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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第三章

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第九話  黒花姫 討伐


 白い霧が、花畑の上を走った。


 光ではなく、匂いが光ったように見えた。甘く、冷たく、柔らかい。鼻から吸っていないはずなのに、舌の裏へ蜜の味が広がる。喉の奥が温まり、肩の痛みが薄れ、雨に削られた装束の縁が急に遠く感じられた。危険だと分かるより早く、身体が休みたがる。膝を折って座れば楽になる。横になれば、もっと楽になる。花弁の上はきっと柔らかい。眠ってもいい。少しだけなら。


 澪はメイの鎖を、自分の左手首に巻いた。

 ぎり、と締める。


 痛みが戻った。鈍い痛みでは足りない。澪はさらに鎖を引き、手首の皮膚に金属を食い込ませた。血が滲む。再生がすぐに塞ごうとする。だが、その一瞬だけ、花の甘さが途切れた。


「嫌」


 澪は短く吐いた。


『霧濃度、急上昇。澪さん、後退を推奨』

「無理」

『無理ではなく、後退してください』

「もう、見てる」


 澪の視線の先で、巨大な黒花が完全に開いた。


 花弁は幾重にも重なり、縁だけが青白く光っている。中央に人の上半身めいたものが立ち上がっていた。白い腕。細い肩。顔のない頭部。髪の代わりに、黒い根が長く垂れている。美しい。人に似せているのではない。人が美しいと感じる形だけを、花が拾い集めたような姿だった。胸の中心には銀色の雫があり、心臓のように脈打っている。


 花が揺れた。風はない。


 それでも、花畑全体が同じ方向へ傾く。数え切れないほどの黒い花が澪へ向き、雫を震わせた。霧が濃くなる。匂いが変わる。甘さの奥に、眠気、熱、痺れ、懐かしさ、空腹、安心、恐怖が混ざった。感覚が一度に多すぎる。視界の端で、黒い花弁が朱音の手に見えた。次の瞬間には、前世のどこかの夜に見えた。さらに次には、第一層九環の白い墓標に見えた。


 全部、違う。


 澪は鎌刃を地面へ打ち込んだ。黒い根の床に刃が深く入り、メイの鎖が低く鳴る。花の霧が鎖の音を包もうとする。音すら眠らせるような霧だった。


 通知が走る。


《状態異常耐性》Lv7→Lv8


 澪はログを見ていない。見る余裕がない。霧の中で、足元の花が開いた。花芯から白い糸のようなものが伸び、靴の縁へ絡む。中へ入り込んでくるわけではない。包もうとする。柔らかく、優しく、足を止めようとする。澪は短杭を抜き、真下へ突き刺した。花が潰れる。甘い匂いが濃くなった。


「潰すと、強い」


 澪は舌打ちに近い声で言った。


『本部より。花の破壊時、霧濃度が上昇。広範囲破壊は避けてください』

「じゃあ、真ん中」

『慎重に』

「うん」


 澪は走った。


 花畑の上を、踏まずに走ることはできない。踏むたびに花が潰れ、霧が上がる。澪は息を止め、メイを低く振った。花を刈るのではなく、花弁の間に鎖を滑らせ、支点だけを奪う。右の花茎へ鎖を掛け、左の根へ短杭を打ち、身体を斜めに引く。足が花を避けきれない。霧が頬に触れる。触れた場所だけ、皮膚の内側が熱を持った。


 巨大花の白い腕が動く。


 遅い。そう見えた。だが、次の瞬間、澪の目の前にあった。距離が狂ったのではない。澪の認識が遅らされている。白い指が澪の額へ触れようとする。

触れられたら眠る。そう直感した。澪は転移を使わず、身体を落とした。膝が花を潰す。甘さが爆ぜる。頭がぐらつく。だが、白い指は空を切った。


 澪はその腕へ鎖を絡めた。引く。


 柔らかい腕が裂けた。肉ではない。花弁と根と白い繊維が束になったものだった。裂けた断面から蜜が溢れる。蜜は地面に落ちず、空中で細かな粒になって澪へ降った。


 視界が白くなる。

 身体が勝手に止まる。

 澪の耳に、朱音の声が聞こえた気がした。

 帰ってきて。


 違う。朱音はここにいない。今の通信に朱音はいない。本部管制からしか声は来ない。これは花だ。花が澪の中から、止まりそうな声を探している。


 澪は自分の舌を噛んだ。

 血の味が、蜜の味を裂いた。

《状態異常耐性》Lv8→Lv9

 コメント欄は遅れて震えた。


『霧やばすぎ』

『今の朱音さんの声っぽくなかった?』

『聞こえた気がして心臓止まった』

『通信入ってないよな?』

『入ってない』

『幻聴まで使うのか』

『状態異常のデパート』

『澪ちゃん自分の舌噛んだ?』

『痛みで戻してる』

『怖い』

『判断早い!』

『The flower is not only poisoning her. It is manipulating perception, memory, and emotional anchors.』

