第三話 白い服
天瀬澪の初めての外出訓練は、ダンジョンではなく買い物だった。
それを聞いた時、澪は少しだけ不満そうな顔をした。外出できるなら、ダンジョンへ行けるのではないか。そう考えていることは、朱音にも医療班にもアークラインにも分かっていた。だから医療班代表は、澪の前に検査結果を並べ、淡々と言った。
「外出訓練と探索は別です」
「外」
「別です」
「歩く」
「……歩くだけなら」
「なら、ダンジョンも歩く」
「違います」
「似てる」
「似ていません」
「少し」
「似ていません」
澪は朱音を見た。
「朱音先輩」
「似てない」
「うん」
澪は返事だけなら素直だ。けれど、目を離すと空骨鎖鎌の封鎖ケースを見ているし、第二層の資料を眺めているし、《空葬装束》の保管室へ足を向けようとする。退院許可が出ていない十五歳前後の少女の行動としては、かなり危うい。世界では不死身の澪などと呼ばれているが、医療班の認識ではまだ「帰還後回復管理中の要注意患者」だった。
外出先は、アークラインが管理する提携商業施設の上層フロアに決まった。一般客は入れない予約区画。高級ブランド店、生活用品店、調理器具専門店、休憩用のカフェ、簡易医療室が同じフロアにまとまっている。澪の外出訓練、生活用品購入、服選び、フライパン購入、軽い歩行確認。表向きはそれだけだった。
実際には、警備、報道対策、接触制限、危険物持ち込み検査、搬入口封鎖、非常時の帰還導線まで組まれている。外出訓練という名の小規模作戦だった。
同行者は朱音、佐伯、遥、アカリ。少し離れてアークライン警備。ミナトは配信管理室から、外部SNSとコメント欄の監視をしている。澪の買い物を全配信する予定はなかったが、短い報告映像と写真は出す。収益設定は当然オフ。広告もない。だが、世界六位のチャンネルが「フライパンを買う」とだけ告知したせいで、すでに配信待機欄はおかしな盛り上がり方をしていた。
『不死身の澪、フライパンを買う』
『世界六位の無収益配信者が卵焼きに向かう』
『第九環帰還者の初外出が調理器具店なの草』
『かわいい服も買うらしいぞ』
『澪の服になりたい』
このコメントは削除されました。
『フライパンになって雑に扱われたい』
このコメントは削除されました。
『ダンジョン行くなよ』
『買い物だけしろ』
『フライパンが深層素材になる可能性』
『や め ろw』
『【公式】アークライン配信管理部:本日は外出訓練と生活用品購入の記録です。天瀬澪さんへの接触、店舗特定、移動経路特定を誘導する投稿は制限対象です』
『ミナトさんの本気警告』
『買い物にも警告文が必要な女』
『不死身の澪、社会生活リハビリ編』
澪は車の中でそのコメントを少しだけ見た。
「社会生活」
「必要だよ」
「ダンジョンより?」
「別方向で必要」
「難しい」
「今日は服とフライパン。あと、ちゃんと歩いて疲れたら休む」
「うん」
「勝手にどこか行かない」
「うん」
「危険素材を買わない」
「……うん」
「今、間があった」
「綺麗なの、あるかも」
「今日は買わない」
「見るだけ」
「見るだけなら、私に言ってから」
「相談」
「そう。相談」
コメント欄は朱音ママで染まった。朱音は澪の膝に置かれた小さなバッグの位置を直した。バッグには財布と端末、ハンカチ、医療班から渡された応急薬、それから小さな菓子が入っている。普通の外出用の荷物だった。空鐘袋はインベントリ内にあるが、今日は出さない約束になっている。空骨鎖鎌のメイは本部の封鎖ケース。澪は少し寂しそうにしていたが、フライパンを買うなら鎌は不要だと説得された。
商業施設の上層フロアは、澪が想像していたより静かだった。
