第一話 お金の使い道
第3章開幕です。
天瀬澪が、自分の資産額を正確に理解していないことは、アークライン法務部と経理部の間ではすでに共有事項になっていた。
理解していない、というより、数字が生活の感覚に結びついていない。
第九環由来素材の一部提供、
白鯨膜片の研究貸与、
鐘骸鳥関連素材の封鎖加工使用料、
逆墓王素材の限定鑑定契約、
そこに協会を通した安全研究費、
国内外大手クランからの共同研究負担金、
装備企業からの素材試験協力金が乗る。
実際にすぐ使える現金は全体の一部にすぎないが、それでも普通の人間が一生かけても使い切れない額だった。
佐伯は何度も説明した。信託口座。税務処理。危険素材の評価額。未成年者保護規定。長期保管費。寄付控除。研究出資。澪はそのたびに「うん」と返事をした。返事だけは良かった。
そして今日、アークライン本部の第六相談室には、澪の「お金の使い道」を決めるための人間が澪含め集められていた。
相談室といっても、普通の面談室ではない。壁には大きな表示パネルがあり、机の上には端末が並び、佐伯の横には経理部長と税務担当、少し離れて神楽坂、黒瀬、ミナト、榊原、ユイカ、水瀬が座っている。
朱音は澪の隣。研修生としてではなく、澪が途中で飽きたり眠くなったり変な方向へ走ったりした時の制御役として呼ばれていた。
澪は白い上着に黒いスカート、肩に薄いカーディガンを羽織っていた。退院前の外出訓練を兼ねているため、《空葬装束》は着ていない。髪は短く、白い筋が前髪の内側に少し見える。眠そうな顔で椅子に座り、机の上に置かれた資料ではなく、朱音が持ってきた小さな紙袋を見ている。中には、会議が終わった後に食べる予定の焼き菓子が入っていた。
「天瀬さん」
佐伯が言った。
「はい」
「今日は、お金の使い道を決めます」
「うん」
「まず、何か欲しいものはありますか」
「フライパン」
「……はい」
佐伯は表情を変えなかった。横の経理部長が一瞬だけペンを止めた。
「卵焼き用?」
「うん。朱音先輩の」
「私のじゃなくて、澪が食べる用でしょ」
「朱音先輩が作る」
「それはそうだけど」
「だから、朱音先輩の」
朱音は困ったように笑った。佐伯は端末へ「調理器具」と入力する。金額欄は空白のままだった。
「他には」
「服」
「探索用ではなく?」
「かわいい服」
「どのくらい」
「たくさん」
「具体的には」
「白いの。黒いの。朱音先輩が選ぶ」
「また私?」
「うん」
「澪が着るんだよ」
「朱音先輩が選ぶと変じゃない」
「だから私は何なの」
「ご飯と服と天使」
「増えてる……」
佐伯は淡々と「普段着一式」と入力した。だが、神楽坂が横から静かに言う。
「一式では足りないと思います」
「では、外出訓練兼生活用品購入枠を作ります」
「警備つきで」
「はい」
「報道対策も」
「もちろんです」
澪は少しだけ顔を上げた。
「服、買いに行ける?」
「退院後、医療許可が出てからです」
「……長い」
澪はムッとかした顔でつぶやく。
「第九環に十一ヶ月いた人が言う言葉ではありません」
「うん」
佐伯は次の項目へ進めようとした。そこで澪が言う。
「帰還札」
「……購入ですか?」
「うん。たくさん」
「個人で大量購入すると、市場在庫に影響が出ます」
「じゃあ、作る方」
「研究開発への出資、という意味ですか」
「うん」
「規模は」
「帰れるくらい」
「……かなり大きくなります」
「いい」
「どの程度まで許容しますか」
「みんなが買えるくらい」
「それは市場全体の話になります」
「うん」
会議室が静かになった。
帰還札は探索者の命綱だ。低環域用は比較的安いが、それでも新人探索者には重い。高環域用になれば値段は跳ね上がり、深層対応品は大手クランでも保有数を管理する。澪は第九環で帰還札が使えなくなる恐怖を知っている。帰れない。座標が掴めない。魔力が足りない。あの感覚を、数字ではなく身体で覚えていた。
「転移、少し落ち着いて使えるようになった」
「はい」
「でも、みんな使えない」
「そうですね」
「じゃあ、帰還札いる」
「はい」
「高い」
「はい」
「なら、安くする」
「……簡単ではありません」
「なら、作る人にお金」
「研究基金ですね」
佐伯は数秒考え、資料の別ページを開いた。
「協会と共同で、高深度帰還支援基金を設立する案があります。帰還札研究、帰還不能者捜索技術、座標補助装置、低所得探索者への安全装備補助をまとめたものです」
「それ」
「かなり目立ちます」
