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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第四十話 呼吸する黒樹

 天瀬澪の退院許可は、まだ出ていなかった。


 医療封鎖区画から出られる時間は少しずつ伸びている。装備工房へ行くことも、会議室へ移動することも、短時間なら許可された。けれど、外泊はまだ駄目。ダンジョンなど論外。医療班の代表は、そう言って何度も澪を見た。澪はそのたびに「うん」と返事をした。返事だけは良い。朱音は隣で、その「うん」を一つも信用していなかった。


 アークライン本部、第七戦略室。


 そこは契約に使った第七会議室より広かった。壁一面が表示用の白いパネルになっていて、中央には立体地図を映す大きな卓がある。天井は高く、照明は柔らかい。会議室というより、攻略作戦のための部屋だった。今日そこに映されているのは、第一層《零れ空の庭》ではない。第二層。協会の暫定呼称で《呼吸する黒樹》。黒い巨樹がいくつも絡み合い、空を塞ぐ森。湿った黒曜石のように光る幹。青白い葉。地表だけでなく宙にも伸びる透明な根。風もないのに揺れ続ける枝。資料映像は断片的で、七環から先は急に不鮮明になる。八環は映像の半分が黒く滲み、九環は地図ではなく空白で示されていた。


 澪はその空白を見ていた。


 医療用の白い上着の上に、試験運用中の《空葬装束》を軽く羽織っている。正式な出撃装備ではない。今日のために、榊原とユイカが低出力状態で着用を許可したものだった。深藍と白。胸元には小さな髑髏の留め具。短くなった髪には白い筋が混じり、外套の白い縁と妙に合っていた。澪がほんの少し身じろぎすると、外套の裾が遅れて揺れ、それから自分で位置を戻すように静まる。榊原はそれを見るたび、胃のあたりを押さえた。


 朱音は澪の左側に座っていた。今日は見学ではない。正式な支援班の一人としての参加だった。天使種としての訓練は始まったばかりだが、帰還管理、精神安定、防壁、緊急時の配信遮断補助。役割は増えている。本人はまだ不安そうだったが、澪が隣にいる限り、席を離れるつもりはなかった。


 壁際には、遥、水瀬、ミナト、榊原、ユイカ。反対側には黒瀬、神楽坂、佐伯。さらに、火野アカリと白峰セレスも参加していた。アカリは椅子に浅く座り、片側の短い黒角を指で軽く叩いている。赤みを帯びた黒髪を高くまとめ、褐色の腕に走る赤い紋様が薄く光っていた。セレスは立ったまま、静かに立体地図を見ている。淡い銀髪、翡翠色の瞳、長く尖った耳。肩には細身の弓。矢筒はない。彼女の矢は、必要な時に魔力で編まれる。


 黒瀬が卓の上を指で叩いた。


 第一層九環の表示が出る。空葬原。鐘骸鳥。墓喰白鯨。逆墓王。三体のボスの討伐記録は澪のものだけだが、第一層九環そのものが安全になったわけではない。空葬原にはまだボスがいる。変異種もいる。三体がいなくなったことで、別の支配個体が出始めているという観測もある。普通の探索者にとっては、今でも死地だった。


「第一層九環の再調査は必要だ。だが、天瀬、お前の主目的にはならない」

「うん」

「理由は分かるか」

「適正、外れた」

「そうだ。三ボス討伐後のお前は、第一層九環の多くの敵からレベル上昇とスキル獲得を期待しにくい。素材価値はある。環境情報も必要だ。だが、お前自身の成長効率は落ちる」

「ボス、まだいる」

「いる。だが、それを狩り尽くすためにお前を第一層へ張りつけるつもりはない。第一層九環の監視と素材採取は、段階的に別班を作る」

「別班、死なない?」

「死なせないために段階を踏む。お前を基準にしない」


 澪は少しだけ考えた。


「いいと思う」

「珍しく素直だな」

「私が行くと、たぶん邪魔」

「何の邪魔だ」

「みんなの練習」

「……そこは分かるのか」

「うん」


 黒瀬は少しだけ目を細めた。


 澪が第一層九環へ行けば、素材は取れる。敵も倒せる。情報も得られる。だが、後続が育たない。澪の速度、澪の判断、澪の耐性、澪の装備。それらを前提にした攻略は、他の探索者を殺す。第九環で最も危険なのは、澪を見て「自分にもできる」と錯覚することだった。


 水瀬が端末を操作し、第二層の立体図を大きくした。


「第二層《呼吸する黒樹》。一環から三環までは、見た目だけなら樹海型階層です。黒い幹、青白い葉、銀色の樹液、湿度の高い空気。中堅クランでも低環域なら訓練に使えます。ただし、四環以降で環境反応が変わります。地面が一定周期で振動し、根が移動し、雨が降ります」

