第六話 再生反応
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帰還札の光がほどけた瞬間、第二層の雨音が途切れた。
青白い雨、黒樹の呼吸、根が湿地の下を滑る気配。それらが一度に遠のき、代わりにアークライン本部地下の帰還管理区画の白い照明と、消毒薬の匂いと、人間の声が押し寄せてくる。
隊列は崩れなかった。黒鉄旅団の盾持ちは負傷者を中心に歩き、医療班が即座に担架を寄せる。素材班は封鎖容器の数と状態を読み上げ、インベントリ持ちは収納空間の異常反応を申告した。帰ってきた安堵より先に、確認すべきことが多すぎた。
澪はゲートの端で足を止め、メイを肩に預けた。八環の雨は落としてきたはずなのに、髪の先と外套の縁にはまだ青白い光が残っている。《空葬装束》の表面が細かく硬化と軟化を繰り返し、吸い込んだ第二層の粒子を拒むように震えていた。榊原がそれを見た瞬間、眉間に深い皺を寄せる。
「天瀬さん、装備検査です。今すぐ」
「先に、ご飯」
「駄目です」
「少し」
「駄目です」
「卵焼き」
「検査後です」
澪は少しだけ不満そうにしたが、反論はしなかった。第八環で入った細かい雨は、皮膚だけでなく装備の隙間や魔力回路の表面にも残りやすい。自分の身体が平気だからといって、他のものも平気とは限らない。澪はそういうことを、最近は少しだけ覚えた。
負傷した盾持ちは、すぐに隔離処置室へ運び込まれた。応急処置に使われた銀色の液体は、封鎖容器ごと別室へ移される。八環で簡易鑑定を通したとはいえ、詳細鑑定はこれからだった。現場では命と探索者生命をつなぐために使った。ここから先は、医療班、鑑定班、協会監査、倫理審査、法務、素材管理の仕事になる。
神楽坂美冬は帰還区画の奥で報告を受けていた。隣には佐伯がいる。佐伯はすでに端末を三枚開き、国内外の問い合わせ、接触要求、素材共同研究の申請、報道各社の確認依頼、海外政府系の照会、怪しい取引勧誘を分類していた。配信が終わっていない。遅延映像はまだ流れている。つまり世界は、ほんの少し遅れて澪たちの帰還と処置室の動きを見ている。
「外部問い合わせ、増加中です」
佐伯の声は落ち着いていた。
「国内医療企業十九社。素材企業三十一社。海外企業は確認できているだけで七十四。政府系と思われる照会が十二。匿名取引の打診は現在ブロック中です」
「早いですね」
「八環で欠損再生反応が映りました。遅いくらいです」
神楽坂は短く頷いた。
「北辰残党は?」
「正規企業としての動きはありません。旧関係者名義、外部委託先、偽装アカウントらしき接触はあります。まとめて遮断しています」
「お願いします」
「はい」
その言葉だけで、北辰という名前は部屋の中から消えた。かつて大きな顔をしていた企業は、もう公式に声を出せる立場にはない。世界の欲望は、すぐに別の名前をかぶって現れる。医療企業、研究財団、海外クラン、政府系機関、慈善団体を装った仲介組織。看板が変わるだけで、欲しがる目は同じだった。
処置室のガラス越しに、負傷者の足が見えた。白い医療灯の下で、医師が封鎖手袋越しに損傷部を確認している。銀色の液体を使った部分は、すでに簡易固定されていた。失われかけた筋肉の輪郭が戻り、骨の断面に細い白線が走り、魔力回路の途切れた端がわずかに反応している。完全治癒ではない。むしろ、これから何日も発熱と拒絶反応と検査に耐える必要がある。けれど、そこには明らかに「戻ろうとする力」があった。
水瀬蓮は解析室側の端末を見ていた。深部班ではない。朱音や遥と同じ別働隊として、第二層中盤で任務を終えたばかりだ。だが帰還後、第二層八環素材の簡易データが回ってきた瞬間、本部から呼ばれた。現場にいた者ではなく、外側からログを読む目が必要だった。
「現場使用量、かなりぎりぎりですね」
「多かったら?」
「たぶん、戻るより先に増えます」
水瀬の言葉に、ユイカが顔をしかめた。
