第三十九話 制裁②
天瀬澪との本契約が発表された日の夜、アークライン本部の表側は静かだった。
ロビーの照明は落とされ、受付端末には翌日の来訪予定だけが並び、外向けの広報画面には本契約締結の短い告知と、危険素材への接触禁止に関する注意文が流れている。チャンネル《九環》の登録者数は三億を超えたまま、さらに増え続けていた。世界六位。収益設定オフ。広告なし。投げ銭なし。スポンサーなし。澪本人は、その数字の意味をまだ半分も理解していない。理解したところで、広告が邪魔だという判断は変わらないだろうと、ミナトは思っていた。
けれど、表側の静けさとは別に、地下の危機対応室は夜になっても明るかった。
机の上には、北辰素材研究所第三研究部に関する資料が積まれている。昨夜までのものではない。さらに増えた。違法素材の保管記録。協会へ提出されていない研究ノート。廃棄済みとして処理されたはずの魔道具部品。外部倉庫の契約。実行犯への資金移動を迂回するための広告費。海外ブローカーとの暗号化通信。悪質配信グループへの依頼書。医療搬入口の認証改竄に使われた外部委託先の端末ログ。どれも一つだけなら言い逃れできる。偶然、外注、部署の暴走、管理不備。だが、全部が同じ方向を向いていた。
天瀬澪を奪う。
奪えないなら、素材だけでも取る。
素材が無理なら、血液、髪、皮膚片、呼気中の魔力粒子、装備の粉末、何でもいい。
彼らはそう動いた。
佐伯円は、資料を見ながら淡々と言った。
「第三研究部長は、まだ直接命令を否定しています」
「できるのか」
黒瀬航は腕を組んだまま、壁際に立っていた。
「できます。直接命令だけは避けていますから。ただし、研究費の流れ、装置の設計承認、委託先への便宜、実行犯と繋がる人物との面会記録があります。刑事は時間がかかりますが、社会的にはもう終わりです」
「終わりで済ませるな」
「もちろん済ませません」
佐伯は次の資料を開いた。
「本日中に、危険素材取扱主任資格の停止、研究倫理審査会への召喚、協会助成金の返還請求、共同研究凍結、主要取引先への危険通知、金融機関へのリスク情報提供まで進みました。明日は過去の違法素材保管疑惑を出します」
「明日?」
「はい。一日で全部出すと、相手が倒れるだけで終わります。段階的に出す方が、関係者が互いを切り捨て始める」
「えげつないな」
「相手は医療区画に殺傷用弾頭を持ち込みました」
「なら、いい」
黒瀬は短く答えた。
神楽坂美冬は大型画面に映る組織図を見ていた。北辰素材研究所。第三研究部。外部委託先。搬送会社。広告代理店。海外ブローカー。悪質配信グループ。探索者崩れ。小さな線で結ばれた図ではない。誰が金を出し、誰が道具を渡し、誰が認証を改竄し、誰が世論を動かそうとしたか、行動単位で整理されている。彼女はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「北辰本体は第三研究部を切り捨てます」
「もう始めています」
「では、本体側の過去取引も出しましょう。切り捨てるなら、どこまで切るつもりなのか見せてもらいます」
「資料はあります」
「今日中に役員会へ送ってください」
「公開ではなく?」
「最初は非公開で。自分たちで燃やせるか見ます。できないなら、こちらが燃やします」
危機対応室にいた職員の一人が、わずかに喉を鳴らした。
神楽坂の声は冷たくない。怒鳴りもしない。けれど、言っている内容は容赦がなかった。表向きは大手クランの副代表。交渉、調整、広報、契約。穏やかな顔でそれらをこなす人間。だが、アークラインが国内最大手であり続けている理由は、綺麗な顔だけではない。守ると決めたものへ手を伸ばした相手を、二度と同じ場所へ戻れないようにする力。それも組織の一部だった。
ミナトは別画面で、配信界隈の処理を進めていた。
