第三十八話 本契約
アークライン本部、第七会議室。
澪が最初にこの部屋へ入った時は、まだ第九環へ再走する前だった。壁は白く、窓はない。中央には長い机があり、端末と録音機材が置かれている。あの時、澪は仮所属契約の説明を受け、三日後には第一層九環へ戻り、鐘骸鳥に帰還を閉じられた。そこから地上時間で十一ヶ月。鐘骸鳥を砕き、白鯨に飲まれ、逆墓王を倒し、三ボス素材を料理して帰ってきた。部屋は同じなのに、机の向こうに積まれた資料の厚さも、澪を見る大人たちの目も、何もかもが変わっていた。
澪は新調した《空葬装束》ではなく、医療区画用の白い上着を着ていた。まだ長時間の外出扱いは許可されていない。右腕には神経補助具、首元には魂異常の残留を測る薄い測定環。髪は短く、深藍の中に白い筋が混じっている。眠そうな顔はいつも通りだが、時折視線が遠くへ行く。第九環の残り香が、完全には抜けていない。朱音は澪の左隣に座っていた。白いアークライン研修生制服。背中の羽も光輪も隠しているが、澪がふと袖を掴むと、少しだけ表情が柔らかくなる。
向かい側には、神楽坂美冬、佐伯円、黒瀬航。少し離れて榊原透子と御影ユイカ。壁側には藍沢ミナト、水瀬蓮、浅見遥、火野アカリ、白峰セレスがいた。全員が必要だから呼ばれている。契約のためだけなら法務と役員だけで足りる。けれど、これは普通の所属契約ではなかった。三億人を超えるチャンネル《九環》。収益設定オフのまま世界六位になった配信者。三ボス素材を持つ探索者。不老を得た可能性のある少女。第一層九環を単独突破し、次に第二層九環を見ている人間。その身柄を預かる契約だった。
佐伯が最初に口を開いた。
「本日の目的は、天瀬澪さんの仮所属契約を終了し、高深度特別探索者としての本契約へ移行するかを確認することです。強制ではありません。条件に納得できなければ、仮所属を延長、または終了する選択も可能です」
澪は資料を見た。
「図、ある?」
「あります」
佐伯はすぐに一枚目を出した。文字だけではなく、契約の範囲が図で整理されている。澪の所有物、アークラインの支援範囲、協会管理、配信管理、素材提供、医療、警備、探索計画。矢印は少ない。色も分かりやすい。前回の面談で澪が「図がいい」と言ったことを、佐伯は忘れていなかった。
「まず、所有権です。空骨鎖鎌、空鐘袋、三ボス素材、今後天瀬さんが取得した素材、チャンネル《九環》は、原則として天瀬さんの所有または管理物です。アークラインは保管設備、封鎖工房、鑑定、売却補助、法務、警備を提供しますが、本人同意なく売却、研究提供、持ち出し、解析公開は行いません」
「勝手に取らない?」
「取りません」
「鎌も?」
「取りません」
「空鐘袋も?」
「取りません。ただし、空鐘袋を開ける時は事前に連絡してください」
「面倒」
「世界を壊さないためです」
「なら、仕方ない」
このやり取りももう定番となっており、澪がドヤ顔で返答する。
「探索については、天瀬さんに大きな自由裁量を認めます。行き先、探索目的、配信の有無、素材回収、滞在時間。ただし、事前相談と安全共有は必須です」
「好きな時に行ける?」
「相談後であれば」
「相談したら、だめって言う?」
「危険なら止めます」
「止めても行きたい時は?」
「理由を聞きます」
「それでも行きたい時は?」
「準備を増やします」
「絶対だめは?」
「あります。医療上、行けば死ぬと判断した時。帰還支援が組めない時。同行者や支援班を巻き込んで無駄に死なせる時。あとは、七瀬さんが本気で泣く時です」
「相談する」
朱音が横で小さく息を吐いた。
「そこだけ効くの、ずるい」
「朱音先輩、泣くの嫌」
「じゃあ泣かせないで」
「うん」
黒瀬は腕を組んでいた。
「契約上の言葉にすると、自由探索権と安全共有義務だ。お前が好きに潜ることは認める。だが、俺たちは後追い禁止、帰還管理、医療待機、素材封鎖、配信遮断を組む。勝手に消えられると、守る側が間に合わない」
「守る側」
「お前は自分の身だけ見て突っ込む。俺たちは、お前が帰ってくる場所を残す」
「帰る場所」
「そうだ」
「なら、いる」
澪は短く言った。
黒瀬はわずかに眉を動かしたが、何も言わなかった。
佐伯が次の資料を出す。
「チャンネル《九環》についてです。現在、登録者数は三億二千万人を超え、世界六位相当です。配信収益設定はオフ。天瀬さんの希望により、広告、投げ銭、メンバーシップ、スポンサー配信は行いません」
「広告、邪魔」
「はい。記録済みです」
「コメント、見にくい」
「それも記録済みです」
「変なコメントも多い」
「削除します」
「ミナトさん、大変」
「大変です」
ミナトが壁側から答えた。
「でも、収益化より削除の方が性に合っています」
