小瓶
救助された四人組の処分は、すぐには決まらなかった。
命は助かった。だが、それで済む話ではない。申請範囲を超えた侵入。危険警告を無視した深部接近。チャンネル《九環》の断片確認を目的とした便乗配信。未成年探索者を含むパーティー構成。救助隊の投入。医療班の稼働。協会の緊急封鎖。並べれば、若気の至りという言葉では到底足りなかった。協会は四人の探索者資格を一時停止し、関係教官と保護者への聞き取りを始めた。配信アカウントは凍結され、動画は削除された。だが、消えた動画のタイトルだけは、消しきれない棘のように残った。
『九環の声を探しに行く』
朱音は、その文字をもう見たくなかった。
医療区画の廊下には、消毒薬と濡れた防具の匂いが混ざっていた。救助された四人は全員、アークライン本部地下の一時観察室に置かれている。重傷者は命に別状なし。精神汚染反応も軽度。ただし、協会の判断で全員が面談対象になった。澪の名を使って潜った以上、黒画面を見ている視聴者たちの怒りも大きい。アークラインは救助対象者への直接攻撃を制限しているが、完全には止めきれない。怒りは正しくても、向け方を間違えれば、また別の事故になる。
朱音は面談室の外で、腕を組んでいた。
中では佐伯が四人に説明している。叱責ではない。処分、費用、医療観察、配信停止、再発防止講習、保護者同席の面談。冷静な声が扉越しに少しだけ聞こえた。怒鳴るより怖い声だった。朱音は、それでいいと思った。自分が中に入れば、たぶん冷静ではいられない。
「入らないの〜?」
遥が隣で言った。
彼女は壁に背を預けている。普段から声は柔らかいが、救助後は少しだけ疲れが滲んでいた。傷つけられない。倒すのではなく、逸らす。遥にとっても、いい経験だけで終わるものではなかった。
「入ったら怒りそうだから」
「怒っていいと思うけどね〜」
「怒るのは佐伯さんがやってくれる」
「あれは怒るっていうより、逃げ道を塞ぐやつだね〜」
「うん。だから任せる」
水瀬は端末で救助記録を見返していた。朱音が最後に槍の柄を支点にした場面。帰還札の光へ救助対象を押し込んだ場面。ミカゲの盾が根を弾いたタイミング。何度も同じところを止め、再生し、注釈を入れている。
「朱音、最後の判断は良かった」
「本当に?」
「前に出る癖が出かけて、止めた。記録上でも分かる」
「恥ずかしいね〜」
「遥、なんで嬉しそうなの」
「朱音がちゃんと止まったから〜」
「転びかけたけど」
「転ばなかったから勝ち〜」
朱音は小さく息を吐いた。
救助成功。そう言えば綺麗だ。だが、実際には泥臭かった。怒りを飲み込み、怖さを押さえ、根を外し、泣く探索者を黙らせ、帰還札を発動させる。誰かを助けた達成感より、失敗しなかった疲労の方が大きい。澪なら、どうしただろう。そんな考えが浮かび、朱音はすぐに消した。澪なら、たぶん別のやり方をする。けれど今ここにいるのは自分だ。
面談室の扉が開いた。
佐伯が出てくる。表情はいつも通りだった。後ろでは、救助された少年が顔を伏せている。泣いているのかもしれない。朱音はその姿を見て、胸の奥にまだ硬いものが残っているのを感じた。
「七瀬さん」
「はい」
「本人たちから、救助隊への謝罪の希望が出ています」
「今は無理です」
「承知しました。そう伝えます」
「……いつかは聞きます」
「それも伝えます」
佐伯は頷いた。
「怒りを残すのは悪いことではありません。ただ、処分と再教育はこちらで進めます」
「はい」
「それと、救助の詳細映像は非公開にします。後追いの教材にされる可能性があるためです」
「それでいいです」
「ただし、危険行為防止のために、編集済みの警告映像を作成します。七瀬さんたちの姿は極力出しません」
「澪の名前は」
「使わせません」
佐伯の返答は早かった。
「今回の件は、澪さんの配信を理由にした者たちの責任です。澪さんの責任ではありません。そこは明確にします」
「お願いします」
朱音は頭を下げた。
同じ頃、別の火種が起きていた。
エルンスト・ヴァルトの投与後経過観察データが、海外の小規模研究サイトに一部流出した、という偽情報が拡散されたのだ。もちろん本物ではない。数値形式も違う。検査項目も古い。だが、見た目だけはそれらしく整えられていた。老化指標、魔力回路安定値、白膜反応、投与後四十八時間の血液成分変化。専門家でなければ本物に見える。偽薬の広告と同じ経路で拡散されたそれは、すぐに不老薬関連の掲示板へ流れ込み、黒画面のコメント欄にも持ち込まれた。
