第三十六話 制裁
襲撃の翌朝、アークラインは何も起きていないような顔をしていた。
正面ロビーにはいつも通り職員が立ち、来客用の案内端末は通常表示を続け、外向けの広報画面にはチャンネル《九環》の危険素材処理検証に関する注意文が流れている。医療封鎖区画への導線は表向き変わっていない。白い壁。静かな照明。清潔な廊下。澪が眠る部屋の前には、昨日より二人多い警備員がいたが、それも「帰還後の安全強化」という言葉で片づけられる範囲だった。
けれど、地下の別区画では空気が違っていた。
アークライン本部、危機対応室。そこに集められた映像は、昨夜の襲撃を秒単位で分解していた。協会認証車両に偽装した搬送車。三分前に改竄された認証コード。封鎖破りの術式器具。殺傷用の魔力弾頭。医療ケースに仕込まれた極小採取機械。短距離転送補助。医療区画の座標へ引っ掛けるための術式杭。実行犯の腕に巻かれていた違法魔力増幅具。どれも偶然ではない。素人の暴走でもない。澪の血液、髪、皮膚片、呼気中の魔力粒子、あるいは空鐘袋と三ボス素材。そのどれかを手に入れるため、誰かが金を出し、道具を用意し、内部認証に手を伸ばした。
佐伯円は、机の上に置かれた資料を一枚ずつめくっていた。
声は静かだった。
「実行犯四名。うち二名は探索者資格停止歴あり。残り二名は偽造ID。車両は協会提携搬送会社の廃車記録に紐づいていますが、実際には処分されていません。認証コード改竄に使われた端末は、アークライン外部委託先の管理者権限を経由。医療ケース内の採取機械は北辰素材研究所の試作品と構造が一致。魔力弾頭は海外製。術式杭は国内で流通していない型です」
黒瀬航は腕を組んで聞いていた。表情は変わらない。だが、目だけが冷えている。
「多いな」
「はい。単独犯ではありません。研究所、搬送会社、外部委託先、海外ブローカー、探索者崩れ。最低でも五つの窓口が絡んでいます」
「中心は」
「北辰素材研究所の第三研究部。表向きは関与否定。ですが、採取機械の設計番号が残っていました。消し忘れではなく、消す時間がなかったのでしょう」
「馬鹿か」
「焦っていたのだと思います。不老反応が出た素材を、どこよりも早く押さえたかった」
「殺して奪う気だったのか」
「殺傷用弾頭がある以上、少なくとも医療班、警備、対象者への重大な被害は許容していました」
神楽坂美冬は窓のない部屋の中央に立っていた。普段と変わらない落ち着いた姿勢。だが、場の温度は低い。
「なら、遠慮は不要です」
その一言で、対応方針は決まった。
佐伯が端末を操作する。画面に、複数の名前と企業ロゴ、契約書、通信記録、資金移動履歴、探索者資格情報が並んだ。
「第一段階。協会への正式告発。殺人未遂、拉致未遂、医療区画侵入、危険素材強奪未遂、探索者犯罪幇助、違法魔道具所持、認証改竄。実行犯だけでなく、関与企業と研究部門責任者を含めます」
「第二段階は」
「北辰素材研究所との全共同研究凍結。協会研究審査会への資料提出。危険素材取扱認可の停止申請。関連補助金の返還請求。さらに、当社および提携クランからの取引停止通告」
「潰れるか」
「第三研究部は確実に。会社本体も無傷では済みません」
「足りない」
「第三段階があります」
佐伯の指が止まった。
「襲撃に関与した個人名は、法的に出せる範囲で公表します。出せない範囲は、協会の懲戒処分、探索者資格剥奪、研究者資格停止、医療機関への通報、金融機関への危険取引報告で処理します。社会的には、二度と危険素材研究へ戻れない形にします」
「甘いな」
「なので、第四段階です」
佐伯は淡々と言った。
「彼らが過去に扱った研究データも洗います。不正があれば全部掘る。下請け、資金提供元、名義貸し、偽装廃車、違法素材の保管。今回だけで終わらせません。過去分もまとめて燃やします」
黒瀬の口元がわずかに動いた。
「いい」
「法務で殴ります」
「殴り足りなければ呼べ」
「その時はお願いします」
危機対応室の端で、藍沢ミナトは別の画面を見ていた。昨夜から大量に湧いたコメント、偽情報、切り抜き、病室特定を誘導する投稿、襲撃を擁護する書き込み、澪の不老を「公共財」と呼ぶ記事。どれも速かった。早すぎた。偶然ではない。襲撃と同時に、世論操作の準備も走っていた。
「配信側も黒です」
ミナトが言った。