「変」
「天瀬さんに言われると少し複雑ですね」
配信に関する条項はさらに続いた。チャンネル所有権は澪。アークラインは配信管理を担うが、収益化やスポンサー導入には本人同意が必要。危険情報、未公開座標、個人情報、模倣を誘発する素材処理は配信遅延と遮断対象。朱音、ミナト、水瀬、協会監視室に限定権限を与える。澪が意識混濁、帰還不能、魂異常、極度の魔力枯渇状態にある場合、配信継続より安全を優先する。
澪は少し考えた。
「切られる?」
「必要な時だけ」
「見せた方が早い時もある」
「それは分かっています。ただし、見せたせいで後追いが死ぬなら切ります」
「後追い」
「第一層九環で、すでに何件も未遂があります」
「行くの、だめ」
「はい」
「なら、切っていい」
佐伯は資料へ印を入れた。
「次に、報酬です」
「もうある」
「ありますね」
「数兆」
「はい」
「使い切れない」
「通常はそうです」
「不老でも?」
「不老でも、たぶん」
「じゃあ、少なくていい」
「本契約に最低保証報酬は入れます。使うかどうかは別です。医療、生活、住居、警備、装備工房、探索支援はアークライン負担。素材売却益は本人管理。ただし税務処理と信託管理は必要です」
「税、難しい」
「こちらで処理します」
「じゃあ、よろしく」
金の話は、澪にとって本当に薄かった。数兆円という言葉を聞いても、帰還札何枚分か、卵焼き何回分か、朱音のご飯代は足りるか、そういう方向へ行く。神楽坂も佐伯も、それを理解していた。だから、契約で強く出ない。金で縛れない相手を金で縛ろうとすれば、ただ信用を失うだけだった。
榊原が資料を一枚置く。
「装備工房についてです。空骨鎖鎌、《空葬装束》、予備三着、空鐘袋封鎖具、素材処理器具。これらは専用工房で管理します。所有権は天瀬さん。工房はアークラインが用意。勝手な改造はしません」
「勝手に直る」
「それが一番困るんです」
「防具も、少し動いた」
「それも困っています」
「意思?」
「今はありません」
「今は」
「今はです」
ユイカが横から小さく言った。
「予備防具の一着が、もう鎌の保管室側へ寄りたがっています」
「寄りたがる?」
「保管台の上で、ほんの少し位置がずれました」
「意思?」
「今は反応です」
「みんな今はって言う」
「未来のことを断言したくないんです」
澪は少し楽しそうだった。
「服も、鎌と仲良し」
「仲良くしすぎると、脱げなくなります」
「それは困る」
「だから管理します」
「うん」
セレスが静かに言った。
「第二層攻略支援についても、本契約に含めるのですね」
「はい」
神楽坂が頷く。
「次段階の探索計画として、第二層九環を長期目標に置きます。天瀬さんが九環攻略の主軸であることは変わりません。ただし、七環、八環での素材採取、観測機材設置、退路確保、拠点形成、帰還支援については、アークライン上級メンバーを投入します」
「アカリさん」
「行くよ」
アカリは壁にもたれたまま笑った。赤みを帯びた黒髪を高くまとめ、片側の短い黒角が照明を受けている。肩から腕に走る赤い紋様は、いつもより落ち着いていた。
「九環は正直、澪ちゃんの領域。でも七環八環なら、私たちも仕事できる。前に出て燃やす相手がいるなら、私の仕事」
「燃やす」
「必要なやつだけね」
「便利」
「便利扱いされた」
「褒めてる」
「ならいいか」
セレスは弓を軽く抱え直した。
「私は索敵と遠距離支援、結界や術式の核の破壊を担当します。第二層は第一層よりも地形変化が多い。遠くを見る者は必要です」
「遠く」
「あなたは近くへ行きすぎます」
「うん」
「褒めていません」
「分かってる」
水瀬が端末を見ながら言う。
「第二層七環から先は、既存地図の信頼性が急に落ちます。九環は断片情報のみ。澪さんが第一層九環で得た経験は参考になりますが、第二層は別物です」
「別の景色」
「別の危険です」
「綺麗?」
「……映像を見る限り、綺麗です」
「なら、行く」
朱音が澪の袖を軽く引いた。
「まず退院」
「うん」
「本契約」
「うん」
「防具の予備」
「うん」
「相談」
「うん」
「それから」
「第二層」
「それから、準備」
「……うん」
「また間があった」
「気のせい」
神楽坂は資料を閉じた。
「条件は以上です。天瀬さん。アークラインは、あなたを所有しません。素材も、鎌も、チャンネルも奪いません。代わりに、守ります。法務も、警備も、医療も、装備工房も、配信管理も、探索支援も用意します。あなたが美しい場所へ行きたいのなら、帰ってくるための場所を作ります」
「美しい場所」
「はい」
「第二層九環」
「まだ見ぬ場所です」
「見たい」
「そのための契約です」
澪は資料を見た。