「いい」
「名前が勝手につく可能性があります」
「名前?」
「不死身の澪基金、など」
「……嫌」
「では正式名称を先に決めましょう」
「朱音先輩」
澪はチラっと朱音を見る。
「私に振らないで」
「帰るやつ」
「……帰還支援基金でいいんじゃない?」
「うん。それ」
「正式名称は《高深度帰還支援基金》とします」
佐伯が入力した瞬間、経理部長が額を押さえた。
「初期出資額はどうしますか」
「足りるくらい」
「天瀬さん、その言い方だと本当に大きな額になります」
「足りないと困る」
「……では、段階出資にしましょう。初期で大きく、成果に応じて追加」
「うん」
神楽坂が頷いた。
「協会側は断れませんね」
「断る理由がありません。むしろ受けないと世論が厳しくなります」
「発表の仕方に注意してください」
「はい。天瀬さんが買い占めるのではなく、帰還技術の底上げへ出資する形にします」
「買い占め」
「してはいけません」
「してない」
「しかけました」
「してない」
朱音が小さく笑った。
次はドローンだった。
第二層《呼吸する黒樹》では、普通の観測機材が長く持たない。青白い雨が表面を削り、根が動き、銀色の樹液が回路を狂わせる。アークラインの技術部はすでに第二層用の観測ドローンを試作していたが、数が足りない。深層用となると、一機ごとの価格も高い。澪はその説明を聞いて、即答した。
「買う」
「何機ですか」
「たくさん」
「またですね」
「壊れる」
「壊れます」
「じゃあ、たくさん」
「開発費も必要です」
「払う」
「耐雨性、樹液耐性、遠隔帰還機能、自己破棄機能、未承認者が拾った場合のセキュリティ機能。かなり高くなります」
「いい」
「本当に?」
「ドローン、死んでも戻らない」
「機械です」
「でも、情報くれる」
「はい」
「なら、大事」
ユイカが少しだけ感心した顔をした。
「天瀬さん、装備や機材への扱いは意外と丁寧ですよね」
「道具、大事」
「人も大事にしてください」
「してる」
少しドヤ顔で澪は言う。
「本当ですか」
「朱音先輩、大事」
「……限定的ですね」
「メイも大事」
「鎌が人枠に入っています」
「メイだから」
この日、空骨鎖鎌の呼び名は正式に「メイ」となった。
正式名称はまだ工房管理上の長い名前が残っている。《空葬鎖鎌》からさらに変化しつつあるため、榊原もユイカも最終名を決められない。だが、澪は長い名を呼ばなかった。封鎖ケースの向こうで鎌が低く鳴るたびに、「メイ」と呼んだ。それで鎌の反応が少し穏やかになる。穏やかになっているように見える。工房側は認めたくないが、記録上はそうだった。
「メイの部屋も」
「専用保管室なら、すでにあります」
「かわいく」
「かわいく?」
「メイの部屋」
「封鎖強度を落とす装飾はできません」
「髑髏」
「髑髏ならできます」
「じゃあ、髑髏」
「……なぜできるんですか?」
朱音が呟いた。
榊原は真面目な顔で答える。
「機能部に組み込めば可能です」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題です」
金の使い道は、次々と増えていった。
朱音用の防壁訓練場。
光槍訓練用の高耐久標的。
アカリ用の耐雨・耐熱複合訓練室。
セレス用の超遠距離射撃場と魔力矢研究。
遥の影移動支援装備。
水瀬の高深度解析端末。
ミナトの危険コメント検出AIと多言語削除支援。
ユイカの工房仮眠室。
榊原の胃薬費ではなく、装備開発部の休憩室。
高深度帰還者用の医療設備増設。
第一層九環後追い防止システム。
違法素材研究告発者の保護基金。
探索者遺族支援基金。
途中で、佐伯の資料が一度足りなくなった。
「天瀬さん」
「うん」
「お金、かなり使います」
「まだある?」
「あります」
「じゃあ、いい」
「桁が大きいです」
「桁」
「普通なら人生が変わる額です」
「変わった」
「そうですね。すでに変わっていましたね」
佐伯はそこで少しだけ笑った。
会議の一部は配信されていた。もちろん金額の詳細は伏せられている。素材評価額、信託、税務、個人資産に関わる部分は見せない。
だが、「何に使うか」はある程度公開した。澪が自分の利益のためだけに金を抱えているわけではないと示す意味もあったし、北辰のような連中への牽制にもなる。
澪の金は、澪本人だけではなく、帰還技術、後追い防止、医療、警備、告発者保護へ流れる。危険素材を奪うより、合法的に支援を受ける方が得だと、世界に見せる必要があった。
