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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第三章

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第十五話 老いた英雄

 エルンスト・ヴァルトがアークライン本部に入ったのは、制限入札から十日後のことだった。


 表向きには、協会監督下の医療検査と契約締結のための来日。実際には、それだけでは済まない。彼が乗った車両は空港から直接本部地下の搬入口へ入り、報道陣の前には一度も姿を見せなかった。

同行者は医師二名、法務代理人一名、財団職員二名だけ。武装護衛は許可されず、通信機器も制限された。アークライン側は神楽坂、佐伯、医療主任、協会監査官、榊原、ユイカが立ち会う。黒瀬は会場外の警備指揮に回っていた。


 エルンストは、思ったよりも静かな老人だった。


 背は高い。肩もまだ広い。だが、歩みは遅い。杖をつくたび、古い怪我が全身のどこかで軋んでいるのが分かる。かつて深層で名を知られた探索者。その肩書きに相応しい威圧感は残っている。けれど、彼はそれを振り回さなかった。封鎖医療室へ入る前、壁面の小さなモニターに映ったチャンネル《九環》の黒画面を見て、足を止めた。


「まだ、黒いのか」

「はい」

「断片映像は」

「複数回確認しています。詳細は非公開です」

「聞かない。聞く権利もない」


 佐伯が一瞬だけ目を細めた。


 エルンストは白い文字をしばらく見ていた。深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。その文言は、もう地上の多くの人間にとって見慣れたものになっていた。見慣れたからといって、軽くなったわけではない。むしろ、日を追うごとに重くなる。黒い画面の向こうに、少女が一人で閉じ込められているかもしれない。それを誰も忘れられなかった。


「若い者が暗い場所で戦っている時に、老人が薬を受けに来る。順番が逆だな」

「それでも、あなたは来ました」

「来た。私は聖人ではない」


 彼は杖を握る手に少しだけ力を込めた。


「もう少し見たい。自分の目で」

「その言葉も記録します」

「好きにしろ」


 封鎖医療室の奥には、白い小瓶が置かれていた。


 実物は思ったより小さい。親指ほどの透明な容器。封鎖札と細い赤い紐で固定され、複数の術式盤に囲まれている。中身は白ではなかった。淡い空色が混ざった乳白色で、光を当てると内側に薄い雲のような揺れが見える。第一層九環の空を砕き、液体にしたような色だった。見ているだけで、時間の流れが少し遅くなる錯覚がある。


 ユイカは何度見ても、その小瓶が好きになれなかった。


 怖い。危険だから怖いのではない。安定しているから怖い。白い小瓶は暴れない。封鎖札を破ろうともしない。何かを侵そうともしていない。ただ静かにそこにあり、世界中の欲望を呼び寄せている。危険物なら封じればいい。だが、願いに似たものは封じにくい。


「容器反応、安定。温度、魔力密度、封鎖札反応、すべて許容範囲内です」

「使用前の最終確認を」


 医療主任が言う。


「対象者、エルンスト・ヴァルト。年齢、七十二。種族、第二次存在進化済み人族系派生。既往歴、深層探索由来の複合損傷多数。薬剤目的、老化進行の停止可能性検証。治療効果、若返り効果、負傷回復効果は保証しない。使用後、十年間の長期観察と定期報告を義務づける」

「承知している」

「投与後、急変時は協会およびアークライン医療班の判断で処置を優先します」

「それも承知している」

「最後に一つ」


 神楽坂が封鎖ガラス越しに言った。


「使用後、効果が発現しなかった場合も、契約条件は維持されます」

「承知している」

「発現した場合、あなた自身が政治的な標的になる可能性があります」

「老いぼれにしては、まだ逃げ足はある」

「冗談として記録します」

「冗談だ。半分は」


 佐伯が端末に短く記録した。冗談半分、警戒継続。


 白い小瓶の封鎖が解かれた時、室内の空気がわずかに変わった。


 冷たくなったのではない。軽くなったのでもない。ただ、今までそこにあった時間の流れが、一瞬だけ横を向いたような感覚だった。医療主任が慎重に薬液を投与器へ移す。直接飲む形ではない。口から入れるには危険すぎる。

適合検査を通した上で、少量ずつ体内へ入れる。投与器の中で、白い液体が細く震えた。


「開始します」


 エルンストは頷いた。

 投与は、驚くほど静かに終わった。


 劇的な光も、肉体の変化もない。老人の皺が消えることも、背筋が若返ることもない。ただ、投与後数分で、術式盤の針が同時に揺れた。医療主任の表情が変わる。ユイカが端末へ顔を近づける。エルンストの魔力回路の外周に、薄い白い膜のような反応が生まれていた。膜は広がらない。傷を治そうともしない。だが、身体の一部に固定されるように、ゆっくり馴染んでいく。


