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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第三章

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第八話 黒樹の揺籠

 八環の雨は、澪を覚えていた。


 青白い粒が外套の縁に触れ、細い音を立てて弾かれる。《空葬装束》は雨を完全には拒まない。表面で受け、硬くなり、わずかに染み込ませ、すぐに吐き出す。装備の反応は人間の防具としては気味が悪い。だが、澪にはちょうどよかった。拒むだけでは第二層の奥へ入れない。受け入れすぎれば呑まれる。その中間を、装束もメイも探っている。


 湿地の黒い水面には、前回倒した八環ボスの痕跡がほとんど残っていなかった。巨大な殻も、背に生えていた銀色の結晶庭園も、裂いた袋もない。黒い水がすべてを沈め、根が覆い、雨が洗ったのだろう。ただ湿地の中央だけ、周囲より少し低く、銀色の泡がときどき浮かんで弾けている。泡の中には、小さな花のようなものが咲いた。咲いて、すぐに溶けた。ダンジョンは死骸を残さない。だが、死んだものを忘れるわけでもないらしい。


 澪は湿地を迂回した。走らない。音を立てない。メイの鎖を低く垂らし、地面と雨の反応を見ながら進む。一度来た場所だからといって安全ではない。むしろ、前回より森の方がこちらを知っている。黒い根のいくつかは、澪が近づくより先にゆっくり向きを変えた。敵意ではない。好奇心でもない。ただ、見ている。黒樹の森全体が、雨粒の目で澪を追っているようだった。


『映像安定。遅延維持。八環外縁から奥へ移動中』


 本部管制の声は硬い。短く、必要なことしか言わない。澪は小さく頷いた。


「うん」


『本部より。予定導線から外れすぎないでください。九環境界の確認が目的です』


「入る」


 一拍、通信の向こうで沈黙があった。


『……九環境界を確認後、突入判断は黒瀬部門長の承認を挟みます』


「見てから」


『了解。観測継続』


 会話はそこで終わった。澪はもう返事をしなかった。必要なことは聞いた。必要なことだけ返した。深層で長く話す意味はない。雨の音、根の動き、遠くの魔物の気配。聞くべきものは、森の中にいくらでもある。


 配信の視聴者数は、八環へ転移した瞬間から跳ね上がっていた。配信画面の端に表示される数字は、もう日本語の桁感覚を少し外れている。海外翻訳レイヤーは別枠へ逃がされているが、それでもコメント欄は多言語の濁流になっていた。


『始まった』

『八環まで一瞬なのやばい』

『歩き方静かすぎ』

『雨が澪ちゃん避けてない?』

『避けてるというか、装束が受け流してる』

『メイの鎖の音すき』

『鎖になりたい』

このコメントは削除されました。

『早い』

『雨粒になって外套に弾かれたい』

このコメントは削除されました。

『削除が追いついてないぞ』

『いや追いついてる方だろ』

『八環の湿地、ボス跡消えてる』

『ダンジョンに食われた?』

『食われたって表現やめろ怖い』

『黒樹は死骸を残さないのか』

『This forest is not just regenerating. It is recycling defeated entities into the environment.』

『海外解説ニキ来た』

『英語解説ありがたい』

『つまり倒したボスも森の一部に戻ったってこと?』

『怖すぎ』

『저 비는 단순한 산성이 아니라 경계면을 녹이는 것 같음』

『韓国語解説ニキもいる』

『読めんけど雰囲気で怖い』

『【公式】アークライン配信管理部:深部導線、転移条件、現地位置の推測投稿は制限対象です』

『公式が一番忙しい』


 湿地を抜けると、地面の色が変わった。


 黒い土ではない。細い根が何重にも編み込まれ、床のようになっている。根の隙間から銀色の液体がゆっくり流れ、その上を青白い雨が撫でていた。足を置くと、根の床はわずかに沈む。柔らかい。けれど、湿地の泥とは違う。踏まれて沈むのではなく、澪の重さを測ってから、受け入れる深さを決めているようだった。