コメント欄は、いつも通りすぐに騒がしくなった。
『フライパンから始まったの草』
『世界六位の無収益配信者、まず卵焼き用フライパンを買う』
『かわいい服たくさん、いいぞ』
『朱音さんセレクト助かる』
『帰還札買い占め未遂で草』
『未遂で済んでよかった』
『作る方に金出すの偉すぎる』
『高深度帰還支援基金、普通に歴史変わるやつ』
『不死身の澪基金って呼ばれそう』
『本人嫌がってるからやめろ』
『ドローン大量購入もやばい』
『第二層用観測ドローンはマジで必要』
『セレスさんの五キロ射撃場!?』
『五キロって何』
『五キロ先を撃つ前提なの怖い』
『アカリさん用の耐雨耐熱訓練室も強そう』
『ユイカさんの仮眠室で泣いた』
『ミナトさんの削除AI、世界平和』
『榊原さんの胃薬費は?』
『休憩室になったぞ』
『【公式】アークライン配信管理部:具体的な金額、個人資産、素材評価額に関する憶測投稿は制限対象です』
『制限されても分かる、額がおかしい』
『世間がざわつく金の使い方すぎる』
澪はコメントを見て、首を傾げた。
「ざわつく?」
「かなり」
「なんで?」
「フライパンと服の流れで、帰還支援基金やドローン開発に大金を出したから」
「必要」
「必要だけど、普通は順番が逆」
「順番」
「最初に基金、最後にフライパン」
「フライパン、大事」
「うん。大事だね」
朱音はもう否定しなかった。
黒瀬は腕を組みながら、別の資料を机に置いた。
「金の話は一旦そこまでだ。次は合同探索だ」
「第二層?」
「その前段階だ。黒鉄旅団から正式に共同探索の打診が来ている」
「黒鉄……?」
「以前、第一層九環の後追い禁止や、お前の素材を巡る騒ぎでまともな声明を出していた大手クランだ。堅実な攻略で知られている。防衛、撤退、隊列維持に強い」
「一緒に行く?」
「七環、八環の事前調査には向いている。お前を見世物にする気が薄いのも評価できる」
「薄い」
「ゼロではない」
「うん」
神楽坂が資料を開く。黒鉄旅団の概要と、合同探索候補メンバーの簡易プロフィールが映された。
一人目は、黒鬼種の黒羽ミカゲ。黒い角を二本持ち、長い黒髪を後ろで束ねた少女だった。背は高めで、表情は硬い。装備は巨大盾と黒い杭槍。前に出て派手に暴れるタイプではなく、重く立ち、押し返し、味方の退路を残す前衛。黒鉄旅団の若手副隊長候補と書かれている。レベルは123。
二人目は、闇エルフ種の鋼崎レンカ。灰銀の髪に、夜色の肌。耳は長く、瞳は暗い紫。肩には黒い弓。視界妨害と暗所狙撃、夜間索敵に強い。セレスとは別系統の射手だった。プロフィール写真の目つきは鋭く、笑っていない。レベルは119。
三人目は、愛兎種の黒乃ユズリ。小柄で、柔らかな桃色がかった髪をふわりと結び、長い兎耳の内側に小さなハート模様が見える。見た目だけなら愛らしい。だが、黒鉄旅団の防壁支援担当で、恐怖反応の安定化、跳躍誘導、味方の回避補助に秀でていると記載されていた。かわいいだけでは、黒鉄旅団の深層支援班には入れない。レベル109。
澪はユズリの写真をじっと見た。
「うさぎ」
「愛兎種だそうです」
「かわいい」
「分かる」
「朱音先輩もかわいい」
「急に巻き込まないで」と双頬を染める。
「今は黒鉄の話」
アカリが横から笑った。
「ミカゲちゃん、黒鬼種ね。私とちょっと近いね」
「知り合いですか」
「何回か合同訓練で見た。硬いよ。性格も戦い方も」
「褒めていますか」
「褒めてる。私みたいに燃やして突っ込むんじゃなくて、逃げ道を背負って前に出るタイプ」
「黒鉄らしいですね」
セレスはレンカの資料を見ていた。
「闇エルフ種の射手ですか」
「気になる?」
「はい。射程と索敵範囲を確認したいです」
「セレスさんの方が長い?」
「距離だけなら、おそらく」
「五キロ」
「条件が整えば」
「五キロ先、見える?」
「見えるのではなく、森が教えます」
「すごい」
五キロ先の敵。見えない敵。森が教える。魔力矢。雨。黒い樹。セレスは静かに言うが、やっていることはおかしい。澪の周りには、少しずつおかしい人間が増えている。澪はそれを嫌だと思わなかった。むしろ、少し楽しい。
「黒鉄、美少女」
「そこですか」
「大事」
「誰の影響ですか」
ミナトが疲れた声を出した。
「配信コメントで言われる前に言っておきますが、合同探索の人選を見た目で選んだわけではありません」
「でも、かわいい」
「否定はしません」
「正直」