『海外解説ニキ助かるけど怖い』

『感情の支点を使ってくるってこと?』

『朱音さんの声を使うの最悪すぎ』

『花になって澪ちゃんに嫌われたい』

このコメントは削除されました。

『それはもう嫌われてる』

『白い腕になって鎖で引かれたい』

このコメントは削除されました。

『変態が国際問題』

『I volunteer as the chain anchor.』

このコメントは削除されました。

『海外変態ニキも消された』

『【公式】アークライン配信管理部:変質コメントは言語を問わず削除対象です。探索中の精神干渉に関する誤情報も制限対象です』

『公式が二正面作戦してる』


 花畑の中心まで、あと少し。


 巨大花は後退しなかった。花が逃げるはずもない。根を床に深く沈め、周囲の花から霧を吸い上げ、白い腕を再生する。失った腕の断面が膨らみ、次の腕が咲いた。一本ではない。三本。五本。細い白い腕が花弁の奥から次々に伸びる。それぞれが違う動きをしていた。額へ触れようとするもの。喉へ絡もうとするもの。メイを撫でるように伸びるもの。足を抱くもの。手首の鎖を外そうとするもの。


 澪は鎖を短く持った。


 広く振れば花を潰し、霧が増える。なら、狭く。近く。刃の内側で切る。短杭を一本、二本、三本と投げる。白い腕の関節に似た折れ目へ打ち込み、鎖を掛けて、引き落とす。腕を切るたびに蜜が飛ぶ。霧が濃くなる。だが、もう最初ほど甘くはない。状態異常耐性が上がったことで、身体の奥にひとつ膜ができたようだった。完全ではない。気持ち悪さは残る。だが、止まらない。


 巨大花の胸の雫が脈打つ。


 澪の足元の花が、一斉に開いた。


 下から霧が吹き上がる。避ける場所がない。澪は転移を使った。短距離。花畑の外ではない。巨大花の横、折れた腕の影。だが、転移先にも霧があった。第二層九環の空間は、転移を歓迎していない。移動の瞬間、花の匂いが身体の内側まで滑り込む。


 心臓が一拍遅れた。


 魔力が乱れる。足がもつれる。白い腕が澪の肩へ触れた。


 眠気ではなかった。


 その腕が触れた場所から、身体の感覚が遠ざかる。肩が自分のものではなくなる。次に腕。次に指。澪はメイを握っているはずなのに、握れているか分からなくなった。花は澪を殺しに来ていない。止めようとしている。眠らせ、休ませ、ほどき、境界を薄くし、花畑の一部として静かに置こうとしている。


 澪は右手が動かないまま、左手で短剣を抜いた。


 自分の肩へ突き刺す。


 白い腕ごと。


 血が飛び、白い腕が裂けた。痛みで感覚が戻る。再生が走る。澪は短剣を抜かず、そのまま肩を支点にして身体を回した。メイの鎖が地面を打ち、鎌刃が巨大花の胸へ向かう。花弁が閉じる。間に合わない。澪は鎖の端を噛み、空いた左手で杭を投げた。


 杭は胸の雫ではなく、花弁の根元へ刺さった。


 花弁が一枚だけ止まる。隙間ができる。


 澪はそこへメイを投げ込んだ。


 刃が銀色の雫に届く寸前、花畑全体が泣いた。


 音ではない。霧が震えた。澪の視界が変わる。黒い花畑が消える。代わりに、白い部屋が見える。柔らかい布団。温かい明かり。卵焼きの匂い。朱音が座っている。帰ってきたら服を選ぶ約束。ここで眠れば、帰ったことになる。そういう嘘を、花が見せる。


 澪は目を細めた。


「違う」


 メイの刃が雫へ食い込む。

 銀色の雫が割れた。


 巨大花が大きくのけ反る。花弁が一斉に開き、霧が爆発した。青白い光が花畑を満たし、映像が白く飛ぶ。本部管制の声が乱れる。警告音が鳴る。澪は雫を割ったまま、鎖を引かない。逆に、さらに押し込む。メイの刃が雫の奥へ沈み、花の中心にある硬い芯へ触れた。


 そこに、脈があった。

 澪はその脈を、刃で断った。

 花畑の光が止まる。


 巨大花の白い上半身が、ゆっくり崩れた。顔のない頭部が澪の方へ傾き、黒い花弁が一枚ずつほどける。蜜が地面へ落ちる。今度は霧にならない。ただの液体として、根の床へ染み込んでいく。周囲の花も次々に閉じた。咲いていた黒い花畑が、眠るようにうつむいていく。