「雨」

「はい。第二層の雨は、水ではありません。少なくとも、普通の水ではない。肌や金属、魔力を含んだ装備に触れると、表面を削ります。低環域なら軽い損耗で済みますが、七環以降は防具の表層が数分で使い物にならなくなる事例があります」

「酸?」

「近いです。ただ、不思議なことに、黒樹、根、葉、地表にはほとんど影響しません」

「森は溶けない」

「はい。探索者の装備、外来物、魔力反応の合わないものだけを削る。そう見えます」

「嫌な雨」

「綺麗ですけどね」


 朱音が澪を見た。


「今、綺麗って思ったでしょ」

「思った」

「危険って説明も聞いた?」

「聞いた」

「本当に?」

「たぶん」

「澪」

「でも、綺麗そう」


 水瀬は諦めたように映像を流した。


 第二層四環の記録映像だった。黒い森に、青白い雨が降っている。雨粒は細く、光を含んでいた。枝に触れると砕け、葉の上を滑り、根の表面を濡らす。だが、葉は傷つかない。幹も溶けない。銀色の樹液が流れる溝にも変化はない。映像を撮っている探索者の盾だけが、表面を白く曇らせていた。雨粒が当たるたび、魔力塗装が薄く削れ、縁がざらついていく。美しい雨だった。音も静かで、霧のように柔らかい。けれど、その下を歩く探索者たちは全員、雨除けの術式を二重に張っていた。


「綺麗」

「ですよね」


 水瀬が小さく言った。


「危険ですけど、綺麗です。だから事故が多い。最初の印象で判断を誤ります」

「水瀬さんも、綺麗って思う?」

「思います。だから近づきません」

「強い」

「理性があるだけです」

「私もある」

「ありますか」

「少し」

「なら増やしてください」


 アカリが笑った。


「私は苦手そうだね、その雨。火が散る」

「はい」


 水瀬は頷いた。


「火野さんの火力は七環までは有効ですが、雨の強い区域では火力拡散と魔力消耗が増える可能性があります。燃やす対象を絞る必要があります」

「要するに、雑に燃やすなってことね」

「そうです」

「難しいなあ」

「火野さんならできます」

「水瀬くん、そういうこと真顔で言うのずるいね」


 セレスは映像の雨を見つめていた。


「森そのものが雨を嫌がっていません。葉の上で雨粒が割れる時、むしろ魔力が整っている。森の外から入ったものだけが削られているように見えます」

「セレスさんには、どう見える?」

「美しいですが、歓迎されている感じはしません」

「歓迎」

「森にとって、私たちは異物なのでしょう」

「異物」

「はい。少なくとも、あちら側のものではありません」


 澪は立体図を見た。


 黒い樹海。青白い雨。傷つかない幹。削られる装備。移動する根。銀色の樹液。呼吸するように揺れる森。言葉にすると、怖い。映像で見ると、綺麗だった。黒い幹の間を青い雨が落ち、葉の奥で白い光が明滅する。森全体が、ゆっくり息をしているように見える。そこに立てば、足元から地面の振動が伝わるだろう。雨の匂いもするだろう。触れれば痛いかもしれない。装備が削れるかもしれない。それでも、澪は見たいと思った。


 黒瀬が地図の七環と八環を拡大した。


「七環以降は、樹液の流れが地形を変える。通路が翌日にはなくなる。雨も強くなる。観測機材は長く持たない。八環はさらに悪い。根が空中に伸び、足場が上下する。普通の帰還札は成功率が落ちる」

「九環は?」

「断片しかない」

「断片」

「雨が止む。森が逆さになる。根が空へ沈む。歌が聞こえる。黒い花が開く。そういう記録だ」

「歌」

「信用しすぎるな。深層の記録は、見た者の感覚が壊れていることがある」

「でも、綺麗そう」

「そうだな」


 黒瀬は否定しなかった。


「たぶん、綺麗だ。だから危ない」


 澪は空白を見た。


 第一層九環は白い墓標と青い空だった。死に近い場所ほど美しかった。第二層九環は何だろう。黒い森の奥。青白い雨の果て。傷つかない樹と、削られる外来物。逆さになる根。歌。まだ誰も名前をつけていない場所。そこへ行きたい。見るだけでは足りない。足を踏み入れ、空気を吸い、雨を感じ、その中で生きて帰りたい。