「配信管理部は嘘をつきません。必要な嘘以外は」
「必要な嘘」
「病室の場所とかです」
佐伯が咳払いした。
「第二層七環、八環についても確認が必要です。今回、黒鉄旅団からの打診に含まれるのは七環合同調査まで。八環は状況次第です」
「八環、強い?」
「強いというより、難しいです」
水瀬が画面を切り替えた。第二層八環の断片映像。黒い樹の根が空中を走り、雨が斜めに降っている。地面はあるようで、時折ゆっくり上下する。銀色の樹液が川のように流れ、触れた機材の外装を曇らせていた。映像の端で、探索者の盾が白く削れていく。
「第二層八環は、現在攻略されている第四層中盤と同じか、それ以上の危険度と見られています」
「第二層なのに?」
「環の深度が違います。層番号だけでは測れません」
「五層は?」
「立ち入り禁止です。過去の全滅事件以降、協会が正式に制限しています。第五層の始めすら、現行人類の地図に載っているとは言えません」
「じゃあ、四層中盤が今の限界」
「はい。大手上位の実質的な攻略ラインです」
「二層八環、そこくらい」
「それ以上の可能性があります」
部屋の空気が少しだけ重くなった。
第二層だから安全、という言い訳はもうできない。七環から先は別物。八環は現行トップ探索者でも命を落とす領域。九環は、さらに先。澪はそこを見ていた。黒瀬はその視線に気づき、短く言った。
「まだ行かせないからな」
「うん」
「本当に分かっているのか?」
「準備」
「そうだ」
「黒鉄と行く」
「七環までだ」
「八環は?」
「状況次第だな」
「九環は?」
「まだだ」
「……うん」
「……今、間があった」
「気のせい」
朱音が澪の袖を掴んだ。
「私は行けない」
「うん」
「悔しい」
「うん」
「でも、今の私じゃ足手まといになる」
「うん」
「だから、レベリングする」
「うん」
「澪と一緒に探索できるように」
「期待してる」
「また言った」
「うん」
「本当に頑張るからね」
「うん」
朱音の声は静かだったが、揺れてはいなかった。第二層七環、八環に今の朱音は連れて行けない。レベルも、経験も、耐性も足りない。天使種としての力は強いが、深層環境の前では未熟だった。行きたいと言っても、許されない。澪が行く場所へ、隣でついていけない。その悔しさは、朱音の中に確かにあった。
だから、強くなる。
守るために。追いつくために。いつか、澪が一人で行こうとした時、せめて戻る場所くらいは自分で張れるように。
会議が終わる頃には、金の使い道と黒鉄旅団との事前協議日程が決まっていた。フライパンと服は、退院後の外出訓練として朱音が選ぶ。
帰還支援基金は、協会と共同で設立準備。第二層用ドローンは、アークライン技術部とユイカの工房が共同開発。
セレスの超遠距離射撃場、アカリの耐環境訓練室、朱音の防壁・光槍訓練場も承認。ミナトの削除AIには、なぜかコメント欄から祝福が来ていた。
そして、黒鉄旅団との合同配信は一週間後。
タイトルはまだ仮だった。
《第二層深部合同事前会議》
硬い。黒鉄らしい。アークラインらしくはない。チャンネル《九環》らしくもない。
澪はそれを見て、少し考えた。
「黒い森、行く準備」
「それをタイトルにするんですか」
「だめ?」
「悪くはありませんが、もう少し正式にしましょう」
「黒い森、綺麗そう」
「危険そう、も入れてください」
「黒い森、危険で綺麗」
「……配信タイトルとしては強いですね」
ミナトが真顔で言った。
その日の夜、ニュースはまた澪の話題で埋まった。
世界六位の無収益配信者が、卵焼き用フライパンとかわいい服を買う。
同時に、高深度帰還支援基金へ巨額出資。
第二層用観測ドローン開発へ出資。
帰還札研究へ資金提供。
黒鉄旅団との合同探索準備。
第一層九環帰還者が、次は第二層深部へ。
世間はざわついた。
当然だった。
けれど澪は、その頃には病室で朱音の焼き菓子を食べていた。
「フライパン、楽しみ」
「そこなんだ」
「うん」
「服もね」
「白いの」
「はいはい」
「黒い森」
「それはまだ」
「うん」
「相談してからね」
「相談する」
「よし」
澪の頭を軽くなでる。
澪は焼き菓子を半分食べ、残りを朱音に差し出した。
「食べる?」
「いいの?」
「うん」
「ありがとう」
朱音が受け取ると、澪は少し満足そうに目を細めた。
外ではまた世界が騒いでいる。
金が動き、基金が動き、ドローンが作られ、黒鉄旅団が準備を始める。
第二層の黒い森では、青白い雨が降っている。




