第十四話 落札者
制限入札の日、アークライン本部の外は朝から雨だった。
第二層の雨ではない。普通の雨だ。灰色の雲から落ち、アスファルトを濡らし、報道車両の屋根を叩き、警備員の肩を黒く染める。だが、その普通の雨でさえ、この日ばかりは少し不吉に見えた。アークライン本部周辺の道路は一部封鎖され、協会職員、警備車両、警察、民間警備会社が何重にも動線を作っている。招待を受けた者以外は、本部敷地に近づくことすらできない。入札会場は地上階ではなく、本部地下の封鎖会議区画。参加者は現地出席、遠隔出席ともに身元確認を通過した者だけだった。
黒い画面は、会場の片隅にも表示されていた。
チャンネル《九環》。深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。白い文字は変わらない。制限入札の日になっても、澪は戻らなかった。三十一日目の断片映像以降、目立った復旧はない。メイと空葬装束の微弱反応は続いている。時折、短いノイズが走る。管制班はそれを記録し続ける。だが、声も姿も戻らない。
佐伯は入札会場の入口で、最後の確認をしていた。
机の上には資料が整然と並んでいる。入札者一覧。審査項目。監査受け入れ条件。薬剤使用後の観察契約。探索者医療基金への拠出誓約。深層素材の軍事転用制限。違反時の契約解除と公表条項。紙だけで人を殴れそうな量だった。神楽坂は奥の席に座り、協会の代表者と短く言葉を交わしている。黒瀬は壁際に立ち、入札者たちの顔を見ていた。榊原とユイカは別室で白い小瓶の保管波形を監視している。実物は会場にない。あるのは封鎖映像と、協会による存在証明だけだ。
「始めます」
佐伯の声で、会場が静かになった。
参加者は多くない。けれど、一人一人の背後にあるものが大きすぎた。国内最大級の医療企業。海外の再生医療連合。複数国の共同代表。老いた探索者英雄の代理人。難病支援財団。富豪一族の法務団。匿名参加を求めて弾かれた組織の代わりに現れた、妙に整った顔の代理人。画面越しに参加している者もいる。誰も声を荒らげない。声を荒らげる必要がないほど、欲しいものがはっきりしていた。
「本入札は、単純な売買ではありません」
佐伯は言った。
「対象薬剤は第一層第九環由来素材を用いた老化進行停止薬の試作品です。完成数は二。うち一本は天瀬澪さんの事前指定により封鎖保管中。本日対象となるのは残る一本のみです。一般販売、追加製造の予定はありません。参加者は、金額条件だけでなく、使用目的、管理体制、監査受け入れ、社会的拠出、深層素材規制への同意を総合評価されます」
その説明に、誰も驚かなかった。驚かない者だけが、この場に残っている。
最初に発言したのは、海外再生医療連合の代表だった。画面の向こうにいる中年の女性で、背後には複数の研究者が控えている。
『我々は薬剤の個人使用ではなく、長期研究と公的医療利用を提案します。落札した場合、薬剤は国際共同封鎖施設で管理し、使用は延期します。その代わり、成分解析と安全性評価を優先したい』
佐伯は表情を変えなかった。
「天瀬澪さんの所有物を、本人不在で研究凍結対象にする提案ですね」
『公的利益のためです』
「不採用です」
会場の空気が一瞬硬くなった。
佐伯は続けた。
「本入札は、薬剤を永続的に研究棚へ移すためのものではありません。使用者、管理者、責任者が明確であることが条件です。研究目的での事実上の接収は認めません」
『接収ではありません』
「では、撤回しますか」
『……条件を修正します』
次に、ある国家代表団が発言した。若い外交官だった。言葉は丁寧だが、後ろにある圧は隠せていない。
『当国は、薬剤を国家管理下で保護対象者に使用する案を提示します。対価として、探索者医療基金への大規模拠出、第二層共同観測設備への資金提供、国際規制枠組みへの参加を約束します』
「使用対象者は」
『安全保障上、非公開です』
「不採用です」
『理由を伺っても』
「使用対象者を明かせない時点で、長期観察も監査も成立しません」
佐伯の返答は早かった。
そのやり取りを見て、神楽坂は静かに息を吐いた。佐伯は今日、遠慮をする気がない。本人不在の澪の所有物を扱う場で、譲れない線を最初に見せている。