「嫌な言い方をしますね」
「事実です。再生というより、身体の欠落を素材側が勝手に補っている。本人の身体設計図を参照しているのか、第二層側の雛形を押しつけているのか、まだ分かりません」
「後者なら最悪です」
「なので、詳細鑑定が終わるまでは追加使用禁止」
医療主任が即座に頷いた。
「当然です。現場処置は例外。ここでは手順を踏みます」
榊原は澪の装備から採取した雨粒を封鎖皿へ落とした。青白い粒が皿の上でしばらく震え、やがて銀色の筋を引いて消える。ユイカがその反応を記録する横で、澪は白い検査椅子に座らされていた。髪は乾かされ、腕には魔力回路測定具、背中には薄い符が貼られている。本人は眠そうだった。
「澪」
朱音の声がした。
澪は顔を上げた。帰還管理区画の入口近くに、朱音が立っていた。アークラインの任務用ジャケットを着ている。髪は少し乱れ、頬には第二層中盤の雨避け符の痕が薄く残っていた。彼女も別働隊で仕事をしてきた直後だった。中盤とはいえ第二層だ。無傷ではない。左手の指には包帯が巻かれ、腰の装備も汚れていた。
「帰った」
「うん。おかえり」
「朱音先輩も」
「帰ったよ」
朱音はそう言って、澪の前まで来た。怒っている顔ではなかった。泣きそうな顔でもない。どちらかと言えば、怒る前に確認する顔だった。
「怪我は」
「少し」
「少しで済んでる?」
「たぶん」
「その返事は信じない。検査結果を信じる」
「うん」
朱音は澪の腕に貼られた測定具を見て、次にガラスの向こうの処置室を見た。負傷者の足を見た瞬間、表情が変わる。第二層中盤でも負傷者は出る。探索者に怪我はつきものだ。それでも、失われかけた足が戻ろうとしている光景は、普通ではなかった。
「本当に、戻ってるの?」
「少し」
「……八環で?」
「うん」
朱音は息を吐いた。ゆっくり、長く。自分の中に入ってきた情報を、そのまま飲み込むには大きすぎたのだろう。
「九環は」
「行く」
澪は迷わず言った。
朱音は目を閉じた。予想していた答えだ。それでも、聞けば胸の奥が痛む。
「いつ」
「準備できたら」
「ひとりで?」
「うん」
「アカリさんやセレスさんでも?」
「邪魔になる」
「それ、本人たちの前で言わない方がいいよ」
「言った」
「言ったの?」
「うん」
近くでアカリが笑った。
「言われたねえ」
「事実ですから」
セレスは静かに返した。怒ってはいない。むしろ、当然の判断として受け止めている顔だった。
「第九環は、戦力を足せば安全になる場所ではありません。射線が通らない、撤退路が保てない、帰還判断が遅れる。私が入れば、天瀬さんの速度を落とします」
「……悔しくないんですか?」
「悔しいですよ」
セレスは微笑んだ。
「だから、外側でできることをします」
アカリは拳を鳴らした。
「私は行きたいけどね。でも、あの雨の奥はまだ駄目だ。燃やすほど広がる。殴るには届かない。澪の後ろを走るには、足りない」
「足りない」
「本人に言われると腹立つねえ」
「ごめん」
「謝るなら、ちゃんと帰ってきな」
澪は頷いた。アカリは朗らかに笑って澪の背中をバシバシと叩く。
その会話も、配信には一部だけ流れていた。素材詳細と医療データは遮断されている。だが、八環帰還後の公式記録として、澪が九環単独突入を示唆したことは隠せなかった。隠せば、外部はもっと騒ぐ。アークラインは公開する情報と切る情報を分けている。ミナトの削除作業は、すでに人力ではなく半自動の戦場になっていた。
『ひとりで九環行くって言った?』
『言った』
『アカリさんでも邪魔って何』
『セレスさんも認めてるのが怖い』
『戦力足せば安全って場所じゃないんだな』
『八環ボス倒した直後に九環行く話してるの頭おかしい』
『でも行くんだろうな』
『不老素材、再生素材、次は何?』
『If the 8th ring can restore limbs, the 9th ring changes mortality itself.』