「襲撃直後から、不自然な投稿が増えています。『不老素材は人類共有財産』『アークラインによる独占は許されない』『天瀬澪を公的管理下に置くべき』。文面が複数言語でほぼ同じ。ボットだけでなく、登録済み配信者とニュース系アカウントも混ざっています」
「出所は」
「三つ。国内の悪質配信グループ、海外の研究ロビー、北辰と繋がりのある広告代理店」
「消せますか」
「消すだけなら。ですが、今回は残して繋げた方がいいです」
「理由は」
「一網打尽にできます」
ミナトの声は穏やかだった。けれど、目は笑っていない。
「澪さんへの接触誘導、居住地特定、医療区画特定、素材取引勧誘。全部ログを取りました。規約違反で消すだけなら簡単です。でも、今回は犯罪準備と同時に走っています。削除、開示請求、損害賠償、配信停止、広告契約解除。全部つなげます」
「お願いします」
「はい。二度と配信で食えないようにします」
遥は壁際に立っていた。影人種へ進化した彼女の足元には、薄い影が溜まっている。昨夜、襲撃車両の床下を最初に暴いたのは彼女だった。今朝は、実行犯の持ち物から出た別計画を追っていた。
「七瀬家側へも接触計画がありました」
「内容は」
「宅配業者を偽装。朱音さんのご家族への接触。目的は住所確認と、澪さんの移動予定の聞き出し。直接拉致ではありませんが、次段階の準備です」
「実行前か」
「はい。もう潰しました」
「どうやって」
「偽装宅配の拠点に行きました。荷物は空でした。人はいました」
「怪我人は」
「相手側に少し」
「少し?」
「抵抗したので」
黒瀬はそれ以上聞かなかった。
火野アカリは椅子に座らず、壁にもたれていた。赤みを帯びた黒髪を高い位置でまとめ、片側の短い黒角が照明を受けている。褐色の肌に浮かぶ赤い紋様は、まだ薄く光っていた。昨夜、車両を止め、虫型採取機械を焼き落とし、探索者崩れを床へ叩きつけたのは彼女だ。
「次、来ると思う?」
「来ます」
佐伯が即答した。
「不老反応、三ボス素材、空鐘袋、登録者三億の影響力。これだけ揃うと、一回失敗した程度では諦めません。むしろ、今回の失敗で焦る者が出ます」
「なら、早めに潰すのが優しさだね」
「優しさではありません」
「じゃあ、趣味」
「それも違います」
セレスは静かに弓の弦を拭いていた。腰まで届く淡い銀髪。長い耳。翡翠色の瞳。戦闘後でも、彼女の周囲だけ空気が澄んでいるように見える。昨夜の魔力矢は、通路を直接通らず、反射と結界の隙間を利用して術式器具だけを射抜いた。あれがなければ、弾頭の一つは破裂していたかもしれない。
「北辰の第三研究部に、エルフ種の研究者が一人います」
「知り合いですか」
「いいえ。ただ、森系統の魔力を使っています。昨夜の術式杭に、わずかに同じ匂いが残っていました」
「証拠になりますか」
「私の感覚だけでは弱いです。ですが、場所を絞るには十分です」
「ユイカ」
「はい」
御影ユイカは工具ケースを開き、昨夜回収した術式杭の欠片を取り出した。透明な爪先で小さな部品をつまむ。丸眼鏡の奥で、水晶のような瞳が細かく光る。
「セレスさんの感覚と、残留魔力の結晶パターンが一致しています。北辰第三研究部の保管庫にあった精霊木系触媒ですね。購入記録は消されていますが、廃棄記録が不自然に残っています」
「出せますか」
「出せます。むしろ、相手が消したつもりの痕跡が結晶内に残っています。雑です」
「雑なのではなく、急いだのでしょう」
「急いだら犯罪していいんですか」
「よくありません」
「ですよね」
ユイカは淡々と部品を封鎖袋へ入れた。
その頃、北辰素材研究所第三研究部では、朝から端末が鳴り続けていた。
共同研究凍結。
協会審査会からの緊急照会。
危険素材取扱許可の一時停止。
主要取引先からの契約停止通知。
金融機関からの確認要求。
探索者犯罪対策部からの出頭要請。
役員会からの呼び出し。
報道機関からの問い合わせ。
海外提携先からの契約解除通知。
第三研究部長の男は、自室で何度も同じ文面を読み返していた。汗が止まらない。昨日まで、彼は自分たちが先を走っていると思っていた。不老反応。三ボス素材。天瀬澪。世界が喉から手が出るほど欲しがるものを、アークラインが独占している。少し強引にでも資料を取れれば、後から交渉でどうにでもなる。そう考えた。実行犯を直接雇ったわけではない。窓口を挟んだ。外部委託を使った。海外の道具も使った。自分の名前は出ないはずだった。
