第十七話 救助
黒画面が日常になると、そこへ憧れも混ざり始めた。
最初は祈りだった。次に解析。怒り。詩。変態。偽物。防衛。そして、無謀。誰かが言った。澪はまだ暗闇で戦っている。なら、自分たちも行けるのではないか。誰かが切り抜きを作った。九環配信者の背中を追え。誰かが冗談のように書いた。第二層の奥で断片を拾えば、世界が振り向く。ほとんどの人間は、それを馬鹿な話だと流した。だが、馬鹿な話を本気にする人間は、いつの時代にもいる。
協会は何度も警告した。
第二層第九環への無許可接近禁止。第八環以降の単独侵入禁止。黒画面断片を目的とした探索禁止。チャンネル《九環》関連の便乗配信禁止。アークラインも同じ警告を出した。佐伯は偽薬と偽断片の処理に加えて、後追い配信の監視まで始めた。配信管理部は、危険なタイトルや誘導文を拾い、協会へ回す。だが、警告は万能ではない。危険な場所ほど、警告そのものが看板になる。
その日、第二層第六環外縁で救助要請が出た。
未成年を含む四人組の探索者パーティー。登録上は第五環までの申請。実際には第六環へ侵入し、黒樹の根に巻かれた。配信タイトルは、消される前に保存されていた。
『九環の声を探しに行く』
朱音は、その文字を見た瞬間、胃の奥が冷えた。
「馬鹿じゃないの」
声に出た。
訓練区画の空気が止まる。水瀬は端末を見たまま眉を寄せ、遥は弓ケースの留め具を握った。ユズリは何も言わない。ミカゲだけが盾を肩に担ぎ直し、低く息を吐いた。
「馬鹿でも、救助対象だよ」
「分かってます」
朱音は槍を取った。
分かっている。分かっているから腹が立つ。澪は今、戻れない場所にいる。戻れないまま、数秒の音と映像だけを地上に返している。それを見て、誰かが憧れる。焦がれる。近づけば何かが得られると思う。違う。あれは道標ではない。澪が勝手に置いていった危険物の標識でもない。今も暗闇で息をしている、一人の人間の断片だ。
だが、怒っている時間はなかった。
黒瀬からの指示は短い。
『七瀬、水瀬、浅見。黒鉄旅団の補助につけ。主担当は黒鉄。お前たちは救助導線の確保と帰還札発動補助。前に出すぎるな』
「了解」
『七瀬』
「はい」
『助けに行くな。戻すために行け』
「……了解」
通話が切れた。
朱音はその言葉を胸の中で繰り返した。助けに行くな。戻すために行け。似ているようで違う。助けたいと思えば、前へ出る。戻すと決めれば、帰り道を見る。澪なら前へ出る。いや、澪なら前へ出ながら帰り道も拾う。朱音はまだそこまでできない。だから、今やるべきことを間違えない。
第二層ゲート前の空気は重かった。
黒鉄旅団の黒堂巌が指揮を執っている。巨大な体に黒い装甲。近くにいるだけで、周囲の探索者が自然と道を空ける。ミカゲはその隣で盾を確認し、ユズリは救助対象の心拍共有端末を受け取っていた。レンカはすでに先行偵察へ出ている。アークラインからは黒瀬の部下が数名。協会職員と医療班も待機していた。
黒堂は朱音たちを見ると、短く言った。
「役割を言え」
「救助対象の帰還導線確保。負傷者の搬送補助。後退時の槍による根の牽制。黒鉄の前には出ません」
「よし」
「水瀬、位置記録と魔力反応監視。浅見、射線支援。ユズリさんの心拍誘導に合わせます」
「よし」
黒堂は頷いた。
「怒りは持っていけ。だが、使うな。救助で怒りを使う奴は、最初に視野が狭くなる」
「はい」
「戻すぞ」
「はい」
第二層《呼吸する黒樹》へ入ると、空気が変わった。
黒い樹々が、濡れた息を吐くように揺れている。幹は黒く艶を帯び、ところどころに青白い雨粒が絡んでいた。地面には根が血管のように走り、踏むたびにわずかに沈む。遠くで何かが呼吸している。枝葉の奥に、小さな銀の雫が光っては消えた。何度来ても、この層は生き物の体内に入ったような気配がある。美しい。だが、朱音はそれを綺麗だと思う余裕を切った。綺麗に見惚れるのは澪の領分だ。自分は今、帰り道を見る。
レンカから通信が入る。
『対象四名確認。二名自力移動不可。一名錯乱。一名が根に腰から拘束。位置、第六環外縁、旧樹洞跡。周囲に黒根狼三、根群れ反応多数』
「生存は」
『全員生存。ただし一名、魔力枯渇寸前』
「配信は」
『切断済み。端末は根に飲まれかけてる』
「了解」
黒堂が手を上げた。
「ミカゲ、前。朱音、右後ろ。浅見、上枝。水瀬、根の動きを拾え。ユズリ、心拍を落とすな」
「はい」
移動は速かった。
黒鉄旅団の救助は、戦闘とは違う迫力がある。魔物を倒すことを目的にしない。道を開ける。支える。押し返す。余計な討伐に時間を使わない。ミカゲの盾が黒い根を弾き、黒堂が太い杭のような剣で地面を固定する。遥の矢が枝に潜んだ黒根狼の目の前を射抜き、進路を曲げる。水瀬は根の収縮タイミングを読み上げ、朱音は槍で黒い蔓を切らずに払った。切ると暴れる。払うだけでいい。救助では、倒すことが正解とは限らない。
