第十五話 老いた英雄
エルンスト・ヴァルトがアークライン本部に入ったのは、制限入札から十日後のことだった。
表向きには、協会監督下の医療検査と契約締結のための来日。実際には、それだけでは済まない。彼が乗った車両は空港から直接本部地下の搬入口へ入り、報道陣の前には一度も姿を見せなかった。
同行者は医師二名、法務代理人一名、財団職員二名だけ。武装護衛は許可されず、通信機器も制限された。アークライン側は神楽坂、佐伯、医療主任、協会監査官、榊原、ユイカが立ち会う。黒瀬は会場外の警備指揮に回っていた。
エルンストは、思ったよりも静かな老人だった。
背は高い。肩もまだ広い。だが、歩みは遅い。杖をつくたび、古い怪我が全身のどこかで軋んでいるのが分かる。かつて深層で名を知られた探索者。その肩書きに相応しい威圧感は残っている。けれど、彼はそれを振り回さなかった。封鎖医療室へ入る前、壁面の小さなモニターに映ったチャンネル《九環》の黒画面を見て、足を止めた。
「まだ、黒いのか」
「はい」
「断片映像は」
「複数回確認しています。詳細は非公開です」
「聞かない。聞く権利もない」
佐伯が一瞬だけ目を細めた。
エルンストは白い文字をしばらく見ていた。深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。その文言は、もう地上の多くの人間にとって見慣れたものになっていた。見慣れたからといって、軽くなったわけではない。むしろ、日を追うごとに重くなる。黒い画面の向こうに、少女が一人で閉じ込められているかもしれない。それを誰も忘れられなかった。
「若い者が暗い場所で戦っている時に、老人が薬を受けに来る。順番が逆だな」
「それでも、あなたは来ました」
「来た。私は聖人ではない」
彼は杖を握る手に少しだけ力を込めた。
「もう少し見たい。自分の目で」
「その言葉も記録します」
「好きにしろ」
封鎖医療室の奥には、白い小瓶が置かれていた。
実物は思ったより小さい。親指ほどの透明な容器。封鎖札と細い赤い紐で固定され、複数の術式盤に囲まれている。中身は白ではなかった。淡い空色が混ざった乳白色で、光を当てると内側に薄い雲のような揺れが見える。第一層九環の空を砕き、液体にしたような色だった。見ているだけで、時間の流れが少し遅くなる錯覚がある。
ユイカは何度見ても、その小瓶が好きになれなかった。
怖い。危険だから怖いのではない。安定しているから怖い。白い小瓶は暴れない。封鎖札を破ろうともしない。何かを侵そうともしていない。ただ静かにそこにあり、世界中の欲望を呼び寄せている。危険物なら封じればいい。だが、願いに似たものは封じにくい。
「容器反応、安定。温度、魔力密度、封鎖札反応、すべて許容範囲内です」
「使用前の最終確認を」
医療主任が言う。
「対象者、エルンスト・ヴァルト。年齢、七十二。種族、第二次存在進化済み人族系派生。既往歴、深層探索由来の複合損傷多数。薬剤目的、老化進行の停止可能性検証。治療効果、若返り効果、負傷回復効果は保証しない。使用後、十年間の長期観察と定期報告を義務づける」
「承知している」
「投与後、急変時は協会およびアークライン医療班の判断で処置を優先します」
「それも承知している」
「最後に一つ」
神楽坂が封鎖ガラス越しに言った。
「使用後、効果が発現しなかった場合も、契約条件は維持されます」
「承知している」
「発現した場合、あなた自身が政治的な標的になる可能性があります」
「老いぼれにしては、まだ逃げ足はある」
「冗談として記録します」
「冗談だ。半分は」
佐伯が端末に短く記録した。冗談半分、警戒継続。
白い小瓶の封鎖が解かれた時、室内の空気がわずかに変わった。
冷たくなったのではない。軽くなったのでもない。ただ、今までそこにあった時間の流れが、一瞬だけ横を向いたような感覚だった。医療主任が慎重に薬液を投与器へ移す。直接飲む形ではない。口から入れるには危険すぎる。
適合検査を通した上で、少量ずつ体内へ入れる。投与器の中で、白い液体が細く震えた。
「開始します」
エルンストは頷いた。
投与は、驚くほど静かに終わった。
劇的な光も、肉体の変化もない。老人の皺が消えることも、背筋が若返ることもない。ただ、投与後数分で、術式盤の針が同時に揺れた。医療主任の表情が変わる。ユイカが端末へ顔を近づける。エルンストの魔力回路の外周に、薄い白い膜のような反応が生まれていた。膜は広がらない。傷を治そうともしない。だが、身体の一部に固定されるように、ゆっくり馴染んでいく。