「進行反応、停止。暴走なし」

「拒絶反応は」

「現時点では確認できません。老化指標の変化は長期観察が必要です。ただ……」


 医療主任は言葉を切った。


 エルンストは目を閉じていた。苦痛はないようだった。彼はしばらく呼吸を整え、ゆっくり目を開ける。


「静かだ」

「何がですか」

「身体の奥で、ずっと鳴っていた古い軋みがある。消えたわけではない。痛みもある。だが、遠くなった」

「記録します」

「好きにしろ」


 榊原は封鎖室の端で、その言葉を聞いていた。


 不老薬は万能ではない。傷を消す薬ではない。病を祓う薬でもない。だが、老いた身体の奥に、もうこれ以上崩れないための薄い楔を打ったように見える。それだけで十分すぎるほど危険だった。成功と断言するには早い。だが、失敗でもない。世界がまた騒ぐには、それだけで足りた。


 投与後の簡易発表は、慎重に作られた。


 落札者への第一投与を完了。急性拒絶反応なし。暴走反応なし。効果判定は長期観察を要する。薬剤の追加製造予定なし。譲渡分の一本は引き続き封鎖保管。七瀬朱音への接触禁止を再度明記。文章は乾いていた。乾いているからこそ、余計な熱を呼んだ。


 黒画面のコメント欄にも、投与完了の報せが流れ込んだ。


『投与終わったのか』

『急性拒絶なしってことは、とりあえず通った?』

『公式は成功って言ってない』

『でも失敗でもない』

『老いた英雄が使うの、物語みたいだな』

『物語じゃなくて現実なんだよな』

『小瓶の中の空が、老人の血管を静かに歩くところを見たい』

このコメントは削除されました。

『今日も湿度高い』

『投与器の針先になって、時間の膜に触れたい』

このコメントは削除されました。

『医療器具方面に行くな』

『封鎖札の赤紐になって、使われた後の空瓶を縛り直したい』

このコメントは削除されました。

『空瓶派まで出た』

『老人の古傷に残る遠い痛みになって、少しだけ静かになりたい』

このコメントは削除されました。

『詩的すぎて消されるの惜しい』

『惜しくても消される』

『The important thing is not rejuvenation. It is whether decay has stopped moving forward.』

『海外解説ニキ、分かりやすい』

『若返りじゃなくて、崩れるのが止まったかどうかってことか』

『それでも十分やばい』

『【公式】アークライン配信管理部:薬剤の効能に関する断定、落札者への接触誘導、変質コメントは制限対象です』

『公式、今日は薬剤と黒画面の二重対応』

『澪ちゃん帰ってきたら、空瓶見て何て言うんだろ』

『たぶん「減った」』

『言いそう』


 エルンストは投与後、三時間の経過観察を受けた。


 その間も、彼は黒い画面を見ていた。医療室のモニターには心拍、魔力回路、血液反応、封鎖札の安定値が並んでいる。その隣に、チャンネル《九環》の黒い画面が小さく開かれていた。白い文字は変わらない。復旧を試行しています。世界中がそれを見ている。老人もまた、その一人だった。


「彼女は、どれくらい深い場所にいる」


 エルンストが聞いた。


「分かりません」


 神楽坂が答えた。


「救助は」

「現時点では不可能です」

「正直だな」

「嘘をつく場面ではありません」

「良い組織だ。嘘をつかない組織は少ない」


 神楽坂は少しだけ目を伏せた。


「嘘をつかないことと、正しいことは違います」

「知っている」


 エルンストは黒い画面を見たまま言った。


「私は昔、仲間を深層に置いて帰ったことがある。救いに戻れば全員死ぬ場所だった。正しい判断だった。今でもそう思う。だが、正しいことは軽くならない」

「……はい」

「待つ者には、待つ者の傷がある」


 神楽坂は返事をしなかった。


 その言葉は、別室の朱音には届かなかった。だが、届かなくていいものもある。朱音は朱音の場所で、訓練場の床に転がっていた。


 ミカゲの盾を受け損ね、背中から落ちたのだ。肺から空気が抜け、視界が少し白くなる。以前なら、すぐ起き上がろうとした。立つ。前へ出る。守る。そうしなければいけないと思っていた。だが、ユズリが言った通り、壊れるまで動くことは強さではない。


「起きる前に見る」


 ユズリの声が飛ぶ。


 朱音は床に転がったまま、視線だけを動かした。水瀬の位置。遥の射線。ミカゲの盾。自分が倒れた時、誰が狙われるか。誰が動けるか。誰が戻れるか。胸が痛い。だが、痛みより先に状況を見る。澪なら、たぶん痛みながらでも見る。そう思った。