数件の提案が落とされ、数件が保留になった後、会場にいる一人の老人が手を上げた。
代理人ではない。本人だった。
白髪の多い、背の高い男。杖をついているが、背筋は真っ直ぐだった。かつて欧州の深層探索で名を知られた探索者で、現在は引退し、探索者遺族と負傷者の支援財団を運営している人物だった。彼は長い肩書きを使わなかった。
「私が使う」
通訳が一瞬遅れて、その言葉を各国語へ流した。
「私は老いた。もう深くは潜れない。だが、名前は残っている。金もある。財団もある。薬剤を受けた後、私は自分の身体をすべて記録に出す。検査も受ける。監査も受ける。情報は協会とアークラインへ渡す。代わりに、私の財団を通して、深層負傷者と探索者遺族への支援を十年続ける。金額は資料の通りだ」
佐伯は資料を確認した。
金額は大きい。だが、金額だけなら上はいる。国家も、医療企業も、財閥も、もっと出せる。重要なのは、その老人が提示した条件だった。本人使用。長期観察協力。監査受け入れ。財団資産の一部を探索者医療基金へ固定拠出。薬剤情報の再販売禁止。政治利用禁止。自分の名を盾にして、薬剤を隠さないという誓約。
「使用目的は、ご自身の延命ですか」
佐伯が聞いた。
老人は少しだけ笑った。
「そうだ。きれいなことだけは言わない。私はもう少し生きたい。見たいものがある。若い探索者が、私たちより先へ行くところを見たい。そのために、使える金と名を使う」
「薬剤の効果は、延命を保証するものではありません」
「承知している」
「老化進行停止の可能性に留まり、病変や負傷への効果は保証されません」
「それも承知している」
「失敗時の公表は」
「受け入れる」
「成功時の長期観察は」
「受け入れる」
「天瀬澪さん、七瀬朱音さんへの接触禁止は」
「守る。少女たちに売り込む趣味はない」
黒瀬が、その言葉で初めて少しだけ老人を見た。
会場の空気が変わった。老人は聖人ではない。自分が生きたいと言った。その正直さが、逆に強かった。善意だけを掲げる者より、欲を隠さない者の方が扱いやすい場面がある。佐伯はそれをよく知っている。
最終審査は長く続いた。
金額では、老人は二番手だった。社会的拠出では上位。監査受け入れは満点。政治リスクは低いが、成功時の社会的影響は大きい。医療企業は反発した。国家代表団も異議を唱えた。財閥の代理人は金額の上積みを提示した。佐伯はすべて記録し、神楽坂と協会代表が確認し、最後に結論が出た。
「制限入札対象薬剤の優先譲渡候補者を決定します」
佐伯の声で、会場が静まった。
「落札者は、エルンスト・ヴァルト財団代表、エルンスト・ヴァルト氏。譲渡は即時ではありません。契約締結、監査体制確認、医療班による適合検査、協会承認を経て実施されます。違反時は譲渡契約を解除し、薬剤はアークラインおよび協会管理下へ戻ります」
老人は静かに頭を下げた。
拍手は起きなかった。
起きるような場ではなかった。
けれど、世界はその瞬間を見ていた。
黒い画面のコメント欄に、遅れて入札結果が流れ込む。
『決まった』
『老人探索者か』
『国家でも企業でも財閥でもなかった』
『金額だけじゃないって本当だったんだな』
『自分で使うって言ったの、逆に信用できる』
『綺麗事だけじゃないのがいい』
『もう少し生きたい、は重い』
『探索者医療基金十年拠出ってすごい額だぞ』
『澪ちゃんの雑な「欲しい人」がここまで来た』
『白い小瓶を受け取る老人の皺になって、時間を止められたい』
このコメントは削除されました。
『老いへの敬意があるようで変態』
『契約書の余白になって、佐伯さんの赤字に震えたい』
このコメントは削除されました。
『佐伯さん周りも増えてきた』
『封鎖室の空気になって、二本の小瓶の間で息を潜めたい』
このコメントは削除されました。
『小瓶周りの湿度が高い』
『The winner admitted desire, accepted observation, and carried public responsibility. That is probably why he survived the screening.』
