第十九話 彼女はまだ歩いている
澪が消えてから七十日を過ぎた頃、黒画面は国境を越えて別の意味を持ち始めていた。
最初は日本の配信だった。第一層第九環から戻った少女が、第二層第九環で黒花姫を倒し、その直後に信号を失った。そういう出来事だったはずだ。だが、不老薬が生まれ、白い小瓶が世界を揺らし、断片映像が何度か戻り、偽薬と偽断片と後追い探索者が現れるうちに、チャンネル《九環》の黒画面はただの事故配信ではなくなった。祈る場所になり、怒る場所になり、解析する場所になり、詩を書く場所になり、削除される変態の集会所にもなった。
そして、利用しようとする者も増えた。
黒画面を背景にした祈願配信。天瀬澪の帰還を名目にした寄付サイト。九環祈念グッズ。黒画面風の待受画像。白い文字を模したステッカー。中には、澪を何かの象徴に仕立てようとする団体まで現れた。深層に選ばれた少女。永遠を授ける白瓶の巫女。黒い門の向こうで人類の罪を背負う探索者。文章を読んだ佐伯は、二秒だけ黙った後、資料を裏返した。
「気持ち悪いですね」
「佐伯さんがそこまで率直に言うの、珍しいです」
神楽坂が言った。
「法的にはまだ詐欺と断定しにくいものもあります。ただ、澪さんの名誉と安全、朱音さんへの接触誘導、薬剤への不当な期待形成、どれも問題です」
「潰しますか」
「潰します。ただし、順番があります。明確な金銭被害があるもの、朱音さんへの接触を促しているもの、偽薬販売と繋がっているものからです」
「象徴化しているだけのものは」
「記録します。育つ前に根を見ます」
佐伯は端末に新しい分類を作った。
偽薬。偽断片。偽データ。後追い誘導。接触誘導。宗教的利用。政治的利用。黒画面をめぐる地上の騒ぎは、奇妙なほど枝分かれしていた。中心にいる澪は、何も知らない。たぶん、帰ってきたら黒画面グッズを見て、数秒だけ黙る。そして「いらない」と言う。それが想像できるだけに、神楽坂は少しだけ頭が痛くなった。
「澪さんが帰ってきたら、説明が大変ですね」
「説明しますか」
「しないわけには」
「本人が聞く前に寝そうです」
「あり得ますね」
二人は同時に小さく息を吐いた。
その日の午後、朱音たちは黒鉄旅団との合同訓練に入っていた。
救助任務の後、朱音の訓練内容は少し変わった。単純な打ち合いだけではない。負傷者を抱えた状態での後退。帰還札の発動補助。根や蔓の拘束を切らずに外す練習。錯乱した探索者を落ち着かせる声かけ。魔物を倒すのではなく、進路だけを曲げる動き。澪のように突き抜ける訓練ではなく、誰かを連れて戻るための訓練だった。
遥は腰の短剣を抜き、訓練用の黒蔓を細かく払っていた。刃を深く入れない。切断しすぎると蔓が暴れる想定だ。表面だけを裂き、絡みを緩める。足元へ滑り込み、刃の背で押し、次の瞬間には距離を取る。弓の射線ではなく、近くで呼吸を合わせる支援。遥の動きは軽く、見ているよりずっと忙しい。
「朱音、右足絡むよ〜」
「見えてる」
「見えてるなら踏まない〜」
「踏んでない」
「今、ちょっと踏んだ〜」
「……踏んだ」
朱音が槍の柄で蔓を押さえると、遥が短剣の背を滑り込ませた。刃を立てず、薄くこじる。蔓が緩む。朱音は負傷者役の訓練人形を抱え直し、半歩下がった。
「遥、それ上手い」
「近いところは得意〜」
「怖くない?」
「怖いよ〜。だから、すぐ逃げる〜」
水瀬が端末に記録を入れながら言う。
「遥の支援位置、前回より安定してる」
「褒められた〜」
「ただし、朱音の右側に寄りすぎ」
「朱音がすぐ無理するから〜」
「無理してない」
「今はね〜」
朱音は言い返せなかった。遥は何時からこんなにチャラい口調になったのか。いや適当なのか?それとも力を抜いた素がこれなのか分からない。けど動きのキレは日に日に良くなっている。
黒堂は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。腕を組み、重い岩のように立っている。彼は朱音が最後に踏みとどまった救助映像を見ていた。公開はされていないが、関係者向けの訓練資料にはなっている。黒堂は一度だけ頷き、低く言った。
「七瀬、今日は最後に全員を戻せ」
「全員?」
「負傷者役二名。錯乱役一名。水瀬は途中で通信途絶。浅見は短剣一本紛失想定。お前は左腕負傷想定」
「……盛りすぎでは?」
「本番はもっと盛ってくる」
「はい」
朱音は槍を握り直した。
遥が短剣をくるりと逆手に持ち替える。
「短剣一本なくなるの嫌だな〜」
「予備は」
「あるけど、嫌なものは嫌。」
「澪みたい」
「あれは武器への重さが違うよ〜」
軽口を挟めるだけ、前より余裕はあった。
