第三十五話 不死身の澪
チャンネル《九環》の登録者数が三億を超えた、という報告を聞いた時、澪は病室のベッドの上で卵焼きを食べていた。
病室と呼ばれているが、普通の病室ではない。アークライン本部地下にある高深度探索者用の医療封鎖区画。壁は白く、窓はなく、天井には柔らかな照明が埋め込まれている。ベッドの周囲には医療機器と封鎖術式が並び、扉の外には警備が二重に立っていた。空骨鎖鎌は隣室の封鎖ケースに収められている。完全に遠ざけると鎌が低く鳴るため、壁一枚を挟んだ位置に置かれていた。空鐘袋は澪のインベントリ内。取り出さない限り安全、ということになっている。安全という言葉がどこまで信用できるのか、榊原もユイカもまだ疑っていた。
澪は上半身を起こし、毛布を膝にかけている。短く整えられた髪には、白い筋が混じっていた。第九環に入る前より明らかに増えている。白髪というより、空膜や墓標の光がそのまま残ったような色だった。黒に近い深藍の髪の中に、白が細く流れている。顔色はまだ悪い。けれど、目は開いている。手も動く。食べ物も食べられる。それだけで、医療班は何度も検査結果を見直した。
朱音はベッドの横に座っていた。膝の上には小さな保温容器。中には卵焼きが入っている。医療班が許可した量だけ。油は少なく、味も薄め。それでも澪は気に入っていた。
「三億」
「うん」
「世界六位だって」
「何が?」
「澪のチャンネル」
「九環?」
「そう」
「多い?」
「多すぎる」
澪は卵焼きを一口食べ、少し考えた。
「広告、出る?」
「出ないよ。収益設定オフのままだから」
「よかった」
「本当にそれでいいの? 収益化したら、とんでもない額になるって佐伯さんが言ってたけど」
「広告、邪魔」
「理由それだけ?」
「コメント見にくい」
「……澪らしいけど」
朱音は苦笑した。隣で端末を確認していた佐伯が、紙の資料から顔を上げる。
「一応、確認しておきます。チャンネル《九環》の配信収益設定は現在もオフです。スポンサー広告、投げ銭、メンバーシップ、いずれも停止状態。登録者数は三億一千万人を突破。現時点で世界六位相当です」
「世界六位」
「はい」
「すごい?」
「すごいです」
「でも、いらない」
「分かりました」
佐伯は即座に書類へ記録した。渋ることはしない。澪にとって金は目的ではない。数兆円規模の素材提供が動き始めた今、配信収益の話をしても意味が薄い。むしろ本人がいらないと言っているものを無理に収益化すれば、余計な火種になる。佐伯はそう判断していた。
それでも、外は騒がしい。
帰還後のお料理配信から三日。世界はまだ落ち着いていなかった。三ボス素材。不老。帰還座標。登録者数三億。収益設定オフ。数兆円の一部素材提供。どれも単体でニュースになる。全部が一人の少女へ集まっている。その少女は今、病室で卵焼きを食べていた。
アークライン配信管理部が出した短い帰還報告映像には、コメントが今も流れ続けている。澪は見ていない。ミナトが必要なものだけ抜粋して、危険なものは消している。
『不死身の澪、卵焼き食べてるってマジ?』
『不死身じゃなくて不老な』
『第九環十一ヶ月で帰ってきた時点で不死身だろ』
『白鯨に飲まれて生きてるのはもう不死身』
『逆墓王倒して三ボス料理して帰還はさすがに化け物』
『本人は多分眠いしか思ってない』
『収益オフなの草』
『世界六位で収益オフとか意味分からん』
『広告邪魔って理由らしいぞ』
『澪らしい』
『【協会広報】《不老》は不死、不滅、完全再生を意味するものではありません。誤解を招く表現にはご注意ください』
『公式が不死身を否定してる』
『否定されたら定着するやつ』
『不死ではない澪』
『略して不死身の澪』
