第十一話 黒画面の七日間
澪の配信が黒く途切れてから、一時間が過ぎた。
チャンネル《九環》の画面には、白い文字だけが残っている。深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。その短い文言は変わらない。背景は黒いまま。音声もない。時折、画面の端に走る細いノイズだけが、配信が完全には死んでいないことを示していた。黒花姫を倒した直後、澪は黒い階段のようなものへ踏み込み、そして消えた。九環の空、銀の川、花畑、メイの鎖、すべてが一瞬で遠ざかり、世界中の視聴者は黒い画面の前に取り残された。
アークライン本部管制室では、誰も椅子から立たなかった。
ミナトの端末には復旧処理が何重にも走っている。映像、音声、配信経路、装備反応、魔力残響、帰還札補助信号。どれも完全には戻らない。けれど、完全には消えない。細い。あまりにも細い。黒い布の向こうで針穴ほどの光が残っているような状態だった。黒瀬は腕を組んだまま、画面を見続けている。神楽坂は協会との回線を開き、外部への第一報をまだ出さない。佐伯はすでに動き始めていた。問い合わせ、抗議、取材、協力要請、情報開示要求。澪が消えた瞬間から、世界中の手がアークラインへ伸びていた。
「映像復旧、失敗。音声復元、失敗。チャンネル接続は維持。メイと空葬装束の微弱反応、継続」
ミナトは同じ報告を何度目かに繰り返した。声に疲労が滲んでいる。
「澪本人の反応は」
黒瀬が聞く。
「拾えません。ただ、装備反応の揺れが完全に無人のものではありません。断言はできませんが、装備が主を追っているような動きです」
「分かった。断言は外に出すな」
「はい」
榊原は別端末でメイの反応を見ていた。画面に表示される線は細く、時々消えかける。それでも戻る。消えたと思った瞬間、ほんの少しだけ脈のように揺れる。ユイカは空葬装束側の波形を見ていた。装束の反応はメイより弱いが、一定の方向へ伸びている。まるで、暗闇の奥へ袖の端だけを引かれているようだった。
「主任、装束の外層反応が残っています」
「見ています」
「破損ではないです」
「分かっています」
「でも、正常でもないです」
「それも分かっています」
榊原は目を閉じた。胃のあたりを押さえる余裕すらない。装備屋としては、主が消えた後に装備だけが反応し続ける状況など最悪だった。だが、いまはその最悪に縋るしかない。
別室で、朱音は黒い画面を見ていた。
水瀬と遥もそばにいる。三人とも何も言わなかった。黒い画面に、朱音の顔が薄く映っている。白い文字の下に、握りしめた手が見える。爪が掌に食い込んでいた。痛い。だが、その痛みは必要だった。画面が黒くても、澪はどこかで痛みを受けているかもしれない。そう思うと、自分だけ楽な場所にいることが少し腹立たしかった。
「朱音」
遥が小さく呼んだ。
「大丈夫」
「まだ何も言ってない〜」
「言われる前に答えただけ」
水瀬は端末を見たまま言う。
「完全断絶なら、配信枠ごと落ちます。今は枠が残っています。黒い画面が返ってきている。つまり、何かがこちら側へ返し続けています」
「何かって」
「分かりません」
「分からないことばっかり」
「はい」
水瀬はそこで、ようやく顔を上げた。
「でも、ゼロではありません」
朱音は頷いた。
「うん」
コメント欄は、その間も流れ続けていた。
『一時間』
『まだ黒い』
『配信枠は残ってる』
『音だけでも戻らない?』
『黒花姫の後ろ、何だったんだよ』
『澪ちゃん、返事して』
『呼びかけ連投やめろって言われてるぞ』
『分かってるけど言いたくなる』
『白文字の横の小さい点になって待ちたい』
このコメントは削除されました。
『待機画面にまで変態が湧くのか』
『復旧バーの端で震えていたい』
このコメントは削除されました。
『復旧バーは存在しないだろ』
『メイの影になって暗闇へついていきたい』
このコメントは削除されました。
『外套の裏地で黒画面を見上げたい』
このコメントは削除されました。
『だいぶ詩的になってきた』
『The stream is not dead. It is returning a blank surface. That means the far end still has shape.』
『海外解説ニキ助かる』
『向こう側に形があるってこと?』
『細い糸がまだ切れてない感じか』
『切れないでくれ』
『【公式】アークライン配信管理部:現地への呼びかけ連投、未確認情報の断定、変質コメントは制限対象です』
『公式、文面が忙しい』
『ミナトさん休んで』
『休めるわけない』
十二時間後、最初の外部声明が出た。
アークラインと探索者協会の連名だった。天瀬澪は第二層第九環深部にて映像信号を喪失。配信経路は維持されており、装備由来と思われる微弱反応を継続観測中。死亡断定、帰還不能断定、救助隊派遣に関する憶測は控えること。第二層第九環への無許可突入は極めて危険であり、協会は全探索者へ警告を発する。
