第四話 黒樹遠征
探索回始まりました〜
第二層《呼吸する黒樹》への合同遠征は、最初の事前会議から二ヶ月後に実行された。
二ヶ月。澪にとっては長かった。医療班にとっては短すぎた。アークラインと黒鉄旅団にとっては、必要最低限だった。観測ドローンの耐雨加工、帰還導線の再確認、第二層五環までの中継経路の整備、七環以降で使う雨除け術式の再調整、素材回収用の封鎖容器、負傷者搬送用の軽量担架、配信遮断条件、撤退基準。ひとつでも曖昧なまま深部へ入れば、その曖昧さで誰かが死ぬ。
だから準備は増えた。増え続けた。澪はそのたびに「まだ?」と聞き、朱音に止められた。
当日、第二層ゲート前の待機区画には、二つの隊が並んでいた。
一つは、七環以降へ向かう深部合同探索班。澪、黒瀬、アカリ、セレス、黒鉄旅団の主力、そして高深度対応の素材回収班と医療支援班。黒鉄旅団からは、隊長格の黒堂巌、Lv142。黒鬼種の黒羽ミカゲ、Lv123。闇エルフ種の鋼崎レンカ、Lv119。愛兎種の黒乃ユズリ、Lv109。さらに、二次進化済みの黒鉄隊員が数名。澪を除いた平均Lvは、およそLv120前後。そこにレベル130越えのセレスとアカリが入れば 第二層の名を聞いて集まる戦力としては、明らかに過剰だった。
だが、七環以降は普通の第二層ではない。八環となれば、現在攻略されている第四層中盤と同じか、それ以上の危険度と見られている。
第五層は、過去の全滅事件から立ち入り禁止のままだ。層番号だけで油断する者は、黒樹の雨に削られて死ぬ。
もう一つは、第二層中盤へ向かうアークライン研修生隊だった。
朱音、水瀬、遥。それに、同じく卒業後にアークラインへ入った若手探索者が数人。目的は三環から五環周辺でのレベリング、素材採取、実務経験、そして収益化可能な任務の遂行だった。
訓練場で動くだけでは探索者は育たない。企業に所属した以上、潜り、稼ぎ、素材を持ち帰り、クランに貢献する必要がある。
朱音は白い研修生装備の上から軽い防護外套を羽織り、槍と小型盾を確認していた。背中に羽はない。天使種の力はまだ完全には扱えず、普段はしまっている。けれど、この二ヶ月で防壁と光槍の扱いは確かに変わっていた。
澪は朱音を見ていた。
「朱音先輩」
「なに」
「行く?」
「行くよ。三環から五環だけどね。」
「七環じゃない」
「まだ無理」
「うん」
「悔しいけどね」
「強くなる」
「なる。稼ぐし、素材も取る。アークラインにいるんだから、ちゃんと仕事する」
「偉い」
「澪に言われると変な感じ」
「期待してる」
「……うん。頑張る」
朱音は笑った。少し悔しそうで、少し嬉しそうな顔だった。このやり取りはもはやテンプレとなりつつあった。朱音はいつか見返してやると心の中に野心を飼っていた。
水瀬は端末を確認しながら、朱音たちの中層任務ルートを表示していた。彼も深部班には入らない。解析能力は高いが、第二層七環・八環の現場に立つにはレベルも耐性も足りない。遥も同じだ。影移動と斥候能力は優秀だが、七環以降の雨や根の動きに巻き込まれれば、逃げ切れる保証はない。だから彼女たちは、今の自分たちが稼げる場所へ行く。中盤素材を集め、魔物を倒し、依頼をこなし、少しずつ上げる。地味だが必要な道だった。
黒瀬が朱音たちの前に立った。
「研修生隊」
「はい」
朱音たちが返事をする。
「今日の任務は、第二層三環から五環の素材採取、討伐、地形変化記録、帰還導線確認だ。訓練ではない。遊びでもない。業務だ」