『略すな』
『【公式】アークライン配信管理部:天瀬澪さんへの個人接触、素材取引、居住地特定、医療区画特定を誘導する投稿は制限対象です』
このコメントは削除されました。
『何言ったんだ今の』
『見なくていいやつ』
『ミナトさん常駐してるな』
『不死身の澪、公式に守られる』
『守られろ。頼むから守られろ』
澪は端末を見て、首を傾げた。
「不死身?」
「そう呼ばれ始めてる」
「不死じゃない」
「うん。不死じゃない」
「死ぬ時は死ぬ」
「そう。だから無茶しない」
「再生、十になったら?」
「……それでも無茶しない」
「難しい」
朱音の声が少し硬くなった。澪はそれに気づき、卵焼きの残りを飲み込んだ。
「帰った」
「うん」
「次も帰る」
「次がある前提で言わないで」
「ある」
「澪」
「ダンジョン、好き」
「分かってる」
「綺麗だった」
「第九環が?」
「うん」
「あんなに大変だったのに?」
「綺麗だった」
朱音は何も言えなくなった。
澪の中では、危険と美しさが別々に存在していない。怖いから行かない、痛いから嫌だ、死にかけたからもう見たくない。普通ならそうなる。けれど澪は違う。鐘骸鳥の空葬原も、白鯨の腹の青い空膜も、逆墓王の白い墓標王国も、全部を綺麗だと思っている。死に近い場所ほど美しい。その感覚は、たぶん澪の奥に深く根を張っていた。
「第一層九環、まだボスいる」
「行かないよ」
「うん」
「本当?」
「今は」
「澪」
「適正、外れた」
「そういう問題じゃない」
「レベル上がらない。スキルもたぶんない」
「そういう問題じゃないってば」
「でも、素材はある」
「だから行かない」
「うん」
朱音は額を押さえた。退院前からこの調子だ。澪は弱っている。弱っているのに、次のダンジョンの話を普通にする。金でも、名声でも、登録者数でもない。第九環で死にかけても、彼女の中の理由は消えていない。
美しい場所を見たい。
まだ誰も見ていない場所へ行きたい。
それだけで、澪はまた歩き出す。
扉が軽く叩かれた。入ってきたのは神楽坂だった。後ろには黒瀬、佐伯、白峰セレス、そして御影ユイカ。セレスはアークラインの上級探索者用ジャケットを着ていた。腰まで届く淡い銀髪は背中で緩くまとめられ、長く尖った耳が白い照明を受けている。淡い翡翠色の瞳には、森の奥の光のような静けさがあった。肩には細身の弓。矢筒はない。彼女の矢は、必要な時に魔力で編まれる。遠くから見る。射抜く。止める。道を作る。エルフ種として進化した、アークライン上級の弓使いだった。
ユイカは白い作業ジャケット姿で、工具ベルトを腰に巻いている。薄紫の髪は顎のあたりで切りそろえられ、丸い眼鏡の奥で多角形の光が揺れていた。晶工種の技術者。戦うためではなく、壊れた装備と壊れてはいけない素材を相手にするために来ている。
「体調はいかがですか」
「卵焼き、食べた」
「それはよかったです」
「用事?」
「はい。契約更新と本契約への移行について、簡単な確認をしに来ました。本格的な話し合いは後日で構いません」
「今でいい」
「無理はしないでください」
「眠くなったら寝る」
「では、短く」
神楽坂は椅子に座らず、資料を一枚だけ澪に見せた。厚い契約書ではない。要点だけが図でまとめられている。前に澪が「図がいい」と言ったからだ。
「天瀬さんは現在、アークラインの一年仮所属契約中です。本来なら一年後に更新可否を判断する予定でしたが、契約期間の大半が第九環帰還不能事案に重なりました。そのため、仮所属契約を終了し、高深度特別探索者としての本契約へ移行する案を提示します」
「一年、ほとんどダンジョンだった」
「はい」
「働いてた?」
「働いていました。世界で一番危険な形で」