「悪質配信グループの代表アカウント、三つ停止。切り抜き収益化チャンネル、七つ停止申請中。病室特定を誘導した配信者二名は、スポンサー契約解除。うち一名は北辰の広告代理店から案件を受けていました」
「証拠は」
「あります。案件名は『公共性に関する啓発動画』。実際は、アークラインによる天瀬澪さんの囲い込みを批判する内容でした」
「削除だけですか」
「いいえ。配信停止、広告収益凍結、損害賠償、協会規約違反で探索者ライセンス審査へ回します」
「徹底してください」
「はい。二度と『たまたま言っただけ』で逃げられないようにします」
ミナトの声も静かだった。いつも通り、画面の中で削除と保存を同時に進める。消すべきものは消す。だが、証拠として残すものは残す。昨日まで無責任に煽っていた配信者たちは、今になって「冗談だった」「公益性のある議論だった」「不老素材は人類全体の問題だ」と言い始めていた。だが、その裏で金を受け取っていた記録が出た時点で、言い訳は薄くなる。さらに、医療区画襲撃と同じタイミングで投稿が走っていた。偶然にしては揃いすぎていた。
アークラインは、そこを逃がさない。
同じ頃、アークライン本部の訓練区画では、朱音が白い壁に向かって立っていた。
病室の外で出た防壁。あれは偶然に近かった。澪を守りたいと思った瞬間、身体が勝手に動き、白い光が扉の前に広がった。天使種への存在進化。その力は、回復や精神安定だけではない。守る。遮る。浄化する。届くはずの攻撃を止める。朱音はそれを初めて、明確な戦闘行為として使った。
だから、訓練が始まった。
正面に立つのは黒瀬ではなく、アカリだった。鬼種の前衛。赤みを帯びた黒髪を高くまとめ、片側の黒角が照明を受けている。腕に走る赤い紋様が、呼吸に合わせて薄く光る。朱音の真正面に立ち、にやりと笑った。
「怖かったら言ってね」
「怖いです」
「正直でよろしい」
「でも、やります」
「もっとよろしい」
アカリは足元へ赤い魔力を流した。床の訓練陣が反応し、衝撃を吸収する設定に切り替わる。殺す攻撃ではない。けれど、当たれば痛い。気を抜けば吹き飛ぶ。朱音は槍を持っていない。今日は武器ではなく、防壁と光の扱いを見る訓練だった。
離れた場所に、セレスが立っている。弓を構え、翡翠色の瞳で訓練場全体を見ていた。彼女の役目は観測と安全管理。暴走しそうな魔力を射抜く。朱音の防壁が割れた瞬間、危険な残響を払う。エルフ種の感覚で、訓練場の空気の変化を聞く。
水瀬は端末を持ち、数値を取っていた。遥は影の薄い場所に立っている。万が一、朱音が倒れた時、すぐ支えるためだ。
「始めるよ」
アカリが踏み込んだ。
速い。
朱音の目が追うより早く、赤い拳が来る。朱音は両手を前へ出した。白い光が壁になる。薄い。遅い。アカリの拳が当たり、白い壁が弾けた。衝撃が朱音の腕へ走る。足が滑る。倒れそうになる。遥の影が一瞬だけ足元へ伸びかけたが、朱音は踏ん張った。
「もう一回」
「いいね」
アカリが笑う。
二撃目。
今度は壁を厚くしようとした。厚くする。守る。押し返す。そう考えた瞬間、白い光は広がったが、中心が薄くなった。アカリの拳がそこを叩く。壁が割れる。朱音の肩が跳ねる。
「厚くするんじゃなくて、受ける場所を決める!」
アカリの声が飛ぶ。
「全部守ろうとすると薄くなる。澪ちゃんみたいに全部見えない相手を守る時は別。でも今は拳一個。そこだけ止める!」
「はい!」
三撃目。
朱音は拳を見る。アカリの肩、肘、手首。赤い紋様の光。熱。来る場所。全部は見えない。けれど、拳の先だけ見る。白い光を広げない。小さく、厚く、そこへ置く。拳が当たる。今度は割れなかった。衝撃が走る。朱音の足が半歩下がる。だが、止めた。
「止まった」
「うん、止まった。次は斜め」
アカリは容赦しなかった。