 それが澪の理由だった。最初はお金がなくて始めた配信も今では綺麗を共有するコミュニケーションツールだ。

 金ではない。

 登録者数ではない。


 好きだから。

 美しいものを見たいから。


 ただ、それだけだった。

 神楽坂が資料を閉じた。


「本契約に基づき、第二層攻略準備計画を正式に立ち上げます。期間は最低一ヶ月。天瀬さんの退院、装備の安定試験、朱音さんの防壁訓練、アカリさんとセレスさんを含む七環八環支援班の編成、観測機材の調整、帰還管理の再構築。これらを終えてから、第一回の第二層深部調査へ入ります」

「一ヶ月」

「最低です」

「長い」

「十一ヶ月戻ってこなかった人が言う言葉ではありません」

「うん」


 佐伯が淡々と告げる。


「また、次回以降の配信では、第二層関連の未確定情報、未公開座標、素材の採取方法、後追いを誘発する内容について強い制限をかけます。チャンネル《九環》は収益設定オフを継続。登録者数が増えても変更しません」

「広告、邪魔」

「はい」

「でも、コメントは見る」

「見るなら、なおさら制限します」

「変なコメント、多い」

「消します」

「ミナトさん」

「消します」


 ミナトは疲れた声で答えた。


「第二層になれば、海外勢も増えます。企業、クラン、指示厨、アンチ、変質者、解説勢、全部増えます。黒樹の雨を真似して素材を溶かそうとする人間も出ます」

「馬鹿?」

「馬鹿です」

「雨、危ない」

「そうです。天瀬さんが言うと説得力があります」

「私も浴びる?」

「浴びないでください」

「少しだけ」

「駄目です」

「朱音先輩」

「駄目」

「……うん」


 部屋の空気が少しだけ緩んだ。


 セレスが七環の表示を指した。


「七環までは、私とアカリで素材採取班を組めます。黒樹の枝片、雨に削られて残った外殻、銀樹液の結晶、根の薄片。九環攻略前に必要な補助素材があるはずです」

「外殻」

「雨で削られて、なお残るものです。防具の耐酸処理に使えるかもしれません」

「欲しい」

「天瀬さんが九環へ入る前に、こちらで集めます」

「強い?」

「七環、八環までなら、仕事をします」


 アカリが肩を回す。


「私は前に出る。雨がきついところはセレスに任せる。燃やせるものは燃やす。燃やせないものは殴る」

「分かりやすい」

「でしょ」

「アカリさん、強い」

「もっと褒めていいよ」

「角、かっこいい」

「そこ?」

「うん」

「まあ、嬉しいけど」


 朱音は少しだけ笑った。


 澪はセレスを見た。


「セレスさんは、雨、平気?」

「平気ではありません。ただ、森の変化は読みやすいです」

「エルフ」

「はい。木々の動き、葉の震え、根の伸び方、雨粒の割れ方。第二層は危険ですが、何も教えてくれない場所ではありません」

「教えてくれる?」

「聞けば、少しだけ」

「すごい」

「あなたは聞く前に触りそうです」

「触りたい」

「触らないでください」


 水瀬が端末へ注意事項を追加した。


「天瀬澪、第二層の雨に素手で触れない」

「書いた」

「書きました」

「少しだけでも?」

「駄目です」

「舌は?」

「駄目です」

「悪食」

「駄目です」

「朱音先輩」

「絶対駄目」

「……うん」


 ミナトが頭を抱えた。


「今の会話、配信に乗せなくてよかったです」

「乗せたら?」

「世界中で模倣事故が起きます」

「危ない」

「あなたが原因で危ないんです」


 黒瀬は咳払いした。


「話を戻す。九環は天瀬が主軸だ。だが、七環八環で俺たちが仕事をする。素材を拾い、観測機材を置き、帰る場所を作り、撤退路を確認する。九環に入る前に、お前が戻るための手を増やす」

「邪魔じゃない?」

「邪魔にならない距離でやる」

「難しそう」

「難しい。だが、やる」

「なら、いい」


 澪は素直に頷いた。


 アカリが口角を上げる。


「澪ちゃん、私たちのこと足手まといだと思ってる?」

「九環なら」

「正直」

「でも、七環八環なら、強い」

「それは嬉しいね」

「素材、拾ってくれる」

「扱いが採取班」

「大事」

「まあ、大事だね」


 セレスは静かに頷いた。


「九環へ入る者だけが攻略者ではありません。帰る道を残す者も、攻略者です」

「セレスさん、かっこいい」

「ありがとうございます」

「弓、綺麗」

「今度、見せましょう」

「撃つところ」

「安全な場所で」

「うん」


 会議の最後に、アークライン配信管理部から短い告知が出された。第二層攻略準備計画の開始。天瀬澪の本格復帰は医療判断後。七環八環支援班の編成。後追い禁止。未承認探索禁止。チャンネル《九環》は収益設定オフ継続。配信予定は未定。第二層の雨、樹液、素材に関する模倣実験は禁止。告知文は慎重だったが、世界はすぐに反応した。