「じゃあ、更新?」
「更新でもありますが、契約内容は大きく変えます」
佐伯が補足する。
「天瀬さんには、すでに十分な資産があります。装備も特殊で、通常のクラン装備支援に依存しません。空骨鎖鎌は自動修復と成長反応を持ち、空鐘袋と三ボス素材は天瀬さんの所有物です。ですので、アークラインに所属する理由は、金銭や装備の提供ではないと考えています」
「うん」
「それでも所属する意思がありますか」
「朱音先輩、いる?」
「いるよ」
朱音が即答した。
澪は少しだけ頷いた。
「なら、入る」
神楽坂は表情をほとんど変えなかったが、わずかに息を吐いた。佐伯は資料の端へ「決め手:七瀬朱音」と書きかけて、少し考えてから消した。
「他にはありますか」
「楽しそう」
「はい」
「守ってくれる」
「守ります」
「面倒な人、止めてくれる」
「止めます」
「ダンジョン、好きな時に行ける?」
「自由裁量は大きくします。ただし、事前相談と行先共有は必要です」
「相談」
「はい。勝手に消えられると、七瀬さんが泣きます」
「相談する」
「即答ですね」
「朱音先輩、泣くのは嫌」
「そこは気にするんだ……」
朱音が小さく呟いた。
黒瀬が腕を組んだまま言った。
「自由に潜らせる。だが、放置はしない。行先、目的、帰還予定、持ち出し素材、配信の有無、同行者、撤退基準。最低限の共有は必要だ」
「面倒」
「面倒でもやれ」
「うん」
「返事はいいな」
「うん」
「守る側にも準備がいる。お前が一人で死地へ行けるのと、俺たちが何もせず見ているのは別だ」
「分かった」
澪は素直に頷いた。
セレスはその様子を静かに見ていた。澪が九環で遭難している間、断片配信の音や魔力揺らぎを拾い続けていた一人でもある。戦闘職としても高位で、第二層深部経験もある。九環へ行けるとは言わない。だが、七環や八環でなら十分に仕事ができる探索者だった。
「第二層へ行くつもりですか」
セレスが尋ねる。
澪は少しだけ目を開いた。
「うん」
「第一層九環ではなく?」
「適正、外れた。ボスはいるけど、たぶんレベル上がらない。スキルもない」
「素材は?」
「欲しい。でも、次の景色が見たい」
「景色」
「第二層九環」
病室の空気が少しだけ変わった。
第二層九環。第一層九環を超えた者が、次に向かう場所。普通の探索者にとっては第二層の七環ですら命懸けだ。八環は大手クランの上位でも準備が必要。九環は記録そのものが少ない。第一層の九環で三ボスを討伐した澪だからこそ言える場所だった。
朱音が言う。
「まだ退院してない」
「うん」
「だから今すぐは駄目」
「うん」
「相談してから」
「うん」
「勝手に行かない」
「……うん」
「今、間があった」
「気のせい」
神楽坂がわずかに笑った。
「本契約には、天瀬さんの探索自由裁量を明記します。ただし、相談義務、安全共有、帰還支援体制の受け入れも明記します。素材、装備、空鐘袋、チャンネル《九環》は原則として天瀬さんの管理です。売却や研究提供は本人同意が必須。アークラインは医療、法務、警備、配信管理、装備工房、探索支援を提供します」
「アイテム、自分で管理」
「はい」
「鎌も」
「はい」
「空鐘袋も」
「はい。ただし開ける時は相談してください」
「相談、多い」
「世界を壊さないためです」
「なら、仕方ない」
その時、セレスの耳がわずかに動いた。
続いて、黒瀬の端末が鳴る。佐伯の顔が変わった。神楽坂は澪から視線を外さず、しかし声だけで言った。
「内容は」
「外周警備から。医療搬入口側で不審車両。封鎖車両に偽装。認証コードは本物ですが、発行元が三分前に改竄されています」
「内部協力者?」
「可能性あり」
「目的は」