だが、アークラインは速すぎた。
採取機械の設計番号。精霊木系触媒の廃棄記録。偽装廃車の移動履歴。広告代理店への資金移動。世論操作用アカウントの契約書。全部、朝までに掘られていた。
端末がまた鳴る。
『役員会議へ直ちに出席してください』
その直後、別の通知が重なる。
『危険素材取扱主任資格の一時停止について』
さらに。
『協会研究者倫理審査会への召喚通知』
さらに。
『探索者犯罪対策部より任意聴取要請』
男は椅子へ沈み込んだ。まだ逮捕ではない。まだ終わっていない。そう思おうとした時、室内の大型画面が勝手に点いた。社内緊急放送だった。
『北辰素材研究所は、本日午前九時をもって第三研究部の全業務を停止し、関係職員を自宅待機とします。協会および捜査機関への全面協力を行い――』
そこまで聞いて、男は立ち上がった。
「ふざけるな……」
声は震えていた。
ふざけていたのは誰か。答えはもう外に出ている。
午前十時、アークラインと協会は共同で短い発表を行った。
昨夜、アークライン医療封鎖区画へ不正侵入未遂があったこと。天瀬澪本人に被害はないこと。実行犯を拘束したこと。危険素材および医療情報を狙った組織的犯行の可能性があること。関係する研究機関、委託企業、個人について、協会と捜査機関へ情報提供を行ったこと。天瀬澪への個人接触、素材取引勧誘、居住地特定、医療区画特定を改めて禁じること。
詳細は伏せられた。
だが、伏せられた詳細の代わりに、制裁だけが見えた。
北辰素材研究所第三研究部、業務停止。
危険素材取扱認可、一時停止。
共同研究、凍結。
研究者複数名、倫理審査会召喚。
委託警備会社、契約解除。
協会提携搬送会社、監査。
悪質配信グループ、複数アカウント停止。
探索者資格停止者、再登録永久不可の手続き開始。
広告代理店、契約解除と損害賠償請求。
コメント欄は、配信ではなくニュース欄で燃えた。
『北辰終わった?』
『第三研究部、完全に逝ったな』
『不老素材狙って医療区画襲撃はライン超えすぎ』
『アークライン敵に回して生き残れると思ったのか』
『危険素材認可停止は草じゃ済まん』
『研究所として死ぬやつ』
『不死身の澪に手を出した結果、自分たちが社会的に死亡』
『ざまぁ』
『ざまぁだけど怖い』
『殺人未遂なら当然』
『公表されてる範囲だけでこれって、裏もっとヤバいだろ』
『【公式】黒鋼旅団:天瀬澪さんおよび関係者への強引な接触は、探索者社会全体への敵対行為と見なされます』
『黒鋼まで乗った』
『大手クラン連名来る?』
『来たら北辰本体まで沈むぞ』
『【海外クラン公式】Valkyrie Gate:Any attempt to abduct a recovering explorer is unforgivable.』
『海外にも怒られてて草』
『世界規模のざまぁ』
『このコメントは削除されました。』
『今の何』
『北辰擁護でもしたんだろ』
アークラインは止まらなかった。
午後には、神楽坂が主要大手クランとの連名声明を出した。高深度探索者の医療区画を狙う行為は、国内探索者秩序への攻撃である。危険素材研究は協会管理下で行うべきであり、暴力的・違法な取得は認めない。天瀬澪に限らず、帰還直後の探索者への接触規範を改めて整備する。言葉は綺麗だった。けれど、意味は明確だった。
次にやれば、業界から消す。
夕方には、北辰素材研究所の株価が暴落した。提携先が離れ、研究員の一部が内部告発を始め、第三研究部長の過去の不正素材取引疑惑まで掘り出された。アークラインは何も言わない。ただ、必要な資料を必要な場所へ送っただけだった。あとは勝手に燃えた。燃えるように、乾いた薪を積んでおいただけとも言える。
佐伯はそれを見て、短く言った。
「まだ一日目です」
「追い打ちは」
「明日以降です。民事、刑事、協会処分、研究資格、金融、取引停止。順番に行きます」
「えげつないね」
アカリが楽しそうに言う。
佐伯は眼鏡の位置を直した。
「相手が先に殺人未遂をしました」
「それを言われると何も言えない」
「なので、遠慮はしません」
病室では、澪がその騒ぎの大半を知らないまま、朱音の作った小さなおにぎりを食べていた。