『海外解説ニキ、今日は審査員』
『欲を隠さなかったから通ったってことか』
『なるほど』
『【公式】アークライン配信管理部:入札結果に関する虚偽情報、落札者および関係者への接触誘導、変質コメントは制限対象です』
『また制限対象が増えた』
『でも決まったんだな』
『澪ちゃん帰ってきたら、誰?って言いそう』
『言いそう』
落札後、朱音はエルンスト・ヴァルトの会見映像を少しだけ見た。
老人は派手なことを言わなかった。若さが欲しいわけではない、とも言わなかった。欲しくないはずがない。そういう嘘をつかない代わりに、彼は自分の欲と責任を同じ机の上に置いていた。朱音はそれを見て、少しだけ納得した。澪が「欲しい人」と言った小瓶は、本当に欲しいと言った人のところへ行く。それが正しいのかどうかは分からない。けれど、少なくとも奪われたわけではない。
「朱音、訓練時間」
水瀬が声をかける。
「分かってる」
朱音は端末を閉じた。
不老薬の行き先が決まっても、澪は戻っていない。白い小瓶が世界を揺らしても、黒い画面は黒いままだ。なら、今日もやることは同じだった。
訓練場で、朱音はミカゲと向き合った。
盾が来る。
以前の朱音なら、槍を出して止めようとした。正面から受け、押し返そうとした。守るために前へ出る。その癖が身体に染みついていた。だが、今日は足を引いた。受けるのではなく、ずらす。横へ逃げるのではなく、半歩だけ角度を変え、槍の柄で盾の縁を流す。衝撃が腕を痺れさせる。それでも、吹き飛ばされなかった。
ミカゲが笑った。
「やっと一回止まった」
朱音は息を吐いた。
「もう一回」
「いいよ」
何度も盾が来た。
朱音は何度も受け損ね、転がり、立ち上がった。だが、前へ出る回数は少しずつ減っていく。止まる。引く。流す。味方の位置を見る。自分が倒れたら誰が崩れるかを考える。澪のように一人で突き抜けるのではない。朱音の戦いは、誰かを残して死ぬものではなく、誰かを連れて戻るものに変わり始めていた。
その夜。
黒画面に、久しぶりに音が戻った。
映像はない。黒いまま。だが、音だけが一瞬入った。金属音ではない。呼吸でもない。水を踏むような音。いや、骨の床を濡れた足で歩く音に近かった。三歩。四歩。そこで何かが擦れた。メイの鎖ではない。もっと重いもの。低い唸りが混じる。澪の声はなかった。
音は二秒で消えた。
管制室で、ミナトが即座に保存する。
「音声断片、二・一秒。映像なし。メイ反応、わずかに上昇。装束反応、同期。何かが移動しています」
「澪か」
「断定できません。ただ、メイの反応が音声断片と同時に跳ねました」
黒瀬は画面を見た。
「まだ動いている」
その言葉は、外には出なかった。
だが、管制室にいた者たちの中には残った。
コメント欄も、音だけの復旧に気づいていた。
『今、音した?』
『した』
『足音?』
『水っぽかった』
『黒い骨の床に水なんてあったっけ』
『分からん』
『鎖じゃない音だった』
『何か重いもの引いてた?』
『澪ちゃんの声は?』
『声はない』
『でも音が戻った』
『二秒だけで目が覚めた』
『足音の間に落ちた雫になって、暗闇の深さを測りたい』
このコメントは削除されました。
『今日も詩的』
『濡れた骨床の反響になって、帰る方向を覚えたい』
このコメントは削除されました。
『ちょっと好き』
『メイじゃない金属音の欠片になって、何を引いてるのか知りたい』
このコメントは削除されました。
『知りたい系変態』
『The sound had weight. Something is moving with her, or against her.』
『海外解説ニキ』
『一緒に動いてるのか、敵なのか分からないってこと?』
黒い画面は、また静かになった。
世界は白い小瓶の落札者を知り、朱音は一歩引くことを覚え、アークラインは伸びてくる手をまた一本折った。
そして、暗闇のどこかで、澪はまだ動いていた。
落札者はダンジョン黎明期で活躍した英雄です。
不老薬については公式で記録されてるかぎり初めての出品です。記録されてる限りね。