その文面は慎重だった。慎重すぎるほどだった。無事とは書かない。生存とも書かない。だが、失われたとも書かない。佐伯が一語ずつ削り、神楽坂が確認し、協会側が了承した文章だった。
それでも、外は荒れた。
報道は「世界最注目探索者、第二層九環で信号喪失」と見出しを打った。海外の探索者団体は、共同観測体制の構築を求めた。医療企業は九環素材の管理継続を名目に接触を増やした。複数の国家機関は協会へ正式照会を入れた。素材保管区画の警備は倍に増えた。アークライン本部周辺には報道車両が集まり、移動導線はすべて変更された。
澪がいない地上は、止まらなかった。
二日目。
朱音は任務へ戻った。
戻りたくなかったわけではない。戻らなければいけなかった。待機室で黒い画面だけを見ていると、自分の中が少しずつ腐っていく気がした。澪が暗闇の中で何かをしているのなら、自分も動いていなければならない。水瀬も遥も同じだった。第二層中盤の素材採取任務。戦闘は小規模。危険度は深部に比べれば低い。だが、油断すれば普通に死ぬ場所だった。
黒い根の間を進みながら、朱音は槍を握る手に力を込めた。
「前、右。薄い根が動いた」
水瀬が短く言う。
「見えてる」
遥が使い捨ての投げナイフを投げて、魔物を射る。朱音は間合いを詰め、槍で根の束を断つ。魔物が崩れ、黒い水に沈む。以前なら、少し息が乱れていたかもしれない。今は違う。動きはまだ荒い。だが、止まらない。澪のようには動けない。だからこそ、自分の足で進むしかない。
「朱音、突っ込みすぎ」
「分かってる」
「分かってない時の返事」
「……分かるようにする」
水瀬は少しだけ目を細めた。
「ならいいです」
その日の夜、朱音は帰還管理区画の別室へ戻り、黒い画面を見た。何も変わっていなかった。白い文字。黒い背景。端で小さく震えるノイズ。朱音は椅子に座り、短く息を吐いた。
「行ってきたよ」
声は届かない。分かっている。それでも、画面の前で一度だけ言った。
三日目。
澪が事前に託していた第一層九環素材の再検査が、アークライン封鎖研究棟で再開された。
本来なら、澪の不在時に進めるべきではない案件も多い。だが、止めるわけにはいかなかった。素材は生きたまま変質する。保管しているだけでも、時間とともに性質がずれていくものがある。榊原、ユイカ、医療研究班、協会封鎖技師が立ち会い、厳重な記録のもとで作業が進められた。
封鎖容器の中には、第一層九環で得られた白い素材がある。
澪が雑に言っていたものだった。
「朱音先輩の分。あと一つ、欲しい人」
その時は、誰も笑えなかった。今も笑えない。本人がいない状態で、その言葉だけが残っている。世界が喉から手を出すものを、澪はあまりにも軽く預けていった。神楽坂はその一言を記録として残し、佐伯は契約上の扱いを整理し、医療班は作成可能性を慎重に検証している。
まだ完成はしていない。
だが、完成する可能性はある。
その事実だけで、地上の温度は変わっていた。
四日目。
アークライン本部周辺で、素材輸送車両を装った不審車両が摘発された。
積み荷は空だった。だが、車内からは封鎖容器に干渉するための機材と、アークライン職員の移動予定表の偽造データが見つかった。佐伯はその報告を受け、すぐに法務と警備を動かした。警察、協会、アークライン内務監査。表に出せる情報と出せない情報を分け、関係者を一人ずつ切っていく。
「澪さんが戻る前に、家の周りを掃除します」
佐伯は静かに言った。
神楽坂は頷いた。
「徹底してください」
「もちろんです」
その夜、黒い画面の前で変態コメントがまた増えた。
『四日目』
『公式発表少ないの逆に怖い』
『本部周辺で何かあった?』
『余計な詮索やめろ』
『澪ちゃんの封鎖容器になって厳重管理されたい』
このコメントは削除されました。
『封鎖容器は草』
『黒画面の反射になって朱音さんの顔を見守りたい』
このコメントは削除されました。
『方向性が複雑』
『メイの鎖に残った雨粒になって暗闇で震えたい』
このコメントは削除されました。
『だんだん文学性出すな』
『I have no useful analysis today. The signal is too quiet. I am just waiting.』
『海外解説ニキも待機モード』
『待つしかないのきつい』
『待ってるぞ』
『【公式】アークライン配信管理部:待機中もコメント規定は適用されます』
『公式、淡々としてるけど寝てないだろ』
五日目。
黒鉄旅団が第二層五環で大規模救助を行った。
澪の九環突入配信に触発された無謀な若手パーティーが、許可範囲を越えて深く入りすぎたのだ。黒堂は彼らを叱らなかった。叱るより先に引きずり戻し、治療班へ渡し、その後で協会へ報告した。ミカゲは怒っていた。レンカは黙っていた。ユズリは救助された一人の震える手を握り、呼吸を整えさせた
「澪の真似はできない」
黒堂は、救助された若手たちにそう言った。