 澪は一歩ごとに短杭を刺した。道を残すためではない。道はすぐ変わる。短杭は目印というより、澪自身の感覚を外へ置くためのものだった。メイの鎖が杭の位置を覚え、《空葬装束》が雨の強さを記録する。九環へ入った後、帰れるかどうかは分からない。だが、戻るための感触を少しでも増やしておく意味はあった。


 前方で、黒い花が咲いていた。


 花弁は薄く、透けている。花芯は銀色で、雫が溜まっていた。美しい花だった。だが、澪は近づかなかった。花の周囲だけ、雨が少し甘い匂いを持っている。胸の奥が軽くなるような、眠りに入る前の温かさに似た匂い。澪は口元に封鎖布を当て、鎖の先で花を払った。


 花は簡単に散った。散った花弁が地面へ落ちる前に、黒い根が伸びて拾い、何事もなかったように床の中へ引き込んだ。


「嫌な花」


 澪は小さく言った。


『嫌な花、いただきました』

『澪ちゃんの嫌は信用できる』

『かわいい見た目で絶対やばい』

『匂い系?』

『睡眠か幻覚か』

『たぶん吸ったら終わる』

『花になって払われたい』

このコメントは削除されました。

『今日変態多くない?』

『いつも多いけど世界規模になって増えた』

『I think those flowers are sensory lures. Notice how the rain around them refracts differently.』

『海外解説ニキ助かる』

『花の周りだけ雨が曲がってるってこと?』

『そういうことか』

『澪ちゃん、直感で避けてるけど普通なら近づくよな』

『綺麗だから近づく』

『綺麗だから死ぬ』


 根の床はやがて坂になった。下へ向かっているのか、上へ向かっているのか分からない。黒い幹が左右から寄り、天井のように重なり、雨は真上からではなく斜め下から降るようになった。空間がゆっくり傾いている。第二層は森だ。だが、ここまで来ると森というより、巨大な樹の内部を歩いている感覚に近い。幹の内側、根の間、樹液の流路。澪は外から来た探索者ではなく、黒樹の身体の中へ入り込んでいく異物だった。


 遠くで魔物の鳴き声がした。鹿に似ている。だが、澪の方へは来ない。八環の魔物は、こちらを見ているだけだった。もしくは、もう分かっているのかもしれない。今の澪は、八環の獲物ではない。もっと奥へ向かうものだと。


 黒い根の門が見えた。


 それは人工物の門ではなかった。二本の巨大な根が左右から伸び、互いに絡まり、上部で弧を作っているだけだ。だが、その先の雨が違う。八環の雨は青白く細い。門の向こうの雨は、光の帯だった。落ちているのではない。空中に吊るされた銀の川が、幾筋も垂れ、黒い空間の中でゆっくり揺れている。門の内側からは、風が来なかった。代わりに、呼吸が来た。


 深い、深い呼吸。


 森全体より大きな何かが、ゆっくり眠っているような呼吸だった。


 澪は足を止めた。


『境界反応、確認。八環奥、未確認高密度領域。澪さん、そこで停止』


 本部管制の声が初めて少し乱れた。


「九環?」


『照合中。映像が乱れています。雨量計測不能。魔力濃度、上限測定値を越えました。澪さん、まだ入らないでください』


 澪は門の向こうを見ていた。


 黒い根の門の奥に、景色が広がっている。普通なら、門の奥には同じ森が続くはずだった。だが、そこには空があった。第二層の奥に、空がある。黒い空。青白い星のような雨粒が散り、銀色の川が空中を流れ、無数の根が空へ垂れ下がっている。地面は遠い。いや、地面がどこにあるのか分からない。巨大な黒樹の幹が、塔のように何本も立ち、その間を淡い光の魚が泳いでいるように見えた。魚ではない。樹液の塊か、魔物の幼体か、光の残りか。判別できない。ただ、美しかった。


