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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第三章

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第五話 黒樹遠征②

 第二層第八環に入った瞬間、雨の音が変わった。


 七環までの雨は、まだ雨だった。青白く、細く、肌に触れれば痛みを残し、装備の表面をじわじわ削る。危険ではある。けれど、それでも空から落ちる水の形をしていた。八環の雨は違った。粒が細かすぎる。音が軽すぎる。空気そのものに溶けた銀色の粉が、呼吸のたびに喉へ貼りつくようだった。黒い幹は濡れて艶を増し、根は地面からだけではなく空中にも伸びている。頭上に張り出した根の束が、巨大な肋骨のように並び、その隙間から青白い雫が逆さに落ちていた。落ちる、というより、上と下の区別を忘れた液体が、ただ森の呼吸に合わせて流れている。


 澪は足を止めなかった。右肩の奥に、七環で入り込まれた感触がまだ薄く残っている。実際には残留反応は検査済みだ。黒瀬が本部管制へ報告し、医療班が遠隔で状態を確認し、ユイカが《空葬装束》の反応値を読み、榊原が通信越しに「無理な動作をしたら後で解体検査します」と言った。だが、身体の記憶は理屈で消えない。雨の細さが変わるだけで、澪の皮膚の下がわずかに強張る。


 隊列はさらに薄くなった。素材班とインベントリ持ちは後方へ下がり、黒鉄旅団の盾持ちが左右に広がる。黒堂は中央やや前。ミカゲは澪の斜め後ろで、巨大な盾と黒い杭槍を低く構えていた。レンカは姿を半分ほど影へ沈め、雨の幕の向こうを見ている。ユズリは後衛の心拍と呼吸を整えながら、両耳をぴんと立てたまま周囲の音を拾っていた。アカリは前線の左。雨で火を広げにくい場所だというのに、拳の周りだけが赤黒く熱を持っている。セレスはさらに後ろ、弓を下げたまま歩いていた。射る構えではない。ただ森を見ている。雨粒、葉の揺れ、根の影、視界に映らない何かの移動。彼女の目は、五キロ先の森の呼吸まで拾っているようだった。


「八環、想定より湿度が高い。雨の粒子が細かすぎる」


 黒瀬の声が短く入る。通信先は本部管制だけだ。別働隊との直接通信はない。別働隊は別働隊で任務中であり、深部班は深部班で命をかけている。互いの状況は本部へ上げ、必要な情報だけが作戦ログとして共有される。それ以上は邪魔だ。


『本部管制より。第八環内、観測ドローン三機の外装が急速劣化。映像補正を上げます。配信遅延、三十秒から六十秒へ移行』


「承認」


 黒瀬が即答した。


 コメント欄は、遅延を挟んでもすぐに荒れた。


『雨の色やばくない?』

『七環と音が違う』

『これ吸ったら終わりでは』

『装備班が胃痛起こしてそう』

『澪ちゃん肩まだ痛そう』

『黒鉄の隊列かっこよすぎ』

『アカリさん火を広げないの偉いな』

『セレスさん何見てるの』

『五キロ先とか見てそう』

『【公式】アークライン配信管理部:第八環映像には深層干渉による乱れが含まれます。位置情報・撤退路に関する推測コメントは制限対象です』

『制限早い』

『深層で場所バラすなってことね』

『海外勢増えてるな』

『What is that rain made of?』

『英語ニキも困惑』

『雨っていうか霧じゃん』

『読めない文字のコメント増えてきた』

『정부 기관도 보고 있겠지』

『読めないけど政府っぽい単語だけ見える』

『霧になって澪たんに張り付きたい』

このコメントは削除されました。

『最近キモイの増えたなぁ』


 澪はコメントを見ていない。足元へ鎖を滑らせ、雨の当たり方を見ていた。白い墓標と空膜の世界では、空間の切れ目を読む必要があった。第二層では、雨と根と樹液が境界になる。どこまでが森で、どこからが外来物を削る領域なのか。澪はそれを、足裏と鎖の重さで測っていた。


