第十話 まってた
配信が黒く途切れた直後、チャンネル《九環》の画面には白い文字だけが残った。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
音はない。黒花姫の霧も、黒い花畑も、澪の息遣いも、メイの鎖が鳴る低い音も消えていた。画面の端に表示されていた各種補正値は、黒い砂を噛んだように乱れ、数値としての意味をほとんど失っている。それでも配信そのものは落ちていなかった。完全に切れたなら、待機画面ごと消える。だが、いま画面にあるのは断絶ではなく、深い場所へ引き伸ばされた細い糸だった。
アークライン本部の管制室に、誰も余計なことを言わない時間が落ちた。
ミナトは復旧処理を走らせ続けている。映像、音声、魔力反応、装備反応、帰還札の補助信号、配信ドローンの残留経路。どれも戻らない。戻らないのに、完全には死んでいない。そこが嫌だった。黒瀬は腕を組んで画面を見ている。神楽坂は協会との回線を開いたまま、外部発表を止めている。佐伯は問い合わせの山を切り分けながら、まだ何も出さない。榊原とユイカは、メイと空葬装束の反応が完全消失していないことだけを何度も確認していた。
「映像、戻りません。音声もなし。チャンネル接続は維持。装備反応は微弱ですが残っています」
ミナトの声はかすれていた。
「帰還札は」
黒瀬が聞く。
「発動反応なし。破損反応もなし。使っていない、もしくは使えない状態です」
「澪本人の反応は」
「……拾えません。ただ、装備だけが残っている反応ではないと思います。メイと装束の信号が、ときどき同じ方向を向きます」
「同じ方向?」
「説明しにくいです。通信ではなく、目印みたいな……消えた先を、まだ見ている感じです」
榊原が低く言った。
「武器と服が持ち主を見失っていないなら、まだ終わっていません」
「希望的観測か」
「装備屋の観測です」
黒瀬はそれ以上言わなかった。
別室で、朱音は黒い画面を見ていた。水瀬と遥もいる。三人とも第二層中盤任務を終えて戻ったばかりで、疲労も傷も残っている。それでも、座って待つしかなかった。戦闘中に無意味な通信を入れることはない。深層の中にいる澪へ、感情だけを投げることもできない。声が届いたところで、澪の判断を鈍らせるだけだ。
だから、朱音は黙って待った。
画面の黒に、自分の顔が薄く映っている。白い文字の下に、自分の目が重なって見えた。怖い顔をしていた。怒っているようにも、泣きそうにも見える。けれど、泣いてはいなかった。泣けば澪が帰ってくるなら泣く。怒れば戻るなら怒る。祈ればいいなら祈る。だが、どれも今は足りない。
「朱音」
遥が小さく呼んだ。
「大丈夫」
「何も言ってない〜」
「言われる前に言っただけ」
水瀬は端末のログを見ながら、静かに口を開いた。
「完全断絶ではありません。配信経路の一部が残っています。澪さんが意図的に保っているのか、装備が保持しているのか、九環側が切らずに残しているのかは分かりません」
「それ、良いこと?」
「分かりません。ただ、何もないよりは良いです」
朱音は頷いた。
待つ。待つだけではない。戻ってきた時に、置いていかれないようにする。そう決めたばかりなのに、最初の試験がこれだった。黒い画面の前で、ただ息をすること。澪が一人で何かに触れている間、自分たちは何もできないという現実に耐えること。
コメント欄は、黒い画面の下で流れ続けていた。
『黒画面のまま』
『まだ切れてない』
『音だけでも戻らないのか』
『黒花姫倒した直後なのが怖い』
『白文字が逆に怖い』
『この白文字になって澪ちゃんを待ちたい』
このコメントは削除されました。
『待ち方が歪んでる』
『通信ノイズになって届きたい』
このコメントは削除されました。
『届くな』
『メイの影になって一緒に落ちたい』
このコメントは削除されました。
『装備周りの変態多いな』
『外套の縫い目で震えていたい』
『それはちょっと分かる』
『分かるな』
