第十三話 制限入札
不老薬の発表から、アークライン本部の空気は変わった。
澪が第二層第九環で信号を失った時、世界は黒い画面を見た。黒花姫の討伐後に消えた少女を待ち、たった一秒の断片映像に縋り、呼吸音らしき波形で息を吹き返した。だが、不老薬という白い小瓶が現実になった瞬間、待つだけだった世界に別の熱が混ざった。祈りより濁ったもの。心配より重いもの。欲望だった。
アークライン本部の周辺警備は、さらに三段階引き上げられた。素材保管区画の正規動線は閉じられ、職員の出入りは個別承認制になる。澪の名前を使った偽の取材依頼、朱音への面会要求、医療研究を装った接触、海外財団からの共同保管提案。すべてが一気に増えた。佐伯はそれを一つずつ分類し、返すものは返し、無視するものは無視し、潰すものは潰した。
「善意の顔をした要求が一番面倒です」
佐伯は淡々と言った。
神楽坂は会議室の長机に並んだ資料を見ている。資料のほとんどが、不老薬二本に関係するものだった。一本は七瀬朱音への譲渡分。本人の希望により、澪の帰還まで封鎖保管。もう一本は制限入札。澪が「欲しい人」と言った、その言葉の扱いに、協会とアークラインの法務が何日も頭を抱えた末の形だった。
「入札条件を再確認します」
佐伯が資料を開く。
「第一に、金額のみでの落札は認めない。第二に、探索者医療基金への長期拠出。第三に、深層素材取扱に関する協会監査受け入れ。第四に、薬剤使用者の長期観察協力。第五に、素材由来情報の軍事転用制限。第六に、天瀬澪本人または七瀬朱音さんへの直接接触禁止」
黒瀬が低く言った。
「それでも来るのか」
「来ます」
「馬鹿だな」
「馬鹿ではありません。欲が深いだけです」
佐伯は一つの資料を置いた。そこには、すでに参加意思を示している団体の一覧があった。国内の医療企業。海外の再生医療グループ。複数の国家代表団。世界的な探索者クラン。老いた創業者を抱える財閥。身元を隠した匿名財団。名前のない代理人。紙の上に並んだ肩書きだけで、部屋の温度が少し下がる。
「匿名参加は」
神楽坂が聞く。
「原則不可。ただし、本人保護が必要な医療案件に限り、協会とアークライン法務が身元を確認した上で非公開参加を認めます」
「危険組織は」
「弾きます」
「弾いた後は」
「潰せるものは潰します」
榊原は会議の隅で、白い小瓶の保管波形を見ていた。二本とも安定している。安定していることが、逆に怖かった。もし不安定なら、扱いはもっと簡単だった。危険です。保管します。使えません。それで済む。けれど、白い小瓶は静かにそこにあった。世界中の欲を集めるには十分すぎるほど、美しく安定していた。
「澪さんは、何も考えずに言ったんですよね」
ユイカがぽつりと言った。
「たぶん」
榊原は答えた。
「朱音さんの分。あと一つ、欲しい人。そういう言い方でした」
「本当に、そういう人ですよね」
「そういう人だから、こうなっています」
ユイカは封鎖容器の画像を見て、小さく息を吐いた。
「帰ってきたら、怒ります?」
「怒る前に胃が死にます」
「主任の胃、そろそろ素材指定した方がいいかもしれません」
「やめてください」
朱音は、その頃、アークライン訓練区画にいた。
彼女への接触要求も増えている。澪が不老薬の一本を指定した相手。そう見られるだけで、周囲の空気が変わる。保護対象。重要関係者。交渉の窓口にされかける人間。朱音はそのどれも気に入らなかった。自分は小瓶の持ち主ではない。澪が帰ってきたら聞くと決めただけだ。それまでは、受け取ってもいない。
だが、世間はそう見ない。
「七瀬さん、少し休んだ方がいいです」
ユズリが言った。
訓練場の床で、朱音は膝に手をついて息を整えていた。黒鉄旅団との合同訓練は、遠慮がない。ミカゲの盾に弾かれ、ユズリの誘導で立て直され、レンカの見えない射線に何度も潰される。朱音の槍は以前より速くなっていた。だが、速くなっただけでは届かない。判断が遅れる。守りたい場所が多すぎる。前へ出る時と引く時の切り替えがまだ甘い。
「もう一回」
朱音は言った。
「今の状態だと、次は怪我します」
「怪我はする」
「していい怪我と、しなくていい怪我があります」
「……それ、澪にも言ってください」