「不明。ただし搬入口の先は、天瀬さんの次回検査ルートです」
朱音が立ち上がった。
澪も起き上がろうとする。朱音が肩を押さえた。
「澪は寝てて」
「敵?」
「確認中」
「鎌」
「駄目」
「でも」
「私がいる」
朱音の声は、思ったより静かだった。
澪は朱音を見た。白い光が、朱音の肩の後ろにまた滲んでいる。羽は出ていない。けれど、空気が少しだけ明るくなった。朱音は自分の変化をまだ完全には扱えていない。だが、澪の前に立つ時だけ、迷いが減る。
黒瀬が短く言う。
「神楽坂、佐伯、天瀬の部屋から出るな。七瀬、ここに残れ」
「私も出ます」
「駄目だ」
「澪を狙っているなら、ここが最後の壁です」
「だから残れと言った」
黒瀬の言葉に、朱音は一瞬だけ黙った。
「……はい」
セレスはすでに窓のない病室の隅へ視線を向けていた。そこには壁しかない。けれど、彼女の目はその向こうを見ているようだった。翡翠色の瞳がわずかに細くなり、足元に淡い緑の魔力が広がる。森の中で風が向きを変えるように、周囲の魔力の流れがセレスへ集まった。
「右搬入口。車両下部に三つ。転送補助と、魔力弾頭」
「見えるのか」
「音が硬いです」
セレスは短く答え、弓を手にした。
アカリも通路側で合流したらしい。室内スピーカーに、火野アカリの声が入る。赤みを帯びた黒髪を高い位置でまとめ、片側の短い黒角を持つ鬼種。褐色の肌に走る赤い紋様が、戦闘前の呼吸に合わせて明滅する。彼女は前へ出るためにいる。
『医療搬入口、こっちで止める。セレス、後ろから目を貸して』
『了解しました』
『遥ちゃん、影側頼む』
『了解』
遥の声は低い。いつもの柔らかさが消えていた。
アークライン本部地下、医療搬入口。
白い搬送車が一台、停止線を越えていた。外装は協会認証車両。運転席の男は正規の搬送員の制服を着ている。助手席には医療ケース。後部座席には、封鎖箱が二つ。すべて本物に見える。だが、遥の影が床を走った瞬間、車両の底に仕込まれた術式器具が浮かび上がった。封鎖破り。遮断妨害。短距離転送補助。さらに、殺傷用の魔力弾頭が三つ。
相手は、交渉に来たのではなかった。
「止まってください」
警備員が警告した。
車両は止まらない。
次の瞬間、搬入口の床が白く光った。術式妨害。アークライン側の認証が一瞬だけ乱れる。扉が半分開く。車両が突っ込んだ。警備員が横へ飛ぶ。車体の前部が封鎖壁へぶつかり、爆発ではなく、白い閃光が走る。殺すための爆発ではない。目と認証術式を潰すための閃光。だが、遅れて魔力弾頭が弾けようとした。
その前に、光の矢が三本、通路の奥から走った。
一本目が車両下部の弾頭を貫く。爆発しない。核だけを抜かれ、魔力が霧のように散る。二本目が転送補助の制御石を割った。三本目が助手席の医療ケースを外側から縫い止める。セレスの矢だった。姿は搬入口にない。だが、射線は通っている。壁の隙間、監視窓の反射、警備用結界の薄い継ぎ目。普通なら狙えない場所を、エルフ種の感覚と魔力矢が通した。
『弾頭、三つ停止。転送補助、一つ破壊。医療ケース、まだ動きます』
「助かった!」
アカリが飛び込んだ。
炎ではない。赤い魔力を足場にして、車両の横へ一瞬で詰める。拳がドアを潰す。運転席の男が短剣を抜く。アカリは手首を蹴り上げ、肘で首元を打ち、シートへ叩きつけた。助手席の医療ケースが開く。中から小型の虫のような機械が散る。空鐘袋か、澪の血液サンプルか、どちらかを探すためのものだった。アカリの目が細くなる。
「汚いね」
肩の赤い紋様が強く光った。