 九環は、森の奥ではなかった。


 森の心臓の中に浮かぶ、黒い星空の庭だった。


 澪の喉が、小さく鳴る。


「綺麗」


 その一言は、配信に残った。


 コメント欄が、一瞬だけ言葉を失った。


『……』

『やば』

『え、空?』

『第二層の中だよな?』

『なんで空があるの』

『綺麗すぎる』

『怖いくらい綺麗』

『これ九環?』

『九環だろ』

『九環だけ別作品じゃん』

『一層九環もそうだったけど、やっぱ九環は別格』

『黒い星空の森』

『銀の川が空中流れてる』

『This is not a forest floor. It looks like an inner canopy-space, like the inside of a living world tree.』

『海外解説ニキ詩人になってる』

『生きてる世界樹の内側ってこと?』

『めちゃくちゃ分かりやすい』

『澪ちゃんの「綺麗」が出たから終わり』

『終わりじゃない始まり』

『雨粒になってあの空に浮かびたい』

『それは分かる』

『澪ちゃんのブーツ裏の黒樹床になりたい』

このコメントは削除されました。

『分からない』

『今のは分からない』

『俺は鎖でいい』

このコメントは削除されました。

『変態ども絶景の前で黙れ』

『絶景だから増えるんだよ』

『【公式】アークライン配信管理部:性的・身体的な変質コメント、探索妨害、位置推測は制限対象です』

『ミナトさんがんばれ』

『公式文に疲労が見える』


 澪は門の前で、手を伸ばした。指先が境界の雨に触れる寸前、《空葬装束》が硬くなった。拒んだわけではない。警告だ。メイの鎖も低く鳴る。行くな、ではない。入るなら覚悟しろ、と言っているようだった。


 澪は笑わなかった。ただ、目が少し暗くなった。


「入る」


『本部より。黒瀬部門長確認中。待機してください』


「待つ」


 その返事に、本部管制の向こうで一瞬だけ空気が緩んだ。澪が待つと言った。それだけで、何人かが救われたような顔をした。だが、待つのは長くない。澪は門の前で、雨の境界を見ている。足は止まっているが、意識はもう半分奥へ入っていた。


 黒瀬の声が入った。


『黒瀬だ』

「うん」

『現地反応は』

「綺麗」

『感想じゃない』

「雨が上からじゃない。空中の川。根が空にある。足場はたぶん不安定。呼吸が大きい。見られてる」

『魔物は』

「まだ」

『帰還札の反応』

「分からない。入らないと」

『転移で八環へ戻れる感触は』

「ここまではある。中は分からない」

『分かった』


 黒瀬は少しだけ間を置いた。


『突入を許可する。ただし、最初の三分は境界観測。戦闘になれば即時撤退判断。無理なら判断を待つな。お前の判断で戻れ』

「うん」

『天瀬』

「なに」

『見惚れるな』

「難しい」


 通信の向こうで、誰かが小さく息を吐いた。怒りではない。諦めに近かった。


 澪は門をくぐった。


 その瞬間、雨の音が消えた。


 無音ではない。音が遠くなった。八環では雨粒が装備を叩き、根が地面を這い、湿地が泡立っていた。九環では、音がすべて空中の銀色の川へ吸われている。澪の足が黒い床へ触れる。床だと思った場所は、固まった根の群れだった。足場は透明に近い黒で、その下を青白い光が流れている。踏むと、光が波紋のように広がった。


 空が広い。


 地下でも、森の内部でもない。黒い空間の中に巨大な根が吊られ、根から根へ銀色の川が流れ、青白い雫が星のように漂っている。遠くには、幹のような柱がいくつも立っている。その表面には花が咲いていた。黒い花、白い花、透明な花。風もないのに揺れ、花粉ではなく小さな光をこぼす。光は地面に落ちず、空中でくるくる回りながら消える。


 澪は一歩進んだ。


 足元の根がわずかに沈み、すぐ戻る。二歩目。三歩目。境界の外にあった八環の湿地が、背後で遠ざかった。いや、実際の距離ではない。九環に入った瞬間、戻るべき場所が薄くなった。澪は振り返る。黒い根の門はまだ見える。だが、雨の向こうで揺れていた。八環側にあったはずの景色が、水面の向こうのように滲んでいる。