「澪さんには別の言い方が必要です」
ユズリは困ったように笑った。
「朱音さんには、言えば届きます」
「届いてます?」
「届いているから、止まれなくなっているんだと思います」
朱音は顔を上げた。
ユズリの耳が少しだけ伏せていた。愛兎種の彼女は、恐怖や緊張に敏感だ。朱音が焦っていることも、怒っていることも、待っていることも、きっと見抜いている。
「澪さんを待つのは、何もしないことじゃありません。でも、壊れるまで動くことでもありません」
「……はい」
「もう一回やるなら、次は勝つためじゃなく、止まるためにやりましょう」
「止まるため」
「前に出ない練習です」
朱音は槍を握り直した。
「お願いします」
訓練場の壁には、チャンネル《九環》の黒画面が小さく表示されていた。白い文字は変わらない。復旧を試行しています。朱音は一瞬だけそれを見て、すぐに視線を戻した。待つ。けれど、見つめ続けるだけではない。次に澪が帰ってきた時、自分の足で立っているために、今は転ばされ続ける。
不老薬の制限入札が正式に告知されると、コメント欄は黒画面の下でまた濁流になった。
『制限入札きた』
『普通のオークションじゃないんだな』
『金だけじゃ無理ってことか』
『そりゃそうだろ。不老薬が金だけで買えたら世界終わる』
『もう終わりかけてない?』
『朱音さん用は保留なんだな』
『帰ってきてから聞くの、朱音さんらしい』
『白い小瓶の影になって封鎖室の床に落ちたい』
このコメントは削除されました。
『今日は瓶周りが人気』
『入札封筒の封蝋になって欲望を閉じ込めたい』
このコメントは削除されました。
『詩的なオークション変態』
『封鎖札の赤い紐として、誰にも開けられずに待ちたい』
このコメントは削除されました。
『待つ系変態多いな』
『朱音さんの「保留します」の沈黙になりたい』
このコメントは削除されました。
『概念になり始めた』
『The conditions matter more than the price. Whoever wins must be someone the world can tolerate.』
『海外解説ニキ、今日はまとも』
『世界が許容できる落札者ってことか』
『そんな人いる?』
『いないから揉める』
『【公式】アークライン配信管理部:薬剤入札に関する勧誘、虚偽情報、個人への接触誘導、変質コメントは制限対象です』
『公式、全部制限してる』
『制限されてないもの何?』
『待つこと』
『それだな』
海外からの解説も増えた。
投資家、医師、探索者、法学者、元軍人。彼らはそれぞれの言葉で、一本の小瓶が何を意味するかを語った。人類初の老化停止薬かもしれないもの。素材はほぼ再現不能。作成者は第二層九環で信号喪失中。所有権は少女探索者にあり、一本は別の少女へ指定済み。もう一本は世界へ投げられた。状況だけ並べても、冗談のようだった。だが、誰も笑えない。
佐伯はコメント欄を見ないようにしていた。
見れば仕事が増える。見なくても仕事は増える。なら、見ない方がいい。そう判断した。
制限入札の準備が進む一方で、黒い画面は変わらなかった。
一週間が二週間になり、二週間が三週間になった。澪の断片映像は戻らない。メイと空葬装束の微弱反応だけが、ときどき細く揺れる。生きている。そう言いたい者は多かった。だが、公式には言えない。言ってしまえば、次に何も戻らなかった時、その言葉が人を刺す。
朱音は毎日訓練を続けた。
水瀬は記録を取り続けた。
遥は射る距離を伸ばし続けた。
アークラインは外から伸びる手を叩き落とし続けた。
世界は黒い画面を開き続けた。
そして、澪が消えてから三十一日目の夜。
配信が、また戻った。
最初に気づいたのは、夜勤の配信管理員だった。黒い画面の右下に、細い白い線が走った。ノイズではない。映像の縁だ。管理員が警報を鳴らすより早く、画面が一瞬だけ灰色に乱れた。次に映ったのは、黒い骨の床だった。前回より広い。床にはいくつもの傷が刻まれ、乾いた血の跡が細い川のように走っている。
メイの鎖が映った。
何かを引っ掛けていた。