「はい」
「無理をすれば死ぬ。だが、臆病すぎれば稼げない。判断しろ。報告しろ。持ち帰れ」
「はい」
遥が短く頷き、水瀬は端末を閉じた。朱音は澪を見た。
「澪も」
「うん」
「勝手に九環行かない」
「今日は七環と八環」
「九環は」
「計画外」
「言い方」
「行かない」
「よし」
黒瀬が横から低く言う。
「その約束を破ったら、帰ってから七瀬に説教される」
「それは嫌」
「なら守れ」
「うん」
朱音は澪の袖を軽く掴み、それから離した。
「帰ってきて」
「うん」
「怪我してもいいとは言わないけど、しても帰ってきて」
「頑張る」
「私も帰る」
「うん。偉い」
二つの隊は、同じゲートを抜けた。
第二層の空気は、第一層とは違う。冷たいわけではない。暑いわけでもない。湿っている。けれど、水の湿り気ではない。葉の裏側、濡れた幹、土の奥、樹液の甘さ。それらが混ざった重い空気が、ゲートの向こうに満ちていた。黒い幹が並び、青白い葉が頭上を覆い、銀色の樹液が細い川のように根の間を流れている。森は静かだった。だが、止まってはいない。地面の奥が、ゆっくり息をしている。
第一環、第二環、第三環。
そこで朱音たち中層別働隊は分かれた。澪は少しだけ振り返る。朱音は槍を肩に担ぎ、水瀬は端末で周囲を見て、遥は影の薄い木陰へ溶けるように移動していた。彼女たちは彼女たちの仕事へ行く。澪は澪の場所へ行く。そういう分かれ方だった。
「澪」
「うん」
「あとで報告する」
「私も」
「うん」
朱音が手を上げる。澪も小さく手を上げた。
深部合同探索班は、そのまま第五環へ向かった。1層入口ゲートから2層五環までは片道およそ一時間。普通の探索者ならもっとかかる。だが、今回の隊は全員の身体能力が高い。低環域の魔物は遠くで気配を見せただけで逃げ、危険な根の移動もセレスと黒鉄の斥候が先に読んだ。四環から空気の湿り方が変わり、五環では雨の匂いが混じり始める。青白い粒はまだ落ちていない。けれど、葉の裏が濡れ、幹の銀筋が呼吸するように明滅していた。
七環到着は、ゲートから合計二時間ほどだった。
黒い根が絡む境界を越えた瞬間、空気が重くなる。雨は、最初から降っていた。細く、静かで、美しい雨。青白い粒が葉を滑り、幹を伝い、根を濡らす。森は傷つかない。だが、隊列の前に飛ばした観測ドローンの外装だけが、すぐに白く曇った。アークラインの高Lv観測員が数値を読み上げる。
「ドローン一番、外装保護九十二から八十七。雨粒接触ごとに削れています」
「森は」
「影響なし」
「嫌な雨だね」
アカリが拳を握る。赤い紋様が薄く灯ったが、炎は広げない。雨が散らすからだ。火力を絞り、点で焼く。
黒堂が手を上げた。
「隊列、第一形。黒鉄前衛、アークライン支援。天瀬は中央より半歩前。単独突出は禁止」
「うん」
「返事はいいな」
「よく言われる」
「なら、行動で示せ」
「うん」
素材管理も、今回は澪ひとりに任せていない。
空鐘袋は危険素材の緊急封鎖に使う。だが、採取品をすべて澪が持つ形にはしなかった。アークラインと黒鉄から選ばれた高Lvインベントリ持ち三名が、それぞれ別の封鎖容器を持つ。雨で削られた外殻片、黒樹の落葉、銀樹液の結晶、モンスターの素材。種類ごとに分け、保管者も分ける。一人が倒れても全損しない。澪が九環へ引っ張られても、素材が全部消えない。佐伯がそう決め、黒瀬も黒堂も同意した。澪は少しだけ不満そうだったが、朱音が「分ける」と言ったので頷いた。
