第十六話 黒画面の詩人たち
澪が消えてから、黒い画面は日常の一部になった。
チャンネル《九環》には、相変わらず白い文字だけが浮かんでいる。深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。最初の頃、その文字は恐怖の象徴だった。誰もが息を止め、次の瞬間に配信が切れるのではないかと怯えていた。だが、一ヶ月を過ぎ、二ヶ月が近づく頃には、黒い画面は別のものになっていた。消えない黒。戻らない白文字。たまに走る細いノイズ。数秒だけ返ってくる音。メイの鎖らしき擦過音。誰かの浅い呼吸。そういう断片が、世界中の人間を画面の前に座らせ続けていた。
アークライン配信管理部では、それを黒画面待機と呼ぶ者が出始めた。
ミナトはその呼び方を好まなかったが、否定もしなかった。名前がつくほど、黒い画面は広がっている。学校の休み時間に見る者。勤務中に小さな別窓で開く者。探索者協会の食堂で流し続ける者。海外クランの作戦室で、断片音声の波形だけを見ている者。病室のベッドで、白い文字を見ながら眠る者。視聴者数は通常配信ではあり得ないほど高いまま、減っては戻り、また増えた。黒いだけの配信が、世界で最も見られている画面の一つになっていた。
『今日も黒い』
『でも開いてる』
『朝の確認に来た』
『会社のモニター端に置いてる』
『病院の待合で流れてる』
『白文字が変わらないの、逆に安心する日がある』
『黒画面の右下に走るノイズになって、誰より先に帰り道を見つけたい』
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『朝から詩的変態』
『待機画面の余白になって、世界中のため息を受け止めたい』
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『余白派』
『音声波形のゼロ線になって、息が戻る瞬間だけ震えたい』
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『マニアック音響勢』
『解析前の原本データになって、ミナトさんに大事に保存されたい』
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『管理部に迷惑をかけるな』
『The blank screen is functioning like a shared vigil. People are not watching an image anymore. They are watching for the possibility of return.』
『海外解説ニキ、今日も詩人』
『帰還の可能性を見る画面か』
『言い方が重い』
『【公式】アークライン配信管理部:待機中もコメント規定は適用されます。変質コメント、未確認情報の断定、探索者への過度な呼びかけは制限対象です』
『公式おはよう』
『毎朝これ見ると安心するようになった』
『それもそれで怖い』
黒画面に集まる人が増えるほど、そこへ別のものも集まり始めた。
最初に目立ったのは偽薬だった。九環由来素材配合。空葬成分を希釈。天瀬澪の探索記録を基にした老化抑制サプリ。黒花姫の霧から着想を得た睡眠改善薬。どれも嘘だった。素材など入っていない。あるいは、正体不明の低級素材を粉にして混ぜただけだった。協会とアークラインは即座に警告を出したが、詐欺は警告より先に広がる。白い小瓶の発表から数週間で、ネット上には粗悪な偽広告が溢れた。
佐伯の仕事はまた増えた。
「天瀬澪監修、ですか」
「本人は第二層九環で信号喪失中です。監修できるわけがありません」
「悪質度、高いですね」
神楽坂が眉を寄せる。
「高いです。販売元は国内法人を装っていますが、決済経路は海外を経由しています。広告代理店は二枚噛んでいます。配信切り抜きも無断使用。澪さんの顔と、黒花姫戦の断片画像を加工しています」
「潰してください」
「もう始めています」
佐伯は端末を閉じた。
法務部、協会、警察、海外窓口、決済事業者、広告配信会社。関係する先へ同時に手が伸びる。警告だけでは足りない。売上を止め、サイトを落とし、関係者を追い、名前を出せる段階になれば出す。偽薬で体調を崩した者もいた。幸い命に関わる被害はまだ確認されていないが、放置すれば時間の問題だった。
「澪さんが帰ってきたら、どう説明しましょう」
「偽物が出ました、と」
「反応は」
「たぶん、『偽物、弱そう』です」
「怒りますかね」
「怒る場所が少し違うと思います」
神楽坂は小さく息を吐いた。
「弱そう、で済むなら助かります」
「済ませません。こちらが」
その頃、配信管理部も別の火を消していた。
黒画面の断片映像は、世界中の解析対象になっている。公式が出したものだけでなく、配信画面のノイズ、音声波形、白文字の揺れ、メイの鎖が映った三秒、呼吸音の四秒。そのすべてが切り抜かれ、加工され、拡大され、勝手な解釈を付けられて拡散された。中には、本物に見えるよう加工された偽断片もあった。澪の声を合成した偽音声。黒い骨の床へ別の映像を混ぜた偽映像。帰還したという偽字幕。死亡したと断定する偽解析。どれも悪意があった。