ミナトは、それを見て額を押さえた。
「今度は偽データですか」
「はい。投与データ風の画像が拡散中です」
「本物との差分は」
「検査名が三年前の規格です。あと、白膜反応という項目は外部公表していません」
「偽物なのに項目名だけ近いのが嫌ですね」
「推測で作ったのかと」
「推測で作った偽データを、断定で拡散しないでほしいです」
配信管理部の端末には、報告が次々と積まれていく。偽薬。偽断片。偽音声。偽データ。不老薬と黒画面は、別々の火種に見えて、実際には一つの大きな渦になっていた。澪が戻らないこと。白い小瓶が現実になったこと。世界中が黒い画面を見ていること。その全部が、人の欲と不安を濃くしている。
佐伯は偽データを見て、短く言った。
「悪質ですね」
「いつものことでは」
「今回はヴァルト氏の身体情報を装っています。個人医療情報の偽造です。扱いが変わります」
「潰しますか」
「潰します」
神楽坂はその返答を聞き、資料を閉じた。
「ヴァルト氏の警備も上げましょう。偽データが出るということは、本物を欲しがる者がいる」
「すでに手配しています」
「さすがです」
「褒めても仕事は減りません」
「減らせなくてすみません」
佐伯は一瞬だけ、疲れたように目を閉じた。
「減らないなら、燃やす順番を決めるだけです」
エルンスト本人は、その騒ぎを静かに受け止めた。
彼はアークライン本部内の観察室で、朝の検査を終えたばかりだった。窓のない部屋。白い壁。柔らかい照明。ベッドの横には杖が立てかけられている。医療主任が検査結果を説明し、協会監査官が記録を確認している。エルンストは検査後の軽い疲労を滲ませながら、黒画面を開いた端末を見ていた。
「私の偽物まで出たか」
「正確には、ヴァルト氏の投与データを装った偽情報です」
「若い頃なら、偽物が出るほど有名だと笑ったかもしれん」
「今は」
「老いると、偽物にも腹が立つ。時間が少ないからな」
エルンストは画面の白文字を見た。
「彼女の偽物も、同じ場所から出ているのか」
「一部は重なっています」
「なら、同じ火だ」
「はい」
「私の名前を使うなら、私も燃料を足そう」
神楽坂が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「財団から追加で声明を出す。私の検査情報は協会とアークラインの監査下にあり、外部流出したものはない。偽情報の拡散者には法的措置を取る。ついでに、探索者医療基金への第二回拠出も早める」
「よろしいのですか」
「良い。偽物に反論するだけではつまらん。本物の金を動かす」
佐伯が少しだけ沈黙した。
「本物の金、ですか」
「そうだ。偽物が人を騙して金を取るなら、私は本物の金で負傷者を治す。分かりやすいだろう」
「記録します」
「好きにしろ」
その声明は、その日の夕方に出た。
ヴァルト財団は偽情報を否定し、アークラインおよび協会の監査体制を支持し、探索者医療基金への追加拠出を発表した。派手な言葉はなかった。だが、効果は大きかった。偽データを拡散していた一部のアカウントは削除され、広告経路がまた一つ塞がれた。黒画面のコメント欄にも、その情報は流れ込む。
『ヴァルト爺、追加拠出したのか』
『偽物に本物の金で殴るの強い』
『老いた英雄、かっこいいな』
『若返ってないのに株だけ若返ってる』
『誰うま』
『偽データのセルの罫線になって、佐伯さんに赤ペンで斬られたい』
このコメントは削除されました。
『表計算変態やめろ』
『監査済み原本のタイムスタンプになって、嘘より一秒早く存在したい』
このコメントは削除されました。
『マニアック監査勢』
『ヴァルト爺の古い杖の傷になって、まだ歩く理由を覚えていたい』
このコメントは削除されました。
『それは少し分かる』
『The old man answered fake data with real support. That is a rare kind of counterattack.』
『海外解説ニキ』
『偽情報への反撃が医療支援なのいいな』
『澪ちゃん知らない間に世界動きすぎ』
『帰ってきたら「誰?」が増える』
『絶対増える』
朱音はそのコメントを見ながら、封鎖保管区画へ向かっていた。