正面。斜め。足元。肩口。フェイント。熱だけ先に出し、拳は遅らせる。朱音は何度も防壁を割られ、何度も尻もちをつき、何度も立った。羽は出そうになり、そのたびに押し込んだ。羽に頼ると広がりすぎる。今必要なのは、大きな光ではなく、小さく強い壁だった。澪の前に立つなら、澪の動きを邪魔しない場所に、必要な瞬間だけ防壁を置かなければいけない。
セレスの矢が一度だけ飛んだ。
朱音の防壁が割れた直後、白い残響が逆流しかけたからだ。淡い緑の矢がそれを射抜き、訓練場の空気が澄む。セレスは静かに言った。
「力は綺麗ですが、まだ広がりたがっています」
「どうすれば」
「守りたい相手を一人に絞ると、強くなります」
「一人」
「天瀬さんを思い浮かべた時が、一番安定しています」
「……分かりやすいですね」
「はい。とても」
水瀬が数値を見ながら頷く。
「澪さんを想定した時だけ、防壁密度が三割上がっています。魔力消費は逆に下がる。精神的な対象固定が、スキルに近い反応を出しています」
「つまり?」
「澪さん専用防壁みたいになっています」
「言い方」
「事実です」
朱音は顔を赤くしたが、否定しなかった。
「もう一回、お願いします」
アカリは嬉しそうに拳を鳴らした。
「いいね。そういうの、好きだよ」
その頃、病室では澪が眠っていた。
検査後の疲れで、深く眠っている。右手は毛布の端を掴み、隣の椅子には朱音が置いていった小さなクッションがある。空骨鎖鎌は隣室。新しい《空葬装束》は封鎖保管庫。空鐘袋はインベントリの奥。病室の外には警備が立ち、天井の封鎖陣は昨夜より一段強くなっている。
澪は夢を見ていた。
白い墓標ではない。白鯨の腹でもない。鐘の音でもない。温かい部屋。卵焼き。袖。白い光。第九環の景色は、まだ遠くにある。美しい。怖い。冷たい。けれど、今はそこまで行かない。眠る。帰ってきた場所で眠る。
病室の外で、遥が影から出た。
警備員が一瞬だけ反応し、すぐに姿勢を戻す。遥は端末を見て、短く連絡した。
「連絡役、一人捕まえました。北辰ではなく、海外ブローカー側です」
『抵抗は』
「逃げようとしました」
『怪我は』
「転んだそうです」
『そうですか』
佐伯の声は何も聞かなかったことにした。
遥は病室の扉を見た。中では澪が眠っている。十一ヶ月も第九環で戦い続けた少女。世界中から不死身と呼ばれ始めた少女。けれど、今は眠っている。狙う者はまだいる。だから、影の中を歩く者も必要だった。
「朱音、強くなってる?」
『訓練中です』
「泣いてない?」
『転んではいます』
「そっか〜」
遥は少しだけ笑った。
北辰素材研究所第三研究部長は、その日の午後、正式に職務停止を通告された。
研究所本体は、彼一人へ責任を押しつけようとした。だが、アークラインが送った追加資料により、役員二名が過去の違法素材保管を黙認していた疑いも浮上した。第三研究部だけを切って終わるはずだった火は、本体の上階へ移った。主要提携先は研究所との契約を一時停止し、協会は危険素材取扱認可の再審査を発表した。金融機関は融資条件の見直しを通告し、株主は臨時説明会を求めた。
第三研究部長の個人名は、法的に出せる範囲で報道された。
研究者としての評価は崩れた。講演予定はすべて消えた。大学との共同講座は停止。海外学会からの招待も取り消し。過去論文のデータにも調査が入った。彼が何年もかけて積み上げた肩書きは、半日で使えないものになった。まだ逮捕ではない。まだ裁判も始まっていない。けれど、研究者として戻る場所はもうほとんど残っていなかった。
夜には、さらに追い打ちが入った。
アークラインは、北辰素材研究所第三研究部が過去に扱った危険素材の一部が、協会に未申告だった可能性を示す資料を提出した。第三研究部長は襲撃だけでなく、過去の不正まで抱えて沈むことになった。彼の部下たちは互いに責任を押しつけ始め、外部委託先は「北辰から指示があった」と言い、広告代理店は契約書を出し、搬送会社は廃車処理の偽装を認めた。逃げるための道が、それぞれ別の相手を刺した。