ミナトは画面を睨んでいた。
「偽断片、また増えています」
「削除要請は」
「出しています。国内は早いです。海外が遅い。あと、個人アカウントが増殖しています」
「発信元は」
「一部は詐欺薬の広告経路と重なっています」
配信管理部の一人が答える。
ミナトの目が冷えた。
「そっちと繋いでください。佐伯さんにも回します」
「了解」
「ノイズ原本の透かし情報、公開版には出していませんよね」
「はい」
「なら、偽映像の判定はできます。まとめて落とします」
普段のミナトは、コメント欄の変態を淡々と削除する人間として視聴者に知られている。だが、配信管理部の仕事はそれだけではない。映像を守る。原本を守る。偽造を潰す。澪が暗闇から返した数秒を、誰かの金儲けや悪意に使わせない。そのために、彼女たちは黒い画面の前で戦っていた。
コメント欄にも、その気配は伝わっていた。
『偽断片また出てる』
『公式以外見るなって』
『声合成マジでやめろ』
『澪ちゃんの声を勝手に作るな』
『ノイズまで偽造するとか終わってる』
『本物のノイズだけを信じろ』
『本物のノイズって何だよ』
『ノイズ除去前原本のチェックサムになって、偽物を全部弾きたい』
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『技術変態が出た』
『透かし情報の見えない層になって、偽映像を静かに刺したい』
このコメントは削除されました。
『マニアックすぎて怖い』
『配信管理部のバックアップディスクになって、三秒の手を何重にも守りたい』
このコメントは削除されました。
『守護系ストレージ変態』
『The fake clips are trying to steal grief and turn it into traffic. Only trust source-linked fragments.』
『海外解説ニキ、怒ってる』
『悲しみを盗んで再生数にする、って言い方きつい』
『でもその通り』
『【公式】アークライン配信管理部:公式確認のない断片映像、音声、加工画像の拡散は制限対象です。悪質な偽造は法的措置の対象となります』
『公式がキレてる』
『ミナトさん寝て』
朱音への接触も、さらに増えていた。
直接会おうとする者は減った。アークラインの警備が厳しくなったからだ。代わりに、手紙が増えた。贈り物が増えた。匿名の励まし、同情、祈り、取材依頼、脅しに近い忠告、不老薬の譲渡を求める長文。七瀬家へ届く前に大半は法務窓口で止められる。それでも、抜けようとするものはある。ある日、朱音の訓練用ロッカーに、小さな封筒が入っていた。
朱音はそれを開けなかった。
すぐに呼んだ。
「佐伯さん」
数分後、佐伯と警備担当が来た。封筒は封鎖ケースへ入れられ、周囲の記録が取られる。朱音は少し離れてそれを見ていた。水瀬と遥も近くにいる。ユズリは朱音の表情を見て、静かに耳を伏せていた。
「触っていませんね」
「触ってません」
「開けようとは」
「思いませんでした」
「正しい判断です」
佐伯は封筒を見た。
「最近、同情を装った接触が増えています。七瀬さんが保留している薬剤を狙うもの、澪さんへの伝言を装うもの、精神的に揺さぶるもの。中身が何であれ、直接受け取らないでください」
「はい」
朱音は頷いた。
その返事は早かった。以前なら、少しくらい見てもいいと思ったかもしれない。悪意があるとは限らない。誰かが本当に困っているのかもしれない。そう考えたかもしれない。だが、今は違う。優しさと警戒は別物だ。澪がいない間、自分が雑に揺れれば、それは澪の周囲を崩す。
「私、小瓶じゃないんですけどね」
朱音は小さく言った。
佐伯は一瞬だけ黙った。
「はい」
「でも、そう見られてますよね」
「見ている者はいます」
「嫌ですね」
「嫌でいいです」
佐伯は淡々と言った。
「嫌だと思えるなら、まだ相手の言葉に飲まれていません」
「そういうものですか」
「そういうものです」
朱音は封鎖ケースに収まった封筒を見た。
「澪が帰ってきたら、怒るかな」
「怒ると思います」
「誰に?」
「たぶん、封筒に」
「……澪ならありそうです」
水瀬が小さく笑った。
「封筒、弱そうって言いそう」
「言いますね」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、その封筒の件は軽くなかった。ロッカーへ入れた人物は、訓練区画の出入り権限を持っていた。内部協力者か、権限の偽装か。佐伯はその日のうちに調査範囲を広げた。アークラインの中にも、外から伸びた手が入り込もうとしている。澪がいないからこそ、周囲を狙う。正面から澪を倒せない者ほど、そうする。
その夜、黒画面に小さなノイズが走った。
映像ではない。音でもない。白い文字の一部が、ほんの一瞬だけ歪んだ。管制室では記録されたが、公式発表するほどの変化ではなかった。けれど、黒画面を毎日見ている者たちは、そういう微細な揺れにも敏感になっていた。
『今、右端揺れた?』
『揺れた』