卵焼きの次はおにぎり。普通の白米。中身は鮭。塩は少なめ。澪は両手で持ち、少しずつ食べている。朱音は隣で水を用意していた。扉の外では警備が増えている。壁の向こうではセレスが定期的に魔力の流れを確認し、遥が影側の警戒を続け、アカリが搬入口の再点検をしている。澪が眠っている間にも、アークラインは動いている。
「外、うるさい?」
「少しね」
「敵?」
「もう捕まった」
「終わり?」
「まだ後始末」
「大変?」
「佐伯さんがすごい顔してる」
「怖い?」
「すごく」
澪は少し考えた。
「アークライン、怖い」
「うん」
「でも、守る」
「うん」
「なら、いい」
朱音は手を止めた。
「澪はそれでいいの?」
「何が?」
「アークラインが、澪のために誰かを潰すこと」
「敵?」
「うん」
「朱音先輩を狙った?」
「私も、澪も、他の人も」
「なら、いい」
澪の答えは短かった。
優しくはない。けれど、曖昧でもなかった。澪はダンジョンの中で、殺意を向けてくるものに何度も遭った。話せば分かる相手もいる。逃げれば済む相手もいる。だが、殺す気で来る相手に手加減して、次に朱音が傷つくなら、それは嫌だった。
「朱音先輩」
「なに」
「怪我、しないで」
「うん」
「私も、相談する」
「本当?」
「たぶん」
「澪」
「本当」
「よし」
朱音は少しだけ笑った。
その時、病室の端末に佐伯からの短い報告が入った。朱音が確認する。澪も横から覗く。
『昨夜の襲撃に関与した主要窓口を特定。関連研究部門は業務停止。実行犯は全員拘束。追加の接触計画二件を阻止。天瀬さんへの直接対応は不要です。休んでください』
澪は読んだ。
「直接対応、不要」
「うん」
「楽」
「そうだね」
「入ってよかった」
「まだ本契約前だけど」
「入る」
「うん」
澪はおにぎりを食べ終え、少し眠そうに目を細めた。朱音が口元を拭く。澪は抵抗しない。昨日まで第九環で三ボスを食べて帰ってきた少女が、今はおにぎりを食べて眠たそうにしている。その外側で、企業が燃え、研究部門が潰れ、実行犯が拘束され、アークラインの暗い部署が次の名前を追っている。
世界は騒がしい。
でも、病室の中だけは静かだった。
夜。
北辰素材研究所第三研究部長は、協会の臨時聴取室で黙り込んでいた。弁護士は隣にいる。だが、出された資料の量に言葉を失っている。採取機械の設計番号。精霊木系触媒。偽装廃車。資金移動。広告代理店への依頼。実行犯の連絡履歴。どれも直接命令までは示していない。だが、全体を見れば逃げ道はない。
聴取室の外で、佐伯は時計を見た。
「明日の朝には、追加資料を出します」
「まだあるんですか」
協会担当者が疲れた声で言う。
「あります。今回の件とは別の、過去の違法素材保管疑惑です」
「なぜ今まで出さなかったんですか」
「今、出すのが一番効くからです」
佐伯は淡々と答えた。
協会担当者は、少しだけ佐伯を見た。
「アークラインは怒っていますね」
「はい」
「天瀬澪さんのために?」
「天瀬さんだけではありません。医療区画を襲撃し、帰還直後の探索者を奪おうとした。これを許せば、次から深層帰還者は誰も安心して眠れません」
「なるほど」
「それに」
佐伯は資料を閉じた。
「天瀬さんは、うちに入ると言いました。なら、守るのは当然です」
その言葉は、綺麗なだけのものではなかった。
守るために、潰す。
守るために、晒す。
守るために、二度と同じ場所へ戻れないようにする。
アークラインは、その準備を終えていた。
翌朝、北辰素材研究所第三研究部の看板は、ニュース映像の中で何度も映った。顔を隠して出社する職員。詰めかける記者。協会の監査員。探索者犯罪対策部の車両。研究所の広報は「確認中」を繰り返すだけだった。だが、もう遅い。世間は答えを出していた。
澪はそのニュースを見ていない。
彼女はまだ眠っている。
朱音の袖を掴んだまま、静かに眠っている。
病室の外では、白峰セレスが弓を壁に立てかけ、通路の魔力の流れを聞いていた。火野アカリは搬入口の修理を眺めながら、次に来たらどこを燃やすかを考えている。遥は影の中で、まだ捕まっていない連絡役を追っていた。ユイカは採取機械の残骸から、相手の研究水準を逆算している。佐伯は次の訴状を書き、神楽坂は次の警告先へ電話をかけ、黒瀬は実行犯の供述を待っていた。
澪の知らない場所で、敵は一つずつ潰れていく。
けれど、澪が次に目を覚ました時、普通に卵焼きを食べられるようにするための話だった。