「澪」


 黒堂が低く呼ぶ。


「右前」

「うん」


 返事と同時に、澪は鎖を投げた。先端ではなく、鎖の中ほどを根の影へ走らせる。何もいないように見えた場所で、雨の粒が一瞬だけ横へずれた。次の瞬間、黒い根の束が地面から跳ね上がる。鹿でも蛇でもない。根と筋肉を編んだような細長い魔物が、身体をねじりながら盾列の隙間へ入ろうとしていた。澪の鎖がその胴に絡み、ミカゲの杭槍が頭部らしき膨らみを床へ縫い止める。アカリが踏み込み、拳を一発だけ落とした。広がる炎ではなく、点の熱。黒い肉根が内側から爆ぜ、銀色の液体が雨に混ざって散る。


 それで終わらなかった。


 砕けた肉根の切断面から、細い白い根が何十本も伸びる。地面へ逃げるのではない。近くにいた黒鉄の盾持ちの足首へ向かった。澪が鎖を引き戻すより早く、レンカの矢が影から飛ぶ。矢は根の束そのものではなく、根が伸びようとした先の雨の膜を撃ち抜いた。薄い黒い穴が空き、根の先端がそこへ吸われる。セレスの矢が遅れていないのに、さらに遠くの枝を射抜いた。枝に潜んでいた別の個体が、まだこちらへ動く前に落ちる。


「一体じゃない」


 セレスが静かに言った。


「距離は」

「広いです。今の群れは囮。奥に、雨を揺らしているものがいます」


 彼女は弓を上げた。雨粒が弦に触れる寸前、矢が消えた。音は遅れて来る。遠く、森の奥で何かが崩れる鈍い音がした。配信カメラが追えない距離だった。視聴者には、セレスがただ弓を引き、数秒後に遠景の黒い木立が揺れたようにしか見えない。


『今の何射った?』

『画面外で何か死んだ』

『また五キロ射撃か?』

『弓がバグ』

『雨で射線通るの?』

『セレスさん、雨粒のズレで見てない?』

『人間の視界じゃない』

『黒鉄のレンカさんもやばいんだけどセレスが遠すぎる』

『遠距離火力が壊れてる』


 雨が濃くなる。


 黒瀬が手を上げた。隊列が止まる。前方の森が開けていた。正確には、木々が消えたのではない。根と幹が円形に退き、中央に広い湿地が作られている。湿地の水は黒く、ところどころ銀色の泡を立てていた。泡のひとつが弾けると、そこから細い根が出て、空中で花のように開き、すぐに溶ける。美しい。何も知らなければ、光る水庭に見えただろう。だが、澪は一目で嫌な場所だと思った。


 湿地の中央に、何かが沈んでいた。


 最初は岩に見えた。黒い、丸い岩。そこに銀色の樹液が流れ、結晶の花が咲いている。だが、岩がゆっくり動いた。黒い殻がずれ、湿地の水が持ち上がる。脚が出る。一本、二本、八本ではない。多すぎる。蟹に似ていた。だが蟹ではない。背中に小さな森を背負い、殻の隙間から根を垂らし、腹の下に銀色の袋を抱えた巨大な何かが、黒い水の中から起き上がった。


 盾持ちの一人が、息を呑んだ。


「ボス級」


 黒堂が言う。


「撤退は」

「まだ早い」


 黒瀬が答えた。声に迷いはなかった。


「第八環ボス級の初確認だ。倒す。無理なら撤退。だが、最初から逃げる相手じゃない」


 アカリが笑った。いつもの明るさではない。鬼種の目が、雨の奥で赤く光る。


「やっと、殴っていい相手かい」

「広げるな」

「分かってるよ。焼くんじゃない。抜く」


 セレスは弓を構えたまま、首を少し傾けた。


「核が見えません。背中の結晶庭園が、射線を歪めています」

「なら、剥がす」

「お願いします」


 澪はメイを握った。鎖が手の中で低く鳴る。《空葬装束》の裾が雨を払うように揺れ、胸元の留め具が淡く白く光った。八環の雨は防ぎ切れない。だが、動くには十分だった。


 巨大な殻が開いた。


 湿地全体が跳ねる。黒い水が壁のように立ち、前衛へ落ちてくる。普通の水なら盾で受ければ済む。だがこれは違う。黒堂が大盾を地面へ叩き込む。ミカゲと黒鉄の盾持ちが左右を固め、ユズリが後衛の恐怖反応を押さえる。黒水が盾へ当たった瞬間、表面の金属が白く煙を上げた。黒堂の腕がわずかに沈む。装備が削られている。それでも盾は下がらない。