「右、空いてる」

「正解」


 ユズリが短く言う。


「じゃあ、起きて」


 朱音は息を吸い、床を押して立ち上がった。槍を握る。前へ出るのではなく、斜めに下がる。ミカゲがまた盾を振る。朱音は受けず、盾の縁を流した。体勢は崩れる。だが、今度は倒れない。


 ミカゲが笑った。


「二回目」

「まだ、ぎりぎりです」

「ぎりぎりを増やせばいいんだよ」

「はい」


 水瀬は訓練記録を取りながら、壁の小さな黒画面を見た。変化はない。白い文字だけ。けれど、朱音の動きは変わり始めている。澪が暗闇にいる間、地上にいる者たちは少しずつ形を変えていた。


 投与から数日後、エルンスト・ヴァルト財団は探索者医療基金への第一回拠出を実行した。


 額は公表されなかった。だが、負傷探索者向け義肢支援、深層後遺症治療、探索者遺族への教育支援が一気に拡張されたことで、規模はすぐに知れ渡った。財団は派手な宣伝をしなかった。代わりに、アークラインと協会が共同で、支援対象の拡大だけを告知した。


 白い小瓶は、一人の老人の身体へ入った。


 その代わりに、多くの探索者の治療費が動き始めた。


 それが正しい取引だったのかは、まだ誰にも分からない。だが、少なくとも白い小瓶は、誰かの金庫に閉じ込められて終わらなかった。


 そして、澪が消えてから六十日目の夜。


 黒画面に、映像ではなく音が戻った。


 最初は雨音のようだった。だが、第二層の雨ではない。水ではなく、細い骨片がどこかに落ち続けるような音。乾いた、軽い、けれど数が多い音だった。その奥に、鎖の低い擦過音が混じる。メイだ。さらに、何か重いものが床を引きずられる。金属ではない。肉でもない。黒い影が床に貼りついたまま引かれているような音。


 最後に、息が入った。


 浅い。


 荒い。


 けれど、はっきりと人の息だった。


 音声は四秒で消えた。


 管制室で、夜勤管理員が叫ぶ。


「音声断片、四・二秒。映像なし。メイ反応上昇。空葬装束反応、同期。呼吸音あり」

「保存しろ」


 黒瀬の声が即座に飛ぶ。


「保存中です」

「解析班を呼べ。外にはまだ出すな」

「はい」


 ミナトは隣の端末で音声波形を開いた。目の下に隈がある。休んでいるはずなのに、休めていない顔だった。


「呼吸、前より近いです」

「距離が分かるのか」

「分かりません。でも、音の潰れ方が違います。前は穴の奥でした。今回は、布越しです」

「布越し」

「すみません、変な表現です」

「いや、分かる」


 黒瀬は画面を見た。


 黒い画面は相変わらず黒い。白い文字があるだけだ。だが、その黒の向こうで、澪はまだ息をしていた。鎖を引き、何かを動かし、暗闇の中で少しずつこちら側へ音を返している。


 コメント欄にも、数十秒遅れて音声復旧の情報が流れた。


『音戻った!?』

『聞こえた』

『今度長かった』

『骨みたいな雨音しなかった?』

『雨じゃない気がする』

『鎖音あった』

『息、聞こえたよな』

『前より近くなかった?』

『気のせいかもしれないけど近かった』

『四秒で泣かせるな』

『骨の雨の一粒になって、暗闇に落ちる順番を待ちたい』

このコメントは削除されました。

『骨雨派』

『音声波形の谷間になって、澪ちゃんの息をそっと抱えたい』

このコメントは削除されました。

『マニアックすぎる』

『ノイズ除去前の原本に住みたい』

このコメントは削除されました。

『解析班泣くぞ』

『メイが床を擦る時の、ほんの少し遅れる反響になりたい』

このコメントは削除されました。

『今日の変態、音響勢が強い』

『The breathing is less buried than before. I cannot say closer, but the signal is cleaner.』

『海外解説ニキ』

『近いとは断定しないけど、前より綺麗ってことか』

『それだけで待てる』

『息がある』

『待つ』

『【公式】アークライン配信管理部:音声断片を確認しました。現在解析中です。未確認情報の断定、音声加工の拡散、変質コメントは制限対象です』

『公式も確認』

『二ヶ月経ってもまだ息がある』

『澪ちゃん、まだいる』


 その夜、朱音は黒い画面の前で立ったまま音声を聞いた。


 四秒。骨の雨。鎖。重いものを引きずる音。呼吸。繰り返し再生しても、澪の声は入っていない。それでも、朱音は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。待つことに慣れたわけではない。怖さが消えたわけでもない。けれど、暗闇の向こうから返ってきた息は、確かに前より近く感じた。


「聞こえたよ」


 朱音は小さく言った。

 画面は黒いままだった。


「こっちも、まだいるから」


 白い文字は変わらない。

 復旧を試行しています。

 それでも、朱音はその夜、少しだけ眠れた。

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