『第二層きた』

『呼吸する黒樹って名前かっこよ』

『まだ準備段階だぞ』

『不死身の澪、次は黒い森』

『退院してからにしろ』

『一ヶ月準備って出てる』

『最低一ヶ月って書いてるぞ』

『黒樹の雨やばくない?』

『森は溶けないのに装備だけ削れるの怖すぎ』

『綺麗な雨ほど危ない』

『澪ちゃん絶対触ろうとするだろ』

『朱音さん止めて』

『アカリとセレス同行?』

『七環八環支援班って熱い』

『九環は澪、七八はアークライン上級勢ってこと?』

『大手クランらしくなってきた』

『アカリさん前衛、セレスさん弓支援とか絶対強い』

『朱音さんも防壁訓練中らしい』

『朱音さん強化イベント助かる』

『澪ちゃん、相談しろよ』

『勝手に行くな』

『綺麗だから行くな、じゃなくて準備して行け』

『【公式】アークライン配信管理部:第二層関連の未確定情報、座標、後追い探索を誘導する投稿は制限対象です』

『制限早い』

『ミナトさんの戦いも始まった』

『【公式】黒鋼旅団:七環八環支援班の運用に注目しています。後続攻略の基準になる可能性があります』

『黒鋼が真面目』

『【海外クラン公式】Valkyrie Gate:We await the Black Tree expedition.』

『海外も待機』

『世界六位、収益オフで第二層へ』

『広告邪魔だからね』


 澪はそのコメントを少しだけ見た。


「黒い森」

「呼吸する黒樹」

「綺麗そう」

「危険そう」

「うん」

「一ヶ月」

「最低」

「長い」

「短い」

「長い」

「澪にとってはね」


 朱音は苦笑した。


「その間に、私も強くなる」

「防壁」

「防壁だけじゃなくて、光槍も少し練習する」

「槍」

「元々、槍使いだから」

「天使の槍」

「言い方」

「かっこいい」

「……頑張る」


 澪は小さく頷いた。


「期待してる」

「また言った」

「うん」

「じゃあ、本当に頑張らなきゃ」

「うん」


 会議が終わり、澪は医療区画へ戻ることになった。まだ長く座っていると疲れる。立ち上がった瞬間、《空葬装束》の腰部が少しだけ硬くなり、姿勢を支えた。朱音が手を伸ばす。澪はそれを取る。外套の首元が、また少し柔らかくなった。榊原が遠くで胃を押さえた。


 廊下へ出る前、澪はもう一度だけ振り返った。


 卓の上には、第二層九環の空白が残っている。


 黒い森の奥にある、白い空白。


 名前のない場所。


「綺麗だといい」

「危険じゃないといい、じゃなくて?」

「綺麗なら、危険でもいい」

「よくない」

「帰る」

「約束」

「うん」


 澪は朱音の袖を掴んだまま、医療区画へ戻っていった。


 第一層九環へ落ち、十一ヶ月帰れず、三体のボスを倒し、三ボス素材を食べて帰還した。不老を得て、不死身と呼ばれ、アークラインと本契約を結び、新しい装備を得た。守る者も増えた。敵も増えた。帰る場所も、帰らなければならない理由も増えた。


 けれど、澪の中心はあまり変わっていない。

 美しい場所へ行きたい。

 まだ見ぬ景色を見たい。

 そして今度は、ちゃんと相談して、ちゃんと帰る。


 第二層の黒い森では、青白い雨が静かに降っている。



《Tips》

ボスは1度倒すと同系列の別個体がポップします。特殊個体はリポップの度に変更します。また、特性は基本ランダムとなり、既存の戦術や装備はあてにならない場合が多いです。特にまだ知られていない高速再生もちなどは出逢えば基本詰みですね。


装備類はまれにドロップするらしいですが、基本は採取した素材を加工して装備にします。そのため採取技術が問われます。

これにて2章[完]です。


お付き合い頂きありがとうございます。


現在予約分だけで、投稿済みの文字数の倍あります。

私基準の面白さや物語のテンポは一定か上げていってはいます。

引きつづきよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
9環適正Lv88やしまだ適正はずれてなくない?
2章は本格的に物語が動いて面白かったです。 次の章も楽しみにしてます!
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