七環に入って最初の接敵は、雨鹿だった。
鹿と呼ぶには、身体が低すぎる。黒い樹皮をまとい、角は枝のように広がり、雨粒を受けて青白く光っている。数は十二。さらに、背中に薄い膜をつけた個体が三体混じっていた。膜の内側で、銀色の粒が脈打っている。
「変異混じり」
レンカが弓を上げる。
「背中の膜、雨を溜めています」
「破裂する可能性は」
「高いです」
セレスが一射放った。魔力矢は雨粒を拾いながら遠くの一体の角へ食い込み、角の枝を半分折った。続けてレンカの黒い矢が膜持ちの首筋へ入る。膜が揺れる。破裂する前に、ミカゲが盾を地面へ落とすように構えた。
「受けます」
雨鹿が突っ込む。黒鉄の盾が鳴る。重い。第二層七環の魔物でありながら、衝突だけなら第四層中盤の突撃種と変わらない。ミカゲの足が半歩沈み、杭槍が盾の脇から突き出される。雨鹿の胸に刺さるが浅い。外殻が硬い。アカリが横から踏み込み、拳の一点だけを赤熱させた。
「燃えないなら、そこだけ焼く」
一撃。黒い樹皮の外殻が内側から弾けた。雨鹿が崩れる。だが、背中の膜を持った変異個体が、倒れた個体を踏み越えて突っ込んだ。膜が膨らむ。青白い雨水が内側で揺れる。
「下がれ!」
黒堂の声が飛ぶ。
膜が破裂した。
雨そのものより濃い液体が扇状に散る。黒鉄の前衛が盾で受ける。盾の表層が白く泡立つ。ひとり、反応が遅れた黒鉄隊員の左腕に液体がかかった。防護膜が削れ、装甲が曇り、その下の皮膚にまで届く。短い悲鳴。ユズリが即座に駆け寄り、恐怖反応を押さえながら治療補助術式を展開した。
「左前腕、深部までは行ってません。でも防護膜が抜けています」
「後列へ」
黒堂は迷わない。
「戦線離脱。素材班二番、負傷者を受けろ」
「了解」
負傷度合いは軽くはない。左腕の装甲は使い物にならず、皮膚は赤黒く焼けたようになっていた。雨の酸だけではない。魔力を削る反応が混じっている。医療支援班が中継地点で受けるまで、戦闘には戻せない。
澪はそれを見た。
「痛そう」
「見に行くな」
黒瀬が言う。
「今は前を見る」
「うん」
メイの鎖が鳴る。
澪は前へ出すぎない。ミカゲの盾の横、アカリの半歩後ろ。鎖を低く走らせ、雨鹿の足首に掛ける。引く。倒すのではなく、突進の角度をずらす。ずれたところにレンカの矢が入る。セレスの矢が膜持ちを遠距離から潰す。アカリが焼く。ミカゲが止める。黒堂が全体を押さえる。七環の戦闘は、澪ひとりが壊すものではなく、隊列で削るものになった。
それでも、澪の一手は目立った。
雨鹿二体が同時に前衛を抜けようとした瞬間、澪は短距離《転移》をわざわざ使わず、鎖を二重に投げた。一本は前足、一本は角の根元。メイが雨の下を滑る。鎖が張る。澪の細い身体が引かれかけ、《空葬装束》の腰部が硬化する。
支える。角度を変える。二体の突進がぶつかり合う。黒堂の盾が上から押さえ、アカリが片方の首を砕いた。
「今の、普通に無茶です」
「でも、転移してない」
高Lv観測員が言い、澪が返す。突っ込んで処理をした方が楽な澪は反論する。
「そういう問題ではありません」
「朱音先輩に怒られない」
『怒るよ』
通信越しの朱音の声が入った。別働隊の通信が一時的につながっていたらしい。背後で別の魔物の声がしている。朱音たちも戦闘中なのだろう。
「なんで」
『今のは怒る』
「難しい」
『帰ったら話す』
「うん」
澪は納得が行かないが、朱音の言うことたから、受け止めた。
コメント欄は、戦闘開始から荒れ続けていた。