佐伯から、見るかどうか聞かれたのだ。朱音用に保管されている、もう一本の不老薬。これまではあえて見ないようにしていた。澪が帰ってきたら聞く。そう決めたのだから、今見る必要はないと思っていた。だが、エルンストへの投与が行われ、偽薬が出回り、自分への接触が増え、後追い探索者まで出た。見ないままでいることも、少し違う気がした。
封鎖保管区画は静かだった。
厚い扉を二つ通り、認証を三つ抜ける。付き添いは佐伯と協会職員だけ。水瀬と遥は外で待っている。榊原とユイカは別室で保管波形を確認していた。小さな観察窓の向こうに、白い小瓶が置かれている。エルンストに使われたものと同じ。けれど、こちらはまだ封を解かれていない。赤い紐が細く巻かれ、封鎖札が静かに光っている。
朱音は窓の前に立った。
思ったより、小さかった。
こんな小さなものが、自分の名前と結びついている。澪が残した。澪が自分のために一本と決めた。世界中が欲しがるものを、あの子はたぶん深く考えずに置いていった。朱音は胸の奥が少し苦しくなるのを感じた。
「本当に、私のでいいんですかね」
「天瀬さんの指定です」
「澪、あまり考えてなかったと思います」
「そうかもしれません」
「じゃあ」
「それでも指定です」
佐伯の声は静かだった。
「考え抜いた遺言のように扱う必要はありません。ただ、軽く扱う必要もありません」
「……難しいですね」
「はい」
朱音は白い小瓶を見た。
使えばどうなるのか。エルンストのように、老化の進行が止まるのか。自分の身体に合うのか。そもそも使うべきなのか。今の朱音には分からない。分からないから、決めない。澪が帰ってきたら聞く。あの子が「朱音先輩、飲む?」とでも言うなら、その時に怒るかもしれない。笑うかもしれない。泣くかもしれない。
「帰ってきたら、ちゃんと聞きます」
「はい」
「帰ってこなかったら、どうするかは」
「今、決めなくていいです」
佐伯が言った。
朱音は一度だけ目を閉じた。
「はい」
外で待っていた遥が、朱音を見るなり少し首を傾げた。
「泣いた〜?」
「泣いてない」
「ちょっと目が赤い〜」
「封鎖区画、空気が乾いてた」
「そういうことにする〜」
水瀬は何も言わず、朱音に温かい缶飲料を渡した。
「ありがとう」
「糖分」
「助かる」
「午後、訓練は軽めにする?」
「する」
「珍しい」
「今日は、止まる練習の日だから」
「いい判断」
遥がにこっと笑う。
「じゃあ、私も軽めに〜」
「そうだね」
「心も軽い感じ〜」
「それは軽くない」
「じゃあ普通にやる〜」
「普通も痛い」
朱音は少し笑った。
その夜、黒画面に大きな変化はなかった。
けれど、白文字の端に一度だけ細い光が走った。管制室は記録した。公式発表はない。コメント欄はまた騒いだが、アークラインは断定を禁じた。朱音はその光を見ていた。小瓶も、偽薬も、後追いも、救助も、偽データも、全部が地上で起きている。澪は知らない。知らないまま、黒い画面の向こうで息をしている。
『今の光、見た?』
『見た』
『右端じゃなくて白文字の上』
『今日は封鎖室見た後だから、小瓶の反射に見えた』
『画面違うだろ』
『でも分かる』
『白瓶の封鎖札に残った光が、黒画面まで迷い込んだと思いたい』
このコメントは削除されました。
『詩的封鎖室勢』
『未使用の小瓶の赤い紐になって、帰ってくるまでほどけずにいたい』
このコメントは削除されました。
『これは少し泣く』
『保管波形の水平線になって、朱音さんが決めない時間を守りたい』
このコメントは削除されました。
『マニアックなのに優しい』
『The untouched vial may be heavier than the used one. It still contains a decision.』
『海外解説ニキ、重い』
『使われた瓶より、使われてない瓶の方が重いってことか』
『決める時間が残ってるからな』
『澪ちゃん、早く帰ってこい』
『でも急がなくていい』
『いや急いで』
『どっちだよ』
『生きて戻れ』
朱音は缶飲料を両手で包みながら、黒い画面を見ていた。
急いでほしい。急がなくていい。矛盾した二つの気持ちが、同じ場所にあった。早く帰ってきてほしい。でも、無理をして壊れるくらいなら、遅くてもいい。生きて戻るなら、それでいい。澪に言えば、たぶん「難しい」と返ってくる。
朱音は小さく息を吐いた。
「難しいよ、澪」
黒い画面は答えない。
それでも、白い文字は消えていなかった。
変態コメントは消されるかどうかのギリギリ攻め始めてます。