床は淡い石材で、足音が柔らかく吸われる。天井は高く、光は白すぎず、窓の外には街並みが広がっている。平日の昼間だというのに、人影は少ない。店員も警備も、遠くから視線を向けるだけで近づきすぎない。
香水と新しい布の匂い、磨かれた木材の匂い、奥のカフェから漂う焼き菓子の甘い匂い。ダンジョンの空気とは違う。獣の匂いも、腐った水の匂いも、魔物の気配もない。澪はそれを少しだけ不思議そうに吸った。
「静か」
「貸し切りみたいなものだからね」
「高い?」
「たぶん高い」
「買う?」
「今日は買い物しに来たんだから、買っていいよ」
「全部?」
「全部は駄目」
「なんで?」
「店が困る」
「お金、ある」
「そういう問題じゃない」
「難しい」
アカリが後ろで笑った。
「店を買う流れにならなくてよかったね」
「店、買える?」
「澪、買わない」
「聞いただけ」
「その顔は聞いただけじゃない」
佐伯は端末を見ながら言った。
「商業施設の買収は本日の予定にありません」
「予定に入れたら?」
「入りません」
「残念」
「残念ではありません」
最初に入ったのは、服の店だった。
白を基調にした明るい店で、壁には上品な普段着が並んでいる。柔らかいニット、軽いワンピース、フード付きの上着、黒いスカート、白いブラウス、動きやすいパンツ。朱音は真剣な顔で選び始めた。澪は最初、棚に並んだ服をぼんやり眺めていたが、すぐに白いワンピースの袖をつまんだ。
「これ」
「かわいいけど、今の季節だと上着いるね」
「これ」
「試着してみる?」
「うん」
試着室の前に、朱音と店員が立つ。遥は少し離れた壁際にいる。アカリは通路を見ていた。佐伯は店の奥で、外部からの接触がないか確認している。普通の買い物なのに、普通ではない。それでも、試着室の中で白い服に着替える澪だけは、少し普通に見えた。
澪が出てくる。
白いワンピースに、淡い灰色の薄いカーディガン。短い髪の白い筋が、服の色と馴染む。第九環の空気をまとっていた少女が、急に街にいる少女の顔になった。顔色はまだ少し悪い。目も眠そうだ。けれど、柔らかい布に包まれているだけで、痛々しさが薄れる。
朱音は一瞬、言葉に詰まった。
「……似合ってる」
「本当?」
「うん。すごく」
「変じゃない?」
「変じゃない」
「かわいい?」
「かわいい!」
澪は少しだけ満足そうにした。
「じゃあ、買う」
「うん」
「同じの、たくさん?」
「同じのばかりじゃなくて、他も見よう」
「白」
「白も。黒も。動きやすいのも」
「朱音先輩が選ぶ」
「はいはい」
そこから、服は増えた。
白いワンピース。黒いスカート。深藍の上着。柔らかい白ニット。歩きやすい靴。外出用の軽いコート。小さな髑髏のチャームがついたバッグ。澪は髑髏チャームを見つけた時だけ、目を少し開いた。
「メイ」
「鎌じゃないよ」
「でも、髑髏」
「買う?」
「買う」
店員は慣れた顔で会計処理を進めたが、金額を見た佐伯は少しだけ確認を入れた。
「天瀬さん、これは生活用品購入枠で処理できます」
「うん」
「同じ店舗の在庫を全部買うのはやめましょう」
「してない」
「しそうな顔をしていました」
「してない」
「では、していないことにします」
服選びの短い映像が《九環》チャンネルに上がると、コメント欄は当然のように荒れた。
『白ワンピ澪かわいい』
『第九環帰還者が普通の服着てるだけで泣ける』
『短髪白混じりに白服合いすぎ』
『朱音さんのかわいいが自然すぎる』
『今死んだら澪の服に転生できないかな?』
このコメントは削除されました。
『メイっぽい髑髏バッグで草』
『髑髏チャーム買うの澪らしい』
『普通の買い物してるだけなのに尊い』