『映像……補正中。澪さん、聞こえますか』


「聞こえる」


『通信遅延、増加。映像内の距離感が不安定です。現在位置、境界から推定十七メートル。ただし映像上は三メートルにも百メートルにも見えます』


「うん」


『帰還札の反応を確認してください』


 澪は懐から帰還札を一枚出した。札の縁が青白く光り、すぐに暗くなる。燃えたわけではない。反応が奥へ吸われた。澪はそれを見て、短く言った。


「使える。でも、遅い」

『遅い?』

「呼んでも、返事が遠い」

『了解。帰還札反応低下。記録します』


 澪は札を戻した。まだ帰る気はない。


 九環の光景は、歩くたびに変わった。黒い根の床は時々途切れ、空中に浮かぶ銀色の流れが橋のように固まる。その橋は澪が近づくと少しだけ硬くなり、渡り終えるとまた液体へ戻った。遠くで花の柱が開き、光の粒が雲のように広がる。空中に浮かんだ透明な果実が、ゆっくり脈打っている。果実の中には小さな影があり、それが手足を丸めた何かに見えた。澪は近づかない。綺麗だが、触れるものではないと分かる。


 コメント欄は、絶景と恐怖と欲望で壊れかけていた。


『九環入った』

『音消えた?』

『映像の距離バグってる』

『足場、根なの?』

『銀の川が橋になった』

『これ生きてる道じゃん』

『澪ちゃん普通に歩いてるの怖い』

『普通なら一歩目で戻る』

『戻れない可能性もあるだろ』

『言うな』

『あの透明な果実なに』

『触るな触るな触るな』

『あれ医療系素材だったら世界終わる』

『効能の話するな公式に消されるぞ』

『It looks like a controlled biological archive. The fruits may be storing patterns, not organisms.』

『海外解説ニキ、それ怖い』

『生物じゃなくて設計図を保存してるってこと?』

『やめろ怖い』

『澪ちゃんの靴跡になりたい』

このコメントは削除されました。

『靴跡は新しいな』

『私は外套の白線になりたい』

このコメントは削除されました。

『国際配信で何を言ってるんだ』

『世界に日本の変態がバレる』

『海外にもいるぞ』

『I want to be the chain anchor.』

『海外変態ニキ参戦』

『国境を越えるな』

『越えるなって言っても配信が越えてる』

『【公式】アークライン配信管理部:変質コメントは言語を問わず削除対象です』

『言語を問わず草』

『ミナトさん世界対応』


 澪はふと足を止めた。


 前方に、黒い花畑があった。


 根の床が広く開き、そこだけ湖面のように平らになっている。その上に、無数の花が咲いていた。黒い花弁の縁に青白い光が走り、中心には銀色の雫が溜まっている。花は大小さまざまで、足首ほどのものから、澪の背丈を超えるものまである。花畑の上には雨が降っていない。代わりに、花たちが呼吸するたび、淡い霧が立ち上っていた。


 その霧は甘い匂いをしていた。


 八環の小さな花より、ずっと濃い。眠りではない。気分がよくなる。身体の疲れが消え、傷が癒え、空腹も痛みも遠のいていくような匂い。澪の《状態異常耐性》がすぐに反応した。喉の奥が熱くなり、目の裏がちかちかする。《精神汚染耐性》も動く。さらに、魂の奥を指で撫でられるような違和感が来た。


 澪は口元の封鎖布を強く押さえた。


「花」


『映像確認。花畑状の領域。霧発生。澪さん、吸入回避』


「少し、入った」

『状態は?』

「気持ち悪い。気持ちいい。嫌」

『即時後退を推奨』


 澪は後退しなかった。


 花畑の中央で、一輪だけ巨大な花が開き始めていた。黒い花弁が何枚も重なり、その内側から白い腕のようなものが伸びる。人ではない。だが、人に似た形をしている。顔はない。目も口もない。ただ、花弁の奥に銀色の雫があり、それが心臓のようにゆっくり脈打っていた。


 澪はメイを構えた。


「いた」


 花畑全体が、静かに澪の方を向いた。


 次の瞬間、九環の霧が一斉に白く光った。

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