「進行反応、停止。暴走なし」
「拒絶反応は」
「現時点では確認できません。老化指標の変化は長期観察が必要です。ただ……」
医療主任は言葉を切った。
エルンストは目を閉じていた。苦痛はないようだった。彼はしばらく呼吸を整え、ゆっくり目を開ける。
「静かだ」
「何がですか」
「身体の奥で、ずっと鳴っていた古い軋みがある。消えたわけではない。痛みもある。だが、遠くなった」
「記録します」
「好きにしろ」
榊原は封鎖室の端で、その言葉を聞いていた。
不老薬は万能ではない。傷を消す薬ではない。病を祓う薬でもない。だが、老いた身体の奥に、もうこれ以上崩れないための薄い楔を打ったように見える。それだけで十分すぎるほど危険だった。成功と断言するには早い。だが、失敗でもない。世界がまた騒ぐには、それだけで足りた。
投与後の簡易発表は、慎重に作られた。
落札者への第一投与を完了。急性拒絶反応なし。暴走反応なし。効果判定は長期観察を要する。薬剤の追加製造予定なし。譲渡分の一本は引き続き封鎖保管。七瀬朱音への接触禁止を再度明記。文章は乾いていた。乾いているからこそ、余計な熱を呼んだ。
黒画面のコメント欄にも、投与完了の報せが流れ込んだ。
『投与終わったのか』
『急性拒絶なしってことは、とりあえず通った?』
『公式は成功って言ってない』
『でも失敗でもない』
『老いた英雄が使うの、物語みたいだな』
『物語じゃなくて現実なんだよな』
『小瓶の中の空が、老人の血管を静かに歩くところを見たい』
このコメントは削除されました。
『今日も湿度高い』
『投与器の針先になって、時間の膜に触れたい』
このコメントは削除されました。
『医療器具方面に行くな』
『封鎖札の赤紐になって、使われた後の空瓶を縛り直したい』
このコメントは削除されました。
『空瓶派まで出た』
『老人の古傷に残る遠い痛みになって、少しだけ静かになりたい』
このコメントは削除されました。
『詩的すぎて消されるの惜しい』
『惜しくても消される』
『The important thing is not rejuvenation. It is whether decay has stopped moving forward.』
『海外解説ニキ、分かりやすい』
『若返りじゃなくて、崩れるのが止まったかどうかってことか』
『それでも十分やばい』
『【公式】アークライン配信管理部:薬剤の効能に関する断定、落札者への接触誘導、変質コメントは制限対象です』
『公式、今日は薬剤と黒画面の二重対応』
『澪ちゃん帰ってきたら、空瓶見て何て言うんだろ』
『たぶん「減った」』
『言いそう』
エルンストは投与後、三時間の経過観察を受けた。
その間も、彼は黒い画面を見ていた。医療室のモニターには心拍、魔力回路、血液反応、封鎖札の安定値が並んでいる。その隣に、チャンネル《九環》の黒い画面が小さく開かれていた。白い文字は変わらない。復旧を試行しています。世界中がそれを見ている。老人もまた、その一人だった。
「彼女は、どれくらい深い場所にいる」
エルンストが聞いた。
「分かりません」
神楽坂が答えた。
「救助は」
「現時点では不可能です」
「正直だな」
「嘘をつく場面ではありません」
「良い組織だ。嘘をつかない組織は少ない」
神楽坂は少しだけ目を伏せた。
「嘘をつかないことと、正しいことは違います」
「知っている」
エルンストは黒い画面を見たまま言った。
「私は昔、仲間を深層に置いて帰ったことがある。救いに戻れば全員死ぬ場所だった。正しい判断だった。今でもそう思う。だが、正しいことは軽くならない」
「……はい」
「待つ者には、待つ者の傷がある」
神楽坂は返事をしなかった。
その言葉は、別室の朱音には届かなかった。だが、届かなくていいものもある。朱音は朱音の場所で、訓練場の床に転がっていた。
ミカゲの盾を受け損ね、背中から落ちたのだ。肺から空気が抜け、視界が少し白くなる。以前なら、すぐ起き上がろうとした。立つ。前へ出る。守る。そうしなければいけないと思っていた。だが、ユズリが言った通り、壊れるまで動くことは強さではない。
「起きる前に見る」
ユズリの声が飛ぶ。
朱音は床に転がったまま、視線だけを動かした。水瀬の位置。遥の射線。ミカゲの盾。自分が倒れた時、誰が狙われるか。誰が動けるか。誰が戻れるか。胸が痛い。だが、痛みより先に状況を見る。澪なら、たぶん痛みながらでも見る。そう思った。
「右、空いてる」
「正解」
ユズリが短く言う。
「じゃあ、起きて」