熱が走る。炎は広がらない。虫型機械だけが焼け落ちた。床も壁も燃えない。必要なものだけを焼く。鬼種として進化したアカリの火は、乱暴に見えて制御されている。だが後部座席の封鎖箱が開いた。中から、探索者崩れが二人出てくる。顔は隠している。腕には違法な魔力増幅具。片方は盾、片方は短銃型の魔道具。狙いはアカリではない。通路奥。医療区画。
短銃が火を噴く。
セレスの四射目が、弾丸ではなく銃口の内側を射抜いた。銃身が割れ、魔力が逆流する。男の腕が弾かれた。五射目は盾持ちの足元へ刺さる。床に淡い緑の光が走り、根のように広がった魔力が足首を一瞬だけ縫い止める。そこへアカリが踏み込む。
一撃。
盾ごと吹き飛ばすのではない。盾の内側へ拳を入れ、肘を落とし、膝で腹を止める。盾持ちが崩れた。短銃持ちが横へ逃げる。その影から、遥が現れた。
「そっちは駄目」
影が足首を絡め取る。短銃持ちの身体が止まる。遥の短剣が手首の増幅具だけを切った。火花が散る。男が悲鳴を上げる前に、アカリが肩を掴んで床へ落とした。
黒瀬が遅れて到着した。
遅れて、ではない。必要がなかったから歩いて来た。倒れた襲撃者たちを見て、車両の奥へ目を向ける。まだ一つ、封鎖箱が残っている。中に人はいない。代わりに、細い術式杭が入っていた。発動していれば、医療区画の一部を外部座標へ引っ掛けるものだった。成功すれば、部屋ごとではなくても、ベッド周辺の人間を一瞬だけ転送範囲に入れられたかもしれない。これは帰還札の技術を応用して作られたものだ。世間にはまだ公表されていないが作っているところに目処は立つ。
黒瀬の表情が消えた。
「殺人未遂と拉致未遂だな」
「未遂で済ませる?」
アカリが、倒れた男の襟を掴んだまま言った。
「済ませない」
黒瀬は通信を開く。
「生かして確保しろ。喋らせる。雇い主まで辿る」
医療区画の病室では、朱音が扉の前に立っていた。
廊下側で警報が鳴っている。澪はベッドの上で、静かに朱音の背中を見ていた。神楽坂と佐伯は端末で状況を追い、病室内の封鎖を強化している。ユイカは澪の鎌が収められた隣室の数値を見ていた。鎌が低く鳴っている。出せ、と言っているようにも聞こえる。だが、出さない。澪自身はまだ本調子ではない。けれど、目だけは戦闘中のものになりかけていた。
「朱音先輩」
「寝てて」
「敵、来る?」
「来させない」
「朱音先輩、戦える?」
「戦えるようになる」
「今は?」
「今も、守るくらいならできる」
扉の外で、何かが弾けた。
最後の仕掛けだった。襲撃者の一人が持っていた転送補助が、完全には止まっていなかった。小さな裂け目が病室前の廊下に開く。そこから、黒い防護服の腕が出た。人間一人が通れるほどではない。だが、腕だけ、武器だけなら通せる。短い槍のような魔道具が、扉の封鎖を突いた。封鎖術式が軋む。
朱音の背中から、白い羽が開きかけた。
本人が抑えるより早く、光が前へ出る。扉の前に、薄い白の壁が生まれた。槍がそれに触れる。金属音ではない。鐘のような、けれど柔らかな音。槍の先端が止まる。朱音は両手を前へ出した。足が震えている。初めて使う力。けれど、退かない。
「ここは、通さない」
白い壁が厚くなる。
槍が砕けた。
裂け目の向こうで、誰かが叫ぶ。次の瞬間、病室の外側から淡い緑の矢が走った。セレスの魔力矢が、廊下の角度を曲がるように通り、裂け目の根元にある転送杭だけを射抜く。続いて遥の影が床を走り、残った魔力を切った。裂け目が閉じる。廊下に静けさが戻る。朱音の羽は、すぐに消えた。本人が息を荒くして、壁に手をつく。
澪はベッドから降りようとしていた。
「澪!」
「大丈夫?」
「こっちの台詞!」
「白かった」
「今はそれじゃない」
「強い」
「……まだまだだよ」
「でも、守った」
「うん」
朱音は息を整え、澪の肩に手を置いた。
「守るから」
「うん」
「だから、相談して」
「うん」