「憧れるのは勝手だ。だが、足が追いつかない場所へ行けば死ぬ。死ねば終わりだ。お前たちを助けるために、他の誰かが死ぬこともある」
若手たちは俯いた。
その映像は配信されなかった。だが、協会の警告文に反映された。第二層深部への無許可侵入禁止。澪の探索映像を理由とした危険模倣の禁止。深層配信は娯楽ではなく、観測記録であること。何度書いても、読む者全員に届くわけではない。それでも書くしかなかった。
六日目。
黒い画面のノイズが一度だけ揺れた。
管制室の全員が反応した。ミナトが復旧処理を止めずに叫ぶ。
「ノイズ変化。映像ではありません。音声でもありません。装備反応、わずかに上昇」
「澪か」
黒瀬が聞く。
「分かりません。ですが、メイの反応が一瞬だけ強くなりました」
画面には何も映らない。コメント欄も気づかないほどの小さな変化だった。だが、管制室ではその一瞬の揺れだけで空気が変わった。榊原はメイの波形を拡大する。ユイカは装束側の反応を重ねる。二つの波形は、ほんの一瞬だけ同じタイミングで跳ねていた。
「同時です」
ユイカの声が震えた。
「メイと装束、同時に反応しました」
「外的干渉か」
「違います。たぶん、持ち主側からです」
黒瀬は目を細めた。
「記録しろ。外には出すな」
「はい」
七日目。
配信が、一秒だけ戻った。
それは復旧というより、黒い布に針で穴が開いたような映像だった。画面が一瞬だけ白く乱れ、次に黒い骨の床が映った。乾いた、夜のような骨。そこを、メイの鎖が引きずられている。鎖には血がついていた。赤ではない。黒に近い、濃い血。鎖が床を擦る音が、ひどく遠くから届いた。
息が聞こえた。
短い呼吸。
浅く、荒く、けれど確かに人の息だった。
映像はすぐに途切れた。
また黒い画面。白い文字。深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。
管制室で、誰もすぐには声を出さなかった。
ミナトが震える指で映像を保存する。
「断片映像、一・二秒。音声、呼吸音と思われる波形あり。メイ反応、空葬装束反応、ともに上昇。繰り返します。断片映像を確認。呼吸音と思われる波形あり」
榊原は椅子の背に手をついた。ユイカは目元を押さえた。神楽坂は協会への連絡文を開き、佐伯は外部発表の文面を新しく作り始めた。黒瀬はただ、画面を見ていた。
朱音は別室で、その一秒を見ていた。
黒い骨の床。鎖。血。息。
たったそれだけだった。顔は映っていない。声もない。澪だと断定できるものは、メイと装束の反応、そしてあの呼吸だけ。それでも、朱音には十分だった。
「生きてる」
声は小さかった。
けれど、水瀬にも遥にも聞こえた。
「生きてる」
もう一度、朱音は言った。
コメント欄は、一秒遅れて爆発した。
『映った!?』
『今映ったよな!?』
『鎖!』
『メイだろ今の』
『血ついてた』
『息聞こえた』
『聞こえたよな!?』
『人の息だった』
『澪ちゃん?』
『澪ちゃんだろ』
『断定はできないけど、でも』
『生きてる』
『生きてるって言わせてくれ』
『一秒だけで泣いた』
『黒い床なに』
『あの場所まだ続いてるのか』
『The audio had breath. Very faint, but not mechanical noise. I think she is still moving.』
『海外解説ニキ……』
『まだ動いてる』
『待てる』
『待つ』
『メイの鎖についた血になって一緒に引きずられたい』
このコメントは削除されました。
『今それ言う?』
『でも少し安心した』
『安心の仕方が最悪』
『黒い骨床の小石になって踏まれたい』
このコメントは削除されました。
『変態も生存確認で元気になるな』
『白文字じゃなくて息になりたい』
このコメントは削除されました。
『今日の削除忙しすぎる』
『【公式】アークライン配信管理部:断片映像を確認しました。詳細解析中です。未確認情報の断定、映像の無断解析拡散、変質コメントは制限対象です』
『公式も見た』
『生きてる』
『待ってる』
その夜、アークラインと探索者協会は短い声明を出した。
第二層第九環深部にて、天瀬澪の装備に紐づく断片映像と、呼吸音と思われる音声波形を確認。生存を断定するものではないが、探索継続の可能性を示す重要な観測として、復旧作業と監視を継続する。
慎重な文章だった。
だが、世界はその一秒に縋った。
朱音も、その一秒に縋った。
黒い画面の向こうで、澪はまだ戻っていない。どこにいるのかも分からない。何と戦っているのかも分からない。けれど、息があった。鎖が動いていた。
なら、待てる。
待つだけではなく、進める。
朱音は翌朝の訓練予定を確認し、端末を閉じた。水瀬と遥も同じように準備を始めている。澪が暗闇の中で一秒だけ息を返したのなら、地上にいる自分たちも止まっているわけにはいかなかった。
本日はこの後間隔をあけて全5話投稿します