『英語ニキ重い』
『改变死亡的边界』
『読めないけど死って字だけ分かる』
『Речь уже не о медицине. Это власть.』
『読めない』
『海外政府系アカ増えすぎ』
『【企業公式】東都再生医療:共同検証の正式窓口開設を希望します』
『【海外企業公式】Helix Regenics:We request a regulated international framework.』
『欲望を規制ってできるんですかね』
『無理』
『澪ちゃんの鎌になりたい』
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『通常運転やめろ』
『ミナトさん生きて』
ミナトは生きていた。だが目は死にかけていた。
「コメント速度、国内配信の限界を超えています。海外翻訳レイヤーを別枠へ逃がします。政治要求、素材取引、個人特定、医療勧誘、宗教系勧誘、全部増えてます」
「宗教系?」
「死と再生が映りましたので」
「最悪ですね」
「最悪です」
佐伯が淡々と答えた。
「法務窓口を増やします。政府照会は協会経由。企業問い合わせは一次拒否。共同研究は現時点で全保留。素材所在に関する質問は無回答。天瀬さん個人への接触は全面禁止」
「海外からの圧は?」
「来ます。もう来ています」
「早い」
「世界は不老と再生の匂いには敏感です」
神楽坂は処置室を見た。
「だからこそ、次を急がされてはいけません」
「ですが、天瀬さんは行きます」
「ええ」
神楽坂は澪の方を見た。澪は朱音と短く話しながら、時々ガラスの向こうを見ている。その目は、負傷者の足ではなく、もっと奥を見ていた。第二層第九環。黒い森の底。青白い雨の向こう。誰かが待っている場所。
「止められません」
「止めますか?」
「無理に止めれば、勝手に行くでしょう」
「…でしょうね」
「なら、行かせる準備をします。単独で。帰還管理、配信遅延、素材収納、外部防衛、朱音さんたち別働隊の運用、すべて組み直しです」
佐伯は端末に新しいファイルを作った。
第二層九環単独探索計画。
その文字が表示された瞬間、部屋の温度が少し下がったように感じた。
詳細鑑定の一次結果が出たのは、帰還から六時間後だった。負傷者は鎮静状態に入り、脚の再形成反応は止められている。止めたのではない。暴走しないよう、極低速で維持している。足は完全ではないが、失われなかった。神経反応は戻り、魔力回路もわずかに接続を始めている。探索者として復帰できるかはまだ分からない。だが、従来なら不可能だったはずのことが起きていた。
記録映像は、外部公開用に加工された。傷口の詳細は映さない。素材量も映さない。鑑定値も伏せる。それでも、銀色の液体が欠けた身体を戻そうとした事実は隠しきれなかった。
世界中の視線が、澪とアークラインへ向いた。
その夜、澪は検査後の病室で卵焼きを食べていた。朱音が持ってきたものだ。甘め。少し焦げている。澪はそれを気に入っていた。朱音はベッド脇の椅子に座り、膝の上で手を組んでいる。部屋の外には警備がいる。病室の窓は封鎖ガラスになり、外からの視線は通らない。
「澪」
「うん」
「どれくらい行くつもり」
「分からない」
「一日?」
「違う」
「一週間?」
「たぶん違う」
「一ヶ月?」
「分からない」
朱音の指が、膝の上で強く握られた。
「もっと?」
「うん」
澪は卵焼きを飲み込み、少し考えた。言葉を選ぶのは得意ではない。特に、相手が傷つくと分かっていることを言うのは難しい。前の世界では、そういう時も短く済ませていた。だが、この世界ではそれでは足りないことがある。朱音には、とくに。
「半年」
「……」
「一年」
「……」
「もっとかも」
「帰ってこられないの?」
澪は首を横に振った。
「帰る」
「本当に?」
「帰る」