金額の欄ではない。所有権の欄でもない。自由探索権と安全共有義務の図、朱音たちの支援班配置、装備工房、帰還管理、第二層攻略計画。その全部を眺めて、最後に朱音を見た。
「朱音先輩、いる?」
「いる」
「ご飯」
「作る」
「止める?」
「危ない時は止める」
「泣く?」
「勝手に行ったら泣く」
「相談する」
「よし」
澪は頷いた。
「入る」
佐伯が契約書を開いた。厚い書類ではなく、最終確認用の署名ページ。未成年契約に関する処理、保護管理、協会監督、信託、素材所有、危険探索同意、医療同意。必要な確認はすでに何日もかけて行われている。今日は、澪本人の意思確認だった。
「読み上げます」
「長い?」
「重要な部分だけにします」
「うん」
佐伯は読み上げた。
澪は聞いた。途中で眠そうになり、朱音に軽く肘でつつかれ、また聞いた。分からないところは「難しい」と言い、佐伯が図で説明した。所有権、管理権、同意、停止権限、探索自由裁量、相談義務、素材売却、研究提供、配信管理。何度か戻り、何度か確認し、最後に澪はペンを持った。
字は少し歪んだ。
まだ右手の神経が完全ではないからだ。
それでも、名前は書けた。
天瀬澪。
署名が終わった瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。拍手はない。騒がしい祝福もない。けれど、そこにいた全員が、ひとつの区切りを理解した。
仮所属の少女ではない。
アークライン所属、高深度特別探索者、天瀬澪。
佐伯が静かに言った。
「本契約、成立です」
「入った?」
「入りました」
「朱音先輩」
「なに」
「同僚?」
「そうだね」
「先輩?」
「それは変わらない」
「うん」
澪は少しだけ満足そうだった。
契約成立の公表は、その日の夕方に行われた。内容は短い。アークラインは、天瀬澪と高深度特別探索者として本契約を締結した。チャンネル《九環》の所有権および配信収益設定オフは本人意思により維持される。素材、装備、空鐘袋については本人管理を原則とする。探索には本人の自由裁量を認めるが、アークラインおよび協会との安全共有のもと実施する。今後、第二層深部調査を含む探索支援体制を整備する。
コメント欄はすぐに流れた。
『本契約きた!』
『アークライン正式加入』
『不死身の澪、就職』
『就職って言うな』
『チャンネル収益オフ維持で草』
『世界六位なのに広告なし』
『広告邪魔だから仕方ない』
『素材と空鐘袋は澪管理なのいいな』
『クランが奪わないって明記してるの強い』
『アークラインかなり澪有利契約じゃない?』
『そりゃ金で縛れないし』
『朱音さんがいるから入った説』
『説じゃなくてほぼ確定だろ』
『【公式】アークライン配信管理部:契約内容の一部に関する憶測や虚偽情報の拡散はお控えください』
『配信管理部も正式に澪係継続』
『北辰が泣いてそう』
『もう泣く部署がないだろ』
『【公式】黒鋼旅団:正式契約おめでとうございます。第二層支援体制に注目しています』
『黒鋼も祝ってる』
『【海外クラン公式】Valkyrie Gate:Congratulations, Mio Amase.』
『世界規模の入社祝い』
『澪、ちゃんと相談して行けよ』
『勝手に行くなよ』
『朱音さん泣かせるなよ』
『不死身でも報連相しろ』
『報連相で草』
『不死身の澪に一番必要なスキル、報連相』
澪は医療区画の共有端末でそれを少しだけ見た。
「報連相」
「報告、連絡、相談」
「スキル?」
「社会スキル」
「難しい」
「覚えよう」
「朱音先輩に言う」
「私だけじゃなくて、アークラインにもね」
「難しい」
「そこから練習」
朱音が笑うと、澪は小さく頷いた。
夜、澪は病室のベッドで眠る前に、隣室の封鎖ケースへ視線を向けた。空骨鎖鎌がある。《空葬装束》もある。空鐘袋はインベントリの奥で静かにしている。病室の外には警備。建物の外側では、アークラインの暗い部署がまだ北辰の関係者を追っている。見えないところで、たくさんの人間が動いていた。
「朱音先輩」
「なに」
「入った」
「うん。入ったね」
「アークライン」
「うん」
「楽しそう」
「怖いこともあるよ」
「うん」
「でも、守る」
「うん」
「私も、強くなる」
「期待してる」
「言ったね」
「うん」
朱音は少しだけ照れた顔をした。
「じゃあ、頑張る」
澪は目を閉じた。
「第二層」
「まだ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「澪」
「相談する」
「よし」
澪は朱音の袖を掴んだまま眠った。
本契約は終わった。
次は準備だった。
美しい場所へ行くための準備。
そして、帰ってくるための準備だった。