 澪は盾の影から横へ抜けた。走らない。湿地の縁を滑る。足場が柔らかい。雨が細かい。根が下から来る。鎖を低く投げると、湿地の表面へ突き刺した杭に絡んだ。支点を作り、身体を斜めへ流す。巨大な脚が落ちてくる。澪は転移を使わず、鎖の張りだけで脚の外へ逃げた。脚の先が地面を割り、銀色の液体が飛ぶ。


 アカリが入った。


 拳を広げない。熱を流さない。殻の継ぎ目へ一点だけ打ち込む。雨が熱を奪うより早く、黒い殻の内側が赤く膨らみ、ひびが走った。すぐに銀色の樹液が溢れ、ひびを塞ごうとする。アカリは舌打ちした。


「再生が早いね」


 ミカゲが杭槍を叩き込む。澪が鎖で脚を引き、黒堂が盾で巨体を押し止める。レンカの矢が殻の下を縫い、セレスの矢が背中の結晶を一枚砕いた。砕けた結晶が雨に溶け、空気中で花弁のように散る。美しい。だが、その花弁が後衛へ流れた瞬間、ユズリが叫んだ。


「吸わないで!」


 補助防壁が張られる。遅れた素材班の一人が、わずかに花弁を吸った。膝が崩れる。目の焦点が揺れ、腕が自分のものではないように震えた。すぐに医療班が処置する。深呼吸を止め、封鎖マスクを押し当て、魔力を鎮める。まだ致命的ではない。だが、八環は一呼吸すら許さなかった。


 巨大な殻が鳴った。


 音ではなく、振動だった。湿地の水が同時に波立ち、前衛の足元から黒い根が噴き上がる。黒堂が盾を動かせない一瞬、盾持ちの一人が脚を絡め取られた。根は足首では止まらない。膝、腰、胸へ伸び、装甲の隙間へ入り込もうとする。ミカゲが杭槍で根を断つ。澪が鎖を投げ、盾持ちの胴へ絡めて引いた。間に合った。だが、次の脚が落ちる。


 澪は短距離転移を使った。


 白く視界が切れる。盾持ちの横へ出る。押し出す。巨脚が澪の左腕をかすめ、肩から肘まで防具の外層が裂けた。肉が削れる。痛みは鈍い。血が出る前に再生が始まる。けれど雨が傷口へ入ろうとした。《空葬装束》が硬くなり、澪はメイの柄で自分の腕を叩いた。衝撃で雨粒を弾き、再生が追いつく。


「澪!」


 ミカゲが叫んだ。


「平気」


 澪は短く返した。平気ではない。だが動ける。なら平気だ。


 セレスの矢が連続で飛んだ。今度は一射ではない。五本、七本、十二本。背中の結晶庭園が、遠くから順に砕けていく。配信画面では、矢が見えない。ただ巨体の背中に咲いていた銀色の結晶が、見えない手で摘まれるように消えていく。セレスはその全てを雨粒の反射だけで射抜いていた。


 アカリが踏み込む。雨に濡れた黒い地面が、足の下で赤く焼ける。熱を広げない。拳、肘、膝、踵。殻の継ぎ目だけを狙い、再生する前に何度も打ち込む。黒堂とミカゲが巨体を動かさない。レンカが影で脚の裏を裂く。澪は鎖を複数の脚に絡め、支点を変えながら巨体の姿勢を崩す。