『不死身の澪、ちゃんと服を買う』
『ダンジョン装備じゃない服、大事』
『【公式】アークライン配信管理部:店舗名、所在地、移動経路の特定を誘導する投稿は制限対象です』
『ミナトさんの現実警告たすかる』
『金持ち自慢とかキモイだろ!』
『アンチもようやるわ』
次は、調理器具専門店だった。
澪の目が服の時より真剣になったので、朱音は少し複雑な顔をした。店内には、鍋、包丁、まな板、計量器、オーブン器具、そしてフライパンが並んでいる。銅製、鉄製、軽量合金、魔力加熱対応、焦げ付き防止テフロン加工、プロ用。澪はフライパンの前で立ち止まった。
「これ」
「まだ持ってもない」
「強そう」
「戦う道具じゃないよ」
「焼ける」
「そうだけど……」朱音は眉を寄せて困った顔になる。
店員が説明を始める。熱伝導、重さ、手入れのしやすさ、卵焼きの作りやすさ。澪は珍しく真面目に聞いていた。ダンジョン説明の時より集中している、とアカリが笑いそうになり、朱音に見られて口を閉じた。
最終的に、澪は卵焼き用の角型フライパンを選んだ。朱音が扱いやすい重さで、手入れもしやすい。加えて、通常のフライパン、鍋、包丁、まな板、調味料ケース、保温容器、弁当箱まで増えた。弁当箱は澪が勝手に入れた。
「弁当?」
「ダンジョン」
「まだ駄目」
「いつか」
「普通のお弁当は、深層には向かないよ」
「第一層なら」
「まず退院」
「うん」
佐伯は静かに端末へ入力した。
「調理器具一式。生活用品購入枠で処理します」
「高い?」
「問題ありません」
「いいフライパン?」
「かなり良いものです」
「朱音先輩」
「なに」
「卵焼き」
「退院したらね」
「うん」
澪は今日一番満足そうだった。
その時、遥がすっと視線を上げた。店の外、通路の先。警備員が一人がわずかに姿勢を変える。アカリの赤い紋様が薄く光った。佐伯は端末を閉じ、何も知らないような顔で澪と朱音の近くへ移動する。
接触者がいた。
報道関係者ではない。一般客でもない。許可されたスタッフの制服を着ているが、靴が違う。歩幅も、視線も、店員のものではない。手には小さな紙袋。危険物反応はない。けれど、遥の影が床を流れた瞬間、その紙袋の内側に極小端末が貼られているのが分かった。盗聴か、位置情報取得か。目的は分からない。分からなくても十分だった。
男が店の入口へ近づく前に、遥が影から出た。
「関係者以外立ち入り禁止です」
「納品で――」
「納品担当は別の方です」
「いや、急に頼まれて」
「誰に」
「それは」
「答えられないなら、こちらへ」
男は逃げようとした。
アカリが一歩で通路を塞いだ。
「買い物中なんだよね」
「ど、退いてください」
「嫌」
男の肩が跳ねた。逃げ道はない。警備員が静かに近づき、紙袋を回収する。遥は男の手首を押さえ、影で足元を止めた。大きな騒ぎにはならない。店内の澪には、通路の向こうで何かあったことくらいしか分からなかった。
「敵?」
「小さいの」
アカリが戻ってきて、軽く言った。
「小さい敵?」
「虫みたいなやつさ」
「焼く?」
「もう捕まったから焼かない」
「残念」
「残念じゃないよ」とアカリは呆れ顔で呟く
朱音が澪の手を取る。
「大丈夫?買い物続ける?」
「うん」
「怖くない?」
「朱音先輩いる」
「そう」
「アカリさんもいる」
「うん」
「遥先輩も」
「うん」
「佐伯さんも怖い」
「それは味方として?」
「うん」
「ならよかった」
佐伯は遠くで、回収された極小端末の報告を受けていた。北辰の残党ではない。別の報道系調査会社。依頼元はまだ不明。澪の位置情報を取ろうとしただけなら軽く済むかもしれない。だが、アークラインは今、その手の接触に寛容ではなかった。外出訓練の邪魔をした者が、翌日どんな社会的制裁を受けるのか、男はまだ知らない。