『七環でこれ?』
『雨鹿の突進重すぎ』
『膜持ちやばい』
『黒鉄隊員の腕、えぐい』
『これ二次進化済みでも普通に負傷するんだな』
『澪ちゃん、力やばぁ』
『メイの動きおかしくない?』
『空葬装束が支えてた?はぁ?服装えちちちち』
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『朱音さん別働隊から怒ってて草』
『守ったけど怒る、分かる』
『中層別働隊も戦闘中っぽいな』
『企業所属だからちゃんと稼ぎに行ってるんだろ』
『【公式】黒鉄旅団:第二層七環の雨液変異個体は極めて危険です。盾職以外の接触は推奨されません』
『推奨されませんどころじゃなくて草』
七環を進むにつれ、魔物の種類は増えた。
黒い枝の間を跳ぶ雨膜猿。腹の膜に雨を溜め、上から落としてくる。レンカが暗い枝の隙間を撃ち抜き、セレスが五キロ先の群れを先に散らす。銀樹液の川から這い出る樹液蟹。殻は硬く、脚の先から粘る液を飛ばし、足場を奪う。アカリが一点加熱で関節を焼き、ミカゲが盾で押し潰す。
黒い根の下から現れる根縫い蛇。身体の表面に細い根をまとい、触れた防具へ根を刺し込もうとする。黒瀬が短剣で核を抜き、黒鉄の斥候が拘束杭を打ち込んだ。
負傷者は増えた。
黒鉄の斥候が足首を根に縫われ、装甲ごと肉を持っていかれた。
アークラインの素材班の一人が、樹液蟹の粘液で右脚の防護膜を剥がされ、雨にさらされて皮膚を焼かれた。
観測ドローンは四機失われた。インベントリ持ちの一人は肩を貫かれたが、無事だったため後方へ下がり、別の保管者へ封鎖容器を移した。素材は分割管理されていたから、失われない。だが、人は痛む。血も流れる。トップ探索者たちが揃っていても、第二層七環は優しくなかった。
澪は、それを見ていた。
見ているだけではなかった。
抜けた敵を止める。倒れた隊員の近くに鎖を伸ばし、雨域から引き出す。崩れた足場を短距離《転移》で渡り、封鎖容器を拾う。メイはよく動いた。鎌刃はまだ深く血を吸っていないが、鎖は何度も味方を助けた。
澪の戦闘は、誰よりも速く、誰よりも静かだった。突出している。だが、今回は全部を壊すためではなく、穴を埋めるために使われている。
七環中腹で、最初のボス級に遭遇した。
《雨縫いの黒母鹿》。
通常の雨鹿より二回り大きく、腹の下に青白い雨袋をいくつも吊っていた。頭部の角は樹冠のように広がり、その枝先から細い雨糸が垂れている。周囲には通常個体の雨鹿が五体。
さらに、足元の根が母鹿の動きに合わせて脈打っていた。逃げるだけなら可能だ。だが、進路上にいる。迂回すれば八環到着は遅れる。黒堂は一秒だけ考え、戦闘を選んだ。
「ここで落とす。黒鉄、盾を三枚。アークライン、火力を絞れ。セレス、周辺の追加を潰せ。レンカ、雨袋を狙うな。破裂する」
「了解」
戦闘は激しかった。
黒母鹿が鳴くと、雨糸が降る。糸は細く、白く、見えにくい。盾に触れると表面へ貼りつき、魔力を吸う。防具に触れると縫うように食い込む。ミカゲが盾を前へ出し、黒堂が横から受ける。アカリが腹の下へ潜ろうとするが、雨袋が揺れて近づけない。セレスは遠方から近づく小型を撃ち抜き続け、レンカは母鹿の角の枝をひとつずつ折る。
ユズリが支援術式を広げた。
「恐怖反応上昇。前衛、呼吸合わせます。三、二、一」
「助かる」
黒鉄隊員の足が揃う。盾の隙間が減る。雨糸が盾の表面で絡まり、白く泡立つ。だが、持つ。二次進化済みの主力たちが、本気で受けている。