 それでも、戻る。


 殻が戻る。脚が戻る。砕けた背中から、新しい結晶が生える。黒い水が巨体へ吸い上げられ、銀色の袋が脈打つたび、全身の傷が塞がる。


「袋だ」


 澪が言った。


 全員が聞いたわけではない。だが、近くにいた黒瀬が即座に反応した。


「腹下の銀袋。再生起点」

「見えにくい」

「露出させる」


 黒堂が一歩出た。巨体の脚が大盾を叩く。盾が鳴る。黒堂の足元が沈む。ミカゲが横から杭槍を突き込み、脚の一本を地面へ縫い止める。アカリがそこへ拳を打ち込み、脚の関節を内側から破裂させた。巨体が傾く。澪は鎖を投げた。先端ではなく、メイの刃を腹下へ滑り込ませる。刃が銀色の袋の外膜へ食い込む。硬い。肉ではない。膜でもない。生きた鉱石のようだった。


 巨体が澪を潰そうと沈む。


 澪は逃げなかった。鎖を両手で引き、身体を低く沈める。《身体強化》が軋み、《身体操作》が骨の角度を変え、《空中機動》が足場のない湿地で体勢を支える。今まで別々に積み上がっていた戦い方が、一瞬だけひとつに繋がった。鎖を引く。脚を掛ける。肩を落とす。杭を投げる。蹴る。柄で押す。刃を返す。全部が同じ動きになる。


 通知が走った。


 澪は見ていない。


統合条件を満たしました。

《身体強化》

《身体操作》

《格闘術》

《短剣術》

《鎖術》

《投擲》

《空中機動》

上記スキルを統合します。

《武芸の心得》NEW Lv1


 身体が軽くなるのではない。むしろ、重さの使い方が変わった。鎖だけに頼らず、足裏、膝、腰、肩、手首、刃、杭、全部がひとつの武器になる。澪はメイを引き抜かず、刃を内側へひねった。銀色の袋が裂ける。黒い水が逆流する。巨体が初めて明確に怯んだ。


「今!」


 黒瀬が叫ぶ。


 セレスの矢が袋の奥を射抜いた。レンカの矢が影から同じ穴へ入る。アカリが巨体の横腹へ拳を叩き込み、熱を一点に沈める。黒堂が盾ごと巨体を押し上げ、ミカゲが杭槍を腹下へ深く打ち込んだ。澪は鎖を巻き取り、メイの刃を再び袋へ食い込ませる。


「切る」


 短い声。


 刃が走った。


 銀色の袋が半分に裂ける。中から液体が溢れた。雨より濃い。樹液より澄んでいる。黒くも白くもない、淡い銀の液体。湿地に落ちた瞬間、その周囲の黒い水が静かに引いた。巨体の再生が止まる。完全にではない。だが、明らかに遅くなった。


 アカリが笑った。


「戻らないなら、壊せるね」


 そこからは早かった。黒堂が正面を固定し、ミカゲが脚を潰し、レンカが影で関節を切り、セレスが背中の結晶を射抜き続ける。アカリが殻を内側から割り、澪が腹下から再生起点を断つ。巨体は何度も戻ろうとした。だが、戻るたびに遅くなる。戻りきる前に壊される。壊された場所に次の攻撃が入る。傷は増えた。ひびは広がった。背中の小さな森は砕け、根は泥の中でのたうち、銀色の袋は裂けたまま脈打つことをやめていく。


 最後、澪は巨体の頭部らしき殻の前へ出た。


 黒い丸い目があった。目なのか、ただの濡れた穴なのかは分からない。その奥で、森の光が揺れている。澪は少しだけ見つめた。


「綺麗だった」


 そう言って、メイを振り下ろした。


 殻が割れる。巨体が沈む。湿地の水が一度だけ大きく波立ち、青白い雨が止まったように見えた。次の瞬間、雨はまた降り始める。だが、湿地の中央にあった圧迫感は消えていた。