訓練が終わる頃、アークライン本部の別フロアでは、国際深層フォーラムの中継が始まっていた。世界各国の協会関係者、大手クラン、医療企業、研究機関が参加する公開討論。表向きの議題は、深層素材の管理と不老薬試作品の社会的影響。だが、誰もが分かっていた。話題の中心は澪であり、白い小瓶であり、黒い画面だった。
神楽坂は会議室で中継を見ていた。佐伯も隣にいる。黒瀬は壁際。榊原とユイカは工房端末で、ミナトは配信管理部で同じ映像を開いていた。朱音たちは訓練後の休憩室で、水瀬の端末からそれを見ていた。
画面には、各国の探索者代表が並んでいる。
その中に、一人だけ異様に静かな女性がいた。銀灰色の髪を短くまとめ、深い青の戦闘服を着た探索者。アメリカの最大手クランに所属し、現在公開されている範囲では世界最高峰の到達記録を持つ人物。名前が表示されるだけで、コメント欄が揺れた。
エレナ・クロウ。
彼女はほとんど話さなかった。
研究者たちが不老薬の危険性を語り、医療企業が国際共同管理を主張し、複数の国が深層素材の規制を求める。澪の名前は何度も出た。未成年探索者。第九環帰還者。危険な成功例。規制の必要性。保護の必要性。利用すべきではないが、研究すべき存在。言葉だけなら丁寧だ。だが、その裏にある欲は隠しきれていなかった。
司会がエレナに意見を求めた。
『クロウさん、あなたは現役探索者として、この事案をどう見ていますか。第二層第九環に残された探索者、そしてそこから生まれた素材と薬剤について』
エレナは少しだけ目を伏せた。
数秒の沈黙。
それから、短く言った。
『She is still walking.』
通訳が遅れて日本語を流す。
『彼女は、まだ歩いている』
会議室の空気が変わった。
エレナは続けた。
『薬の話をするなとは言わない。規制も必要でしょう。素材管理も必要です。でも、先に忘れないでください。議題の中心に置かれているものは、少女が持ち帰った成果ではなく、少女がまだ帰っていないという事実です。黒い画面は資源ではありません。救助不能状態の記録です』
『彼女の戦闘映像を私は見た。断片も見た。あの鎖がまだ動いているなら、彼女は歩いている。私はそう判断しています。ただし、それは後追いしていいという意味ではない。あそこは地図ではない。彼女が落ちている穴の縁です』
黒瀬が低く笑った。
「いいことを言う」
佐伯は何も言わず、端末にメモを入れた。利用できる発言。引用可能。ただし過度な神格化に使われないよう注意。
休憩室で、朱音は画面を見つめていた。
「まだ歩いている……」
水瀬が小さく繰り返す。
遥は椅子の背に顎を乗せたまま、少し目を細めた。
「分かってる人の言い方だね〜」
「うん」
「澪、歩いてるかな〜」
「歩いてるよ!」
朱音は即答した。
言った後で、自分の声が思ったより強かったことに気づいた。
「歩いてる。たぶん、迷惑なくらい」
「迷惑なくらいは分かる〜」
「帰ってきたら、怒ることが多すぎる」
「でも先にご飯だよ〜」
「うん。先にご飯」
国際フォーラムの発言は、すぐに切り抜かれた。
世界最高峰探索者が、黒画面について言及した。彼女はまだ歩いている。黒い画面は資源ではない。救助不能状態の記録だ。あそこは地図ではない。落ちている穴の縁だ。短い言葉は、黒画面のコメント欄にも流れ込んだ。
『エレナ・クロウ見た?』
『見た』
『彼女はまだ歩いている、やばい』
『世界トップが言うと重さが違う』
『黒画面は資源じゃない、ほんとそれ』
『穴の縁って表現怖い』
『後追い勢に刺され』
『エレナの言葉の余白になって、黒画面の前に置かれたい』
このコメントは削除されました。
『すぐ余白になる』
『世界一位の沈黙の三秒になって、誰より重く澪ちゃんを待ちたい』
このコメントは削除されました。
『沈黙フェチ』
『通訳が遅れた一拍になって、日本語になる前の祈りを抱えたい』
このコメントは削除されました。
『マニアック通訳勢』
『She called the black screen a record of an unrecoverable rescue state, not a resource. That distinction matters.』
『海外解説ニキが海外発言を解説してる』
『情報資源じゃなくて遭難記録』
『言い方が正確すぎて痛い』
『【公式】アークライン配信管理部:国際フォーラム発言の切り抜きに関し、誤訳、過剰な断定、後追い探索を促す編集は禁止します』
『公式、仕事増えた』
『でもこの切り抜きは必要』
『澪ちゃん、まだ歩いてる』
その夜、黒画面に変化があった。