『The stream is still breathing. If it were a normal disconnection, the channel would have collapsed already.』
『海外解説ニキ助かる』
『配信がまだ呼吸してるって表現怖い』
『つまり細く繋がってる?』
『誰が繋いでるんだよ』
『澪か、装備か、九環か』
『全部怖い』
『【公式】アークライン配信管理部:未確認情報の断定、探索者への呼びかけ連投、変質コメントは制限対象です』
『公式、変態コメントと世界危機を同時処理してる』
『ミナトさん倒れないで』
その黒い画面の向こうで、澪は暗闇に立っていた。
九環の美しい黒ではない。青白い星の雨も、銀色の川も、黒い花畑もない。もっと古く、もっと乾いて、もっと冷たい闇だった。地面はある。足裏には硬さがある。けれど、それは根の床ではなかった。骨に似ている。白骨ではない。夜を固めたような黒い骨。どこまでも続いているようで、澪の足元だけにしか存在していないようにも感じる。
澪はメイを握り直した。
「本部」
返事はない。
「黒瀬さん」
返事はない。
少しだけ間を置いて、澪はもう一つ名を呼んだ。
「朱音先輩」
その声も、暗闇に吸われた。届かない。届かせる場所がない。澪は唇を少しだけ結ぶ。
「通信、嫌い」
その時、暗闇の奥で声がした。
『まってた』
耳から入る声ではなかった。頭の中に響く声でもない。もっと奥。胸でもなく、腹でもなく、名前をつけにくい場所へ、直接置かれるような声だった。高いとも低いとも言えない。子供のようにも、老人のようにも、獣のようにも聞こえる。
澪は鎌を構えた。
「出てきて」
『もう、いるよ』
足元の黒い骨が、音もなく広がった。
闇の奥に、小さな影が立っていた。人の形に見える。だが、人ではない。猫のようにも見える。けれど、猫でもない。黒い布をかぶった子供にも、痩せた獣にも、長く伸びた影そのものにも見えた。目だけが青白く光っている。第二層九環の雨に似た色だったが、冷たさが違う。雨は生きている光だった。この目は、終わった後に残る光だった。
「誰」
『きみが、さわったもの』
「覚えてない」
『うそ』
「少し」
『死んだ時』
澪は口を閉じた。
暗闇が、記憶の形に揺れた。前世の最後。細部は薄い。痛みも、匂いも、誰が近くにいたのかも、夢の端のようにぼやけている。けれど一つだけ、どうしても消えない感触がある。死ぬ寸前、何かに触れた。人ではない。魔物でもない。世界の端に引っかかっていた、冷たいもの。澪はそれを掴んだのか、掴まれたのか分からない。分からないまま、次に目を覚ました時には、今の身体だった。
影は首を傾けた。
『あのとき、こっちを見た』
「見たかも?」
『だから、まってた』
「用事?」
『うん』
「なに」
『確かめる』
「なにを」
『きみが、僕に触れられた理由を』
影が一歩近づいた。
澪は反射でメイを振った。鎌刃が闇を裂く。だが手応えはなかった。影はそこにいる。なのに、刃は何も捉えない。次の瞬間、澪の右脇腹が裂けた。
血が出る。
痛みが遅れて来る。
澪は目を細めた。
「斬った?」
『うん』
影の手には、何もない。刃もない。牙もない。けれど、澪の傷は深い。再生が走る。肉が戻り、血が止まり、裂けた内側が巻き戻る。いつも通り戻る。だが、影はその様子をじっと見ていた。
『まだ、戻るね』
「戻る」
『じゃあ、もっと』
次の傷は首だった。
澪は身体を落として避けたつもりだった。だが、避けた後に傷が来た。首筋から肩まで、薄く切られる。血が飛ぶ。再生が追いつく。澪は鎖を黒い骨の床へ打ち込み、影の足元へ絡めようとした。鎖は床を打つだけで、影には掛からない。短杭を投げてもすり抜ける。転移しようとした瞬間、澪は眉を寄せた。
飛ぶ場所がない。
第二層でも、第一層でも、転移には引っ掛かりがある。空気の重さ、地面の感触、魔力の流れ、身体が覚えた位置。だが、ここにはそれがない。距離がなく、方向がなく、奥行きだけが暗闇に溶けている。転移の足場が見つからなかった。