 討伐ログが流れた。


 視聴者数は、すでに国内配信という数字ではなくなっていた。


『倒したああああ』

『八環ボス討伐!』

『日本トップ勢やばすぎ』

『澪ちゃん最後真正面から割った』

『アカリさん怖すぎる』

『黒鉄の固定力えぐい』

『セレスさん、背中の結晶全部落としてた?』

『レンカさんの影矢も見えない』

『ミカゲさん若いのに前線耐えすぎ』

『黒堂さん盾が壁』

『これでも八環なんだよな』

『九環どうなるんだよ』

『The regeneration stopped after that silver organ was cut.』

『英語解説助かる』

『再生起点ってこと?』

『素材やばそう』

『これ持ち帰れるの?』

『【公式】アークライン配信管理部:素材の名称、効能、取引可能性に関する断定コメントを制限しています』

『もう遅い』

『世界中見てるぞ』

『¿Regeneración? ¿Medicina?』

『読めんけど再生って言ってる?』

『Кто владеет этим материал?』

『読めねえよ』

『政府系アカウント混ざってない?』

『混ざってるに決まってる』

『おっふ』

『冗談抜きで戦争になる』


 討伐直後、素材班が動いた。


 ただし慌てない。黒堂が周囲を押さえ、アカリとミカゲが湿地の縁を警戒し、セレスとレンカが遠距離を削る。素材班は封鎖容器を開き、巨体の腹下に残った銀色の液体と、裂けた袋の一部、砕けた結晶片を慎重に採取した。液体は容器に触れた瞬間、容器の内側を薄く光らせた。封鎖術式が震える。ユイカの声が本部管制経由で入る。


『封鎖値、上げてください。第二層七環素材より反応が二段階強いです。容器一つに入れすぎないでください』

「了解」


 素材班の一人が答える。封鎖容器は三つ、五つ、七つに分けられた。それをインベントリ持ちが収納する。収納の瞬間、空間がわずかに揺れた。インベントリ持ちの顔が青ざめる。すぐに補助員が肩を支え、ユズリが呼吸を整える。


「収納完了」

「反応は」

「重いです。でも、保てます」


 黒瀬は頷いた。


「撤退準備。負傷者確認」


 その言葉が終わる前に、後方で短い悲鳴が上がった。


 盾持ちの一人が膝をついていた。先ほど根に絡め取られかけた男だ。救出直後は動けていた。だが、脚部装甲を外すと、左足の膝下がひどく損傷していた。切断ではない。もっと悪い。肉と防具の境目が雨で曖昧になり、神経と魔力回路が黒い根に一部持っていかれている。普通の治療薬では塞がるだけだ。探索者として戻れる保証はない。


 医療班がすぐに簡易鑑定をした。八環ボス由来の銀色の液体を、ごく微量だけ別容器へ移す。詳細鑑定ではない。薬効、毒性、魔力反応、拒絶、汚染の有無を最低限見るだけのものだ。それでも、何も見ずに使うよりははるかにましだった。


 表示が乱れる。

 医療班の声が震えた。


「再生反応あり。神経再接続反応あり。魔力回路補修反応……あり。ただし、使用量上限不明。強い発熱、拒絶、異常増殖の危険あり」

「毒性は」

「低いです。汚染反応は検出限界以下。ただし詳細不明」

「人体使用可否」

「不可とは出ていません。推奨とも出ていません」


 沈黙が落ちた。


 盾持ちは唇を噛んでいた。痛みではない。いや、痛みもある。だが、それ以上に、自分の足が探索者として終わるかもしれないことを理解している顔だった。


 黒堂が医療班を見た。


「このままなら」

「命は助けられます。脚は、分かりません。魔力回路はかなり厳しいです」

「使え」

「黒堂さん」

「責任は俺が持つ。本人確認!」

「……使ってくれ」


 盾持ちの声はかすれていた。


「まだ、戦いたい」


 医療班は迷わなかった。迷いは終わった。微量。ほんの一滴にも満たない量を希釈し、損傷部に落とす。銀色の液体が傷口へ触れた瞬間、盾持ちの背中が反った。叫びが噛み殺される。ユズリが両手で彼の肩を押さえ、心拍を整える。ミカゲが顔を歪めた。アカリも笑っていない。澪はその足を見ていた。


 肉が動いた。


 塞がるのではない。戻ろうとしている。失われかけていた筋繊維の輪郭が細く伸び、骨の欠けた部分に淡い白が走る。神経反応が跳ね、魔力回路の断面が銀色に光る。完全ではない。きれいに治るわけでもない。痛みもひどい。だが、足は死んでいない。戻り始めている。