最初に気づいたのは、また視聴者だった。白文字の奥、画面の下端に、黒よりも少し薄い影が走った。管制室では同時に警告音が鳴る。映像信号。断片。短い。ミナトが叫ぶより早く、画面が一瞬だけ白く揺れた。
映ったのは、足だった。
膝から下だけ。黒い骨の床。濡れているのか、床の隙間に鈍い光が走っている。澪のブーツは片方の金具が壊れ、空葬装束の裾は裂け、白い布のようなものが足首に巻かれていた。足は止まっていない。一歩。もう一歩。引きずるような重さはある。だが、歩いていた。
メイの鎖が画面の端を横切る。
鎖の先は映らない。何かを引いているのか、支えているのかも分からない。ただ、鎖は床を擦り、澪の歩みに合わせて低く鳴っていた。
音声はほとんどない。
最後に、かすかな息だけが入った。
映像は二秒で消えた。
黒い画面に戻る。
白い文字が再び浮かぶ。
復旧を試行しています。
管制室は数秒、誰も声を出せなかった。
ミナトが最初に息を吸った。
「断片映像、二・二秒。下肢確認。歩行動作あり。メイ反応同期。空葬装束反応あり。音声、呼吸の可能性。原本保存、全系統」
「保存済みです」
「バックアップ」
「三系統完了」
「偽造対策透かし」
「処理中」
「外部発表は」
「神楽坂さん確認待ちです」
黒瀬は画面を見ていた。
「本当に歩いてやがる」
その声は低かった。
怒りでも笑いでもない。呆れと安堵が混ざった声だった。
休憩室では、朱音が立ち上がっていた。
水瀬が端末を固定し、遥が口元を押さえる。二秒だけの映像。足。壊れたブーツ。裂けた裾。鎖。呼吸。顔は映らない。声もない。けれど、それだけで十分だった。
朱音は画面を見たまま、ゆっくり座り直した。
「歩いてた」
「歩いてたね〜」
遥の声が少し震えていた。
「本当に、歩いてた」
「うん〜」
水瀬は映像を止め、一枚ずつ確認していた。涙は見せない。ただ、指先がほんの少しだけ震えている。
「足取りは重い。でも、転倒直前じゃない。自分で進んでる」
「うん」
「鎖の張りが一定。何かを引いているか、支点にしている」
「うん」
「生存推定は、強くなった」
「うん」
朱音はそれ以上言えなかった。
コメント欄は、爆発した。
『歩いてた!!』
『見た!!』
『足!!』
『ブーツ壊れてた』
『でも歩いてた』
『鎖もあった』
『エレナが言った日にこれ戻るのやばい』
『彼女はまだ歩いている』
『本当に歩いてた』
『泣いた』
『二秒で世界が戻った』
『壊れたブーツの金具になって、暗闇の床をまだ踏みたい』
このコメントは削除されました。
『今日は許してやれ』
『許されない』
『空葬装束の裂けた裾になって、歩幅を覚えていたい』
このコメントは削除されました。
『詩的すぎる』
『黒い骨床に残った二歩目の圧痕になって、帰る方向だけを知っていたい』
このコメントは削除されました。
『圧痕変態』
『メイの鎖が床を擦った瞬間の低周波になって、耳じゃなく胸で聞かれたい』
このコメントは削除されました。
『音響変態も生きてた』
『The fragment confirms locomotion. Not victory. Not safety. But movement. Movement matters.』
『海外解説ニキ泣いてる?』
『勝利でも安全でもない。でも移動してる。それが大事』
『動いてる』
『歩いてる』
『帰ってこい』
『急がなくていいから帰ってこい』
『【公式】アークライン配信管理部:断片映像を確認しました。現在解析中です。映像の無断加工、過度な断定、後追い探索を促す投稿は制限対象です』
『公式も来た』
『後追いするなよ』
『これは地図じゃない』
『穴の縁だ』
『でも、彼女はまだ歩いている』
アークラインは慎重な声明を出した。
第二層第九環深部より、装備反応に紐づく断片映像を確認。探索者本人と推定される下肢および歩行動作を記録。現時点で安全確認、帰還可能性、位置特定には至っていない。後追い探索は厳禁。断片映像の加工拡散は禁止。
言葉は硬い。
それでも、世界は二秒を見た。
黒い骨の床を踏む足。
壊れたブーツ。
裂けた裾。
床を擦る鎖。
まだ歩いている誰か。
その夜、朱音は封鎖保管区画へは行かなかった。訓練場にも戻らなかった。ただ、休憩室の椅子に座り、何度も断片映像を見返した。水瀬は隣で記録を取り、遥は短剣の柄を握ったまま、いつになく黙っていた。
「遥」
「なに〜?」
「次の訓練、支援位置もう少し近くてもいい?」
「いいよ〜」
「怖くない?」
「怖いよ〜」
「でも?」
「でも、戻るためなら行ける」
朱音は小さく頷いた。
澪はまだ歩いている。
なら、私達も歩く。
なんかいい話ですね。エレナ・クロウ……良い奴だ。