「一人で全部抱えないで」
「うん」
「返事だけじゃなくて」
「……うん」
今度は、少しだけ間が短かった。
襲撃は、表向きには「医療搬入口での不正侵入未遂」とだけ発表された。詳細は伏せられた。使用された車両、内部認証の改竄、殺傷用弾頭、転送補助、医療区画を狙ったこと、朱音が扉の前で防いだこと、セレスが射線の通らない場所から装置を射抜いたこと。それらは公開されない。公開すれば、模倣する者が出る。公開しなくても、世界は何かがあったことを察する。
その夜、アークライン本部の最上階で、神楽坂は一社の代表と通話していた。
「こちらは、あなた方の研究部門が直接関与した証拠を掴んでいます」
『誤解です』
「誤解で殺傷用弾頭は運ばれません」
『我々は関知していない』
「では、関知していない部門をこちらで潰します」
『脅しですか』
「警告です。天瀬澪さんへの接触は、今後すべて敵対行為として扱います」
同じ頃、佐伯は協会と警察庁、探索者犯罪対策部へ資料を送っていた。遥は捕縛した実行犯の持ち物から、もう一つの接触計画を見つけていた。アカリは焼けた虫型機械の残骸を踏み潰し、セレスは回収した転送杭に残る魔力の向きを読んでいる。ユイカは医療ケースに仕込まれていた極小採取器具を分解し、透明な爪先で部品を摘まんだ。
「血液、髪、皮膚片、呼気中の魔力粒子。どれでも拾える設計です」
「完全に澪さん狙いですね」
「はい。最悪です」
「使える?」
「解析には使えます。再利用はしません。気持ち悪いので」
ユイカはそう言って、採取器具を封鎖箱へ落とした。
アークラインは綺麗な組織ではない。
巨大なクランである以上、裏もある。法務で潰す相手もいれば、力で止める相手もいる。交渉では間に合わない相手もいる。今回の相手は、澪の不老と三ボス素材を狙い、医療区画ごと手を伸ばした。なら、遠慮する理由はなかった。
病室では、澪がまたベッドに戻されていた。
朱音が毛布をかける。澪は少し不満そうだったが、抵抗はしなかった。
「朱音先輩」
「なに」
「強くなる?」
「なるよ」
「どのくらい?」
「澪が勝手に消えようとした時、襟首掴んで止められるくらい」
「難しい」
「頑張る」
「うん」
「澪も、ちゃんと帰ってくるくらい頑張って」
「帰る」
「約束」
「うん」
澪は朱音の袖を掴んだ。
その手はまだ細く、力も弱い。けれど、離さなかった。
外では、アークラインが敵を潰している。法務が動き、警備が動き、上級探索者が動き、暗い部署が動き、セレスの矢が見えない仕掛けを射抜き、アカリの拳が前に出る敵を叩き潰す。澪はその全部を知らない。知る必要のないものもある。けれど、薄くは感じていた。守られている。朱音がいて、アークラインがいて、自分が眠っている間に誰かが戦っている。
それは、悪くなかった。
「アークライン、入る」
「うん」
「楽しそう」
「今の流れで?」
「守ってくれる」
「……うん。守るよ」
「じゃあ、入る」
澪は目を閉じた。
朱音はその袖を掴む手を見て、小さく息を吐いた。
不死身の澪。
外では、もうそんな呼び名が広がり始めている。
けれど、目の前の澪は眠れば起きるか不安になり、温かいものを食べれば少し安心し、危ない場所を綺麗だと言ってしまう少女だった。
朱音はその前に立つ。
守りたいから、強くなる。
その夜、病室の外では警備の人数が倍になった。
そしてアークラインの暗い部署では、襲撃の依頼主を洗い出すためのリストが静かに開かれていた。
2章はの残りは消化試合になります。そのため、週末に放出予定です。
本日第4章まで書き終わり予約投稿してきました。
ご感想いただけて励みになっております。
引き続きご愛読の程よろしくお願いいたします。