『気のせいじゃない?』
『毎日見てるから分かる』
『黒画面ソムリエ怖い』
『白文字のにじみがいつもより細かった』
『お前は何を見てるんだ』
『白文字の滲みになって、届かない声の端だけ濡らしたい』
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『詩的黒画面勢』
『右端ノイズの一ドットになって、世界中の視線に耐えたい』
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『ドット変態』
『復旧試行中の「試」の字の払いになって、まだ諦めてない形を保ちたい』
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『文字部品フェチは細かすぎる』
『This community is now reading noise like weather. Strange, but not meaningless.』
『海外解説ニキ、それな』
『ノイズを天気みたいに読むっていいな』
『黒画面地方、今日の天気は右端にじみ』
『ちょっと笑った』
『笑える日があるだけマシ』
『【公式】アークライン配信管理部:微細なノイズ変化に関する断定はお控えください。現在も監視を継続しています』
『公式も見てる』
『そりゃ見てる』
黒画面の文化は、奇妙に育っていった。
真面目な解析者がいる。祈る者がいる。怒る者がいる。泣く者がいる。詩を書く者がいる。削除される変態がいる。海外解説ニキが観測できる範囲だけを丁寧に翻訳し、技術勢が偽映像を見抜き、一般視聴者が白文字の揺れで一喜一憂する。そこはもう、ただの配信コメント欄ではなかった。澪がいない間に、澪の不在を中心にした場所になっていた。
ミナトはその様子を見て、少しだけ複雑な顔をした。
「黒画面なのに、文化にならないでください」
「もうなっています」
「困ります」
「でも、荒れ続けるよりはましです」
「変態もいます」
「それは最初からです」
「最初からでは……ありましたね」
ミナトは否定できなかった。
その時、警告音が鳴った。
黒画面のノイズではない。外部アクセス検知。配信原本保管系統ではなく、断片音声の解析サーバーへ向けた不正な接続試行だった。ミナトの表情が変わる。配信管理部の空気が一瞬で締まった。
「切り離し」
「実行」
「囮サーバーへ流して」
「流しました」
「ログ保存。経路追跡。佐伯さんへ即時共有」
ミナトは端末を叩きながら、声を落とした。
「三秒の手と四秒の息を盗みに来るな」
その声は、コメント欄には届かない。
だが、その夜、アークライン本部の地下で、配信管理部は小さな防衛戦を終えた。不正接続は囮へ流され、経路の一部が押さえられ、佐伯の机へ新しい資料が積まれる。澪の断片は守られた。黒い画面の向こうにいる本人には、たぶん伝わらない。けれど、地上には地上の戦いがある。
翌朝、公式は短い警告を出した。
断片映像および音声の原本、解析データ、装備反応ログへの不正アクセスを確認。防御済み。関係機関と連携し、発信元を調査中。公式外の断片映像、音声、解析データを信用しないこと。
コメント欄はまた騒いだ。
『盗みに来たのか』
『三秒の映像を?』
『四秒の息を?』
『最低だな』
『ミナトさんたち守ってくれてるんだな』
『配信管理部ありがとう』
『原本保管庫の冷たい床になって、誰にも踏まれず三秒を守りたい』
このコメントは削除されました。
『守りたい変態』
『囮サーバーの偽扉になって、侵入者を暗い廊下に誘い込みたい』
このコメントは削除されました。
『サイバー変態まで来た』
『アクセスログの最後尾になって、佐伯さんの机に辿り着きたい』
このコメントは削除されました。
『法務行きたい勢』
『The target was not money. It was proof. They wanted control over what people believe she is doing.』
『海外解説ニキ、重い』
『証拠を盗むってそういうことか』
『信じるものを奪いに来たんだな』
『許せん』
『【公式】アークライン配信管理部:配信原本および解析データへの不正接続は法的措置の対象です。公式外の情報拡散にご注意ください』
『公式、今日は硬い』
『当たり前だろ』
『黒画面、守られてるんだな』
朱音はその警告を見て、訓練場へ向かった。
封筒の件も、不正アクセスの件も、不老薬の偽広告も、全部が澪の周囲で起きている。澪本人は暗闇の中にいて、たぶん何も知らない。帰ってきた時、何が増えたのかと首を傾げるかもしれない。偽物を見て「弱そう」と言うかもしれない。詩的変態コメントを見て、無言で画面を閉じるかもしれない。
その想像をして、朱音は少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
槍を握る。
前へ出るためではない。戻るために。守るために。待っている間に、待っているだけの人間にならないために。
黒い画面は、今日も黒い。
黒画面文化……暇人が多いですねぇ。