「面倒」
『うれしい』
「嬉しい?」
『ちゃんと、困ってる』
影がまた近づく。
澪は今度、逃げなかった。刃が通らないなら見る。触れないなら待つ。影が傷を作る瞬間、何かがこちらへ届いている。刃でも魔法でもない。だが、傷だけが残るなら、そこには通り道がある。
澪は左腕を前へ出した。
影が触れる。
左腕が肘から先で落ちた。
痛みが白く弾ける。澪は歯を食いしばった。落ちた腕は地面に触れる前に黒い粒になり、消えた。再生が始まる。骨が伸び、筋肉が巻き、皮膚が閉じる。澪はその間、影から目を離さなかった。
見えた。
一瞬だけ、影と澪の間に細いものがあった。線ではない。糸でもない。黒い水面に落ちる光のようなもの。攻撃が来る前ではなく、傷ができた後に現れる。それは結果の道だった。
澪は再生しかけの左手で、メイの鎖を掴んだ。
「もう一回」
『いいよ』
影は笑った。
何度も、澪は切られた。
肩。腹。太腿。喉。目の横。手首。背中。肺。心臓に近い場所も一度裂かれた。再生が追いつく。追いつくが、痛みは消えない。完全に異常を拒むようになった身体でも、これは状態異常ではなかった。毒でも、眠りでも、麻痺でもない。ただの傷だ。結果として置かれる傷。分類できる。分類した上で、痛いものは痛いまま残る。
澪はその痛みを使った。
傷ができるたび、通り道を見る。再生するたび、自分がどこから戻っているのかを感じる。肉体が戻る中心。骨が伸びる順番。血が満ちる方向。傷が閉じる時、自分が自分に戻るための芯。今まで意識したことのなかったものが、暗闇の中で少しずつ輪郭を持つ。
影は楽しそうだった。
『戻る』
「うん」
『また戻る』
「戻る」
『じゃあ、これは?』
視界が落ちた。
首を落とされたのだと、澪は少し遅れて理解した。身体の感覚が遠ざかる。頭が地面に触れる。黒い骨の床が冷たい。普通なら終わりだ。だが、終わらない。首の断面から再生が始まる。身体が近くにあるのか、ないのか分からない。だが、澪は戻ろうとする自分の芯を掴んだ。
痛みよりも先に、怒りが来た。
腹が立つ。負けた気がする。戻るのは当然だ。終わってたまるか。澪は歯を食いしばり、戻る感覚へ食らいついた。
首が繋がるのではない。
澪という形が、もう一度そこに組み上がる。
骨、血、肉、皮膚、魔力回路、呼吸、鼓動。全部が戻る。戻る速度が違う。今までとは違う。傷を塞ぐのではなく、失った形を取り戻す。澪は立ち上がった。息が荒い。痛みは残っている。恐怖も少しだけある。だが、身体は動く。
影が小さく手を叩いた。
『やっぱり、戻った』
「痛い」
『うん』
「腹立つ」
『そっか』
澪はメイを構えた。
今度は刃を振らなかった。鎖を地面に落とし、目を閉じる。影の姿を見るのをやめた。見ても意味がない。そこにいないものを斬っても仕方ない。傷が来る通り道。自分が戻る芯。影が澪に触れる瞬間ではなく、澪が傷ついた後に残る結果の道。そこへ刃を置く。
影が動いた。
澪の胸が裂ける寸前、メイの鎖が鳴った。
今度は、手応えがあった。
硬いものではない。柔らかいものでもない。暗闇の奥にある、冷たい膜を引っ掛けたような感触。澪は目を開け、鎖を引いた。影が初めて揺れた。青白い目が少しだけ細くなる。
『見えた?』
「少し」
『じゃあ、続き』
暗闇が広がる。
黒い骨の地面が砕け、周囲に無数の影が生まれた。小さなもの、大きなもの、人型、獣型、翼のあるもの、手だけのもの、顔だけのもの。すべてが澪を見ている。敵意ではない。歓迎でもない。試す目だった。
澪は息を吐いた。
「長い?」
『うん』
「どれくらい」
『きみが、戻り方を忘れなくなるまで』
影たちが動き出す。
澪はメイを握り、黒い暗闇の中へ踏み込んだ。
1章で「まってる」と言っていた者です。
やっと澪ちゃんに会えて胸がほっとしてます。
これから長くにわたりお互いを理解していきましょう。
ニコ^^