佐伯はそれを見て、静かに言った。
「順調ですね」
「性格悪いな」
黒瀬が言う。
「法務ですので」
「法務は性格が悪い仕事なのか」
「相手が悪い時だけです」
アカリは訓練後の汗を拭きながら、危機対応室へ顔を出した。
「朱音ちゃん、結構根性あるよ」
「倒れましたか」
「五回」
「大丈夫ですか」
「全部立った」
「なら、大丈夫ですね」
佐伯はそう言いながら、また資料を開いた。
「次は海外ブローカー側です」
「まだやるの?」
「まだ相手がいます」
「じゃあ、やるか」
アカリの赤い紋様が、また薄く光った。
訓練区画では、朱音が床に座り込んでいた。息が上がっている。腕が重い。白い光を何度も出したせいで、魔力も削れている。セレスが水を差し出し、朱音は礼を言って受け取った。
「防壁は、最後の方が安定していました」
「本当ですか」
「はい。天瀬さんを守ると決めた時だけ、迷いが消えます」
「分かりやすいですね、私」
「悪いことではありません」
「でも、それだけだと駄目ですよね」
「はい」
「澪だけじゃなくて、周りも守れるようになりたいです」
「なら、広げる訓練も必要です。ただし、最初は一人でいい。確実に守れる一人を作ってから、範囲を広げる方が強い」
「一人」
「天瀬さんですね」
「……はい」
朱音は少し照れたが、まっすぐ頷いた。
天使種になった。存在進化した。けれど、それだけで強くなったわけではない。澪が九環で化け物じみた強さを得たのは、死にかけながら、必要なものを拾い、食べ、耐え、覚えたからだ。朱音も同じだった。守りたいと思うだけでは足りない。守るための力を、使える形にしなければいけない。
朱音は立ち上がった。
「もう一回お願いします」
「休憩は?」
「澪ならもう一回やります」
「澪ちゃん基準はやめた方がいいよ」
「でも、私は澪を止めたいので」
「いい返事」
アカリは笑い、拳を構えた。
その夜、澪が目を覚ました時、朱音は少しだけ疲れた顔で病室に戻ってきた。
「朱音先輩」
「起きたの」
「疲れてる」
「訓練してた」
「強くなった?」
「少し」
「見たい」
「今は駄目」
「白い壁?」
「うん。まだ小さいけど」
「綺麗?」
「たぶん」
「見たい」
「元気になったらね」
澪は少しだけ不満そうにしたが、すぐに朱音の袖を掴んだ。
「怪我した?」
「してない」
「本当?」
「ちょっと転んだだけ」
「五回?」
「誰に聞いたの」
「なんとなく」
「……五回」
「頑張った」
「うん。頑張った」
「えらい」
「澪に言われると変な気分」
朱音は苦笑しながら、ベッドの横に座った。
澪は目を細める。
「朱音先輩、強くなる」
「なるよ」
「私、相談する」
「うん」
「アークライン、敵潰す」
「言い方」
「でも、守る」
「そうだね」
「なら、いい」
朱音は澪の手を軽く握った。
「でも、澪も守られる練習して」
「守られる練習」
「そう。一人で全部やらない練習」
「難しい」
「私も難しい訓練してる」
「じゃあ、やる」
「よし」
病室の外では、また警備が交代する音がした。
アークラインは眠らない。少なくとも、今夜は眠らない。北辰の関係者はさらに追い詰められ、海外ブローカーは連絡役を失い、悪質配信グループは収益を止められ、探索者崩れは資格を戻せないところまで落ちた。まだ全部ではない。だが、確実に沈んでいる。手を伸ばした相手が悪かったのだと、彼らは少しずつ理解し始めていた。
澪はその全部を知らない。
けれど、朱音の手が少し熱いことには気づいた。
「朱音先輩」
「なに」
「手、あったかい」
「訓練したから」
「天使」
「便利扱いしない」
「便利」
「もう」
朱音は小さく笑った。
その笑い声を聞きながら、澪はまた目を閉じた。
外では、まだ誰かが誰かを潰している。
中では、ただ温かい手があった。