買い物の最後に、澪はカフェで休憩した。
白い皿に、小さなケーキと紅茶。澪は甘いものを少しずつ食べ、途中で朱音に半分渡した。朱音は受け取り、同じフォークで食べるべきか少し迷って、別のフォークを使った。澪は不思議そうにそれを見ていた。
「疲れた?」
「少し」
「帰る?」
「うん」
「楽しかった?」
「楽しかった」
「ダンジョンじゃなくても?」
「服とフライパン」
「そこなんだ」
「朱音先輩もいた」
「うん」
「だから、楽しかった」
朱音は何も言えなくなった。
澪は紅茶を飲み、窓の外を見た。街が見える。車が走り、人が歩き、ビルの窓が光っている。ダンジョンとは違う景色。美しいかと言われると、澪にはまだよく分からない。けれど、悪くはなかった。帰る場所の景色。朱音がいて、フライパンがあり、白い服があり、メイの髑髏チャームが入った袋がある。そういう景色だった。
帰りの車の中で、佐伯が短い報告をした。
「本日の購入品は、服、靴、バッグ、調理器具、保温容器、弁当箱、その他生活用品。高深度帰還支援基金の設立準備は協会側が受諾。第二層用観測ドローンの試作費も承認されました」
「フライパン」
「購入済みです」
「服」
「購入済みです」
「基金」
「設立準備中です」
「ドローン」
「開発開始です」
「帰還札」
「研究支援に含まれます」
「セレスさん」
「超遠距離射撃場の設計に入りました」
「アカリさん」
「耐環境訓練室の設計に入りました」
「朱音先輩」
「防壁・光槍訓練場の整備に入ります」
「ミナトさん」
「削除AIの仕様策定中です」
「ユイカさん」
「仮眠室が承認されました」
「よかった」
澪は満足そうに目を閉じた。
朱音が毛布をかける。買ったばかりの服は後部座席の荷物室に丁寧に収められ、フライパンは専用の保護箱に入っていた。普通の買い物にしては大げさすぎる扱いだったが、澪は気にしていない。
アークライン本部に戻る頃には、外出訓練の短い映像がまた世界中で広がっていた。
不死身の澪が白い服を買った。
不死身の澪が卵焼き用フライパンを選んだ。
不死身の澪が高深度帰還支援基金を作る。
不死身の澪が第二層用ドローン開発に出資する。
不死身の澪がコメント削除AIに金を出す。
不死身の澪が、普通にケーキを半分こした。
世間はまたざわついた。
けれど澪は、医療区画のベッドに戻るとすぐに眠たそうな顔になった。外出は楽しかったが、身体はまだ完全ではない。《空葬装束》なしで歩き回った疲れもある。朱音が買った服の袋を棚に置き、フライパンの保護箱を確認し、ベッド横の椅子に座る。
「澪」
「うん?」
「今日はダンジョンじゃなかったけど、ちゃんと外に出られたね」
「うん」
「えらいえらい」
「うん」
「フライパン、楽しみ?」
「うん」
澪は目を閉じたまま、少しだけ笑った。
「朱音先輩の卵焼き」
「作るね」
「白い服」
「着ようね」
「黒い森」
「それはもう少し先だよ」
「うん」
朱音が明かりを落とす。
病室の外では、警備が交代している。ミナトは削除AIの仕様書を見ている。ユイカは仮眠室の場所で悩んでいる。セレスの射撃場とアカリの訓練室は、すでに設計が始まっている。協会は高深度帰還支援基金の発表文を作っている。黒鉄旅団は、第二層七環合同探索の装備点検に入った。
澪は眠る。
白い服と、卵焼き用のフライパンと、まだ遠い黒い森の雨を思い浮かべながら。
美しい場所へ行く準備は、戦闘だけではない。
帰るための準備も、少しずつ増えていた。
それから2ヶ月が経過した。
この服は掛け替えの無い相棒となります。