朱音は息を吸い、床を押して立ち上がった。槍を握る。前へ出るのではなく、斜めに下がる。ミカゲがまた盾を振る。朱音は受けず、盾の縁を流した。体勢は崩れる。だが、今度は倒れない。
ミカゲが笑った。
「二回目」
「まだ、ぎりぎりです」
「ぎりぎりを増やせばいいんだよ」
「はい」
水瀬は訓練記録を取りながら、壁の小さな黒画面を見た。変化はない。白い文字だけ。けれど、朱音の動きは変わり始めている。澪が暗闇にいる間、地上にいる者たちは少しずつ形を変えていた。
投与から数日後、エルンスト・ヴァルト財団は探索者医療基金への第一回拠出を実行した。
額は公表されなかった。だが、負傷探索者向け義肢支援、深層後遺症治療、探索者遺族への教育支援が一気に拡張されたことで、規模はすぐに知れ渡った。財団は派手な宣伝をしなかった。代わりに、アークラインと協会が共同で、支援対象の拡大だけを告知した。
白い小瓶は、一人の老人の身体へ入った。
その代わりに、多くの探索者の治療費が動き始めた。
それが正しい取引だったのかは、まだ誰にも分からない。だが、少なくとも白い小瓶は、誰かの金庫に閉じ込められて終わらなかった。
そして、澪が消えてから六十日目の夜。
黒画面に、映像ではなく音が戻った。
最初は雨音のようだった。だが、第二層の雨ではない。水ではなく、細い骨片がどこかに落ち続けるような音。乾いた、軽い、けれど数が多い音だった。その奥に、鎖の低い擦過音が混じる。メイだ。さらに、何か重いものが床を引きずられる。金属ではない。肉でもない。黒い影が床に貼りついたまま引かれているような音。
最後に、息が入った。
浅い。
荒い。
けれど、はっきりと人の息だった。
音声は四秒で消えた。
管制室で、夜勤管理員が叫ぶ。
「音声断片、四・二秒。映像なし。メイ反応上昇。空葬装束反応、同期。呼吸音あり」
「保存しろ」
黒瀬の声が即座に飛ぶ。
「保存中です」
「解析班を呼べ。外にはまだ出すな」
「はい」
ミナトは隣の端末で音声波形を開いた。目の下に隈がある。休んでいるはずなのに、休めていない顔だった。
「呼吸、前より近いです」
「距離が分かるのか」
「分かりません。でも、音の潰れ方が違います。前は穴の奥でした。今回は、布越しです」
「布越し」
「すみません、変な表現です」
「いや、分かる」
黒瀬は画面を見た。
黒い画面は相変わらず黒い。白い文字があるだけだ。だが、その黒の向こうで、澪はまだ息をしていた。鎖を引き、何かを動かし、暗闇の中で少しずつこちら側へ音を返している。
コメント欄にも、数十秒遅れて音声復旧の情報が流れた。
『音戻った!?』
『聞こえた』
『今度長かった』
『骨みたいな雨音しなかった?』
『雨じゃない気がする』
『鎖音あった』
『息、聞こえたよな』
『前より近くなかった?』
『気のせいかもしれないけど近かった』
『四秒で泣かせるな』
『骨の雨の一粒になって、暗闇に落ちる順番を待ちたい』
このコメントは削除されました。
『骨雨派』
『音声波形の谷間になって、澪ちゃんの息をそっと抱えたい』
このコメントは削除されました。
『マニアックすぎる』
『ノイズ除去前の原本に住みたい』
このコメントは削除されました。
『解析班泣くぞ』
『メイが床を擦る時の、ほんの少し遅れる反響になりたい』
このコメントは削除されました。
『今日の変態、音響勢が強い』
『The breathing is less buried than before. I cannot say closer, but the signal is cleaner.』
『海外解説ニキ』
『近いとは断定しないけど、前より綺麗ってことか』
『それだけで待てる』
『息がある』
『待つ』
『【公式】アークライン配信管理部:音声断片を確認しました。現在解析中です。未確認情報の断定、音声加工の拡散、変質コメントは制限対象です』
『公式も確認』
『二ヶ月経ってもまだ息がある』
『澪ちゃん、まだいる』
その夜、朱音は黒い画面の前で立ったまま音声を聞いた。
四秒。骨の雨。鎖。重いものを引きずる音。呼吸。繰り返し再生しても、澪の声は入っていない。それでも、朱音は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。待つことに慣れたわけではない。怖さが消えたわけでもない。けれど、暗闇の向こうから返ってきた息は、確かに前より近く感じた。
「聞こえたよ」
朱音は小さく言った。
画面は黒いままだった。
「こっちも、まだいるから」
白い文字は変わらない。
復旧を試行しています。
それでも、朱音はその夜、少しだけ眠れた。