 澪は肩に刺さった短剣を抜いた。


 血が流れる。すぐに塞がる。だが、花の感覚はまだ身体に残っていた。手足の輪郭が少し曖昧で、頭の奥に甘い匂いが残る。澪は舌に残った血の味を確かめ、ようやく息を吐いた。


「嫌な花」


 討伐ログが流れた。


黒花姫を討伐しました。

【探索者レベル】

Lv83→Lv100

スキルオーブを獲得しました。

《状態異常耐性》のレベルが上がります。

《状態異常耐性》のレベルが10になりました。統合条件が整いましたのでスキルを統合します。


 澪の足元に、黒い花弁に包まれた小さな光が落ちる。スキルオーブだった。第一層九環で見たものとは違う。透明な球の内側に、黒い花粉のような粒が漂っている。触れた瞬間、澪の中にある耐性系スキルが一斉に反応した。毒、眠り、麻痺、精神汚染、魂への違和感、空膜のざらつき、消化の負荷、飢餓、衝撃、痛み。別々だった抵抗が、一本の太い根のように絡み合っていく。


《状態異常耐性》

《精神汚染耐性》

《魂異常耐性》

《魔法抵抗》

《衝撃耐性》

《消化耐性》

《飢餓耐性》

《痛覚鈍化》

《空膜耐性》

上記スキルを統合します。

ユニークスキル《完全耐性》を獲得しました。


 身体が軽くなることはなかった。むしろ、重くなった。世界の嫌なものを、外側で弾くだけではなく、内側で見分けられるようになった感覚。毒は毒として、眠りは眠りとして、痛みは痛みとして、魂に触れるものはその冷たさとして、別々に分かる。澪はそれを少し気持ち悪いと思った。だが、悪くはない。


 コメント欄は、遅れて爆発した。


『倒した!』

『花ボス討伐!』

『澪ちゃんすごいぉ』

『今のボスだったの?』

『九環ボスにしたら弱くね??』

『状態異常耐性高くないともれなく全滅やろ』

『澪ちゃんの靴になりたい』

このコメントは削除されました。

『出た。変態』

『それにしても幻想的だったなぁ』

『歴史を一人で塗り替え続ける女!澪!』

『これ花ボス、状態異常系の総合試験だったんだな』

『肩に短剣刺して戻るの怖すぎ』

『澪ちゃん痛みの使い方が異常』

『嫌な花で済ませるな』

『澪ちゃんの耐性になりたい』

このコメントは削除されました。

『耐性になりたいは概念変態』

『花粉になって弾かれたい』

このコメントは削除されました。

『性癖まで耐性で弾かれてる』

『海外勢も騒いでる』

『【公式】アークライン配信管理部:未確認の進化条件、個人能力の推測、深層報酬に関する断定は制限対象です』

『今のは消されても仕方ない』

『スレの消費がえげつない』

『九環入ってすぐこれかよ』

『この先どうなるんだ』


 澪はログを見た。


 Lv100。

 その数字を認識した瞬間、花畑の奥で、何かがほどけた。


 雨の音が消える。

 本部管制の声も消える。


 コメント欄の文字も、映像の端から静かに流れ落ちた。世界が遠くなる。黒い花畑も、銀色の川も、青白い星の雨も、すべてが薄い膜の向こうへ退く。澪はメイを握り直した。鎖の感触はある。装束の重さもある。だが、足元の根の床が消えていた。


 暗い。


 第二層の黒ではない。九環の黒でもない。もっと古い暗さだった。何もない場所ではない。むしろ、何かが多すぎて、光が全部潰れているような暗さ。澪は立っている。だが、どこに立っているのか分からない。地面はない。空もない。雨もない。匂いもない。


 ただ、声がした。


『まってた』


 それは朱音の声ではなかった。


 本部の声でも、花の声でも、ダンジョンの声でもない。


 澪は目を細めた。


「だれ」


 暗闇の奥で、何かが笑った気がした。


 次の瞬間、配信映像は黒く途切れた。


 チャンネル《九環》の画面には、白い文字だけが残った。


『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』




《Tips》

黒花姫の倒し方。

様々な異常状態系の花粉を出します。正に異常状態の試験とも言えます。澪のユニークスキル適応がなかったら間違いなく死んでいます。

火や水には高耐性が着いており、燃やしても花粉が活性化して全滅を早めるだけです。


遠距離から攻撃を行うか、ヒーラーを大量に連れてきてバリアや精神異常回復スキルを使用してゴリ押ししかないです。

また、八環の花粉系希少個体から稀にドロップする素材を使用すると花粉の効果をある程度無効することができます。


今回のボスレベルは推定130前後となります。二次進化前の人間がソロで倒せる敵では無いです。本来は。

完全耐性ですが完全では無いです。

ありとあらゆる耐性を得られますがレベルは7〜8相当です。ある意味弱体ともとれます。

ただ汎用性が恐ろしく高いです。

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