黒い影だった。人型にも、獣にも見える。メイの鎖はその影の胸元のような場所に掛かり、ぎりぎりと引いている。影は形を持たないまま震え、青白い目だけが澪の方を向いていた。澪の姿は映らない。映像の外側にいる。だが、鎖の角度で分かる。澪が引いている。
音声が潰れて戻った。
金属が擦れる音。荒い息。何かが笑うような音。遠すぎて、聞き取れない言葉。
それから、澪の手が映った。
血だらけの手だった。小さな手。指の骨が一瞬見え、次の瞬間には皮膚が戻る。手は鎖を離さない。震えている。だが、緩まない。黒い影が床に沈みかける。澪は鎖をさらに引いた。
映像の端で、白い髪がほんの少し揺れた。
短い。前より少し伸びたのか、乱れているだけなのか分からない。顔は映らない。声も聞こえない。ただ、澪がそこにいると分かるには十分だった。
映像は三秒ほどで途切れた。
また黒い画面。白い文字。復旧を試行しています。
管制室は、一瞬だけ息を忘れた。
「断片映像、三・四秒。メイ反応上昇。空葬装束反応あり。音声波形、呼吸と金属音。映像内に天瀬さんの手と思われるものを確認。繰り返します。手を確認」
夜勤管理員の声が震えている。
ミナトは仮眠室から飛び出してきた。髪は乱れていて、目は完全に覚めていなかったが、端末を見た瞬間に表情が変わった。
「保存。全フレーム保存。音声も。ノイズ除去前の原本も残して」
「もう走らせています」
「いいです。解析班を呼んで。榊原主任、ユイカさん、黒瀬部門長へ緊急通知」
朱音にも通知が届いた。
彼女は訓練後のシャワーを浴びる前だった。端末が鳴り、水瀬が先に画面を開く。三人で映像を見た。黒い床。鎖。影。血だらけの手。白い髪。
朱音は声を出さなかった。
ただ、映像の中の手を見た。
小さな手が、鎖を離していなかった。痛そうだった。ひどい状態だった。けれど、離していなかった。
「……相変わらず」
朱音の声は小さかった。
「離さないんだから」
遥が目元を押さえた。水瀬は映像を止め、フレームを一枚ずつ確認する。顔は映っていない。だが、手の形、装束の袖、鎖の反応。澪でない理由を探す方が難しかった。
コメント欄は、また爆発した。
『映った!』
『今度長かった!』
『鎖!』
『何か引っ掛けてた』
『黒い影なに』
『澪ちゃんの手映ったよな』
『手、血だらけだった』
『でも動いてた』
『白い髪見えた』
『顔は見えなかったけどいた』
『三秒で心臓壊れる』
『鎖離してなかった』
『あの小さい手で引いてた』
『The chain had resistance. She was not being dragged. She was pulling something back.』
『海外解説ニキ!』
『引きずられてたんじゃなくて、引いてたってこと?』
『そう見えた』
『澪ちゃん、あの暗闇でまだ戦ってる』
『手の震えになって鎖を支えたい』
このコメントは削除されました。
『それは詩的だけど消される』
『鎖に絡んだ黒い影の輪郭になって、引かれたまま形を知りたい』
このコメントは削除されました。
『怖い変態』
『床に残った乾いた血の細い川になって、帰り道を覚えていたい』
このコメントは削除されました。
『今日の変態、文章力高いな』
『空葬装束の袖口になって、あの手を守りたい』
このコメントは削除されました。
『守りたい系も消されるのか』
『消される』
『でも分かる』
『【公式】アークライン配信管理部:断片映像を確認しました。現在解析中です。映像の無断加工拡散、未確認情報の断定、変質コメントは制限対象です』
『公式も見た』
『生きてるって言いたい』
『生きてる』
『待てる』
『一ヶ月待てた。まだ待てる』
アークラインと協会は、その夜のうちに短い声明を出した。
第二層第九環深部より、装備反応に紐づく断片映像を再度確認。探索者本人と推定される身体の一部、装備、戦闘継続を示す可能性のある映像を記録。現在解析中であり、詳細は非公開。第二層九環への無許可接近を改めて禁止する。
慎重な言葉だった。
けれど、世界は三秒を見た。
澪は消えていない。
暗闇の中で、何かを引いている。
それだけで、白い小瓶を巡る会議も、朱音の訓練も、黒画面を開き続ける視聴者も、また少しだけ先へ進める気がした。
黒い画面は戻らない。
それでも、三十一日目の夜、澪の手は確かに鎖を握っていた。