旧樹洞跡に着いた時、四人組は半分泣いていた。
年齢は澪より少し上か同じくらい。装備は悪くない。だが、動きが浅い。配信用の飾りが多く、泥と雨に弱い布が使われている。帰還札は二枚見えるが、一枚は根に濡れて封が歪み、もう一枚は錯乱した一人が握り潰していた。根に腰から拘束された少年が、朱音たちを見るなり叫んだ。
「九環の音が聞こえたんです! 本当に、奥から、だから」
「黙って」
朱音の声は冷たかった。
少年がひるむ。
朱音は自分でも驚くほど、静かだった。怒鳴りたくなかったわけではない。怒鳴れば気持ちは少し楽になる。でも、今それをすれば、救助対象の呼吸が乱れる。根が締まる。ユズリの誘導が難しくなる。だから黙らせるだけでいい。
「呼吸して。吸って、吐いて。話は戻ってから」
「でも」
「戻ってから」
ユズリがすぐに入る。
「私の声を聞いてください。目を閉じないで。はい、吸って。吐いて。大丈夫です。今、助けます」
その声に、少年の呼吸が少しだけ整った。
黒根狼が動いた。
黒い狼のように見えるが、毛ではなく細い根の束でできている。口を開くと、内側に青白い雨が溜まっていた。三体。レンカの報告通り。ミカゲが盾を構え、黒堂が一歩前へ出る。
「七瀬、拘束根」
「はい」
朱音は右へ回った。
根は少年の腰と脚に巻きついている。切れば出血のように樹液が噴き、周囲の根群れが反応する。澪なら切るかもしれない。切って、反応した根群れもまとめて処理するかもしれない。だが、朱音にはそれはできない。やるべきではない。槍の穂先を根と装備の隙間へ差し入れ、魔力を薄く流す。槍で刺すのではなく、押し広げる。根が嫌がる角度を探す。
「水瀬」
「右下、三拍後に緩む」
「三、二、一」
朱音は槍をひねった。
根がわずかに緩む。少年が悲鳴を上げかける。ユズリがすぐに声を重ねた。
「吐いて。痛いところを見ない。私を見て」
「う、あ」
「はい、戻って。大丈夫。まだ繋がっています。足、動かせますか」
「少し」
「七瀬さん、次」
黒根狼が飛びかかった。
遥の矢が横から入る。眼前の枝を砕き、狼の着地点をずらす。ミカゲの盾がその体を受け、黒堂の剣が地面に杭を打つ。倒すのではなく、進路を止める。朱音は振り返らない。後ろを信用する。自分は根を外す。それだけを見る。
「もう一回。水瀬」
「次は早い。二拍」
「二、一」
槍が根の内側を滑った。
拘束が外れる。少年の身体が崩れる前に、朱音は肩を入れて支えた。軽い。思ったより軽い。無謀な配信タイトルをつけた探索者も、支えればただの震える人間だった。怒りが少しだけ形を変える。許すわけではない。だが、ここで落とすわけにはいかない。
「帰還札」
「濡れてる」
「予備を使う」
朱音は腰の封鎖ポーチから補助帰還札を出した。本人登録札ではない。救助用の短距離転送補助。協会の帰還管理区画へ直接戻すには、医療班側の受け入れ印が必要になる。水瀬が端末で確認を取る。
「受け入れ可。二名ずつ」
「先に重傷者」
「了解」
錯乱していた少女が朱音の袖を掴んだ。
「澪ちゃんは、あそこにいるんですよね。私たち、助けに」
「違う」
朱音は少女の手首を掴み、目を合わせた。
「あなたたちは助けに行ったんじゃない。助けられに行ったの」
「でも」
「でもじゃない。帰るよ」
少女の目に涙が浮かんだ。
朱音はその涙から目を逸らさなかった。優しくするだけなら簡単だ。怖かったね、と言えばいい。でも、それだけではまた誰かが行く。澪を言い訳にする。黒画面を地図だと思う。だから、ここは言わなければいけない。
「澪は看板じゃない。配信の向こうで、まだ一人で戦ってる人だよ」
少女は何も言えなかった。
帰還札が発動する。
青白い光が二人を包み、ほどけるように消えた。残り二人。黒根狼はまだ退かない。根群れの動きが速くなる。旧樹洞跡の奥で、黒い幹が呼吸を深めた。長居はできない。
「撤退」
黒堂が言った。
「全員戻す。戦うな」
朱音は最後の少年を担ぎ直した。槍を片手で持ち、片肩で体重を受ける。重い。さっきより重い。疲労で腕が震える。だが、前へ出ない。戻る。黒堂の背中、ミカゲの盾、遥の射線、水瀬の声、ユズリの心拍誘導。その全部を繋ぐように、朱音は足を動かした。
最後の帰還札が光った時、黒い根が足元から伸びた。
朱音は反射で前へ出そうになった。根を切りに行く。根元へ槍を突き込む。そうすれば早い。だが、踏み出した足を止める。前じゃない。戻るための槍。朱音は槍の柄を地面へ落とし、根を踏み越える支点にした。少年の身体を押し上げ、先に帰還札の光へ入れる。自分は半歩遅れる。