澪は右側へ回った。
メイの鎖を低く投げる。黒母鹿の後脚へ絡める。引く。重い。第一層九環の重骨片を取り込んだメイが軋む。澪の足元の《空葬装束》が硬くなり、黒い地面へ体重を戻す。黒母鹿の脚が半歩ずれる。アカリがその隙間へ拳を入れる。腹の下ではない。膝の内側。赤熱した一撃が外殻を割った。
黒母鹿が暴れた。
雨袋が揺れる。ひとつが裂けかける。破裂すれば前衛が浴びる。澪は反射で動いた。短距離《転移》。雨袋の真下ではなく、横の根の上。鎌刃を差し込み、裂けかけた袋の根元を押さえる。切らない。破らない。押さえて、外へ逸らす。
澪は雨袋を逸らした。青白い液体が隊列とは逆へ流れる。だが、その瞬間、黒母鹿の角から落ちた一本の雨糸が、澪の肩へ触れた。
白い糸が、外套をすり抜けた。
《空葬装束》が硬化する。遅い。糸は硬化の隙間を探すように滑り、首元の下、鎖骨の近くへ食い込んだ。皮膚を裂くというより、内側へ入り込む。澪の身体が跳ねた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
糸が体内で動く。細い根のように、肩から胸の奥へ伸びる。血を吸うのではない。魔力を吸う。神経を撫で、筋肉の奥を探り、心臓の方へ寄ろうとする。澪は膝をつきかけた。メイの鎖が地面に落ち、青白い雨粒が鎖の上で弾ける。
「天瀬!」
黒堂が叫ぶ。
アカリが黒母鹿を殴り飛ばし、ミカゲが盾で前へ出る。ユズリが澪の恐怖反応を拾おうとして、顔色を変えた。
「澪さん、心拍が乱れてます。魔力が吸われてる。糸が内側に入ってる!」
「抜くな!」
ユイカの声が後方通信から飛んだ。
「無理に抜くと裂けます。枝分かれします!」
澪は片手で鎖骨の下を押さえた。指の下で、何かが動いている。気持ち悪い。冷たい。痛いというより、身体の中を知らないものに歩かれている感覚。再生が働く。だが、糸は再生する肉の隙間へ潜ろうとする。《悪食》が反応する。食べろ、と内側で疼く。澪は歯を食いしばった。
澪はメイを握り直した。
糸が胸の奥へ伸びる。心臓へ向かう。澪はそれを待った。内側を歩く異物の位置を、魔力感知ではなく痛みで掴む。冷たい。細い。分かる。
ーーーそこ。澪は《悪食》を起こした。口で食べるのではない。体内へ入り込んだものを、内側から噛む。魔力が反転する。糸が震えた。
黒母鹿が澪へ向かって突っ込む。
ミカゲが盾で止める。盾が大きく鳴る。黒堂が横から押さえる。アカリが腹へ拳を入れる。レンカが角を折る。セレスの矢が遠方から戻ってきた小型を二体まとめて射抜く。隊列全体が、澪の数秒を稼いだ。
澪は胸の中の糸を噛み切った。
実際に音がしたわけではない。だが、澪にはそう感じた。ぷつん、と。細いものが切れる感覚。切れた糸が暴れ、肩の下で皮膚が盛り上がる。澪はそこへ指を立てた。痛み。血。白い糸の先端を掴み、ゆっくり引き出す。ユイカが悲鳴に近い声を上げた。
「ゆっくり! 枝を残さないでください!」
「うん」
引く。白い糸が血に濡れて出てくる。長い。思ったより長い。先端が小さく震え、澪の指へ絡もうとする。メイの鎌刃が勝手に近づいた。澪は糸を刃に押しつける。鎌が低く鳴る。糸が青白く燃えるように萎れた。
澪は息を吐いた。
「取れた」
黒母鹿はその直後に倒れた。アカリの拳が脚を砕き、ミカゲの杭槍が胸を貫き、黒堂の盾が頭を押さえ、レンカが残った角を撃ち抜いた。