 本部管制の向こうで、誰かが息を呑む音がした。


 医療班が声を絞り出す。


「再生、確認。欠損部の再形成あり。魔力回路、微弱ながら再接続反応あり。これ以上の使用は危険。固定して帰還します」


 配信コメントが爆発した。


『今、戻った?』

『足戻ってるよな』

『欠損再生?』

『簡易鑑定して使ったのか』

『いや現場判断えぐい』

『でも使わなきゃ終わってた』

『不老の次は再生かよ』

『医療が変わる』

『探索者引退者戻れるんじゃないか』

『軍が欲しがる』

『政府が欲しがる』

『富豪が欲しがる』

『全員欲しがるだろ』

『This is no longer just dungeon loot. This is geopolitical.』

『英語ニキ重いこと言ってる』

『再生医療企業の公式いない?』

『【企業公式】東都再生医療:当該素材の安全性および臨床的可能性について、正式な共同検証を希望します』

『来た』

『早すぎる』

『【海外クラン公式】Valkyrie Gate:Japan should secure that team immediately.』

『海外クランまで来た』

『不要让她离开日本』

『読めないけど怖い』

『政府っぽいアカウント見えたぞ』

『【公式】アークライン配信管理部:医療効能の断定、個人・組織への接触勧誘、素材売買要求、政治的要求は制限対象です』

『制限対象多すぎ』

『そりゃそう』


 澪は傷が戻り始めた足を見て、少しだけ目を細めた。


「足……戻るんだ」


 黒瀬がその声を聞いた。


「そう見えるな」

「九環は」

「今は撤退だ」

「うん」

「不満そうだな」

「少し」


 黒瀬は短く笑った。


「それでいい。だが、ここで欲を出したら死人が増える」

「分かってる」

「本当にか」

「……たぶん」

「そこは言い切れ」


 澪は黙った。黒瀬はそれ以上言わなかった。


 撤退は速やかに行われた。八環ボスを倒したとはいえ、八環が安全になったわけではない。むしろ、湿地の支配個体が消えたことで周囲の魔物が動き始めている。セレスは撤退中も何度も弓を引いた。画面外で魔物が落ちる。レンカが影に潜ったまま後方の根を切り、アカリが追ってきた黒い肉根を一点で焼く。黒堂とミカゲは負傷者の左右を固め、ユズリは負傷者の意識を落とさないように声をかけ続けた。


 澪は最後尾にいた。


 鎖を引きずるように歩きながら、雨の奥を見ている。青白い雨。銀色の液体。黒い根。美しい。危険で、綺麗で、欲しがる世界。八環でこれなら、その奥は何を隠しているのか。澪の胸の奥で、静かな熱が灯っていた。


 本部管制から、帰還座標の確認が入る。


『撤退導線、確保。第七環境界まで三百二十メートル。配信遅延維持。素材収納班、反応値上昇なし』

「了解」


 黒瀬が答える。


 澪は一度だけ振り返った。


 湿地の奥、黒い根の向こうで、何か大きな影が動いた気がした。八環ではない。もっと奥。九環へ続く森の底。そこに、雨とは違う呼吸がある。


 誰かが待っている。

 そう感じた。

 澪はメイを握り直し、前へ向き直った。


「帰る」

「珍しいな」


 黒瀬が言う。


「九環、行くから」

「準備してからだ」

「うん」


 その返事は、いつもより少しだけ素直だった。


 第二層八環ボス討伐。

 欠損再生反応確認。

 素材収納成功。

 負傷者一名、重傷。生命反応安定。

 探索継続不可。撤退。


 管制ログにそう記録される間にも、配信の視聴者数は増え続けていた。国内だけではない。海外政府系の監視アカウント、医療企業、素材企業、軍事系研究機関、海外クラン、宗教団体、読めない文字の群れ、翻訳されていない言葉、削除される要求、流れ続ける警告。


 第一層で不老の可能性を見せた少女が、第二層で再生の可能性を持ち帰る。


 世界が、また澪を見た。

 澪はそのことをほとんど気にしていなかった。

 八環の雨より奥にあるものを、もう見てしまったからだ。

俺TUEEEEを書きたい訳ではありません。

100年くらい経てば澪に追いつく人はちらほら出てくると思います。……たぶん。



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