「朱音!」
遥の声。
ミカゲの盾が横から入り、根を弾いた。朱音はその衝撃を利用して、光の中へ身を滑らせる。
帰還札の光がほどけた。
次の瞬間、朱音はアークライン本部地下の帰還管理区画に膝をついていた。床は白い。空気は消毒薬の匂いがする。医療班の声が飛ぶ。担いでいた少年がストレッチャーへ移される。水瀬、遥、ユズリ、ミカゲ、黒堂。全員、戻っている。
朱音は槍を握ったまま、しばらく立てなかった。
怒りではなく、疲労でもなく、遅れてきた怖さが膝に来ていた。
黒堂が近づく。
「よく止まった」
「止まれてました?」
「最後の一歩だけな」
「一歩だけ」
「一歩止まれれば、次は二歩止まれる」
朱音は息を吐いた。
「……はい」
救助は成功した。
だが、成功したことで終わりではなかった。無謀な後追い探索者が出た。黒画面を言い訳にした。澪の名前を使った。配信タイトルに九環を入れ、二層の奥へ入った。その事実は、すぐに世間へ出る。出さないわけにはいかない。隠せば、また別の者が真似をする。
アークラインと協会は、その日のうちに共同声明を出した。
第二層第六環外縁にて無許可侵入パーティーを救助。全員生存。重傷者二名。該当パーティーは申請範囲を超過し、チャンネル《九環》関連の断片確認を目的とした危険行為を行っていた。第二層深部への後追い探索、断片配信目的の侵入を改めて禁止する。救助に関わった探索者名は一部非公開。天瀬澪およびチャンネル《九環》への責任転嫁、誹謗中傷、無断切り抜き拡散を禁ずる。
黒画面のコメント欄は、荒れた。
『後追い出たのか』
『やると思った』
『馬鹿すぎる』
『全員生きて戻ったのはよかった』
『救助した人たちすごい』
『九環の声を探しに行く、ってタイトル最悪だな』
『澪ちゃんを言い訳にするな』
『でも黒画面が人を引き寄せてるのは事実』
『それを澪のせいにするな』
『救助帰還札の光になって、馬鹿でも生きて戻す側に回りたい』
このコメントは削除されました。
『今日は救助変態』
『濡れた帰還札の封印面になって、発動前に震える指を覚えていたい』
このコメントは削除されました。
『マニアック帰還札勢』
『朱音さんの槍の柄が地面に落ちた瞬間の支点になりたい』
このコメントは削除されました。
『見てないのに具体的すぎる』
『黒根に噛まれた床のへこみになって、戻る一歩を支えたい』
このコメントは削除されました。
『詩的だけど怖い』
『The stream is not a map. It is evidence that someone is trapped. Do not turn evidence into a destination.』
『海外解説ニキ、今日は強い』
『配信は地図じゃない、刺さる』
『本当にそれ』
『【公式】アークライン配信管理部:救助事案に関する憶測、救助対象者への攻撃、天瀬澪さんへの責任転嫁、変質コメントは制限対象です』
『公式、全部制限してくれ』
『救助対象者への攻撃も駄目なのはそう』
『生きて戻ったなら怒られろ』
『それでいい』
夜、朱音は帰還管理区画の壁際に座っていた。
医療班の処置は続いている。救助対象の四人は全員生きている。一人は魔力枯渇。一人は根の締め付けによる内出血。一人は軽度の精神汚染反応。一人は過呼吸。命に別状はない。生きている。朱音はその報告を何度も聞いて、ようやく槍から手を離した。
水瀬が隣に座る。
「お疲れ」
「疲れた」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「安心した?」
「した」
「両方?」
「両方」
水瀬は頷いた。
「なら、正常」
「正常かな」
「たぶん」
朱音は壁のモニターを見た。
そこには黒画面が映っている。白い文字は変わらない。深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。今日も澪は戻らない。今日も地上は勝手に騒ぐ。偽薬が出て、偽断片が出て、後追いが出て、救助が出る。澪はたぶん、何も知らない。暗闇で、鎖を握っている。
「澪が帰ってきたら、今日のこと言う?」
「言うでしょ」
「怒るかな」
「たぶん」
「誰に?」
「全員に」
「雑」
朱音は小さく笑った。
笑った後で、少し泣きそうになった。
水瀬は何も言わなかった。ただ隣に座っていた。遠くで医療班の足音がする。帰還管理区画の警告灯が、低い赤で点滅している。朱音はその光を見ながら、黒堂の言葉を思い出した。一歩止まれれば、次は二歩止まれる。
本日も5話連続投稿です