最後にセレスの矢が、雨袋の根元をひとつずつ縫い止めるように射抜き、破裂を防いだまま魔物の核を止めた。巨体が黒い地面へ沈む。青白い雨がその体表を濡らす。森は変わらない。魔物の血だけが、銀色に流れた。
戦闘後、澪は座らされた。
ユズリが隣で心拍を整え、ユイカが遠隔で傷口の反応を調べる。糸は残っていない。少なくとも、数値上は。だが、澪の肩から胸にかけて、冷たい違和感が残っている。再生で穴は塞がりつつある。けれど、内側を歩かれた感覚は消えない。
「侵入型ですね」
後方の解析員が低く言った。
「魔力回路へ入り、心臓方向へ向かう。対象の魔力を吸いながら枝分かれする。普通なら、数十秒で戦闘不能です」
「普通じゃなかった」
「天瀬さんだから、自分の体内で噛み切れたんです」
「気持ち悪かった」
「でしょうね」
黒堂は黒母鹿の死骸を見下ろしていた。
「七環ボス級でこれか」
「八環はどうします」
黒瀬が問う。
負傷者はすでに五人。うち二人は戦闘復帰不能。ドローンは半数近く失われた。素材は取れた。雨縫いの黒母鹿の核、雨糸、雨袋外膜。インベントリ持ちが分割して収納した。だが、これ以上進むなら危険は増える。
黒堂は黙っていた。
澪は立ち上がった。少しふらつく。《空葬装束》が腰を支える。
「八環、見る」
黒瀬が澪を見る。
「どういう意味だ」
「九環へ行くなら、八環を知らないと帰れない」
「正論だな」
「うん」
「腹立つ正論だ」
黒堂は短く息を吐いた。
「八環入口まで進む。内部侵入はしない。入口観測、雨量測定、地形確認。十分で撤退する。負傷者はここで後送。素材班二番も下げる」
「了解」
隊列が再編される。
負傷者が下がる。インベントリ持ちの保管者が交代する。ドローンの残数が確認される。ユズリは澪を見て、心配そうに耳を伏せた。
「澪さん、本当に大丈夫ですか」
「大丈夫」
「その返事、信用されないって聞きました」
「誰に」
「朱音さんに」
「朱音先輩……」
澪は少しだけ困った顔をした。
コメント欄は、戦闘後も騒がしいままだった。
『今の寄生されてなかった!?』
『澪ちゃんの中に入ったの怖すぎ』
『普通なら死んでた?』
『ユイカさんの声ガチだった』
『澪たんの中に入りたい』
このコメントは削除されました。
『鎌が糸食った?』
『空葬装束も支えてたな』
『悲報、黒母鹿ボス級、七環で出ていい敵じゃない』
『負傷者五人出てる』
『このメンツで負傷者出るのかよ』
『これが第二層七環』
『八環行くの!?』
『アンチ俺、さすがに澪が心配』
『入口だけで済むか?』
『大人しく撤退してクレメンス』
『中層別働隊も無事でいてくれ』
『【公式】アークライン配信管理部:第二層七環以降の侵入型攻撃は極めて危険です。映像を参考にした模倣探索は絶対に行わないでください』
『模倣する奴いたら正気じゃない』
隊列は再び進み始めた。
黒い森はまだ続いている。雨は止まない。むしろ、奥へ進むほど粒が細かく、密になっていく。葉の色は青白さを増し、幹の銀筋は心臓の鼓動のように明滅している。地面の振動も強くなった。一歩ごとに、黒い根が足裏の奥でゆっくり動いているのが分かる。
澪は胸元を押さえた。
そこにはもう穴はない。再生で塞がっている。だが、冷たさは残っていた。糸が心臓へ向かっていた感覚。知らないものに内側を歩かれた嫌悪。痛み。恐怖。澪はそれを忘れなかった。
忘れないまま、雨の奥を見た。
七環のさらに奥。
八環の境界。
黒い根が、空へ向かって伸びている。
本日は21時に続きを投稿します。