「転移で?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「分からない。でも、帰る」
朱音は笑おうとして失敗した。怒ることもできない。止めることもできない。澪が九環を見てしまったことを、朱音はもう知っている。あの目になった澪は、止まらない。止めれば、黙って行く。なら、せめて見送るしかない。
「配信で言うの?」
「うん」
「私に?」
「朱音先輩にも」
「にも?」
「みんなに」
朱音はうつむいた。
「ちゃんと、言って」
「うん」
「短すぎるの禁止」
「難しい」
「難しくても」
「分かった」
翌日、九環単独探索計画の一次説明配信が行われた。アークライン公式、協会監視、黒鉄旅団の共同声明つき。素材効能の詳細は出さない。九環突入日も出さない。だが、第二層第八環で得られた再生反応と、第九環単独探索の準備に入ったことは発表された。
配信の最後、澪は一人で画面の前に立った。
探索装備ではない。黒い薄手の服に、白い上着。髪は短く、少しだけ白い筋が増えたように見える。メイは映らない場所に置かれている。朱音は画面外にいた。アークライン本部の別室で見ている。別働隊の任務ではない。だから、今は聞いていられる。
澪はしばらく黙っていた。
コメント欄は流れ続けている。日本語、英語、中国語、韓国語、ロシア語、スペイン語、読めない文字。企業公式。海外クラン。一般視聴者。アンチ。祈るようなコメント。買いたがるコメント。脅すようなコメント。ミナトが削除しきれないほどの世界の声。
澪は、そのほとんどを見なかった。
「九環、行く」
最初の言葉は短かった。
「たぶん、長い」
「半年かも」
「一年かも」
「もっとかも」
「でも、帰る」
澪は一度だけ息を吸った。画面の向こうにいる朱音を見るように、カメラへ目を向ける。
「朱音先輩」
「卵焼き、また食べる」
「服も、まだ選ぶ」
「だから、待ってて」
コメント欄の流れが一瞬だけ変わった。
『澪ちゃん』
『長いってそういう長いか』
『一年?』
『待っててはずるい』
『朱音さん見てる?』
『見てるだろ』
『帰ってこい』
『絶対帰ってこい』
『Don’t make that promise lightly.』
『軽くないだろ』
『她在向谁告别?』
『別れじゃない』
『行ってらっしゃいって言え』
『言えるわけない』
『九環に行きたがるとか怖い』
『朱音さん待っててって言ったの、初めてじゃない?』
『澪がこんなに喋るの珍しい』
『世界とか素材とかどうでもよくなった』
『いや世界はどうでもよくない』
『【公式】アークライン配信管理部:本配信における天瀬澪さんおよび関係者への接触要求、追跡、勧誘、脅迫は制限対象です』
『今は黙って見送れ』
澪はもう一度だけ言った。
「帰る」
それで配信は終わった。
画面が暗くなった後も、朱音はしばらく動けなかった。隣にいた遥も、水瀬も何も言わない。言葉にすると、形になってしまうものがあった。半年。一年。もっと。澪がそう言ったのは、怖がらせるためではない。嘘をつかないためだ。
水瀬がようやく口を開いた。
「準備しましょう」
「何を」
「待つ準備です。帰ってきた時に、置いていかれていないように」
朱音は顔を上げた。
待つだけでは足りない。澪が九環へ行く間、自分たちは中盤で任務を続ける。素材を採る。戦う。稼ぐ。レベルを上げる。アークラインに貢献する。守られるだけでは、澪が帰ってきた時にまた同じ場所へ立てない。
「うん」
朱音は小さく頷いた。
その頃、澪は配信室を出ていた。
廊下の奥、封鎖ガラス越しに第二層素材の保管区画が見える。八環ボス由来の銀色の液体は、いくつもの封鎖容器に分けられ、二重三重の術式の中で淡く光っていた。あれで欠けた足が戻りかけた。なら、その奥には何があるのか。
ただ、綺麗だと思った。
黒い森の奥にあるものを見たい。
その欲だけが、澪の胸の中で静かに呼吸していた。




